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観世喜正
観世喜正(かんぜ・よしまさ)
観世流シテ方能楽師。明治時代に観世銕之丞家から分家した矢来観世家当主・三世観世喜之の長男として1970年、東京に生まれる。1973年2歳7カ月で初舞台。仕舞「老松」を舞う。1975年に初能。能の演目で重要に扱われる「鷺」「乱」「石橋」「翁」「道成寺」「安宅」「卒都婆小町」をひらく。「神遊」同人。「のうのう能」「1から始めるおケイコ」「喜正の会」を主宰。法政大学大学院、皇学館大学講師。NHKの大河ドラマの能楽指導なども行う。生まれ育った矢来能楽堂は太平洋戦争後の1952年に再建された木造モルタル造り。近代能楽堂の好例として、2011年国の登録有形文化財に登録された。
http://kamiasobi.com/


能は奈良時代(700年代)に中国から渡来した物真似芸をもとに、様々な芸能を吸収して生まれた猿楽(さるがく)から、室町時代の観阿弥、世阿弥親子が大成したといわれる日本の古典芸能。四拍子(しびょうし)と呼ばれる笛、大鼓、小鼓、太鼓の伴奏と、地謡と呼ばれるコーラスに乗り、登場人物が舞い、謡い、物語る音楽劇は、後に現れる文楽や歌舞伎から現代の演劇や文学作品にまで大きな影響を与え、創作の源となってきた。
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のうのう能名古屋公演
第4回 能の旅人「聴く能楽」

(2011年3月26日/藤田舞台)
撮影:芝田裕之
のうのう能
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のうのう能
Artist Interview
2012.1.6
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Bringing Noh alive in the 21st century   The quest of Yoshimasa Kanze  
21世紀に息づく能 観世喜正の試み  
難解で近づきがたいと思われがちな能への危機感から、その魅力を伝える新たな普及活動の試みを実践してきた能楽師、観世流シテ方の観世喜正。同世代の能楽師と始めた演能グループ「神遊」(かみあそび)では若いファンを開拓し、生まれ育った矢来能楽堂を本拠に始めた解説付きの演能や初心者を対象にした謡や仕舞のグループレッスンでは、新たな愛好者を掘り起こしている。観世喜正が模索する21世紀に息づく能の姿を聞いた。
(聞き手:奈良部和美)

──能で主役や地謡を務めるシテ方には、観世、宝生、金春(こんぱる)、金剛、喜多の5つの流儀があります。観世という名字を聞けば、古典芸能の知識が少しでもあれば能を演じる方だとすぐにわかります。
 今の日本では、名字から能を思い浮かべる方はあまりいらっしゃらないかもしれません。名刺を渡すと、「本名なんですね」と言われることが多いですね。伝統芸能を含めて芸能の世界では芸名で活動している方が多いからだと思いますが、能楽師はほとんど本名です。

──「観世」の家に生まれたことは、能の演者になることを運命づけられていたということでしょうか。
 能は男が継ぐという業界でして、姉が3人で私が4番目にやっと生まれた男なので、子どもの頃から「父の跡を継ぐのはあなただ」というようなことを言われてきましたし、家中が私を跡継ぎと見ていました。ただ、今は女性の能楽師も増えて、だいぶ風潮が変わっているように感じます。

──そうしますと、育てられ方もお姉様たちとは違いましたか。
 一番上の姉とは12、一番下の姉とは8つ違いですが、育てられ方がどうだったか実感としてはわかりません。ただ、古めかしいですが、物心ついた頃には、私は父親の隣でご飯を食べていました。歳は一番下ですが食事の時は母や姉より上座に座るという家庭内順位に置かれていました。末っ子なので大変甘やかされていましたが、稽古すると言われたら、黙って稽古しなければいけないということは、いつの頃からかわかっていました。

──初めて稽古をしたのがいつか覚えていますか。
 知りません(笑)。つまり、記憶にないですね。2歳半で初舞台をしています。写真もあるし、私の謡の声を入れたカセットテープもあったのですが、全然覚えていないのです。幼稚園の卒園式で父と「橋弁慶」の仕舞を舞った記憶はあります。仕舞は能の見せ場を舞う短いものです。卒園式ですから5歳の春あたりのことです。それ以前に、子方や仕舞で舞台に出た断片的な記憶がありますが、もうどれが幾つの時だったか判然としていません。

