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Performing Arts Network Japan
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ノゾエ征爾
ノゾエ征爾(のぞえ・せいじ)
劇作家、演出家。1975年、岡山県生まれ。8歳までアメリカで育つ。99年に劇団「はえぎわ」を旗揚げ。以降、全作品の劇作・演出を手がける他、俳優としても出演している。ラジオや映像作品の脚本家、俳優としても活躍。人間のデリケートな内面を、シュールな笑いと妙なリアルさを交えて描く劇作で評価を得ている。また舞台空間を巧妙に使い、抽象的ながら想像力を刺激する劇空間を生み出す演出にも定評がある。近年は、海外戯曲の演出や高齢者施設での巡回公演、地方での演劇創作の他、映像作品など活動の場を広げている。主な作品に『鳥ト踊る』『寿、命。ぴよ』『春々 harubaru〜ハスムカイのシャレ〜』(第55回岸田國士戯曲賞最終候補ノミネート)、『ガラパコスパコス〜進化してんのかしてないのか〜』など。劇作においては毎回新たな試みを行い、自身のスタイルを常に更新している。
はえぎわ公式サイト
http://haegiwa.net/
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はえぎわ第23回公演『○○トアル風景』
(2011年7月/下北沢ザ・スズナリ)
撮影:梅澤美幸

○○トアル風景
○○トアル風景
○○トアル風景
Play of the Month
ENBUゼミ
演劇情報誌「演劇ぶっく」を刊行している「演劇ぶっく社」(現(株)えんぶ)が開校した俳優・劇作家・演出家の養成所。後に映像課が加わり、2002年より第一線で活躍する演劇・映画人が講師であることが特色の複合養成スクールとなった。
はえぎわ第21回公演『春々 harubaru〜ハスムカイのシャレ〜』
(2010年1月/下北沢ザ・スズナリ)
撮影:梅澤美幸

春々
はえぎわ第22回公演『ガラパコスパコス〜進化してんのかしてないのか〜』
(2010年12月/こまばアゴラ劇場)
撮影:梅澤美幸

ガラパコスパコス
ガラパコスパコス
Play of the Month
アジア舞台芸術祭2009東京『アジアンキッチン/マニラ編』
(2009年11月/東京芸術劇場小ホール2)
©アジア舞台芸術祭実行委員会

アジアンキッチン/マニラ編
はえぎわpresents
真夜中vol.3『鳥ト踊る』

(2011年10月/こまばアゴラ劇場)
撮影:梅澤美幸

鳥ト踊る
世田谷パブリックシアター@ホーム公演
『チャチャチャのチャーリー〜たとえば、恋をした人形の物語〜』

(2012年7月/上北沢ホーム、デイ・ホーム上北沢)

チャチャチャのチャーリー
はえぎわ第24回公演『I`m (w)here』
(2012年5月/下北沢ザ・スズナリ)
撮影:梅澤美幸

I`m (w)here
Artist Interview
2012.8.11
play
Seiji Nozoe’s small-theater adventure, a world moved by quiet “mutterings”  
「つぶやき」で世界が動く ノゾエ征爾の小さな冒険  
『○○トアル風景』により若手劇作家の登竜門である第56回岸田國士戯曲賞を受賞したノゾエ征爾。8歳までアメリカで育ち、日米7校の小学校を転々とした経験をもつノゾエが演劇と出会ったのは大学時代。青山学院大学在学中に自ら作・演出・俳優を務める劇団「はえぎわ」を旗揚げ。家族を立て直すことから世の中の乱れを正そうと他人の家に住み込み、指示を出し続ける男の視線で描かれた『春々(はるばる)』、人材派遣でピエロとして働く青年が認知症の老婆と共同生活をはじめる『ガラパコスパコス』(舞台の壁・床を黒板にして小道具などを書き込みながら展開)、「男」と「女」の出会いから別れ、そして共存していく様を描いた『○○トアル風景』など。どこか不器用な登場人物達の本音の「つぶやき」が事態を動かし、世界の見方が少しだけ明るく変わる戯曲と、小劇場の空間を巧みに変容させるアイデアルな演出で注目を集める。学生劇団時代から現在まで、演劇についての思いをつぶやいてもらった。
聞き手:大堀久美子

