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宮城聰
宮城聰(みやぎ・さとし)
1959年、東京都生まれ。演出家。静岡県舞台芸術センター(SPAC)芸術総監督。東京大学で小田島雄志・渡邊守章・日高八郎各師から演劇論を学び、90年ク・ナウカ旗揚げ。国際的な公演活動を展開し、同時代的テキスト解釈とアジア演劇の身体技法や様式性を融合させた演出は国内外から高い評価を得ている。2007年4月、SPAC芸術総監督に就任。自作の上演と並行して世界各地から現代社会を鋭く切り取った作品を次々と招聘、また、静岡の青少年に向けた新たな事業を展開し、「世界を見る窓」としての劇場づくりに力を注いでいる。代表作に『王女メデイア』『マハーバーラタ』『ペール・ギュント』など。04年第3回朝日舞台芸術賞受賞。05年第2回アサヒビール芸術賞受賞。
静岡県舞台芸術センター(SPAC) http://www.spac.or.jp/
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Artist Interview
2012.10.29
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Theater as a Window to the World   Satoshi Miyagi leads the reborn SPAC  
劇場は世界を覗く窓 宮城聰率いる新生SPAC  
国内外の人々が長期滞在して舞台芸術の創造に取り組める施設といえば、日本では、30年以上の歴史を有する富山県利賀芸術公園と今年15周年を迎えた静岡県舞台芸術センター(Shizuoka Performing Arts Center:SPAC)である。いずれもスズキ・メソッドで世界的に著名な鈴木忠志が主導して、利賀村(現・南砺市)、富山県、静岡県といった関連自治体とともにつくり上げたものだ。稽古場と宿泊施設の整った創造環境、屋内・野外劇場の上演環境がそれぞれ充実しており、国際的な舞台芸術フェスティバルを開催していることでも知られている。特にSPACは、劇場などのハードだけではなく、俳優、舞台技術・制作スタッフも抱える日本初の公立芸術組織である。その芸術総監督を2007年に鈴木から引き継いだのが宮城聰だ。主宰していた劇団ク・ナウカでは演出家として、人形浄瑠璃のように俳優の動きと言葉を「ムーバー」と「スピーカー」に分け、二人で一役を演じるスタイルをつくり出し、海外でも高く評価されてきた。SPACの2代目芸術総監督に就任にして6年目。鈴木路線を継承しつつ、独自の企画も軌道にのせている宮城が目指す公立劇場運営と創造集団での創作について聞いた。
聞き手:山口宏子[朝日新聞]

──まず、日本では破格の規模と内容を有する静岡県舞台芸術センター(SPAC)の体制と組織を紹介してください。
 財団法人静岡県舞台芸術センターは、専用の劇場や稽古場を運営しているだけでなく、俳優、舞台技術・制作スタッフを抱えている日本初の公立文化事業集団です。
 専用施設としては、東静岡駅横にある磯崎新設計による馬蹄形の静岡芸術劇場(最大401席)、それから日本平という山の中腹にある舞台芸術公園内の野外劇場・有度(約400人収容)、室内劇場・楕円堂(約100人収容)、稽古場や宿泊棟などがあります。そこで俳優、技術スタッフ、演出家、制作スタッフなどが日常的に創造活動をしています。
 これらの施設は静岡県が設置した公立施設なので、設置条例によって詳細が定められていますが、こうした創造集団(芸術局と呼ばれている)の存在についても、この施設がその専用施設であることも明確に条例上で定められています。日本の場合、劇場というハードはあっても創造集団を有しているところはほとんどなく、ましてやその専用施設であるケースは皆無です。こうしたことは初代の芸術総監督である鈴木忠志さんが日本のあるべき公立劇場の姿を示すべく県と交渉されて実現されたことであり、極めて先駆的な事例だと思います。
 俳優や演出家だけでなく、照明、舞台美術、音響、衣裳のアーティストも若手ではありますが所属しています。もちろん、みんな静岡在住です。ヨーロッパの公立劇場はこうしたスタイルの方がスタンダードですから、SPACはワールド・スタンダードに近い日本で唯一の劇場だと言えるでしょう。

