The Japan Foundation
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高嶺格
高嶺格(たかみね・ただす)
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an overview
アイホール「Take a chance project」『もっとダーウィン』
構成・演出:高嶺格
(2005年9月/伊丹アイホール)
撮影:清水俊洋
もっとダーウィン
もっとダーウィン
もっとダーウィン
もっとダーウィン
もっとダーウィン
もっとダーウィン
アイホール「Take a chance project」『アロマロア エロゲロエ』
構成・演出:高嶺格
(2006年9月/伊丹アイホール)
撮影:清水俊洋
アロマロア エロゲロエ
アロマロア エロゲロエ
アロマロア エロゲロエ
アイホール・高嶺格ワークショップ&パフォーマンス発表公演
『リバーシブルだよ人生は。』

(2007年9月15日〜16日/伊丹アイホール)
撮影:竹崎博人
リバーシブルだよ人生は。
リバーシブルだよ人生は。
高嶺格演出作品『Melody♥Cup』
(2011年2月12日〜13日/伊丹アイホール)
撮影:竹崎博人
Melody♥Cup
Melody♥Cup
Melody♥Cup
Melody♥Cup
Melody♥Cup
Melody♥Cup
Melody♥Cup
Melody♥Cup
Melody♥Cup
Artist Interview
2012.2.10
play
Committing to society - the bricolage theater of Tadasu Takamine  
社会とコミットする 高嶺格のブリコラージュ演劇  
マルチメディア・パフォーマンスの先駆けとして知られるダムタイプのパフォーマーを振り出しに、現代美術のアーティストとして国際的に活躍している高嶺格(たかみね・ただす)。森永ヒ素ミルク事件の被害者である重度障害の男性に性的な介護を行う自らを捉えた映像『木村さん』をはじめ、パフォーマンス、映像、インスタレーションなど多彩な表現により自分と他者や社会が関わるプロセスに向き合った作品を次々に発表。また、近年は舞台美術家としても活動の場を広げ、2005年からはワークショップによるブリコラージュで構成した舞台作品の演出に取り組み、新境地を開拓。特にアイホール(兵庫県伊丹市)のプロデュースにより発表したタイ人と日本人のコラボレーションによる『Melody♥Cup』(2009年初演)は、美術、音楽、パフォーマンス、映像、リアル、フィクションがない交ぜになったユーモア溢れる刺激的な舞台だった。2011年4月、『Melody♥Cup』横浜ヴァージョンと横浜美術館での個展『とおくてよくみえない』を終えた高嶺に、ダムタイプから現在に至る歩みとブリコラージュ演劇の創作プロセスについて聞いた。
[聞き手:志賀玲子(コンテンポラリーダンス・プロデューサー)]

──高嶺さんは鹿児島から京都市立芸術大学に進学されます。そこでダムタイプと出会われたわけですが、なぜ京都芸大を選ばれたのですか。
 高校生の時に、美術系の大学を志望している生徒を対象にした夏季講習があり、現役の美大生が講師として教えに来ていました。その中に京都芸大に在学していた藤浩志さん(現代美術家)や当時ダムタイプにいた小山田徹さん、泊博雅さんなどがいまして。他の美大生も講師として来ていたのですが、京都芸大の人たちはなんとなく視野が広い感じがして志望しました。

──大学では何を専攻したかったのですか。
 まあ18歳ですからね…ただ、入学した時は「何か美術で新しいことをするぞ!」みたいなやる気だけはやたらとあったような気がします。一応工芸科で入学したのですが、同じ学年で仲良くしていたのはコンセプチュアルなものを志向していた人たちばっかりでした。何となく時代の先っぽを掴まえるみたいな感じのことを常に考えていた気はします。

──ダムタイプの旗揚げが1984年で、高嶺さんが入学されたときにはすでにダムタイプは活動をはじめていました。どういうきっかけで関わるようになったのですか。
 高校の先輩がダムタイプにいたのがきっかけで、鹿児島から京都に来て誰も知り合いがいなかったので大学に入った時から事務所に遊びに行くようになりました。学生時代もいろいろ手伝ったりはしていましたが、本作品で参加したのは『S/N』(92〜96年)で、パフォーマーとして参加しました。