──ノゾエさんの作品にはよく英語で喋る人物が出てきます。子どもの頃、アメリカで暮らした経験があるそうですね。
 はい、3歳から8歳まで商社勤務の父の都合でサンフランシスコに住んでいました。日本人学校を含め、向こうでは3つの学校に通いました。転校したのは、母が知人から「豪邸を半年タダで貸す」という誘いに乗ったからなんです。うちの母は「家好き」で、日本に帰ってからも父の仕事のためだけじゃなく、母の趣味での転校も一度ありました。
 母は「家庭内アーティスト」なんですよ。ある時、帰宅したら家の中が真っ白だった。壁や家具はもちろん魔法瓶まで真っ白く塗ってたんです(笑)。その後、アメリカに行く前に住んでいた家の写真を見せてもらったら、そこは真っ青でした(笑)。絵を描いたり、料理も凝ってましたね。反対に父は真面目で非常に厳しかったです。何かとよく手は出てました。大人になってからは真逆レベルで優しくなっちゃったんですが(笑)。

──現在まで残っているような海外生活の影響はありますか?
 まだ子どもでしたし、これといって思い当たることはありませんが…。両親は帰国後のことを考えて「日本語も勉強しろ」と言っていましたね。でも二つ歳上の兄とは家の中でも英語で会話してました。学校は肌の色が違う子どもが一杯いるような環境だったので、自分が「外人」であることにも違和感なく過ごせていました。
 日本と違う習慣で言えば、毎週のように週末ホームパーティをやっていて、そこで寸劇やコントのようなことをやるのが好きでした。アメリカにいた頃にジョン・レノンが殺されて、見てもいないのにその場面を再現する寸劇をしたり。兄と僕はよく似ていたので、服を交換して「どっちがどっちでしょう?」とか。でも、それが今の演劇に繋がっているというのではなく、子どもがただ楽しいからやっていただけなんですが。でも英語で演出したりすると何かが楽です。

──帰国後はどうされたのですか?
 勤勉な我が家的には(笑)、「男は勉強して良い会社に入り、家庭を築くもの」という思考しかなかったので、小学校の後は兄と同じように中高一貫の進学校に進みました。文武両道の校風だったので、一時はバレー部やバスケット部に入りましたが、キツかったし、高校1年生の途中くらいで受験勉強のために父から辞めるように言われました。でも、内緒で続けたり、その頃から友人たちとこっそりバンドも始めた。それと、詩をよく書いてました。山田かまち風な心の叫びみたいな…。

──「書く」ことは元々好きだったんですか?
 そうですね、小学校のクラスで芝居をやることになったときも進んで台本を書きました。なぜか、「誰よりも面白いものが書ける」っていう自信があったんですよね。授業で作文を書いたときも、想像を膨らませた小説のようなもの、フィクションを好んで書いていた記憶があります。

──青山学院大学入学と同時に演劇サークルに入りますが、それ以前に演劇との接点はあったのでしょうか?
 劇団四季の子どもミュージカルを見たぐらいです。後は、浪人中、CS放送の「シアターチャンネル」で当時流行っていた野田秀樹さん、三谷幸喜さんたちの舞台を映像で観るようになり、それが凄く面白かったのは記憶に残っています。
 兄が大学で映画をつくっていて、僕も映画は高校の頃から好きだったので、最初は映画サークルに入るつもりだったんです。ところが大学に入ってみると、校内で演劇サークルが新入生歓迎公演のチラシを配っていた。誘われるように観に行ったのが池袋小劇場での公演でした。その公演の全てにえらい衝撃を受けて、全員が声を揃える群唱とか、暗転とか、最後まで鳥肌が立ちっぱなしでした。観終えて「こんなに鳥肌立って、やらなかったら嘘だろう」と、すぐ入部しました。

──そのサークルで新人公演の戯曲を自ら進んで書かれました。
 「僕には書ける」とその時も思ってました(笑)。孤独な青年と椅子の精の物語みたいなファンタジックな設定のコメディで、それなりに好評でした。作家をやりたいとか、俳優をやりたいとかではなく、とにかく「演劇という表現」がやりたかった。だから誰より熱心に練習していました。部室でも一人でビデオを回しながら稽古したり、滑舌やストップモーションの基礎訓練も、とにかく全部が楽しかった。ともかくアグレッシブで、人生で最もカリスマ性があった頃で、後で聞いたんですが、一部では「神童」と呼ばれていたらしいです(笑)。

