The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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市山松扇
市山松扇(いちやま・しょうせん)
1967年、東京生まれ。父・市山松翁(しょうおう)に師事。2歳7カ月で東京・新橋演舞場で初舞台、『勇肌神田祭』を踊る。1999年、同世代の日本舞踊家12人と「弧の会」を結成、代表になる。2004年七世市山松扇を襲名。2003年花柳壽応新人賞受賞。2005年芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。社団法人日本舞踊協会参与。
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『御柱祭(おんばしら)』
初演:2000年

御柱祭
御柱祭
御柱祭
御柱祭
『お燈(とう)まつり』
初演:2002年

お燈まつり
『はじめ式(しき)』
初演:2002年

はじめ式
『弧(こ)』
初演:2008年

弧(こ)
『オロチ』
初演:2008年

オロチ
『龍虎』
龍虎
『毘沙門』
初演:2011年

毘沙門
Artist Interview
2012.12.19
dance
The Konokai group of Nihon Buyo artists, seeking new forms of Traditional Japanese Dance  
日本舞踊の新たな形 「弧の会」が目指すもの  
日本舞踊には多くの流儀があるが、その流儀を超えた男性舞踊家12名が集まり、1999年に旗揚げしたのが「弧の会(このかい)」だ。「紋付袴」の正装による「素踊り」、「群舞」、「新作」をテーマにして日本舞踊の新たな魅力を追求する作品を発表し、センセーションを巻き起こしている。流儀も師匠も異なるが、全員が幼い頃から稽古を始め、研鑽を積み、それぞれの流儀を継ぐ若きリーダーとなった彼らが見つめている未来の日本舞踊とは? 弧の会結成の経緯や創作の方法などについて、代表を務める市山松扇さんに聞いた。
聞き手:奈良部和美[ジャーナリスト]
弧の会公演写真:夏生かれん

──弧の会のメンバーには、市山流、泉流、猿若流、西川流、花柳流、藤間流、若柳流の各流を背負うメンバーが、流儀を超えて参加されています。それぞれの流儀の活動と並行して、新しい活動を行う会を旗揚げされた経緯から教えていただけますでしょうか。
 弧の会を結成したのは1999年12月です。日本舞踊というと格式が高いというイメージが出来上がってしまい、日本舞踊離れが起きているのではないかという危機感が、私たち若い世代にはありました。プロの踊りを見たくてもどこに行けばいいか簡単にはわからないですし、習いたくてもお稽古代が高いのではないか、いろいろしきたりがあるのではないかなどと思われて足が遠のいてしまっているのではないか。このままでは、これから先、日本舞踊の伝統を繋いでいけるのだろうか。一人の力というのはたかが知れていますが、私たちの世代で何とかしなくてはならないと思いました。

──日本舞踊には「型」といわれる流儀ごとの独特な形や技法があります。それを守るために、師匠以外の稽古を受けてはならない、よその流儀の人と交際してはならないといった決まりがあると聞いたことがあります。流儀を超えるというのは大変だったのではないですか。
 昔は日本舞踊に限らず、剣道などでもよその道場の稽古は見るなと言われた時代があったようですね。しかし、そんな井の中の蛙ではいけないと、その後の方々が他の流儀の方との共演や交流の機会を広げてくれました。おかげで、私は子どもの頃から他流の同世代の方々と交流し、切磋琢磨してきました。そういう中で、日本舞踊の将来を危惧しているのは私だけじゃないと分かったんです。一人で出来ないことでも、私たちがスクラムを組んでやれば何とかなるのではないか。みんな20代から30代の前半だったので、若さの勢いも手伝って旗揚げしたのが弧の会です。名前は、一人一人の個(=弧)が集まってひとつの大きな円を作ろうとの願いを込めて付けました。
 日本舞踊の魅力を、未来を担っていく子どもたちや多くの方々に知らせたい。日本にはこんな素敵な綺麗なものがある。日本人だったら踊らないまでも、ちょっと知ってください、見てください、と伝える活動をフットワーク軽く、みんなでやろうと始めました。