──大学を卒業されてから、IAMAS(岐阜県立国際情報科学芸術アカデミー)に進学されます。
 29歳の時です。京都のギャラリーに遊びに行った時、偶然、元・京都芸大の先生で、その頃IAMASで教えていた小田英之さんに会った。で、「君みたいな人は(IAMASを)絶対受けるべきや」と言われたんです。その頃はコンピュータには全く触ったことがなかったのですが、11年間ずっと京都に住んでいて、ちょっと環境を変えたい気持ちもあったし、(ダムタイプを率いていた)古橋悌二さんが亡くなって「これからどうしようか?」と迷っていた時期でもありました。僕はダムタイプの中では年齢もほとんど一番下だったから、後輩のような位置付けはグループの中でずっと変わらない。そのまま続けていって僕に何ができるのかなと考えた時に、自分のやりたいことをダムタイプの中で実現するよりは、離れて一人でやったほうがいいかもしれないと思った。それでIAMASに行くことにしました。

──1996年に開学したIAMASは、テクノロジーを使った最先端の表現を学ぶ大学院大学です。当初は現代美術の映像作家や、マルチメディア系のアーティストなどが指導するユニークなカリキュラムで知られていました。海外のアーティストによる滞在制作型のプロジェクトも行われていました。高嶺さんはIAMAS時代にはどのような作品をつくっていたのですか。
 そもそも入学した当初はコンピュータの起動のさせ方さえ知らなかった。技術的には過渡期でコンピュータによるノンリニア編集ができるようになりつつあった時代だったので、まずそういった編集ソフトの使い方を覚えて、映像作品を幾つかつくりました。パフォーマンスでは、ライブでの映像の使い方、例えばライブと見せかけて実はライブ映像ではない映像を流すとか、映像で見せるライブバンドとか、実験的なことをやっていました。
 映像の編集をやってみて、自分がたとえば1フレーズの「ここちょっと長いよな」というのがすごく気になる性格だというのがわかった。何分間かを構成するという時に、シーンの入れ替えなどちょっとしたことで印象が異なるという編集の面白さにハマりました。自分のパフォーマンスでは、ギャラリーなどでそれこそアブラモヴィッチみたいに、ワンアイデアでずっと同じ行為を繰り返すようなことをやっていたのですが、それが映像の編集にハマるようになってから、パフォーマンスでも「構成・編集」するという発想に変わっていったように思います。

──私にとって高嶺さんと言えば、『木村さん』と『God Bless America』の作品から受けたインパクトは忘れられません。『木村さん』は、森永ヒ素ミルク事件の被害者であり、一級障害者として暮らす木村さんと、彼の介護をする高嶺さん自身を撮った9分の映像をパフォーマンスとして上演したものです。性的な介助という日常とありのままに向き合った痛快な作品でした。『God Bless America』は、2002年に近代美術館「連続と侵犯」展に出品されたビデオ作品で、巨大な粘土でアニメーションをつくる作家とその友人たちの姿を日記風に撮ったものですが、それがブッシュ・アメリカに対する痛烈な批判になっていました。こうした作品は、高嶺さんが普通に生活する中で出会った違和感の延長線上にあるもののような気がしました。私はダンスのプロデューサーですが、当時、私がダンス作品で物足りないと感じていたところを高嶺さんなら何か出してもらえるのではないかと思い、2005年にアイホールの「Take a chance project」の企画をお願いしました。このprojectは、1年1作のペースで3年間継続的にひとりのアーティストにアイホールで発表する作品をつくってもらうというものです。改めてお聞きしますが、劇場作品をオファーした時、どう思われたのですか。
 それまで劇場で上演する長編のパフォーマンスをつくったことがなかったので、どこから始めたらいいんだろうと思いました。ギャラリーとかでやるアートパフォーマンスのようなものは、もっと枠組みが自由というか……。設備がちゃんとあるわけでもないし。それと劇場でやるということは完全に違うものという印象がありました。

──2005年、Take a chance projectの第一作としてアイホールで発表した『もっとダーウィン』の第1部『海馬Q』は、京都造形芸術大学の学生と一緒につくった作品でした。
 舞台芸術学科の学科長だった太田省吾さんから、一回生の授業をもってほしいという依頼があり、講義だけでなく、何か学生と一緒に作品をつくるような授業もやりませんかと。そのときにちょうど志賀さんから「Take a chance」の話しがあり、じゃあちょうどいいので学生とつくっていいですか?と。