──俳優やスタッフは、どのような契約で働いているのですか?
 前芸術監督時代には、芸術総監督との間で3年間の契約を個人事業主として結んでいました。プロ野球選手のような請負契約です。僕に代替わりしてから、契約期間の3年という縛りをなくして、期間は個人事業主との話し合いで決めることにしました。とりあえず1年在籍して、改めて考えたいという人には1年契約で了解しています。俳優の契約期間はもっとフレックスで、3カ月契約し、間を空けて再度3カ月契約し、年間6カ月所属、ということも認めています。現在SPACの芸術局には、通年契約者以外も含めて90人ほどが所属しています。
 ちなみに芸術総監督の契約期間は3年間で、財団の理事会が選任し、財団と契約を交わします。僕は非常勤契約です。前芸術総監督の時代は、芸術総監督の権限として人事権と予算執行権がありましたが、仕組みが変わりました。僕は芸術総監督としてそうした権限はもっていませんが、芸術総監督に就任したときに財団の副理事長にも選任されているので、副理事長として人事権と予算執行権を担保しています。来年度から組織が公益財団法人になるため、また契約は変わると思いますが、人事権と予算執行権は担保されるはずです。

──国内でそこまでの権限を持つ公立劇場の芸術総監督は他にいないと思います。前芸術総監督から、どのような形で引き継いだのでしょうか?
 鈴木忠志さんからお話をいただいた時には、正直驚きました。まさかお辞めになるとは思っていなかったので。実は、僕はSPACがスタートする以前、利賀芸術公園の運営に若手演出家のグループ【P4】の一員として関わらせていただいていたので、鈴木さんが計画や夢を語られている時期にお話を聞く機会があり、僕なりに共有できていたものがありました。それで、就任するにあたって鈴木さんがSPAC在任中になさったこと、やり残したことは何かを考えることができました。
 僕が思うに、鈴木さんは、SPACで世界レベルの作品をつくり、10年かけて作品のクオリティによる一点突破で、静岡とSPACの名を世界に広めることに集中していらしたと思います。だから僕がやるべきこととしては、まず、SPACのアイデンティティとして世界レベルの作品を創造し続けなければならない。と同時に10年を経て第2期に入ったSPACは、少し単純な言い方ですが県民の支持を得るような、劇場としての裾野を広げる活動もしなければならないと思いました。
 とはいうものの、当初は、SPACのメンバーの多くは前芸術監督時代からの契約でしたし、芸術総監督として僕ひとりが入れ替わった状況で、前例もないしどうすればいいのかサッパリわからなかった。創造集団の舵を取る取る演出家が、芸術的に違う志向を持った人間に変わる、既存劇団を引き継ぐとは果たしてどういうことなのか、と。
 しかし、考えてみるとオーケストラや一般企業などでは、中核メンバーをそのままにトップだけが変わることなど珍しくもないわけです。それでも、僕だけでなく俳優や制作スタッフまで、全員が手探り状態で対処していきました。当時は、僕がSPACを引き継ぐのに相応しい何かを持っているとしたら、それは「我慢が利くことだ」と自分に言い聞かせていましたね(笑)。

──就任直後は、それほど不自由なことが多かったのですか?
 演出家は、自分のビジョンをどうすれば実現できるのか、どうやって作品の形にするか、それができる組織をつくることに精力を傾けます。あちこちから集まり、バラバラの方向を向いている俳優やスタッフに集団としての指針を与え、自分の見たいものを効率的にピュアに追求する組織を17、8年かけてつくりあげたのが、僕にとってのク・ナウカです。
 僕とそういう共有認識が全くない組織の芸術総監督を引き継いだのですから、意図や言葉がスムーズに通じなかったりするのは当然だと思います。でも、そういう共有認識をもった組織をつくり上げていけるのが、演出家の職能のひとつだと僕は考えています。演出家にはそういう能力があるということを証明して、演出家が活動できる場をもっと広げていきたいという思いもありました。

