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岩井秀人
岩井秀人(いわい・ひでと)
1974年、東京都出身。15歳から20歳くらいまでを、「引きこもり」として過ごす。2001年、桐朋学園大学卒業。2002年にプロデュース公演「竹中直人の会」の『月光のつつしみ』(岩松了作・演出)に代役として関わったことをきっかけに、喋り言葉の演劇を知り、2003年、プロレスラーに憧れる引きこもりの青年を描く『ヒッキー・カンクーントルネード』で「ハイバイ」を旗揚げ。以降、ハイバイの全作品の作・演出を担当し、俳優としても出演している。作品の多くは自身の個人的な体験を元にした、生々しくも笑えるコメディ。自己と他者との距離感に敏感過ぎる主人公を中心にした人間関係を、徹底的に客観視することから可笑しみと切実さが立ち上がる。近年は外部作品での演出・出演、戯曲提供など活動の場を広げている。代表作に『おねがい放課後』(2007)、『て』(2008)、『投げられやすい石』(2011)など。『ヒッキー・カンクーントルネード』は2011年10月、韓国の舞台芸術見本市「pams」でも上演される。
http://hi-bye.net/
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an overview
Play of the Month
ハイバイ
『ヒッキー・カンクーントルネード』
ヒッキー・カンクーントルネード
(2008年10月/リトルモア地下)
撮影:青木司
ヒッキー・カンクーントルネード
(2010年5月/アトリエヘリコプター)
撮影:曳野若菜
ハイバイ
『て』
て
て
(2009年10月/東京芸術劇場)
撮影:曳野若菜
Artist Interview
2011.8.22
play
Stay-at-home reclusiveness is the central theme, the mixed up plots and humor in Hideto Iwai’s plays  
「ひきこもり」が原点 岩井秀人のジタバタ演劇  
「ハイハイからバイバイまで」(生まれてから死ぬまで)を合い言葉に、フツウの生活の喜怒哀楽、その狭間で揺れる滑稽かつ切ないドラマを過剰な自意識のアンテナで拾い集め、幅広い層から共感を集める劇団「ハイバイ」。劇作家・演出家・俳優を兼ねる主宰の岩井秀人は1974年生まれ。16歳から20歳までを「引きこもり」として過ごした体験は、演劇と結びつくことでむしろ、より多くの他者との出合いを可能にした。近年では劇団外のプロデュース公演の演出も手がけ、その題材も実体験から、自身の家族、世代の離れた隣人たちへと広げつつある彼に、少年期から青年期にかけての体験、演劇との出合いから現在の劇作方法までをくまなく聞いた。
(聞き手:鈴木理映子)



──ハイバイの旗揚げ作品の『ヒッキー・カンクーントルネード』は、岩井さんの処女作でもあり、自伝的要素も持つ作品です。まずは原点とも言えるこの作品とそこに描かれた「ひきこもり体験」についてお話いただけますか。
 『ヒッキー・カンクーントルネード』は、プロレスラーに憧れているひきこもりの主人公が、母親や自立支援の「レンタルお兄さん」とやりとりしながら外に出ようとする話です。僕は16から20歳くらいまでひきこもっていたんですが、その頃は衛星放送の格闘技番組をよく観ていまして。まあ、だからそのまんまの話なんですが(笑)。
 そもそも僕のひきこもりの原因はいじめじゃなく、極端な「他人恐怖症」だったんです。子どもの頃の僕は、自分勝手でよく暴力を振るう父親を見て育っていたので、それが当たり前になっていたというか、自分以外の人間に生命や意識があるとは考えてなかったんです。世界は自分が主演している映画のようなものだと思っていて、ちょっと気に入らないことがあると、すぐパニックになってポカポカ人を殴ってた。
 でもある時、いつものようにポカポカやっていたら、突然、殴り返されたんです。そこで初めて「あれ?」と。ひょっとしたら僕以外の人も僕と同じくらいものを考えているのかもしれない。そうだとすると、どういうふうに他人と接すればいいのか、どう行動すればいいのか。どの程度他人のことを考えればいいのか……考えれば考えるほど、他人との距離感がわからなくなってしまって。それが13、4歳の時だったと思います。