──能では舞台で演じる子役を「子方」といいます。舞台に上がるのは男女を問わず、3歳ぐらいから小学校卒業ぐらいまででしょうか。稚児役ばかりでなく大人の役を子どもが演じるのも能の特徴ですが、長時間の舞台を一生懸命勤める様子がとても愛らしくて、観客の耳目をさらってしまいます。
 子方についての記憶が間違いなくあるのは小学校に入ってからです。学校に行くのと同じで、お稽古はしなきゃいけないものだという意識しかありませんでしたが、役が付くとそれに向けて稽古をさせられました。よく、「1日何時間ぐらい稽古をしましたか」と質問されますが、父は今の私同様とても忙しくて、家にはあまりいなかったし、毎日決まった稽古をしていたわけではありません。例えば、「船弁慶」の義経など子方の役が付いてから、それに向けた稽古をしました。役は1年くらい前に決まるので、父なりに稽古の手順を考えて、まず謡を教える。「船弁慶」には子方が謡う箇所が6カ所ありますが、それを口移しで教える。覚えた頃を見計らって、今度は舞台で動きの型を教える。例えばチャンバラのような型もあるのですが、それをこうするのだと見せてくれて、一緒にやって、覚えた頃に「やってごらん」と一人でやらせてみる。よその能楽師さんに聞くともっと稽古していたという方が多いので、今から思うとずいぶん甘っちょろい稽古で育ってきたように思います。

──遊びたい盛りに毎日詰め込むよりは、少しずつ舞台が決まった時に稽古をして、舞台で結果が分かるという教え方が幼い子どもには向いていると考えられたのでしょうね。
 ある歳からはもうちょっと違う形の稽古があってもいいかもしれませんが、それは私が考えて自分の子どもに対して実践していかねばならないことだと思います。ちなみに、小学生の頃には先生について大小の鼓、笛、太鼓の稽古をさせられました。小鼓は持てないとできませんから、もう少し成長してからでしたが、3つの楽器は小学1年から、厳密にいえば太鼓は幼稚園の時からやっていました。稽古といえるのかどうかわかりませんが、柿本豊次先生の膝に乗って、「ツクツク」「ようっ」と声を出していた記憶があります。

──唱歌ですね。能の楽器もそうですが、日本の伝統楽器の稽古は、楽器を手にする前にまず旋律を口で唱えて覚えます。太鼓は「テレツク」、笛は「オヒャリ」というように。幼稚園の頃からといいますと、お父様の方針は英才教育ですね。
 小学1年になって、ある時家に帰ったら楽屋に来なさいと言われました。楽屋には大鼓(おおかわ)の安福建雄先生がいらして、高安流の「序ノ巻」という大鼓の本があって、「はいっ、よーっ」と始めました。笛は一噌庸二先生に教えていただきました。一噌先生は小さな子どもを教えるので、ずいぶんお困りになったそうです。すごく短い旋律を繰り返し録音してくださったテープが残っています。「これを聞いておきなさい」と言われたそうですが、全然聞かなかった。興味を持っていれば一生懸命やったと思うのですが、私の場合は何年もたってから、「喜正君、次は覚えてきなさい」と言われて、「あっ、覚えなきゃいけないんだ」と初めて気づいた(笑)。
 父は律儀というか、自分で中途半端な手ほどきはしないで、最初からプロのきちんとした先生を付けるという考えでしたから。それは良いことだと思うのですが、まあもうちょっと大きくなってからでないと、教える方もお困りだったろうと思います。

──稽古になっていなかったとおっしゃいますが、頭ではなく体の中に自然に入ったものがあるのではありませんか。
 そうですね、そういう意味では有り難い環境を整えてもらったと思います。第一線の先生方が、子ども相手にいろいろ悩まれながら教えてくださったのですから。例えば「鶴亀」では子方は中之舞(ちゅうのまい)を舞わなければならないのですが、笛を聞き取れなければきっかけがわからない。テープで覚えてもやれたと思いますが、囃子を習ったことが舞う上で生きました。
 子方というのは育成システムとして優れていると思います。舞台に出るからには嫌でも稽古をしなければなりませんから。能には子方の登場するものが40曲ほどありますが、それは現在演じられている演目の5分の1、6分の1ぐらいになります。ですからシテ方の子どもは意外と舞台に出るチャンスがあるわけです。それに対してワキ方の子どもはなかなか一役で舞台に出ることはない。ただ、最近は子どもが少ないこともあって、囃子方やワキ方の子どもも子方をやるようになりました。「鞍馬天狗」の稚児役は何人も子方が出ますから、役割に関係なく同世代の子どもたちが稽古をするには理想的な演目になっています。ちなみに、狂言には子どもの役がたくさんありますが、囃子方は笛を吹いたり楽器を持ったりしなければならないので体がある程度大きくなければならず、初舞台はシテ方に比べると遅くなります。