──公立劇場での仕事の際に、芸術家が行政側の担当者と共通言語が持てなくて苦労する、という声もよく聞きますが、いかがでしたか?
 それを苦労だと思ったことは全くありませんでした。海外のフェスティバルなどに参加した際、フェスティバル・ディレクターを務める演出家たちの仕事をずっと見てきましたから。記者会見の席で記者から予算編成について株主総会のように細かい質問を受けても、彼らはきちんと答えていました。またそのことが新聞に「よくやっている」など、ちゃんと評価されてもいた。演出家の仕事は芸術的評価の高い作品をつくることだけではないと、その時点で認識が改まっていました。

──SPACのメンバーはかなり入れ替わたのですか?
 俳優は、僕が就任してしばらくしてから、本当は自分がどういう芝居をしたいのかがわかってきたようでした。鈴木メソッドを基本にしつつも、別の世界観を新しい芸術総監督と一緒に追求したいと思う人もいれば、鈴木さんが求めた世界観の実現こそ目指すところと気づく人もいた。結果、2年くらいで進路を見極め、SCOTに移籍する人、残る人、と分かれていきました。全員が入れ替わったわけではありませんが、そういう芸術的な方向性とは別に、3年くらい所属して辞めるという人の流れは常にありました。

──「裾野を広げる」ことを課題として掲げられたそうですが、そのために、どのような事業を始めたのでしょう。劇場の運営方針も含めてお話いただければと思います。
 初年度に立ち上げたのが、小学6年生から高校2年生までの子どもたちを対象に、夏休みに芝居をつくる「シアタースクール」です。現在も継続中で今夏で6回目になります。この企画が間違っていなかったという手応えが、僕にとってかなり大きな経験になりました。
 応募者の中からオーディションで40人を選ぶ予定だったのですが、倍近い応募があり、結局ほとんど落とすことができませんでした。子どもたちを前に、僕は、リレー競走を例にして演劇についての例え話をしました。競走だったら足の速い4人を集めてチームをつくったほうがいいけれど、リレーを題材にしたお芝居をつくるなら、足の速い人、遅い人、怪我をして走れない人までいろいろな人がいたほうが面白くなる、と。そしたら、自分の言葉が嘘になるので子どもたちを落とせなくなったんです。Wキャストにして、昼夜2組別の芝居をつくるという大事になってしまいました。
 親御さんたちに稽古を公開したのですが、それも面白い結果をもたらしました。最初は自分の子どもだけを見ていたのに、群舞の中で飛び抜けて身体のキレる子、どうしてもワンテンポ遅れる子など、いろいろな子どもがいることが面白いと、親御さんたちも感じるようになってくるんです。もちろんそういう芝居づくりをしているからなんですが、そういう多様性の面白さを、特別演劇に興味のない人たちが自然に感じ取るようになった。演劇に限らない、芸術が持つ多様性という魅力が普遍的なものであることが証明され、僕がSPACで仕事をすることの意味はここにあると背中を押してもらったような気持ちになりました。
 前近代の劇場が、みんなが一つの価値観を共有していることを確認して安心する場所だったのに対し、近現代の劇場には実に多様な人々が集まってくるわけです。お互いの出自も知らぬ人間が集まって街をつくっていますから。その縮図として、劇場は、いろんな人間、多彩な物の見方をひとつの盆に乗せて、「これはこれで結構笑える状況だよね」と、現代社会をどう楽しむかを学ぶ場所になったのではないか──シアタースクールによって自分の中にあったそんな理屈が証明され、迷いなく明言できるようになりました。