──今では高嶺さんの舞台作品というと、いわゆるノイズの多い、素人の身体を使ってつくるというイメージが定着していますが、『もっとダーウィン』の第2部『Miss rim』はプロのダンサー、Noismにいた松室美香さんを使ったソロのダンス作品になっていました。なぜ松室さんを起用されたんでしょう。
 松室さんがぜひわたしに振付けてみてくれというので(笑)。できるかなあと思ったのですが、踊れる人に振り付けるというのは一体どういうことなのか知りたかったので、やってみました。結果があれです。(笑)。

──ダンスの振付家はその人も踊れるのが普通で、ダンスの身体の使い方や動きの連鎖というものをわかって振り付けています。でも、高嶺さんはそういうことは全く関係なく動きをつくるのでダンサーは困惑していて、松室さんが相当ハードだったと言っていた記憶があります。
 「今日やったことを覚えておいてね」と松室さんに言うんですが、それは翌日になると僕の方が全然覚えていないから。毎日、「えーっと、昨日までってどうだったっけ?」って(笑)。そうやってちょっとずつ進めていって、繋ぎ合わせました。

──『Miss rim』では、メディア・アーティストの前林明次さんによる「音のインタラクティブシステム」というのが使われていました。どういうシステムだったのですか。
 ビデオカメラでキャプチャーしたダンサーの動きをもとに、例えば画面のある場所にダンサーが来たらある音がピッと鳴るという、センシングをするシステムです。例えば、手がここにきて、ここから先に動いた時に音が鳴るようにしてもらって、振付が音に先行する形になっていました。
 実際に振付をやって思ったのは、振付けというのは意外と機械的なものだということでしょうかね。感情がなくてもつくっていける。感情や意図は最後に付け加えることでも表現できるんだなと。一回やっただけですが。

──それは普通のダンスの振付家の感覚とは全く違うと思います。パソコンで映像を編集するかのように生身の人間の動きを構成すると、踊っているダンサーの力量がすごいのでそれで作品が出来てしまう──何だかヘンだけどすごかった。『海馬Q』はどのようにしてつくったのですか。
 あのときは学生が15人ぐらい、まずはみんなで即興をするところからはじめました。みんなが勝手に動いているだけなのにものすごく面白くて、ただただ1時間ずっと見とれていた。そこから振付を構成しようと思いましたが、15人が「好き勝手に動いているように構成する」なんて僕にはできなかった。悩んだ結果、即興を手本に構成するのをあきらめました。
 ただ、動きがあまり意味をもたないよう、意味が発生しそうになると逆のことをやって、その意味を打ち消すみたいなことはやりたいと思いました。身体の動きは言葉に比べて情報が多すぎるので、自分がこういう意味を込めたいと思っても別の受け止められ方をする可能性がある。誤解が発生することに耐えられないので、なるべくそういうことが起こらないようにしたいと考えました。

──即興というのは、どういう感じで行われたのですか。
 シチュエーションを与えて動いてもらったこともありますが、特別なことはやっていません。でも一旦スイッチが入るとみんな好き勝手に盛り上がって、すごく複雑な形で動く。いろんなことが関係し合ったり、離れたり、過剰なほど意味が発生する。人為的に再現するのは無理だと思いました。

──京都造形芸術大学舞台芸術学科は無言劇で有名な故・太田省吾さんが初代学科長で、当時は演劇では太田省吾、ダンスでは山田せつ子、岩下徹といった人達が指導していて、いわゆる演劇とかダンスじゃないものを学生達は与えられていました。そこに高嶺さんの才能が掛け合わさったから、相当ヘンなことが起きていたんじゃないかと(笑)。多分、普通に演劇やダンスの経験があると“即興”といわれただけではなかなかそこまで面白くはならないと思います。
 バットシェバ舞踊団でも、振付家のオハッド・ナハリンが即興で1時間ぐらいダンサーをほったらかしにするみたいなことをやっていましたが、それより造形大の学生の即興のほうが面白かった気がします。
 最終的に『もっとダーウィン』は、映像や舞台美術といった僕がある程度知っているものは意図的に持ち込まないで、素舞台に照明と音響だけで上演しました。即興を繰り返していく中で色々やりとりしながら出てきた面白いモーメントを組み合わせ、1部・2部合わせて1時間半ぐらいの作品にしました。