──そこから次第に外に出られなくなったのですか。
 それプラス、ミュージシャンの尾崎豊です。尾崎豊は兄の影響で聴き始めたのですが、彼は「すべては愛だ」というふうに歌う。ところが自分は他人に対してその「愛」を全くペイせずに生きてきたわけです。だから、これからはそれを償っていかなきゃいけないと思ってしまった。それと、尾崎豊は「とにかく一人で生きろ」というようなことも歌っている。それで僕は、まず一人で生きられるようになり、それから他人との関わり方を考えていこうと決意しました。高校には一旦入学しましたが、尾崎豊を真似して辞め、静岡のYMCAのホテルで寮生活をしながら皿洗いのバイトを始めた。ところがそこで同僚になった中国人たちと何回も喧嘩して、東京に帰ってきてしまったんです。つまり、外の世界に一人で出ようとしたけど、大失敗に終わった。このことが大きなトラウマになりました。

──その後再び外に出て、演劇に関わるまでの経緯は?
 うちの母親は心理カウンセラーで、ヤイヤイ言って外に出そうとするよりは、何でもいいから外の世界との繋がりをもたせようって考えたらしいんです。それでさっきも言った衛星放送を契約した。僕も興味があったので、映画や「リングス」っていう格闘技、それからサッカーのセリエAの試合を浴びるように観ていました。そうするとだんだん、自分もやりたくなってきちゃうんですよね。で、中学時代の友達に連絡を取ってサッカーしたり、通販で買ったサンドバッグを木に縛りつけて蹴ったり……といっても、昼間に活動するのはまだ無理で、どっちも夜中にやってました(笑)。それと同じ感覚で、映画にも関わりたいと思うようになりました。つくる人と出る人、監督なのか俳優なのかって区別は、その時にはありませんでした。

──「映画」が「演劇」になったのはなぜですか。
 とにかく映画をやるなら日芸(日本大学藝術学部)に行かなきゃいけないと思い込んでいたので、大検の予備校に通い始め、その間に母が応募してくれたカルチャースクールの「俳優してみませんか?」っていう講座に行くことにしました。そこで40、50代のおばちゃんに囲まれてミュージカルに出なくちゃいけなくなった。それが最初の演劇体験です。スティーブン・フォスターの自伝モノで、僕は主役。すごく濃いノーズシャドウを入れて、瞼を青く塗って舞台に立ちました。そうすると遠くから見た時に目が青く見えるっていうので(笑)。

──そういうスタイルに違和感は感じなかったんですか。
 せりふも文語調で正面を向いて言わなきゃいけないし、確かに最初は恥ずかしかったです。でもみんな優しくて、僕を褒めてくれて嬉しかったし、同じことでももっとうまく表現する方法があるんじゃないかという興味は沸きました。結局、日芸には落ちましたが、「少しでも俳優に興味があるなら『演劇界の東大』に行きなさい」と講師の先生に勧められ、桐朋学園大学に進むことにしました。

──「ひきこもり」から「演劇」への転向はかなり大きな変化に思えるのですが、ご自身ではどう感じていたんでしょうか。
 真逆の選択じゃないかって言われるんですけど、僕にとってはそうでもないんです。要するに自意識が過剰すぎて、他人の意見が馬鹿みたいに気になる。でも、演劇をやって初めて、(フィクションを通じて)「本当は他人がどう思っているのか」を知りにいくことができるようになった。それは「怖い他者を受け止める」という感覚とはちょっと違っていました。
 それに、演劇の中でなら、実生活ではつまらないとかダメとか言われることも「いや、これはやらせて」って試してみることができたのは大きかった。実生活ならダメと言われたら止めていたことも、演劇をやっている時の自分は、ちょっとウソの部分を担保しているので、挑戦できたんだと思います。

──大学生活ではどんなことを学ばれましたか。
 いやもう、桐朋にいた時間は、「今、演劇でやってはいけないこと」を知るための時間でした。俳優が戯曲を解釈して議論し合う姿って、僕はそんなに見たくないし、演技して登場人物になれると信じ込んでいるような俳優ほど引きずり下ろしたくなるような芝居をする。それに、みんな良い声出して、カッコ良く立ったりするじゃないですか。「それで何を表現したいの?」って思ってましたね。