──SPACには「スパカン ファン」という子どもたちのダンスカンパニーがありますね。それはシアタースクールのダンス版ですか?
 関係はありますが別の企画です。シアタースクールでは作品そのものの価値より、舞台に立ってもらうことで劇場や舞台の機能を知ってもらうことを主な目的としています。かといって個々の出演者に対してのリクエストを低くする、ということではありませんが、この枠組みでつくられた作品が世界に通用することを目指してはいません。ただ、この企画に参加した出演者の中に「芸術家という人生を選んでみたい」と思う子がいても不思議はない。その時、子どもたちの選択のためのルートをSPACが持っていないのは惜しい気がしたんです。スクールだけでは、芸術家への道を志す子は結局東京に流出し、ユニークな人材が東京に集まるというこれまでの流れが繰り返されてしまう。ならばこの劇場で、作品のクオリティとしてもいきなり世界レベルのものを若者たちと目指してみたい、と思ったのがスパカン ファンの始まりです。
 お手本はサッカーでした。ご存知の通り、静岡はサッカーが盛んで、選手たちは東京を経由せず静岡からドイツやイングランドへ行き、また帰ってくる。同じことを芸術でやるとしたら、どんなことが考えられるだろうか。演劇は言語の問題があるので、コンテンポラリーダンスのような身体表現なら世界への壁を越える可能性もあるのではないかと思いました。
 この事業は限られた予算でできますし、他の公立劇場でもその気になればできる。話しながら思い出しましたが、就任当初、裾野を広げること以外にもうひとつ考えていたのが「他の公立劇場に真似してもらえるようになる」ことでした。鈴木さん時代のSPACは誰にも真似できないような突出した劇場として捉えられていたと思います。でも僕の代からは、「宮城ができるんだから他の人にもできるでしょ」と公言して憚らないし、どんどん真似してもらいたい。そのためにどのように考え、つくっているかが外から判るよう、さらに事業の透明性を図っていかなければならないと思っています。

──まず、劇場と子どもたちとの関係を深めることで、劇場をどのような場所にしたいと考えていますか?
 劇場をどんな場所にしたいかを考えたとき、海外で観た「良い劇場」のことを思い起こします。公演中でなくても、街なかになくても人が自然と集まり、劇場で働くすべての人が芝居を愛している。後者は僕が来る前からSPACには備わっていたことですが、前者のような場所になるためには子どもたちとの関わりがとても大切になってくると思います。「牛に引かれて善光寺参り」ではないけれど、漏れなく親御さんも足を運ぶことになりますし(笑)。
 子どもたちに少しでもSPACと関わりをもってもらうために、中高生を静岡芸術劇場に招待する鑑賞事業にも力を入れています。鈴木さんの時代にも静岡県の事業として中学生鑑賞事業を始めていて、年間5〜10ステージほど招待していました。でもそれで県内の中学生の一体何割が舞台を見られるのかを計算したら7分の1くらい。これは公立劇場としても、機会均等の考えからもバランスを欠いています。それで、せっかく県立劇団のようなものがあり、静岡の学校に通っているんだから、一度は「SPACの劇場でSPACを観た」と言えるようにしたいと思いました。
 改めて県内の中高生の人数を調べたら1学年当たり3万人余でした。その人数を1年間に招待することを目標にしました。確率で言えば6年間の内1回はSPACを見られることになりますが、静岡芸術劇場のキャパが最大401席なので先生の引率なども考えると100ステージくらい必要になる計算です。今まさに道半ばで、今年度で約1万5千人、ステージ数に換算して60数ステージの鑑賞事業を行う予定です。子どもたちが帰宅して、「今日は劇場に行ってきた」と家族で話す……今はそこまででしょう。でも、20年後には「お父さんが見た時は『ロミオとジュリエット』だったよ」などと話ができるようになるはずで、そこまでいくと土壌が変わり、親子で演劇の話ができるようになると思うんです。
 遠大な話になりましたが、1年で1万5千人の中高生が演劇を観るという数はバカになりません。この鑑賞事業の最後に、司会を務める制作担当者が、「将来劇場の仕事がしたいと思った時、静岡にはSPACがあることを頭の片隅に覚えていてください」と言うんですが、劇場が職業として選びうる場だと伝えられる、選択肢として「こんな仕事もある」と知ってもらえるだけでも、彼らの学校生活や進路に関する考え方に風穴が空けられると思っています。
 先ほども言いましたが、劇場は人間の多様性を受け止めるシャーレのようなもの。周りに上手く合わせられず、空気も読めない「孤独な魂」は、劇中の登場人物としてだけでなく、この劇場のなかに生身で存在している。身近な大人とは違っても、そんな生き方を選んだおじさん・おばさんがここにいると、一人でも多くの子どもたちに伝えたいんです。