──12人のメンバーはどのように集まったのでしょうか。
 家業として日本舞踊をやっている家の後継者ばかりで、子どもの頃から同じような環境で育っているので、大きな舞踊の会で顔を合わせるなど、同世代の舞踊家として親交がありました。ある時、メンバーのひとりである西川大樹君のお父様・西川喜之輔先生が、天王洲アイルアートスフィア(現・銀河劇場)で、クラシックバレエ、現代舞踊、日本舞踊などを交えた公演を企画されて、私も先生が振り付けられた群舞を踊らせていただきました。公演は何年か続き、今年は7人、次の年は10人と同世代の舞踊家が集められて踊ったのですが、先生から、せっかく集まったのだから何かやるといいねと言われ、それが「未来のために何かやろう」という大きな引き金になりました。

──皆さんを結びつけたのは、日本舞踊の未来のために何かやらなければ、という思いだったのですね。
 そうです。もともとそれぞれがどうにかしなければという思いを持っていたので、弧の会を立ち上げるにあたっては親よりも頻繁に会って、日本舞踊の現状についてなどお酒を酌み交わしながら話しました。
 日本舞踊には、長い時間をかけて培われてきた美であるとか、間であるとか、生活習慣や仕草がたくさん入っています。例えばテーブルの上にあるものを取る時に、着物の右袖が濡れるので左手で押さえるとか。この仕草が踊りでは綺麗なひとつの振りになっています。「所作」ですね。ところが、例えば棹で船を漕ぐ所作をしても、今の方には理解できない。船は棹で漕いでいませんから。キセルでたばこを吸う仕草をしても、何をやっているのかわからない。昔は普通の生活の中でよく見る光景だったのに、今では知識がないと日本舞踊は見てもわからないものになってしまいました。
 そういう状況や日本舞踊を未来に繋ぐにはどうすればいいかを話し合いました。お子さんや若い方が見て、何だかわからないけど格好いい、音楽に乗っていてステキだ、ああ楽しかったとまずは思っていただきたい。何か私たちの精いっぱい努力した力で感銘を受けてもらって、その方たちが次に本腰を入れて日本舞踊を見てくれたらうれしい。そういう入り口づくりも弧の会の役割だろうと確認しました。

──日本舞踊を家業とするお家で育ったとはいえ、松扇さんの世代ですと、今の子どもたち同様、棹で船を漕ぐ人やキセルでたばこを吸う人は見なかったと思います。教えられた時は、何だろうと疑問が湧きませんでしたか。
 当然疑問は起こります。そこが、継いでいくことの大事さです。こういったものは理屈ではなく体得するものなのです。きっと花道や茶道、柔道や空手も同じだと思いますが、昔の人は船を漕ぐとき棹を使っていたからこういう所作をするのだと知っているから出来るというものじゃない。教える側と教わる側が繰り返し触れ合って、体得するものだと思います。教える側にとっても、教わる側にとっても忍耐が必要で、時間の掛かることです。そこに真の継承が生まれる。
 私も父から家元を継ぐまでは実感が伴いませんでしたが、家元を継いで7、8年たった頃、娘が大きくなって踊りの会に出る稽古をしていた時に、いろいろと質問してきたわけです。その時、ああ、今度は私が継いだものを娘に渡して行かなければならないのだと、継承することの使命が分かりました。時間をかけて、本当に体得出来た時には、心や身体の動きから出る美しい表現は「言葉」になっています。正しく学べば、踊りは身体で喋る。私は、日本舞踊は世界共通語だと思っています。

──松扇さんは何歳からからお稽古を始めたのですか。
 初舞台が2歳7カ月、東京の新橋演舞場です。みなさんに「すごいね」と言われますが、当時は跡継ぎとしてやらされていた、ということです。稽古は、多分1歳7カ月ぐらいから始めたと思います。小さい頃のことで覚えているのは、怒られたところだけです。今は体罰禁止の時代ですけども、芸事にはある程度の厳しさは必要だと思います。怒られたことで「ああ、こうするんだ」と悟るのです。祖母が父の前の家元でしたから、二人から随分しごかれました。
 敷かれたレールの上に乗るのが嫌だと思ったこともありますが、自分が踊りを好きだと気づいた時には、よくぞやらせてくれたと感謝しました。本当に好きになったのは、高校を卒業してからですね。日本舞踊協会に入って、明日までにこれを覚えてこい、ここの踊りを創ってこいと言われて、無我夢中で走っているうちに、自然と好きになっていました。