──要するに同時代の表現として響くものがなかったと?
 そうです。ただ、後に台本を書くのに役立ったことはありました。教授の中に一人、俳優を恫喝するタイプの先生がいたんです。課題の台本を演じた学生を捕まえて「お前はウソをついているっ!」なんて言って追い込みつつ、洗脳する。実際、前日に怒鳴られた奴が翌日には教授の一番近くに座っていたりしました。でも僕は周囲の学生より少し歳が上だったので、「お前こそウソだろう」とか「今この稽古場を客席が囲んでいたら、絶対面白いのにな」なんて考えていた。
 それで、自分が戯曲を書くようになって、この人をモデルにした登場人物をつくりました。そしたらこれがすごいウケて。「アイツの罪を知らしめることができたし、笑わせることもできた」と嬉しかった。ただ、何度かそのキャラクターを使ううちに、それが自分の父親に似ていて、さらに自分にも同じ要素があると気づかされもしました。傷ついた気持ちを表現して、相手に反省と優しさを呼び起こさせようとしたり、自ら傷つけた相手を癒すふりをして、そこに生まれるカタルシスを独り占めしたり……。僕の戯曲の中に登場する父親像や父との関係は、これが原点になっていると思います。

──俳優を目指していたはずの岩井さんが、そもそもなぜ戯曲を書くようになったのでしょうか。
 とにかくずっと舞台に出ていたいっていう想いがあったので、大学卒業後は自分でもやれる、面白い本を探し続けていました。でも、難しいものが多かったんです。僕は3人以上登場人物がいる本だと、誰がしゃべっているかもわからなくなっちゃうし(笑)。「これじゃどうしようもないな」と思っていた時に、岩松了さんの『月光のつつしみ』という作品の稽古に代役で呼んでもらい、口語演劇の世界を初体験しました。
 岩松さんの本では3人の人がいて、AとBがしゃべっている時に、芝居のフォーカスはCに当たっていることがあって、それにまずビックリしたし、このことこそが日常の価値を再発見させてくれている、と思いました。それに何だかこの方法なら自分にも真似できそうな気がして(笑)、『ヒッキー』を書きました。その直後に、平田オリザさんの『東京ノート』を観たんですが、これもしゃべり言葉の演劇で、「やっぱりこれだ」と確信を深めました。

──岩松さんや平田さんのいる劇団に参加する発想はなかったのですか。
 岩松さんの演出では、繰り返し同じシーンを稽古することで、「台詞に対する俳優の意図」をすり減らして素に近づけていくんです。だけど僕は自分も俳優なので、もうちょっと俳優を信じているというか。おかしな意図を持たずに日常生活の延長線上で芝居の台詞をしゃべることもできると思っていました。
 それと、当時の僕は劇団ってものをあまり信じてなかった。ちょっと宗教的すぎるというか。桐朋は俳優の学校なので、卒業生達はみんな制作の知識なんて持ってない。公演のたびにチケットの販売ノルマを背負って、友達の劇団同士でお客を呼んで芝居をやる、そして次は来てくれた友達の劇団を見に行く、みたいなことを繰り返している人ばっかりだったんです。それを見て「劇団は何か違う」と。でも、ほかのやり方も分からないので、メンバーは僕一人で公演ごとに俳優を呼ぶ形式で「ハイバイ」を始めました。

──とはいえ、その後はハイバイも「劇団」を名乗るようになりましたし、岩井さん個人も2007年には平田さん率いる青年団にも演出部のメンバーとして入団されました。
 旗揚げの翌年から、その時一緒にやっていたメンバーの発案で「劇団」を名乗るようになりました。僕自身も、ハイバイ以外の作・演出をやるようになってからは、「やっぱり自分の劇団があって、自分の好きな俳優がいて、いろんなことを試せるのはいいな」という結論に至りました。
 平田さんについては、著書の『現代口語演劇のために』の中で「俳優なんて、別に何を考えてしゃべっていてもいい」といったことを書かれていたことに興味を持ちました。僕自身はそれがベストの考え方だとは思わないけど、感情だけでどうにかしようというのではなくて、論理的に考えようとしている感じが面白かった。ただ、実際に青年団に入ったきっかけは、演劇論というより、制作や美術、平田さんがワークショップでやっているようなコミュニケーション・ティーチングについて勉強したかったからです。先に青年団にいた松井周くん(現・サンプル主宰)、多田淳之介くん(現・東京デスロック主宰)の影響も大きかったですね。戯曲や小説を書くだけの仕事って独りの作業だから、みんながどうしているのかわからない。隣に作り手がいるという環境はとても大きかったです。