──Take a chanceの2作目が2006年の『アロマロア エロゲロエ』で、これも造形大の学生との作品でした。
 つくり方としては似ていますが、少し意味をもった「言葉」を入れました。それから視覚的な効果として映像も使うなど、2本目でいろいろと解禁した(笑)。テキスト部分については、実際のメーリングリストで送られてきた中東問題に関わる爆撃のニュースの抜粋を使いました。この種のテキストが舞台でどんなふうに響くのかを実験したくて、いろいろな学生にいろいろなトーンで読んでもらって使い方を決め、冒頭のシーンをつくりました。
 また、この作品は、造形大の学内とアイホールで上演しましたが、アイホールでは(廃棄されるたくさんのチラシが問題になっていたので)「チラシをつくるのをやめませんか」というチラシをつくりました。それでチラシについて問題提起をするというテキストを持ち込んだので、それが作品を考える核のようになり、学内公演とは違った内容になっていきました。

──『木村さん』もそうですが、高嶺さんが表現として取り上げたいと思うもの、自分を通じて表現の形にしたいと思うものは、世の中ではなかなか表に出てこない題材のように思います。
 いや、そんなことでもないのですが…。チラシのことは要するにゴミ問題、リサイクル問題ではありますが、何と言うか「ゴミは問題だ!」とスッと言えなくて、ものすごく加工して言う癖があるんです。僕がお客さんとして観に来ていたら、例えば「ゴミ問題をみんなで考えましょう」みたいに言われたら多分聞かないんですよね。でもそれを、こんな手を使って言われたとしたら、動かざるをえんよな、みたいな。結構自分に向けて言っているのかもしれないですね。

──高嶺さんは、作品をつくるという自分と地球に生きている自分みたいなことが入れ子になっているアーティストなのだと思います。そうなっていない人がすごく多いので、「チラシをつくるのをやめませんか」と作品の中に入れ込んだ形で言った時には、かなり反発もありましたよね。
 ありましたね。

──今になって思うと、技術的に成熟していて、「ダンス」としては面白くても、その作品が観ている私の生活に突き刺さってこないと、「芸術」としては物足りないと感じていたと思います。それが、高嶺さんの作品を見ると、私の中の何かがいつも困った。私は普通に生きているつもりなのに、何となく批判されているような気持ちがしてしまう。それは高嶺さんが私を批判しているのではなくて、高嶺さんの作品を通して見えてくる問題意識や事実に対して、自分がどうするのかを迫られている感じがしたということなのですが。それがあるから現代アートなのだと高嶺さんに期待して企画をお願いしたような気がします。
 『アロマロア エロゲロエ』の後、2007年にTake a chanceとは別枠でワークショップ&パフォーマンス企画『リバーシブルだよ人生は。』をアイホールでやっていただきました。これは一般公募で集めた10名ほどの参加者が100時間ぐらいのワークショップを経て公演をするというものでした。これで初めて、造形大の学生ではなく、出自がもう少し色々な人たちと作品をつくったわけですが、違いはありましたか。

 学生だと年齢の差があまりなくて、同世代意識がありますが、『リバーシブル〜』では10歳以上の開きがありました。どちらがやりやすいということはありませんが、一緒に仕事をしている仲間だ、みたいな関係になるまでに時間が掛かった気がします。
 それと、精神的に不安定な人が参加していて、それが作品に与えた影響もあります。そういう人は今の自分の状態を何とかしたいという本気な感じがあって、それがあのときのパフォーマンスにはいい方に作用したのではないかと思います。