──かつては優雅な立ち居振る舞いや礼儀作法を身に着けさせるために、多くの子どもたちに日本舞踊を習わせたものですが、そういった状況も変わってきたのではないでしょうか。
 残念ながら日本舞踊を習うお子さんが減ってきたというのは事実です。5歳や6歳の子どもが自分で「僕、日本舞踊を習う」と言うわけはないので、親御さんが子どもの将来のために稽古に連れてくる。それが、時代の流れでしょうか、ピアノを習わせたり、塾には行かせるけれど、日本舞踊を習わせようと思わなくなってしまった。食卓に花はあったほうが良いけれど無くても暮らせる、というのと同じようなものに日本舞踊がなってしまった。これが一番の問題です。
 しかし、国際化が叫ばれる現代にあって、自国の文化が分かってこそ、周りにも認められる存在になるのではないでしょうか。ですから、一人でも多くのお子さんのところに走って行って、踊りをしろとは言いませんから、1回は見てほしいと伝えたいと思っています。

──弧の会では、結成以来、男性舞踊家の群舞、しかも紋付き袴で踊る「素踊り」で新作を発表してきました。
 紋付袴は、日本舞踊家の正装、私たちのユニフォームです。素踊りなら特別な衣装を着ける必要がないので、どんなものでも踊れます。所作を変えれば一瞬にして何にでもなれます。弧の会では、特別な小道具も使わず、そうした素踊りによって自分の身体ひとつですべてを表現することをポリシーにしています。
 新作については、当たり前のことだと思っています。今私たちが「古典」と言っている踊りもそもそも新作だったのですから。私たちだけでなく、日本舞踊家は常に新作をつくっているのですが、自分のリサイタルで発表して終わりです。再演が少ないのは、私たちがリサイタルで踊る作品を『藤娘』『越後獅子』『供奴(ともやっこ)』『道成寺』といった古典に頼っていることも一因ですが、弧の会ではつくった新作が次の世代に受け継がれて「古典」と呼ばれるようになるまで頑張ろうと思っています。
 
──2000年に初演されてから再演を重ねている『御柱祭(おんばしら)』を拝見しましたが、これまでの日本舞踊とは違うダイナミックな踊りと演出の新しさに圧倒されました。『御柱祭』は長野県諏訪市の諏訪大社で行われる6年に一度の大祭に取材した作品です。6年ごとに神殿の前後四隅に、神の宿る高い柱を立てる祭りですが、柱の用材となる大木を山から伐り出し、神社まで運ぶ。その途中で山の急斜面を大勢の男たちが大木に乗って滑り落ちる「木落とし」と呼ばれる祭りのクライマックスがあります。舞踊『御柱祭』では、木の切り出し、木落とし、柱を立てるまでの様子を群舞で見事に表現されています。
 『御柱祭』は木落としの勇壮なシーンを踊りで表現するには一体どうしたらいいんだろう、というところから考え始めました。一番大事なのは、御柱祭のドラマです。美しく踊れたとしても訴えるものがなければなりませんから、ストーリー性と言いますか、物語は大事にしています。台詞で言えれば簡単なことですが、踊りで見せるわけですから、私たちが説得力のある動きをしないと見ている方には伝わらないので、そこが工夫の為所です。難しいようですが、肉体で表現することは人間の基本ですから。「こっち来て」「愛してる」「それちょうだい」とかは、どこの国の人でも仕草で分かる。私たちは舞踊家ですから、その仕草をどう美しく見せるかを工夫するわけです。
 作品を創るときは古典の技法を逸脱しないように、みんなで細心の注意をしますが、観客に感銘を与えようとすると逸脱も必要になることがあります。紋付袴はフォーマルウェアなので、舞台で引っ繰り返ったり寝転がったりしてはいけない。日本舞踊では声を出すなとおっしゃる先生もいらっしゃる。背中に扇子を差すなとか、いろいろやってはいけないことがあるのですが、『御柱祭』ではいくつも禁則を破りました。木落としを表現するために側転して2回ぐらい転がったり、腕まくりして「うおーっ」って叫んだり。あの先生にはきっと怒られるなと言いながら、「やっちゃう?」(笑)って、みんなで相談して創りました。でも古典の技法を身に付けた私たちが悩んで、慎重に一歩一歩創りましたから、変な逸脱はしていません。踏み外すということもしないと、新しいものは出来ません。
 メンバーの流儀が7つありますから、一つの作品を創るにしても徹底討論になります。例えば20分の踊りのうちの1分の場面をつくるのに3日ぐらいかかったこともあります。みんな1分ぐらいの振付はすぐに創れますが、流儀が違うし、今、メンバーは12名いるので、12の意見が出てしまう。「オレはこれだと思う」「いや、そんなわけがない」という闘いが始まって、1つ減り、2つ減り、3つ減り、残った振付も変化して…そうなると当然徹夜です。自分の流儀が違う視点で見られるのでその過程も面白いのですが、それが何日か続いて、やっと1分の踊りがまとまる。それは12の意見を削ったからこそ出来る、ひとりでは絶対に創れない踊りになっていて、私たち自身も驚くほどです。完成形は見えませんし、日々試行錯誤ですけれど、とにかく、走れるうちは走って、1回でも多く公演をして、一人でも多くの方に見ていただこうと思っています。