──大人でも大変だと思いますが、2時間近い長大な曲の間、子方は謡も舞もほんの短い時間しかないにもかかわらず、じっとしています。見るたびに感心してしまいます。
 自分がいつから我慢できるようになったのか分かりません。私の子どもが今1歳半で歩くようになってきたのですが、2、3年のうちには子方として舞台に立たせなければなりませんから、この子をどうすれば1時間座らせておくことができるかが目下の悩みです(笑)。
 子方に出る時の父の教え方は、舞台に出て、ずーっとあって、ここで謡って、謡ったらまたずーっとあって、最後にワキの先生が立たせに来てくれるから、そうしたら立ちなさい、というものでした。長い時間ですから、舞台の上でコクリコクリ、モジモジしているのですが、子どもの集中力というのは不思議なもので、「この謡になったら謡うんだよ」と教えられたきっかけは「あっ、ここだ」とわかるのです。
 実はこの父の教え方を別のシテ方に言ったら、驚かれてしまいました。稽古は最初から最後まで通してやるものだと思っていた、自分はそうやって育ったと言うのです。舞台に登場して座ったら父親が舞っているのをじーっと見ていて、自分の番がきたら謡ったり舞ったりして、最後まで座っている。稽古は1時間とか1時間半、本番と同じようにやったそうです。うちの父は、要点だけ教えて、注意されたことといえば、静かにしていなさい、どこかかゆくなってもかいちゃいけない。ひどいと言えばひどい教え方ですが、合理的だったかもしれません。父は「子どもは我慢ができないから、稽古はすぐ終わらなきゃ駄目だ」と言っていましたし、叱ると嫌になってしまうので叱るなとも言っていました。
 他人の子どもに教えると、注意力は長く続かないのがわかります。多分10分ほどしか聞いてくれない。飽きてきたなと思うと、「また次の時にやりましょう。次までに覚えてきてね」と稽古を終えるので、親御さんにとても不安がられます。それでもみんな舞台をちゃんと勤めますから、ひょっとすると親御さんが勉強させてくれているのかもしれません。

──子方として舞台に上がることによって、能そのものが自然と身に付くと考えていいでしょうか。
 それはそうですね。30分なり1時間なり座っているだけという曲が多くありますから、舞台に出ることで“能の時間”というものが自然とわかってきます。「桜川」は子方の謡がひとつもありません。座っているだけです。それでも、稽古はしました。舞台に出て、座って、立つという稽古です。稽古はほんの10分ほどで終わりますが、本番は小一時間ほど座っています。

──男の子は中学に入る頃から、急に身長が伸びて声変わりするなど、子方として舞台に立つのが難しくなりますね。
 役は付かなくなります。でも、よくしたもので、お囃子の稽古を始めて5、6年になりますから、理屈がわかるようになり稽古が楽しくなる。漢字が多くて小学生の頃は読めなかった謡本も読めるようになり、父との稽古も本を見てするようになる。すると、文字の脇に書いてある記号が何を表しているのかがわかるようになって、自習ができるようになり能が面白くなってきます。

──能楽師としての自覚が出てきたのはその頃ですか。
 中学3年ぐらいになると、日曜日は舞台があって地謡の端っこに座っていました。謡を覚えられるようになって、1時間半、2時間と正座をしていられるようにもなりましたから、大人と並んで謡えるのでちょっと頑張りました。父が主宰する観世九皐会(きゅうこうかい)の舞台を手伝ったり、地方の公演について行ったりしていたので、漠然と能楽師になるのかなという思いはありましたが、明確なものではなかった。学校にはちゃんと行きなさいと言われていましたから、友達と同じように大学に行くものだと思っていました。大学は法学部政治学科ですが、結果的にはそれが良かった。能以外に視野が広がりました。
 大学時代も土日は舞台に出ていましたが、誤解を恐れずに言うとアルバイト感覚でした。ところが、3年生も後半になると友人たちは就職活動を始めて、仲の良かった連中とも会わなくなる。自分は何ができるかと考えてみると、能以外何もできない。そう思い始めた時、悪魔のささやきのように、ちょっと年上の能楽師がお酒に誘ってくれました。それから段々能楽師との付き合いが増えて、踏ん切りがつきました。