──サークル活動と並行して、学生時代から「ENBUゼミ」(※)などで小劇場の演出家などの指導も受けられています。早くからプロ志向があったのですか?
 当時はまだ演劇を職業にしたいなどとは考えていませんでした。ただ、色々な演劇に触れてみたいという欲求が強くて、ワークショップ募集のチラシなどを見て、手当たり次第に受けていました。それから、情報誌に載っている劇団を、時間とお金が許す限りジャケット買いみたいにして観に行った。何かの見通しがあったわけではないので、本当にいろいろなものを観ました。兄の友人がいたベターポーズ、パパ・タラフマラ、ナイロン100℃、遊園地再生事業団、それにENBUゼミで指導を受けていた松尾スズキさんの大人計画や山の手事情社。観るものみんなそれぞれ違った表現があって、そういう小劇場の演劇が面白かった。珍しいキノコ舞踊団なども好きでしたね。

──演劇だけでなくパフォーマンス、ダンスのカンパニーも混じっていますね。
 身体を激しく動かしたり、特徴ある身体の使い方をする表現は今でも好きです。子どもの頃から、僕自身が身体を動かすことが好きでしたし。

──松尾さんについてはどのように感じていましたか? 業の深い登場人物ばかりの松尾作品に対して、ノゾエ作品の登場人物は不器用で気弱でタイプが異なるような気がします。
 大学4年のときに就職活動をしないで「ENBUゼミ」に参加し、松尾さんの指導を受けました。それまで『ちょんぎりたい』『ドライブ・イン・カリフォルニア』『生きてるし死んでるし』の三本しか拝見していませんでしたが、松尾作品はあまりに衝撃的で、観たあと心がザワザワしちゃって。それと舞台上の絵づくりも好きでした。
 僕自身は特別大きな悩みを抱えていた訳でもないから、社会の底辺の人々が登場する松尾さんの作品に共感するのは不思議なことなのかもしれませんが。考えてみると、高校時代、ノートに書いていた詩はモウレツに暗かったし、無意識に人が隠している裏側、暗い部分を探り当てて、「嘘つかれた、裏切られた!」とか傷ついたりしているようなところがあったから。そういうネガティブな想いをエネルギーに替えてエンターテイメントをつくる松尾さんのスタイルが、気持ちよかったのかも知れません。

──松尾さんのゼミでは、どんなことを学んだのですか?
 4人1組くらいに班分けし、1週間で15分くらいの作品を皆でつくるようなワークショップをやっていました。その過程で「やりすぎ、なんか嘘っぽいんだよな」と言われる何気ない一言で、「やっぱり内面が大切なんだ」と気づかされたり。松尾さんは、あまり直接的に指導するようなことは言わないんですけど。
 それから、大人計画の『ふくすけ』という作品にゼミ生として参加しました。約1カ月プロの芝居づくりを近くで見られた経験はとても大きかったです。台詞をもらえていたのに、稽古中に勢い余って足を骨折し大泣きしたりもしました。松尾さんは、松葉杖をついたままで出来る役を、新たに書き足してくださった。その場で起こることを上手く反映して芝居に仕立てるのが上手いんです。

──そうして1999年5月に自ら主宰して「はえぎわ」を旗揚げします。
 ENBUゼミで一緒だった人たちと「もう少し一緒に何かやりたい」というのがあったのと、単純に「自分のやりたい演劇をやりたい」という気持ちも大きかった。最初はユニットみたいな緩い集団だったんですが、稽古場や劇場を借りるため劇団名が必要で、なんとなくつけたのが「はえぎわ」という名前です。今となっては、誰がつけたかも名前の由来も分からないんです(苦笑)。

──旗揚げから年末までに3作品を発表するという、スタートダッシュでした。当時はどんな芝居がやりたかったのでしょうか。
 創り手としては、いかに奇想天外な展開を思いつけるかに喜びを覚えていた気がします。大事なのは展開するアイデアと、それをどうやって舞台で具体的に見せるかということ。「こんなこと、まだ誰もやったことないんじゃないか?」と、新作の度に盛り上がってました。実際は、本当に自分しかやってないことなんてないんでしょうけど。
 でも当初は、役者として出ているボリュームが大きかったですね。裏主役みたいな役どころでしたが、俳優として自分がやりたい役を劇作家として書いていたところもありました。役者としての欲はあるのですが、最近は戯曲や稽古場での芝居づくりに追われいて出演する割合はすごく減っています。