──SPACでは春と秋の年2回、演劇祭が開催されてきましたが、春のフェスティバルは2年前に「Shizuoka 春の芸術祭」から「ふじのくに⇄せかい演劇祭」にリニューアルしました。宮城さんと同世代のアーティストの招聘が増えるなど、「宮城色」が濃くなっているように感じます。
 鈴木さんの時代は、リュビーモフ、ムヌーシュキン、ブルックら世界の巨匠として押しも押されぬアーティストが友情参加している印象でした。でも僕と同世代のヨーロッパの演出家たちは、「そろそろ俺たちの出番だろう」と思っていたし、僕自身も世代交代に共感するところがあった。当初はク・ナウカの海外公演で交流してきた蓄積もあったので、そうした次世代のアーティストを春の芸術祭のプログラムに徐々に加えていきました。でも僕が就任して5年目の2011年、僕の仲間のオリヴィエ・ピィもそうですが、当たり前のようにヨーロッパの第一線で活躍するようになり、本格的に世代交代しようと思い、名称も改めました。
 「ふじのくに⇄せかい演劇祭」では、演劇で静岡と世界を繋ぐことをやりたかった。素朴な言い方ですが、世界にはいろんな環境で演劇をつくっている人たちがいることを知ってほしかった。それは、第三世界と呼ばれる国の演劇祭に数多く参加した経験から、どんな場所にも演劇人がいることを僕自身がよく知っていたからです。演劇祭に集まるさまざまな人、作品、表現にふれて、「世界は出来上がり切ってなんかいない。まだまだ変化の可能性や余地がある」ことを伝えたかった。劇場は世界を覗く窓なんだ、と伝えたかったんです。
 一見盤石に見えていた世界に芸術で裂け目を入れ、その先があることを見せたいと考えていたけれど、東日本大震災によって、地震や津波、原発事故で否応なく世界に裂け目が現れた時、今度は劇場が「いかなるときにも在り続ける場所」として価値があるんじゃないかと思うようになりました。それはスパカン ファンや、飴屋法水さんに現役高校生たちとつくってもらった『転校生』でも少し感じていたことでした。感激して泣きながら別れていく子どもたちを見て、「この子たちは今こんなに泣いていても、きっと何年か後には演劇のことも、劇場のこともすっかり忘れてしまう。でも、その後もSPACは変わらず在り続けることが、実は大切なんじゃないか」と。生や死など本来は人間の身近にあり、向き合わざるを得ないことを劇場が代わりに預かり、必要な時には見つめられるよう提供する──かつてのお寺のような役割が劇場にはあって、だからこそどんなときも、共同体のなかに在り続けなければならないのではないか。震災の時、そんなことを考えました。

──SPACから少し離れて、宮城さん個人のこれまでの演劇活動について伺いたいと思います。本格的に演劇に関わり始めたのは東京大学在学中ですか?
 大学にはやたら長くいたのですが、当時は演劇を仕事にするとは思っていませんでした。実験室とでも言えばいいのか……演劇を介して身体や他者との関係を探求し、自分が疎外されていると感じていたものとの苦い関係の回復を図っていくという作業だったんです。
 よく話していることですが、劇の三要素は「言葉」と「肉体」と「集団」です。この中で僕が比較的得意だと思っていたのは「言葉」で、それも「国語の成績が良かった」程度のレベルでしたが(笑)、「肉体と集団」に関しては非常に苦手と感じていた。何とかそれらとの関係を回復し、和解しようと実験を繰り返していたのが、大学時代に立ち上げた劇団冥風です。