──ここらでしっかり能に引き寄せようと、先輩方はちゃんとみていたのですね。
 そうかもしれませんね(笑)。ただ決心するまで何も考えていなかったわけではありません。私が能をやるとすれば何ができるのか、まだまだ基本的なこともできていない頃でしたが、やるからには目標を決めようと考えました。能は地味な伝統芸能ですから、10年後には食えなくなるかもしれないという危機感がありました。それでその状態を変えることをしたい、と思いました。

──20年ほど前は、夜に野外で篝火を焚いて行う薪能など、東京、大阪ばかりでなく各地で能のイベントが盛んでした。それなのに、10年後は食えないなどと悲観的な見方をしていたのですか。
 当時はバブル経済の余波で薪能がたくさん行われていました。何もできない若い僕らでも車で乗り付けて、能らしきことをやっても何とかなったのです。これはよくないと思っていました。当時の能の見せ方は、見ている側と演じている側があまり噛み合っていないと感じていました。こんな音響や照明でいいのか、こんなやり方でいいのかと思いながら演じていました。
 その頃の観世九皐会の定例会は能三番とか、素謡と能二番といったプログラムでした。シテ方にとっては素人のお弟子さんに教えるのは大事な仕事です。お弟子さんを増やすことは、能の観客を増やすことに繋がりますから。そうした謡や仕舞の稽古をされている方には能三番といった会はいいでしょうが、初めて見る方には重すぎる。能を見たいという声はたくさんあるのに、初心者向けのプログラムにはなっていない。仲間内でやっているような雰囲気も、若かったので何となく嫌でした。同時にその頃から、能を支えてくださっていたお弟子さんの高齢化や大旦那のような方が亡くなるなどして、雲散霧消する地方の稽古場も出てきました。能の会をやってもごそっと空席がある。このままでは10年後はどうなっているだろう、何とかしなければと思いました。

──同年代の能楽師も同じように感じていたのですか。
 そう感じていた仲間と話をしているうちに、「神遊」の活動に発展しました。きっかけは、薪能の経験から自分たちの芸に自信をつけなければならないと、囃子方の稽古会を始めたことです。当時の僕らが普段できないような難しい曲に取り組み、梅若玄祥先生や亡くなった観世銕之丞先生や、様々な流儀の先生に稽古をお願いしました。そうした稽古会を何年か続けているうちに何となくメンバーがまとまり、若手だけで組むユニットに理解を示してくれる劇場もあったので、笛の一噌隆之さん、大鼓の柿原弘和さん、太鼓の観世元伯さん、小鼓の観世新九郎さんと私の5人で「神遊」の活動を始めました。
 「神遊」のコンセプトは初心者にもわかりやすい解説付き公演と、ろうそくの明かりで見る「ろうそく能」のようなイベント的な企画、そして本式の能をお見せする公演の3本立てで活動するというものです。初公演が1997年ですから、もう15年になります。20代で活動を始めて、僕らもみんな40代になりました。

──神遊のかたちも徐々に変わってきたようですね。
 次第にみんな忙しくなり、普及的な公演は若い世代に任せようという思いが出てきました。解説付き講座は、私が始めた「のうのう能」で引き継ぎ、みなさんの前で衣装の着付けをご覧に入れたり、能の背景なども紹介しながら能を見ていただいています。
 本式の能をお見せする本公演は年に1回くらい続けています。「砧」とか「恋重荷」「卒都婆小町」といった重い曲を未熟ながらやらせていただきました。新作はずいぶん前からやろうやろうと言っていたのを2008年にようやく実現しました。「麦溜〜モルトウイスキー物語」というのですが、残念ながら再演の要望がどこからも来ません(笑)。15周年の2012年には密度の濃い記念公演をしようと企画しています。