──青年団時代には、東西の古典戯曲を現代口語演劇に変換する「口語で古典」シリーズを企画、上演されています。
 実際入ってみてよかったのは、青年団では若手が企画を出して、それが通れば上演を支援してくれる仕組みがあることです。そうするとコンセプトをしゃべったり書いたりする機会がすごく増える。これはすごくプラスになりました。今まで感覚的にやっていたことを言葉で表現すると、さらに次に進めるし、進まなきゃいけなくなる気がするんです。
 「口語で古典」は昔からやってみたかった企画です。例えばどうして『ハムレット』って人から聞いたあらすじのほうが面白くて、台本を読むとうるさく感じてしまうのか。悲しみの表現ひとつとっても、すごい工夫が凝らされていますよね。もちろんその当時はお客さんがしゃべりながら観劇するような環境だったみたいだし、そのくらいやらないとダメだったんだとも言われてますけど。でも、だとしたらやっぱり、今、そのままでやるべきではないんじゃないか。中身をちゃんと抽出すれば、もっと面白くなるのに、今までの日本では外国人風に装うほうにばっかり労力を使っちゃっていたような気がします。

──コンビニエンスストアで体験したもめごとを劇化した短編『コンビニ』、祖母の死をめぐる家族の風景を描いた代表作『て』など、日常会話に根ざしたドラマを書く作家の中でも、岩井さんの作品はかなりプライベートな出来事を出発点としています。岩井さんが演劇に求めるものと、ご自身を語ることとはどう関係しているのでしょう。
 そのふたつのことは僕の中では自然に繋がっていることなんです。この前上演した『七つのおいのり』は、劇団員全員がそれぞれ作・演出・主演をするオムニバス企画でしたが、僕の書いた『金子の誕生日』は、劇団員の金子岳憲が「誕生日ドッキリ」をしてくれたっていうそれだけの話です。そんな個人的なことをどう他人と共有できるのかって思うんですけど、意外と大丈夫なものです。結局、人はどんな話も面白ければ聞くし、つまらなければ聞かない。相手との関係をちゃんと考えてエクスキューズして話せばいいと思っています。で、たまに「どう思う?」って聞く。芝居だと実際には聞けないけど、そういう気持ちで僕は演劇をやっています。
 実際、金子の話も『て』に出てくる家族の話も、戯曲を書く前からいろんな人に話していたことで。そうするうちに、ただの悲惨話が面白味を帯びてくる。そういうものを書くと、結果、うまく伝えられますね。例えれば落語に近い感覚でやっているのかもしれません。落語にも、本当におしゃべり上手な人が、知り合いに起きた出来事を話すとか、そういう極端に言うと「飲み屋でのグチ」みたいなものが根本にあるんじゃないかと思っています。

──題材も語り口も実生活に基づいている。でもその一方で、演出の手法は、「虚構性」を強調しているように思います。金属製のスタンドに把手がついているだけで扉を表現している通称「ハイバイドア」というセットをはじめ、装置は極めてシンプルですし、女性の役を男性が演じることもたびたびです。
 演出や美術に関してすごく影響を受けたのは、2002年に来日したベルリナー・アンサンブルの『リチャード2世』(演出:クラウス・パイマン)の公演です。役になりきろうとするスタニスラフスキー・システムの人と、役になるなんて無理じゃないの、っていうブレヒトのベルリナー・アンサンブルが合流して作った公演で、演技も、ある人は役の人物となって演じているけど、ある人はぜ〜んぜん役の人物に感情を入れずに台詞を言っている。中でもいちばん衝撃的だったのは「船が来たぞーっ!」って叫んだら、紙でつくった船が出てきたこと(笑)。本当にドキッとしたというか、今まで演劇で「信じろ、信じろ」と言われてきたことの違和感が解消された。結局、そこで実際に大きい船を出すことは、「私はこれだけできます」ってアピールでしかない。想像力という意味では紙の方がずっと有効だし、現代の視点も批評性もあると思います。王制の時代の演劇の本当のところは僕らには分からないけど、「ようやく手に入れたこの地位を……」みたいなことを言いながら、紙の王冠をパヨンパヨンさせるのを見て、「本当にオトナだな」と感じました。
 俳優は決して役の人物にはなれない。芝居は現実とは違う。少なくともそういうつもりでひとつの芝居を始めた方が、観る人も好きな時に好きなように、物語にも人物にも近寄れると思います。だから僕は、オバハンの格好をして前説に出るんです。「僕はお母さん役をやるけど実際はお母さんじゃないし、だからこの話はウソです」と早いうちに宣言しておく。