──現地で実際に祭りを見て、その時の印象を創作に生かすのでしょうか。
 はい、『御柱祭』は実際に現地に赴き、土地の方々から取材しました。『お燈(とう)まつり』という作品は和歌山県新宮市の火祭りがテーマですが、実際に白装束で祭りの中に入りました。

──山上にある巨大な岩をご神体にする神倉神社で、毎年2月6日に行われる春を呼ぶ祭りですね。手に手に松明をかざした2000人を超える男たちが538段の急な石段を一気に駆け下りる。
 メンバー4人で行きました。境内の門がバッと開けられると、一気に人が駆け下りる。急な石段を、月明かりを頼りに飛ぶように下るんです。救急車が何台も待機しているような危険な祭りです。私たちも一緒に駆け下りて、火の粉で火傷をしましたが、祭りの中に入って多くのことが分かりました。寒さに震えて、駆け下りる人混みの中で、みんながかざす火の熱さに当たって、「魂が本当に一度死んで、蘇るんだ」と思いました。その体験を踊りにしました。格好よく言うと、体験しなければ感動していただけるものは出来なかったと思います。『お燈まつり』は新宮市に委嘱されて創り、地元で初演しましたから、上っ面だけきれいにつくっても感動してはもらえない。公演後に寄った居酒屋でお店の方やお客様から「感動したよ」と声をかけられ、「よっしゃ」と思いました。

──古典の技法を継承する立場で、型を破っていくのは勇気のいる作業ですね。
 そうですね。先人が築き上げてきた古典の技法、教わってきたことを継承するのが使命なのは百も承知なんです。ですが、時代が違う。見るのは現代の人間です。古典の技法だけでは、踊りも時代に遅れていくように思います。現代の方に見ていただく踊りを、みんなで慎重に判断をしながら創ってきました。袴の裾がまくれるほど跳躍しますし、師匠や先輩からダメと言われたことを相当やっています。『御柱祭』では、自分たちが祭りに参加している気持ちで、命を賭けて御柱になる丸太に乗って急斜面を下り、落ちてもまた丸太によじ登るんだと念じながら踊っています。これを静々と品良くはできません。「ウワーッ」となるんじゃないか、というのが最終的に出した私たちの答えでした。この判断は一人ではできなかったと思います。弧の会で集まって本当に良かったと思いました。

──弧の会の活動を先輩方はどう見ているのでしょうか。
 いろいろ御意見を下さる方はいましたが、『御柱祭』は「よく創ったね」と褒められました。今までにないものだと思われたんでしょうね。批評家の方も認めてくださり、この作品で2000年度の舞踊批評家協会新人賞をいただきました。批評家の三枝孝栄先生が、受賞理由で「スタンディングオベーションが起こって止まなかったのは国立劇場始まって以来だ」と言われましたが、先輩方が私たちを認めてくださるようになった一つの理由が、このお客様の反応でした。客席から「アンコール!」の声が上がったのですが、他の舞踊家の方も出演されていたので失礼になると思い舞台に出なかった。そうしたら翌日、電話がかかってきて「アンコールって言ったら出てこい」って怒られました。格式を重んじるのも大事ですが、お客様と対話をする時代になったんだなと思いました。私たちがやっていることは間違いではなかった、とみんなで話しました。

──若い舞踊家さんも大勢いますが、みなさんに続こう、みなさんを超えようと考える方はでてきましたか。
 残念ながら、今は私たちのような団体は他にはないようです。生意気な言い方になってしまいますが、弧の会が拓いてきたものを次の世代に繋ぐのも私たちの役割なのかなと考えています。『御柱祭』は私たちが20代で創った踊りですから、跳躍も多くて体力的には踊れる年齢に限りがあります。メンバーは第一線でばりばりやっている人達ばかりですし、メンバーを入れ替えていくのか、どうするのかこれから考えていかなければいけない問題だと思います。