──ノゾエさんの戯曲執筆スタイルはどういうものですか?
 劇団員はもちろん、出演してくれるメンバーは割と決まっているので、役者に対して当て書きすることが多いです。あと、見たい「絵」が先に浮かぶことが多くて、それを成立させるためのシーンや物語を、後づけすることも少なくありません。第2回公演『人肌と花汁』(1999)は「逆さ釣りになっている女の子」という絵からスタートしたし、第13回公演の『フラッシュアーアー恋せよ乙女』(2004)は、「揺れる舞台にして地震を表現できないか」という興味から、人力で揺らすことのできる舞台を造り、ラスト40分近く揺れながら演じる、ということもしています。車酔い状態になったお客様もいましたけど(笑)。
 いまだに変わらないんですが、戯曲のテーマは最初からは定められなくて、書きながら後でみつけることが多いです。

──中期の『フラッシュ〜』では公衆トイレと引きこもり部屋がでてきますし、近作の『鳥ト踊る』(2009)では扇風機しか見当たらない小部屋、『春々』(2010)では複雑に椅子を積み上げた砦のような場所、『○○トアル風景』(2011)では別れた同棲中の男女がそれぞれに落ちる「穴」など、ノゾエさんの作品には「外界から隔絶され、閉ざされた空間」がよく出てきます。
 そうかもしれません。僕、隔離された空間というか、どうもトイレには執着があるみたいです。『ガラパコスパコス』(2010)では、黒板に間取りや家財道具なんかを書き込んで部屋を構築していくんですが、主人公にまずトイレから書かせているんです。トイレはひとりでいる場所なので、普段、他人と一緒にいるときには見せない「素」がある。そういう「他人には分からない姿が見える場所」は好きですね。隔絶された空間にしても、例えそこに逃げ込んでも、外からガンガン働きかけられて引きずり出されたり、結局は出ざるを得なくなる。でも、そこでのやりとりに、僕は光や希望を見出したいと思っています。人間はやはり、一人で閉じこもったままでは生きていけない、誰かと関わることも大切なんだ、と思います。

──確かに、ノゾエさんの作品の登場人物は、不器用で気弱で、ネガティブな思考の持ち主が多いですが、その割にはエンディングが希望的な作品が多いです。
 僕の作品には、自分が好きなキャラクターしか出てこないというか、嫌いなキャラクターは書けないんです。どんな悪役にも、必ず愛せる部分を見出したうえで書きたい。たとえば街中でちょっと肩がぶつかっただけでわめき散らす人を見たとき、「この人も好きな人の前では笑うし、意外に可愛いパジャマを着てるかも」とか想像するし。勝手に人の暗黒面を探り出していた高校時代からは真逆なんですけど(笑)。

──「はえぎわ」13年間の活動のなかで、転機と感じた出来事や作品はあったのでしょうか。
 正直、まだ僕には何かが確立できたという実感はないので、転機がいつかとか振り返ることはできませんが、宮城聰さんがプロデューサーをされている「アジア舞台芸術祭」(2009年)での国際共同ワークショップは大きな経験だったと思います。ソウルとマニラの俳優さん、普通の主婦の人も混じっていて、言葉も通じなければこれまでの創作方法が全く通用しない。成果発表の本番に字幕もつけられない状況でしたし。観に来る方も僕の芝居を知らない人が多いわけで、そういう人たちと舞台を介して何が共有出来るのかを考えざるを得なかった。その結果、舞台では言葉を越えた普遍的な感情の流れや動きを見せられる、ハートは共有できるというのを発見をしました。それ以来、海外でも公演をやってみたいという気持ちがはっきりとしてきました。それで、『ガラパコスパコス』など、自作戯曲の英訳も少しずつ進めているところです。
 もうひとつ、世田谷パブリックシアターのアウトリーチ・プログラムで、高齢者施設への訪問公演のために『チャチャチャのチャーリー〜たとえば、恋をした人形の物語〜』という作品を創らせてもらったことも大きかった。40分ほどの四人芝居で、操り人形が人間の女の子に恋をするという、僕にしては素直なファンタジーです。いつも通りホームで過ごしている方たちのレクリエーションの一環で上演するので、言葉の届かない方もいれば、本当にさまざまな状態の観客がいる。そういうところで何が届くのか、上演する度に作品のどの部分が残るのかすごく考えさせられるんです。と、同時にこちらが想像もしていないほど涙を流して喜んで下さる方や、その様子を見て喜んでいるご家族もいらっしゃる。
 その二つの創作は、演劇について考えたこともなかったことを僕に気づかせてくれました。