──当時の東大には、野田秀樹さんの劇団夢の遊眠社がありました。宮城さんは東京教育大学(現・筑波大学)付属中学校に通っていた時に、付属高校の生徒だった野田さんの作品を観て影響を受けたと聞いています。
 影響を受けたというか、僕自身は高校演劇部時代から自分で物語を書くことにはあまり興味がなくて、戯曲はいつも他のメンバーが書いていたし。かといって演出に興味があったかといわれるとそうではないので。先に言った「肉体と集団」が和解すべき相手としてずっと眼前にあったので、(観察者として)人の芝居、演技をずっと見ていたわけです。そうしているうちに、芝居にまつわる物事が細かく見えてくるようになり、それが演出の道へと繋がったという流れだったと思います。俳優として出演していたのもそれがやりたかったというより、人が面白いと言うから一応出ているだけで、演じることが面白いというのではなく、用意しておいた料理を舞台上で振舞って帰ってくる、という感覚でした。
 それが20代も終わりに近づき、人生の真ん中に何を据えるか決めなければと思い始めた頃、知り合いのイベントプロデュースを手がけていた人が僕らの芝居を観て「面白いから宮城さんだけが出る芝居ならプロデュースしてもいい」と言われた。それで86年から一人芝居の企画「ミヤギサトシショー」を始めました。演出家の自分にとって、自分は何をやらせれば上手くいくか熟知した俳優なわけで、短期間でもそれなりのクオリティの芝居がつくれたし、自作自演だから食べるくらいはできた。でも、最初に言ったように「集団」は僕の和解すべき対象だったし、一人じゃできないものをやるのが演劇だろうという思いが募り、結局90年に改めてク・ナウカを旗揚げしました。

──ク・ナウカといえば人形浄瑠璃のように言葉と動きを分けた、スピーカーとムーバーによる「二人一役」のスタイルで知られていますが、方法論の確立までにどんな試行錯誤があったのでしょう。
 ク・ナウカは立ち上げ時から「二人一役」スタイルでの創作を行っていました。それは、一人芝居をやりながら舞台上で感じていた疑問から生まれたことでした。一人芝居の演技を組み立てる時、僕は台詞と身体で何をやるかを全く別々に考えていたんです。言葉は脳の半分を使って喋る。その時に身体と表情をどう動かすかはまた別の物として「ココは揃えよう、時には少しズラそう」と考えるわけです。右の車輪と左の車輪は独立して動くけれど、一緒に進むというか。そうして考え、演じているにもかかわらず、観客は言葉と身体がピッタリ一致した幸せな生命体を見るかのように僕を見ている。僕は引き裂かれた言葉と身体を、僕の中で何とかお見合いさせようと作業しているのに。これでは観客を騙しているのではないか、とすごく違和感を感じていました。
 だから新たな集団を立ち上げるのなら、そこでは言葉と身体が引き裂かれていることをむしろさらけ出す創作をしようと思った。それが「二人一役」という手法です。このことが後に、僕が演出家とは俳優が言葉と身体の関係を探求していく手助けする仕事だと考えるようになったきっかけにもなりました。
 「二人一役」で表現するのに適した作品を見つけるまでは試行錯誤しました。近代劇の祖であるシェイクスピアや、後に続くチェーホフなどより、愛情や憎しみといった明瞭にひとつの欲望を持ち、本人もそれに自覚的な登場人物が存在する『王女メデイア』などのいわゆる古典悲劇が最も適しているというのがわかってきました。それらの作品を通して、言葉と身体のズレや裂け目を垣間見せることで、どれだけ互いが互いを求めているかが見えてくる。人間は言葉を獲得したと同時に身体からはぐれ、世界とはぐれてしまった。その関係を修復し、和解するプロセスを演劇表現により探るのが、当時も今も変わらない僕の創作上のテーマです。