──Take a chance projectの最後の作品として2009年に発表したのが、タイ人の若者と日本人とのコラボレーションによる『Melody♥Cup』です。これは私ではなくて、アイホールの小倉由佳子さんがプロデュースを手がけましたが、なぜ、タイとのコラボレーション企画になったのですか。
 全くの偶然です。上海のアートフェアでディアボーン(Dearborn K. Mendhaka)というタイの映像系の作家と知り合ったのですが、ちょうど小倉さんから次の作品の相談があり、この子とやりたいなと思って出演依頼をしました。でもなかなかディアボーン以外のパフォーマーを決められなくて焦っていたら、小倉さんがとりあえずタイに行きましょうと。それで一度打ち合わせをするつもりで出かけたら、ディアボーンが知り合いとかに「日本からこういう人が来るから、もし出演したいと思ったら集まって」と声を掛けていて急遽現地オーディションをやることになっちゃった(笑)。
 その中からひとり出ることになって。それから野田秀樹さんのタイ版『赤鬼』に出演していたKOPさんにタイで会ったんですが、すごく顔が広くてバンコクの色々なシアターを車で回って見せてくれた。その時に運転手をしてくれたKOPさんの弟のギグ(Pakorn Thummapruksa)にも声をかけた。
 それからKOPさんにバンコクで現代的な活動をしているマカンポンシアターで新人公演があるから見に行こうと誘われて。内容は全くわからなかったのですが、顔が面白いからあの子にしようってもうひとりそこで決めた。そんな感じでタイ人のパフォーマー5人を決めたのですが、もうメッチャクチャ適当でした(笑)。

──作品づくりの過程はどうでしたか。それまでの作品と違うのは、高嶺さんが自分でパフォーマーを選んだことですよね。
 いい加減に選んだのに、目に狂いはなかった(笑)。ディアボーンは最初から良いなと思って声をかけたけど、それ以外のメンバーについては選ぶということ自体にずっと抵抗があって、実は必死でぐずぐず引き延ばしていたんです。それがどうにもならなくなってタイに行くことになり、もう逃げられないと思って選んだというか、初めて自分の手を汚してしまった(笑)。で、日本に帰ってきてから、もうタイで選んじゃったんだから日本のパフォーマーも選ぼうと、これまでの作品に出演したことのある5人と、そのとき気になった2人に出てもらうことにしました。

──普通だったら自分の作品の設計図に合ったパフォーマーを集めます。
 僕は、まず設計図ありきみたいなやり方からできるだけ逃げたいと思っているんですよね。だからパフォーマーも自分で選びたくない。結局、特殊な才能みたいなもの、すでに世間から認められたものにはあまり興味がないんだと思います。普通の、自分に才能があるとも思ってないし、経験とかもなかった人が実はメチャメチャ面白いというのは、ザラにあることですよね。それを掘り起こしていく作業がすごく楽しい。

──例えば公募で色んな出自の人が集まってから作品をつくるまでに、コミュニケーションをよくするために準備としてやっていることはありますか。
 マッサージ大会はよくやっていますね(笑)。なるべく肉体的に触れあった方がいいかなと思ってやっています。そうするとだんだん許していくんですよね、他の人を。

──例えば『リバーシブル〜』の時は、メンバーのひとりの非常にプライベートな辛い問題を、本人が独白するシーンがひとつのクライマックスになっていました。あのシーンはどういうプロセスで生まれてきたのですか。
 最初の頃に自己紹介をやったのですが、普通に輪になって自己紹介をしても面白くないから、自己紹介をする人が別の場所にひとりで行ってカメラに向かって喋るのをみんながライブプロジェクションで見る形でやったんです。その時は参加者が20数人いて、自己紹介だけで3日ぐらいかかったのですが、あのシーンは特にその中でも強烈な自己紹介をした子のものです。だからノンフィクション。

──そういう自己紹介のやり方は初めてでしたか。
 ええ、その人がどんな人かを知るために、普通のやり方よりも有効だと思って。カメラに向かって喋ることでフレームとして切り取られるので、そこに自分がどう入って、どういうタイミングで話しはじめるとか、それぞれが考えながらやらなければいけない。そこにその人となりが出て来ると思ったので。

──そういう個人的な告白に対して、他のメンバーはその場に参加することを重荷に思ったりはしなかったのですか。
 それよりも、横の人間関係がどんどん濃密になっていくと、自分のエゴを表現することはどうでもよくなってきて、全体のために役に立つ存在でありたいと思うようになっていくようです。みんな、結構惜しみなくアイデアも考えてくるようになるし。例えば、女の子が髪を切って坊主になるシーンがあったのですが、本番が3回あったので3人要るよね、という話になった時に、「私がやってもいいです」という女の子が3人出てきて、ひとりずつ坊主になりました(笑)。