──ピエロのアルバイトをする青年と痴呆の始まった老女が出会う『ガラパコスパコス』は、高齢者施設公演での体験から生まれたそうですね。
 はい、その時に感じた名状しがたい感覚を作品に転化したいと思って取り組んだのが『ガラパコスパコス』です。「老い」というものにマイナスだけでないイメージを見い出せないか、老化は退化ではなく、変化の先にある進化として括れないものか、ということを考えていました。自分も含め誰もがいずれは「老い」に入っていくわけで、それをマイナスなイメージだけで片付けたくなかった。実際にお会いした入所者の方たちを見ていても、哀しいだけの現象じゃないと僕は思いましたから。

──『ガラパコスパコス』や『春々』を観ていると、他者との関係を壊すことをおそれて登場人物たちが自分の中に抱え込んだままの心情(本音)を、逆にそのまま台詞にすることで突破口が開かれていくように見えます。ノゾエさんならではのオリジナルな劇作法にも思えるのですが、そうした意図はありますか?
 なるほど、指摘を受けて気づきました(笑)。『春々』では、心情をぶちまける男の役を設定していて、彼に託して自分がスッキリとしていたのですが…。『ガラパコスパコス』ではそうした心情の吐露が絡み合っていくような感じになっているし、そういう会話が好きなんだと思います。
 でもまだ「ノゾエと言えば、はえぎわと言えば」みたいな特徴づけをしたくも、されたくもないという気持ちがあります。見つけられる限りは、新しい方法、新しい表現を探し続けたいし、実際、僕も劇団員も一作ごとにどんどん変わってる。毎回稽古場でのモチベーションも違うし、趣味趣向も変わるので、今はそこに正直に作品をつくりたいと思っています。

──最新作の『I`m (w)here』は、どのようにつくられたのですか?
 最初に戯曲を書くわけではなく、自分の構想を稽古場に持ち込み、それを役者たちに動いてもらったり、エチュードで膨らませたりしながら小さな発見を重ねてつくっていく感じです。そういう作業にかける時間が多くて、アイデアがある程度定まったら、改めて一人で具体的な戯曲を起こしていきます。指針は、「少しでも面白くないと思ったら絶対にボツにする」こと。あきらめが早すぎて、もう少し粘っても良かったかなと思うときもあるんですが。
 それと最近は、劇空間を言葉と身体だけで埋めたいという思いが強くなっていて、美術はシンプルに、表現方法はどんどんアナログになっていっています。原始的と言ってもいいくらいなっていて、たとえば美術は「ノートから破りとった紙だけでつくる」みたいなことを考えたりしていますね。

──「面白い・面白くない」の基準はどこにあるのですか?
 ……フィーリング、とか生理としか言いようがない(笑)。ここまで話してお分かりだと思うんですが、僕は自分のこと、作品のことをあまり分析できていないんですよね。だから創作法や、自作を言葉で説明するのが難しくて。その分、自分の感覚に対しては絶対に嘘をつかず、ブレないようにしていたいと思っています。
 ただ、毎回アプローチが違うので公演が終わっても「やりきった!」という満足感がないんです。ある意味、報われない作業の繰り返しをしてるなと思います。だからなんですかねえ、僕の作品には「報われないけど挫けない人」が、よく登場するんです(笑)。

──そういう登場人物の特徴を含め、ノゾエさんは自分の育ってきた環境、そこで培われた人間観、人間関係の構築の仕方、物事の見方などが、ご自身の作品に影響を与えていると思われますか?
 うまく反映しているかどうかまでは分かりませんが、全部を反映していたいと思っています。自分の人生は自分にしかないもので、そこから生まれてくるものが創作において最もオリジナルなものだと信じたい。誰ともカブらない自分だけが積み重ねてきたもの、蓄積してきたものを全部踏まえたうえで、表現者として立っていたいと思うんです。
 実は僕、同じことを役者にすごく求めていて。最終的には自分とは違う、架空のこの人物や言葉を表現することになるかも知れないけれど、「どんなに遠い役でも根っこには貴方自身を残して」とよく言っているんです。「それがここにいる理由、貴方が一番輝ける部分になるはず」だと。スキルで表は塗り固められていても、芯にはその人そのものが残っていて欲しい。同じように劇作家として、演出家として、俳優として、自分の人生を全部引っくるめて糧にしたうえで表現者として存在したいと、今は特に思います。
 
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