──「麦溜」はスコットランドのモルトウイスキーの誕生物語という異色作でしたし、「のうのう能」は「のうのう」というシテ方の掛け声と「KNOW NOH」を掛けた命名で、新世代らしい取り組みだと感じます。喜正さんが始めた「のうのう能」と「1から始めるおケイコ謡・仕舞」は、能の裾野を広げる上で大事なお仕事になっていますね。
 能の稽古をしたいと思っている人がけっこう多いということが、21世紀になってわかってきました。能を一度見たいという声はいつの時代にもあります。習い事として能をやりたいという声が出てきたのは、着物や日本の伝統文化に関心が高まった“和ブーム”の影響からだと思います。謡や仕舞の稽古は個人の稽古が基本で、団体に教えているのは文化センターやカルチャーセンターのような所だけでした。どんなものかやってみたいという人は、個人稽古ではなかなか踏み出せませんから、能のファンを増やすために間口を広げることが必要ではないかと、団体稽古を始めてみました。それが「1から始めるおケイコ」で、企画から広報まで私と家内がすべてやりました。新聞の折り込みチラシやホームページ、いろいろな媒体で広報をしました。すごく評判が良くて、たくさんの方に来ていただいて、こういうニーズがあるんだと確認できました。昔は「どこで能をやっているんですか」といつも質問されていましたが、今ではインターネットの普及で一番地味だった伝統芸能の世界があっという間に検索できる。私も含めて、能楽師がネットで情報を発信する時代になりました。

──裾野を広げるお仕事と、ご自分の芸の追求と、体がいくつあっても足りませんね。
 40歳を超えたので、あまりいろんなことはせず、良い舞台をつくっていかなきゃいけないと自分に言い聞かせています。父も歳を取ってきましたし、私たちの年代がしっかりしなければいけない。責任も出てきたと思っています。実力をきちんと発揮できなければ足元がふらつきます。今までは準備をしなくても謡えたり舞えたりしたものを、もう一度練り直して、準備をして、より良いものにしていく。そういう時間の使い方をしていきたいと思っています。

──しかも、次の世代に芸を継承していく役目もあります。
 そうですね。それをいつも思ってアクションをするようにしています。僕らの年代は、20代半ばで一人前になる人が少数ですがいました。ところが今では30歳を過ぎないと一人前になった人が出てこない。一般社会では30歳といえば家族を養うぐらいじゃないといけないのに、能の世界ではまだ1年生です。
 なぜかといえば、大学を出てから能の世界に入る人が圧倒的に増えたからです。昔は「大学なんて行くことないから能をやれ」でしたけれど、今は大学ぐらい出たらという状況です。芸術大学に行ったとしても、観世流の場合は普通の大学に行ったのと同じ扱いなので、プロになるには卒業後5年間、先生のお宅に住み込む内弟子修業が必要です。その後に研修会などに出るとプロとして認められるのですが、順当に行っても27歳。1年ぐらい先生の鞄持ちをして28歳。能のシテができるようになるにはもう1、2年必要ですから、30ぐらいになってしまう。それから5、6年やって、ようやくある程度の仕事を任されるようになるわけです。そうではなく、これからの若手の育成は発想を変えていかなければならないかもしれません。
 例えば、シンガポールの俳優や演出家を育てる芸術学校「Practice Performing Arts School of Singapore(PPAS)」で教えた時には、ひげのインド人にまじめな顔で「僕は能のプロフェッショナルになれますか」って聞かれましたが、外国人に対する育成システムを私どもは持っていません。それは外国人を排斥しているのではなくて、5年間住み込みで修業するという観世システムに外国人という発想がなかったわけです。