──ク・ナウカは、パーカッションの生演奏も特色の一つですね。
 ク・ナウカの最初の頃は、まず組曲みたいに曲の構成を決めて、その曲に台詞を当てはめ、その後で動きをつけるというやり方をしていました。ところが曲がきっかけになっているのに俳優の動きが揃っているように感じられなかった。どうしてだろうと思って見ていたら、お互いの身体を感じられていないからだとわかった。例えば、山海塾は一人ひとり違う動きをしていてもお互いの身体を感じているから揃って見える。
 それでお互いの身体を感じるためのトレーニングとしてパーカッションを始めました。最初は同じフレーズを叩いても、メトロノームからズレてないのにやっぱり揃って聞こえない。それが相手が求めていること、相手の欲望が感じられるようになると、叩いていて気持ちいいし、聞いてても気持ちよくなるんです。このまま舞台でやってもいいなと思ったので、少しずつ生演奏に変えていきました。パーカッションが叩けるというのは、俳優と同じように台詞を喋って動けているということ。パーカッションも台詞のひとつ、共演者として相づちを打っていることだと言っています。

──SPACでは、『夜叉ヶ池』などク・ナウカ時代と同じ創作法と、言葉と動きが一致した、いわゆる普通の演技の両方の演出をしていますね。
 一アーティスト、一劇団が世界で闘っていくためには独自の手法を先鋭化させることが必要です。しかし、静岡に唯一の演劇専門劇場としてどういう作品を上演していくかを考えると、それだけでは充分とは言えません。料理に例えるならばク・ナウカ時代は、蕎麦でもカレーでもいいですが、専門店として誰にも真似できない唯一の味をつくり出すことをやっていて、SPACではデパートの大食堂のようなスタンダードなメニューも揃っていなければいけない。どんなに美味しくても、カレーしかない食堂に通い続けてはもらえませんから(笑)。SPACに2、3年通っていただければ、演劇の教科書に載っているような一通りの作品、手法と出合えるようなプログラムにする必要がありますから、自ずと幅広い表現を追求することになります。
 「二人一役」の手法に関して言えば、SPACではこの手法の意味合いを広げる実験を行っています。最近の『グリム童話』シリーズなどがそれにあたりますが、一見すると言動一致の普通の演劇のように見えますが、「二人一役」でスピーカーとムーバーで分けていた作業を一人の俳優にやってもらっています。自分という器に声と言葉が入り、その結果、身体にどんな変化、ヒビが入るかを見せてくれ、というオーダーを出しています。