──ドキュメント的要素の強い題材と、演劇ならではの構造、演出が、もっとも明確に並び立っているのが2008年に初演された『て』ではないでしょうか。そこでは、一つの物語が二人の人物の視点から、さらに時系列を前後させて描かれます。
 『て』は、痴呆になった祖母を心配した熱血漢の姉が、バラバラになった家族を集結させて今後のことを相談しようとするんだけど、やっぱり酷い状況になる、という話です。あまりにも自分の家族のことを書いた話だったので、当初は誰にも伝わらないかもと心配したんです。それでちょっと情報の出し方、話の順番を工夫しました。
 僕は最初、祖母に対してひどく冷たかった兄のこと、せっかくの家族の集まりを壊した父のことを書いて、二人を悪者にしてやろうと思っていたのですが、実際に母に取材したら僕とは全く見方が違っていた。特に兄に関しては、「一番元気な頃のおばあちゃんを知っているからこそ、惚けていく姿を受け止められなかったんだよ」と。それじゃあ、僕の考えていた勧善懲悪物語にはならないので、僕と母の両方の視点を書くしかないなということに落ち着きました。
 戯曲の構造をいじるのはあれが初めてでしたが、正直思った以上に反響がありました。「やっぱりお兄さんは良い人だったんですね〜」なんて言い方をされると複雑でしたけど。「そのエピソードが、後で出てくるからそう思うだけじゃん!」って(笑)。前から柴幸男くんや前川知大くんの芝居を観て、「情報を出す順序だけで面白くすることができるのか。構成で得しているな、すごいな」と思っていたけど、時間の使い方ってやっぱり大きいというのがよくわかりました。

──終盤に、うろ覚えの歌謡曲を合唱しながら家族が組体操をするシーンがありますよね。バラバラになった家族の構成員が、いびつさを抱えつつも一体になろうとしているのを組体操で象徴した印象的な場面です。『ヒッキー・カンクーントルネード』でも、劇中で繰り広げられるプロレスごっこが、「外に出る」「他者と出会う」というテーマと響き合っていたように思います。岩井さんの作品のクライマックスは、総じてこうしたフィジカルな表現と結びついていますね。
 “フィジカル”ということ自体は意識したことがないです。ただ、岩松さんには「文字で表現したらアウトだ」と教えてもらいました。だから戯曲の文学性みたいなことにも興味がなくて。極端にいえば「ひきこもりが外に出ようとして出られない話」ってくらいに、あらすじがポンと終わっちゃうものの方が、芝居としては面白くなる気がしています。
 やっぱり見せたいのは「状況」なんですよね。例えば1年に3歳ずつ年をとってしまう奇病に犯された大学生が主人公の『おねがい放課後』では、鏡の前でロックを熱唱するシーンがあります。一人で、アクションもつけて歌う姿は、まさに僕が尾崎豊をマックス好きだった時にやってたこと。そういう姿を自分でも演じたいし、役者にも演じさせたいんですよね。バカにしたくなっちゃうけど、愛おしいような状況を見せたい。