──PPASではどのような教え方をしたのですか。
 学生はアジア各国から集まった演劇のプロや俳優の卵で、意識も身体能力もすごく高い人たちですから、私に対する要望も深いわけです。いきなり「序破急とは何か」などと聞いてくる。言葉の説明だけでなく実践でどう教えるか、思いも寄らぬアプローチと分析が必要になりました。彼らは「能は600年もやっているんだから、能にしかない独特の神秘的な技法があるはずだ。ヨッシーはそういうものを体得しているんだろう。そこにたどり着きたい」と言います。中国の拳法じゃないのだから、そういうものは無いと言っても、「いや、絶対ある」と、興味と敬意を持って聞いてきます。
 もとより意味のないことをやっているわけがないと思って見ていますから、「あの所作には何の意味があるのか」と聞いてくる。実は段差に躓いただけだったりするのですが、見逃さない。日本人が全体の流れの中で無視していいと思って見ているところも外国人は見逃さないので、「あれは単なるミステイクだね」と正直に言わなきゃならない。「あれは演出だ」とごまかしの方便を使ってしまうと、つじつま合わせを続けなければならず、後々自分の首を絞めます。
 3カ月の集中講義で指導しますが、日本で能の会があって続けてはいけませんから2週間ずつに分けて行きました。最後には、能面と装束を着けて、オリジナル台本のオムニバス能の発表会をやりました。謡はアルファベットでふりがなを振って日本語で謡います。死ぬほど録音テープを聞いて1日5時間も6時間も稽古をしますから、2、3日もしたら謡えるようになります。所詮3カ月ですが、上手い人の舞は絶品でした。
 ですから、能に魅せられて、日本語もきちんと発音できるようになって、能楽師になりたい外国人が出てきたらどうするか。実際、相撲には外国人力士がたくさんいます。逆にクラシック音楽やバレエでは日本人がどんどん活躍している。これは遠からず突きつけられる問題だと思います。ある種黒船ですね。身体能力と表現力の優れた人が入ってきたら、乗っ取られてしまうかもしれません。外国人を受け入れるか、それとも受け入れるシステムがないと拒絶するか、これは我々の世代で解決しないといけない問題だと思います。

──黒船でやってきた米国のペリーに江戸幕府が開国を迫られたように、外国人の能楽師が誕生する日が来るかもしれない。それも大きな変化ですが、日本人の生活様式そのものが大きく変わっています。日常生活では畳に正座をするよりは椅子に座ることが多いし、欧米人のように手足の長い子どもたちが増えています。3間(約6メートル)四方の間口の舞台で表現する能の形、美しさを守るためには、これもまた大きな問題になる気がします。
 背が江戸時代の平均より20センチ大きい私がギリギリですね。父の足の大きさは23.5センチか24センチですが、今では27センチが普通です。9頭身ぐらいになってくると、能面のサイズも今のままでいいのかどうか。面(おもて)も扇も今のサイズは私にはちょっと小さいので、面はちょっと大きく打ってもらうように頼んではいますが、この“ちょっと”が一番難しい注文のようです。
 確かに、人によって大きい小さい、太い細いはあるけれど、能の雰囲気になっていればいいんだという昔からの解決法があります。大きい人が弁慶で小柄な人が静御前をやるのではなく、能楽師ならどちらもできなくてはいけない。能面と能装束を着けて舞台に出れば、150センチと小柄でも弁慶に見える。逆もまたしかり。大柄な人間が可憐に見えたらいいわけです。芸の神髄は多分そこにある。究極的には面も装束も着けない仕舞を舞って、その姿に見える、静御前に見える、弁慶に見えるのが一流です。しかも、その境地を目指して精進するというのではなく、60歳、70歳になると、それがすっと備わってくるのが本来の能の芸でしょう。これは数値化も出来ませんし、西洋的な理屈では説明できない部分ですね。

──40代に入ったばかりの喜正さんには、能をさらに親しまれる芸能にするためにこれから実行したいアイデアがいろいろあると思いますが。
 以前から言っているのですが、歌舞伎のように毎日能をやりたいですね。

──能は1回興行で、一期一会を大切にする芸能だという認識があります。1回しか公演がありませんから、切符も手に入りにくいですし、そもそも見る機会が少ない。
 毎日やったら質が下がるという人もいますが、毎日お客さんが来て、毎日能ができる環境が僕は一番素敵だと思っています。一度ではなく、何度でも見てほしい。それだけの素材を能は持っています。プロデュースしてくれる人はまだ現れませんが、毎日能の会があって、お客様のご意見が我々に聞こえてくると、次の公演をどういうものにするか工夫していけると思います。
 私たちの年代が外国で演じる機会は多くはないのですが、海外での能の評価は高いですから、今後はアジアも含めてきちんとした能をどう見せるか考えていきたいと思っています。どの演目をやるか、劇場空間をどう使うか、どういうふうにトランスレートするか、あるいはしないか。毎年定期的に行ける芸術祭のような機会があると、様々な曲を見ていただけて、工夫もできます。そうした実績を積むことが能全体にとって大事なことだと思っています。
 
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