──宮城さんは最近、「詩の復権」と「弱い演劇」というキーワードを掲げて、新しい演劇論を展開しています。ク・ナウカ、静岡での5年間の経験を踏まえて、どのような新しい演劇が見えつつあるのですか?
 ク・ナウカ時代には、世界で闘える、世界で認められる質を持たなければ独立したカンパニーとして維持していけないと思っていました。それだけが唯一客観的に「この劇団は日本に必要だ」と思ってもらえる指標だった。それで、世界で通用する芝居をどうつくるかを考え、結果として俳句や盆栽、龍安寺の石庭や雪舟の絵のようなものを目指した。つまり作品の構成要素を減らし、その分、要素の一つひとつをものすごく強くしたんです。バトルフィールドを狭め、限定し、その分深度を深めるという言い方もできます。当時の僕は「強度」という言葉を世の中で使われているままに受け入れ、強度があるかないかによって作品の良し悪しを判断していた。実際ク・ナウカは、その考え方で一定の成果を出していました。
 でもその発想の根本には、西洋の、アレキサンダー大王の時代から変わらぬ物差しがあった。僕らが西欧の文明を移入する際、無条件で鵜呑みにした物差しが。ク・ナウカというカンパニーではその強度の呪縛、強さの檻を抜け出せなかったけれど、SPACというもう少し大きな盤面に乗ることで、その「強度」の呪縛から解放された新たな挑戦ができると思えてきた。そのことを言い表したのが、「弱い演劇」と「詩の復権」です。
 具体的には、強度という物差しに基づく「強い表現」──俳優であれば自分の肉体を自分の意識によって上手くコントロールし、強い台詞や演技をアウトプットする。それができるのが優れた舞台表現者だ──をひっくり返すことを試みていますが、その方法を考える際に持ち出したのが「詩」です。
 聖書の中で、ノアが方舟をつくる時に「ノアよ、舟をつくれ」という「声が聞こえた」と言います。それは彼が考えたのではなく突如頭の中に浮かんだわけです。文字ではなく音で浮かんだその言葉を、ノアはきっと自分の口に出してみたはずです。その言葉の意味や力は、ノアが口に出すまで誰にもわからない。それは、僕らが台詞を言うときのプロセスとは全く違う。台詞とは、その言葉にどれだけの意味と力があるかについてあらかじめ確信を持っていて言われるものだからです。意図的に見えなくするテクニックはあっても、俳優の自覚としては台詞の発語に明瞭な狙いがある。
 でも、そんな意識も意図も持たずにノアが口にした言葉は、翌日からノアの人格も身体も別のものに変えてしまうほどの力を発揮した。言葉には本来そういう働きがあり、それを持った言葉を僕は「詩」と呼んでいます。もしノアの周囲に5人の人間がいて、同じように浮かんだ言葉を口にしたなら、その5人にもノアと同じ変化が起こったはずで、僕は俳優と観客の間にも同じことが起こせないかと、今考えているんです。
 俳優と観客が同じように天から降りかかる言葉(詩)に打たれる。その言葉によって、パッシブに作り替えられてしまうような劇的な体験をする。それが西欧文化が振りかざす強度という物差しから逃れ、俳優が身体をコントロールするという枠組みから脱却した「弱い演劇」の目指すところです。そこには強くコントロールされた身体とは真逆の、降ってくる言葉のなすがままになぶられる脆い身体があり、俳優の欲望から解き放たれ尊重された言葉(詩)がある。
 とはいえ、この手法はまだ限りなく机上の空論に近く、実験としてもまだ2合目に行くかどうかという段階なのですが…。あまりに観念的でしょ(笑)。具体的には、台詞を覚えないで、プロジェクターで映しながらそれを口にするような訓練をやっています。

──宮城さんは、自身で演出するだけでなく、飴屋法水さん、タニノクロウさん、ノゾエ征爾さんら何人もの演出家をSPACに招き、個々の劇団では取り組めない規模の創作の場を提供しています。それは、演出家が新しい境地を開く機会になっていると思いますが、同様に、劇作家を育成することは考えていらっしゃらないのですか?
 僕からすると、劇作家は演出家に比べて世の中に創作の機会や場が多くあるように思えるんです。上演が無理でも、戯曲は全国どこにいても読めますし、本人の能力次第で世界のどこにいても一流の名作を生み出すことができる。
 一方演出家は、学生時代の仲間と立ち上げた劇団で10年も活動した先に何があるかと言えば、オーガナイズすべき場所、劇場にでも出合わない限り、進むべき道を見失って途方に暮れてしまう人が多い。だから劇場を持っている我々としては、演出家に自分の力を試す機会を提供したいし、演出家の仕事は創作だけではない、こういう場をオーガナイズすることも職能なんだというのを見てほしいと思っているんです。
 いくら良い作家が良い戯曲を書いても、優れた俳優が育っても、作品として立ち上げる演出家がいなければ多くの演劇はつくられぬまま滞ってしまう。演出家が仕事をすることで、連綿とした上演史に孤独で寄る辺ない表現者たちがその存在を記すことができる。そんな「救い」をもたらすことも、演出家の役割なんじゃないでしょうか。だから今後もSPACのいろいろな事業を通して、演出家のバックアップをしていければと思っています。
 
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