──ハイバイは新作だけでなく、再演にも積極的に取り組んでいます。特に『ヒッキー・カンクーントルネード』や『て』は、地方公演も行われていますし、劇団を代表するレパートリーになりました。
 再演をすればするほど、自分の体験を反芻している感覚が消え、芝居が俳優とお客さんのものになっていく気がします。どんどん新作を書き続けるというのは、僕には技術的にも精神的にも向いていない気がしますし、面白いと言われたものは、素直にまたやったほうがいいんです。二度目以後は基本の形プラス、もっと伝えられること、自分たち、俳優たちにとっても得するようなことを考えられますから。

──外部のプロダクションで『て』のリニューアル版(『その族の名は家族』)を演出されるなど、岩井さん個人の活躍の場も広がるなか、2009年には劇団員を増やし、メンバー全員が戯曲や演出に挑んだオムニバス公演『七つのおいのり』も企画されました。ハイバイという集団については今どんなことを考えていますか。
 俳優って劇団にいるとどんどん怠けてしまって、どうして演劇を始めたのかっていう最初の動機まで全部忘れてしまう。一つの作品の中で俳優が請け負える領域は、実は無限に広がっているのに、俳優はいつの間にか演出家の言葉をただ待つようになってしまうんです。
 劇団員を増やしたのも、『七つのおいのり』を企画したのも、実はこの悩みがきっかけでした。「こんなことなら、もう辞めようかと思う」って平田さんや内藤裕敬さんに言ったら、「辞めるのは簡単だから、その前に増やしたら」と言われたんです。確かに4人いた時には2人が怠けていると頭に来ていましたが、7人のうち2人になってからはもうちょっと落ち着いて受け止められるようになりました(笑)。
 また『七つのおいのり』に関して言えば、やっぱり自分で書いたり演出した経験があったほうが、劇団外の演出家に呼ばれた時にもいいという想いがあったんです。面白くてもつまらなくても全部自分に返ってくるっていうヒヤヒヤ感、責任感を持っておいて損はないし、台本の捉え方だって変わってくるはずですから。

──作品への責任感のほかに、ハイバイの俳優に必要とされる要件はありますか。
 なんだろう……もちろん僕が面白いと思うことを共有できる人というのは大きいですけど、統計的にいえば普通にしゃべってる時の顔が面白い人、あんまり上手にしゃべれない、「ちゃんとした舞台の立ち方」とかをしない人が集まっていますよね。
 素を大事にするというか、僕の場合は台詞の人称や語尾も「いつも自分がしゃべっているように変えてほしい」と言うんですよ。ワークショップなんかでも「この台本をこういうふうにやろう」とかじゃなく、誰もがもう20年以上は生きていろんな経験をしてきているんだから、それを使ってほしいという話はよくします。僕は別に、台本に書いてある「文字」を舞台に乗せたいわけじゃないから。それぞれの経験を背負ってやるからこそ独自のものが生み出せるはずで、その方が俳優さんだって楽だし、得すると思います。

──実体験を繰り返し語ることから普遍性を持った物語が立ち上がる──というのが、岩井さんの作品づくりのベースだと思いますが、今後はどんな題材や話法を考えていますか。
 元がどんな題材でも結局は語り方次第なんだと思います。アトリエヘリコプターでやった『工場見学会』ってイベントで、ハイバイの金子を題材に『金子の半生』って短編を書いた時のことですが、それは8割くらいが本当の話で、残りは、自殺を図った金子が僕に助けられて、やがてハイバイの俳優になった、というド嘘だったんです。そしたら本気にしたお客さんもいたみたいで「そんな悲しい出来事があったんですね」みたいなことを言われた。僕はずっと、自分のこと、自分の知ってることを書いて面白がってきましたけど、この時には、題材がフィクションにスライドしたとしても、同じように楽しんでもらえるんだという発見がありました。だからといって急にどんどんフィクション部分を増殖させるわけではないんですけど。
 引きこもりから脱した後の大検の予備校時代と、大学時代の話はいつかやりたいですが、今は自分の話ではそんなに出せそうなものはないなという気がしています。次の作品では、誰かに取材して、そのことをがっちり書くつもりでいます。具体的には、不倫ばっかりしてる女性の話です。僕はすごく取材が好きで、その人がどういうふうに生きてきたかを聞き、一緒に怖がったり面白がったりしたい。こういう感覚でならこれからもいろんな題材について書けるし、書いていきたいなと思っているところです。
 
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