──そこまでさらけ出せるようになるのはなぜなんでしょうか。高嶺さんを全面的に信用していて、みんな裸になってそこに居るという感じですよね。パフォーマーが学生のときも同じですか。
 裸ね…。『アロマロア エロゲロエ』の時も結構そういう感じでしたね。それこそあの作品では、最後に全員が裸になるシーンがあったのですが、それは学生のほうから「脱ぎたいです」と言ってきたから、「じゃあ、ぜひ脱いでください」ってそのシーンをつくった(笑)。

──それは『Melody♥Cup』でタイの人たちとつくった時も同じでしたか。
 そもそも、タイの人達は僕のことを全く知らないわけですし、多分タダで旅行に来られてラッキーみたいな感じで来日したんじゃないかなと思います。着いて、全くノーアイデアの状態からつくります、ちょっとマッサージしてみましょうとか言われて驚いたに違いない(笑)。言葉にしても日本チームはまともに英語を喋るメンバーなんかいないし、片言のやり取りでした。それが良かったのかもしれないですけど。

──ちなみにタイトルの意味は?
 タイトルは内容と関係ないんですよね。だって決まってないから(笑)。でもあんまりにも何もないのもどうかと思って、そのとき音楽で一曲だけ、『Melody Fair』を使うことだけは決めてたんです。ただ好きだからというだけなんですが。それで、ワールドカップもあるし、サワディカップもあるから「カップぐらいでええんちゃうかな」みたいな感じで付けました。

──高嶺さんのつくり方は、最初に作品のコンセプトを決めないで、集まってきた人達から悩んでいることを聞いたり、価値観について話をしたり、遊んだりしているうちにさまざまなモチーフが出てきて、舞台のエレメントが出来上がり、構成していくというものです。『Melody♥Cup』ではタイと日本のパフォーマーから出てきたモチーフがインパクトのあるヴィジュアルやパフォーマンスになって展開されていました。
 具体的に言葉にしやすいモチーフでいうと、『Melody♥Cup』では「仏教」がひとつのキーワードになっていました。なぜかというと、運転手をやってくれたギグがチベット仏教の修行を現地で2年間やったことがあるという、ちょっと変わった経歴の持ち主だったんです。で、日本チームの伊藤彩里の実家がお寺で、そこのお堂を借りて稽古をやったときに、お父さんにも参加してもらってタイと日本の仏教の違いのようなことを話し合った。そういうことがあって、僕は仏教についてあまりよく知らないから、ギグと彩里にいろいろ教えてもらいながら一緒にテキストを書いたんです。

──それが四つ足の大きくて不思議な生き物が2匹で僧侶の問答のような掛け合いをするシーンに繋がっているんですね。
 そうです。あの四つ足人間みたいな形が好きで『アロマロア エロゲロエ』でも出てますが、今回は3人であの形をつくっています。あそこでは人間が存在するとは一体どういうこと?みたいな問いかけもしたくて、人じゃないものが昔風な言い方でしゃべると強度がでるのではと。
 稽古をしていると、みんなが勝手に遊び始めるんです。ある日、日本チームとタイチームに別れて、日本とタイでは外来語の発音が凄く違うというので盛り上がった。例えば「スプーン」が「サポーン」になるとか。すごく面白かったので発展させてひとつのシーンにしました。

──ラストはまるで舞踏のようでした。
 KOPさんがチェンマイ近くの劇場に連れて行ってくれたのですが、そのときにタイでも活動している舞踏家の桂勘さんの話が出て。ディアボーンが私が舞踏をやったら面白いんじゃないかと言い出した。最初は全く冗談で、いや、つまり舞踏なんてのは「ザ・精神」みたいにタイでも思われているから、真似ごとしたら怒られますよね。でもタイでも結構人気ある。で、ディアボーンともともと知り合いだった舞踏家のニイユミコさんに出てもらうことにしていたので、とりあえずみんなでニイちゃんの真似してしよう!みたいなことをやった。そうしたら舞踏をやっているときのニイちゃんの顔がもの凄くて、みんな度肝を抜かれた。そこからニイちゃんに近づけ!みたいな感じになっていったんです。だから、あのシーンは舞踏というかニイユミコを巡るバトルなんです。
 このシーンの制作を経て僕が思ったのは、パフォーマーは、お尻の穴まですべて見せるところまでいかないとダメだということ。『Melody♥Cup』の時には、最後のシーンが舞踏の真似からはじまって「ここで全部を出してくれ」という感じにどんどん変わっていった。その前までにゴチャゴチャ色々やってきたことを、そのシーンが引き受ける形になるので、最後でちゃんと自分を引き受けてほしいと。つまり、この時点になってはじめて全体の構成が見えているわけです。ここは即興に任せてもいいけど、ここは絶対に強度がないといけない、というのが、ある時点で見えてくる。それは、シーンとシーンの関係が「強さ」のコントラストで出来上がっていて、シーン同士の「強度」がバランスがとれていないといけない。舞踏のシーンは、舞踏だから強くないといけないわけじゃなくて、あそこで全部を出さないと意味が成立しないからなのです。

──そうしたパフォーマーから生まれる表現のブリコラージュによって高嶺さんは何を伝えたいのですか。
 はっきり作品の中でテーマとかを設定しているわけではないけど、僕がこうなったほうが良いなと思っている世の中の有り様みたいなものがあって、それを巧妙に作品の中に織り込もうとしているのだと思います。パフォーマーにも、具体的にこういうメッセージを伝えたいみたいなことは言いませんが、それが細菌のように彼らに感染していって、作品を通してお客さんにもバラ蒔かれていくみたいなことがあれば良いなと。せっかく一生懸命時間を掛けて、エネルギーを使ってやることなので、少なくとも、自分が良いと思っているほうに、お客さんも巻き込めたらいいとは思っていますね。

──高嶺さんは、パフォーマーから出てくるものは雑多なものを雑多なまま受け止めますが、それをお客さんに渡すために、最後のギリギリまで、音楽、美術、映像を含めて極めてプロフェッショナルなスタッフワークをします。『Melody♥Cup』でも四つ足人間の造形のユニークなつくり込み、ブルーシートを敷いたプールのような舞台装置の効果的なセッティング、ブルーシートを浮かせた下に潜り込んでハッピーなパフォーマンスしているみんなを映し出したライブ映像の仕掛け、ディアボーンの歌謡ショー、こうしたすべてのエレメントを繋いでいる音楽など、職人技です。
 工芸科出身ですから、やっぱり仕上げにはうるさい(笑)。美術も最初にプランがあるわけではないし、ホールがもっている平台で組める程度のことしか考えません。ブルーシートはみんなが来てから使おうと決めました。最初はブルーシートの下にお客さんも全部入れようかと思ったのですが、暑いので止めた(笑)。
 音楽は基本的に自分で選びます。面白いと思うエレメントが出てきたときに、それとどんな音楽を組み合わせればよいかを決める作業を並行して行っています。照明は僕のことをよくわかってくれている葛西健一さんにほとんどおまかせです。シーンが完成していなくても、こんな感じに繋がっていくかもしれないなあというぐらいの時期に「今、どんな感じ?」と葛西さんが見に来てくれる。使うか使わないかわからなくても、照明機材を多めに仕込んで、葛西さんが考えてきたプランから入れ替えたり、タイミングを変えたりしながら劇場でつくっていきました。

──舞台作品と美術作品はやはり違いますか?
 そもそも展覧会はひとりずついつ入ってくるのかわからないお客さんに向けて展示空間をつくりますが、舞台は大勢の人に対して「せーの」で始まるというつくり方をする。つまりプレゼンテーションのあり方が違うので、つくり方が全く違います。ただ、僕の場合は、展覧会でも時間の流れをすごく意識してつくるので普通の作家とは少し違うかもしれませんが…。
 正直に言えば、舞台作品は人が集まってきてからつくりはじめるので、時間的に制約されるし、プレッシャーもすごくあります。でもその分、みんなで育てたおいしい実を収穫して食べるみたいな喜びがある。本当に豊かな時間と濃い人間関係が出来て、それが後からどんどん発展していきそうな感じがあります。やった後に人間関係が残るので温かいんです。だから何が何でも舞台をやりたいですか?と聞かれると困りますが、毎回終わったあとには、やってよかったなと思います。
 
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