──弧の会の新作は、他にもいろいろありますが、どのぐらいのペースでつくっているのですか。
 毎年1作ぐらいは創っていますから、作品数は結構あるのですが、『御柱祭』を超えたと自分たちが思える作品はまだありません。そこが課題ですね。最新作は、北海道の函館市民会館40周年事業で創った『五稜の儚(ゆめ)』です。見ていただく方に喜んでもらうのが一番ですから、江戸時代に函館に造られた星形の城郭・五稜郭をテーマにしました。こういう地元に密着した題材で新作をつくることが多いです。

──音楽はどうされていますか。
 その時々で、自分たちが感銘を受けた音楽を使わせていただきます。『御柱祭』の場合は、太鼓グループの鼓童さんと関係のあるメンバーがいたので、使いたいとお願いしました。江戸時代に歌舞伎舞踊が流行した理由にもなった三味線音楽の魅力を若い人に知ってもらいたくて、幾つかの作品は三味線弾きの方に作曲を依頼しました。シンセサイザーが入ったような新しい曲を使うこともあります。誤解を恐れずに言うと、曲に乗って、ダンスとして見ていただける部分も大事だと思っています。

──演出や照明も皆さんで考えるのでしょうか。
 そうです。日本舞踊では「演出家」は確立した存在になっていません。日本舞踊と切っても切れない縁の歌舞伎がそもそもそうだったように、演出家を別に置くという形態がなくて、振付師が演出も衣装も照明もすべて担います。逆に言うと、今の振付師の方はそれらがすべてできるということです。ですから、私たちも12人で意見を出し合って、演出も照明の使い方も考えます。「ここはこうしたほうが良い」と言うアイデアをみんなもっているので、意見を出し合って、揉んでいきます。
 道具は使わないので、照明は多用します。『御柱祭』では明かりで柱を表現しました。舞台の真上から照明を照らし、木に見立てています。あとは私たち踊り手が身体で工夫して、お客様に想像していただくわけです。『御柱祭』は、照明でも日本照明家協会から賞を頂きました。

──この作品は何回ぐらい再演されていますか。
 約50回です。ここ十数年の日本舞踊ではもっとも再演回数が多いと思います。文化功労者の花柳寿南海お師匠さんには、明治の文豪・夏目漱石の小説を舞踊化した『吾輩は猫である』という作品があるのですが、それが100回近く再演されているのではないでしょうか。お師匠さんを抜けるような作品になれば素晴らしいなと思っています。
 再演すると、作品が磨かれていくというか、良くはなっていくように思います。みんなの呼吸が合ってきて、目をつむっていても、隣に誰がいて、こう動いたらこうなるというのが感覚でわかってくる。そうなると、みんなと一緒に踊ることが楽になります。まさに、日本人の阿吽の呼吸でしょうね。

──メンバーの方は流儀が違います。一緒にできないから流儀が違う、ということでもあります。一緒に踊るにはいろいろ調整が必要だと思いますが、どのようにしていますか。
 日本舞踊は、流儀は違っても出所は一緒のことが多くて、『藤娘』といえば藤を持って出て来るし、『供奴』は提灯を持って出て来るし、『越後獅子』はサラシを振るのが当たり前です。ということは、流儀は違っても古典はどこかで繋がっているわけです。けれど、例えば扇子をクルッと回す角度や回し方が微妙に違う。着物の袖口の持ち方も微妙に違います。私は袖口を3本の指でしっかり持ちます。この袖口をもつ手の形は扇子を持った時の手の形と同じで「わしぐち」と言います。そうやってしっかり持って袖から腕が出ることを防いでいるんですが、袖口を持たない流儀もあります。そういう違いがあるのに一緒に踊るのですから、どの手の形にするかで喧々囂々です。大学の教授がああ言ったとか、口伝によるとこうだとか話しが始まると、また一晩二晩じゃ終わらない。いくら話しても答えは出ません。
 初めの頃は、流儀の違いを超えて12人で合わせようとしました。今回は上げた扇子の高さを君に合わせよう。あなたはいつもより高くしてくれ、あなたはいつもより低くしてくれ、と。見ている方には、ラインが揃った方が美しく見えるから、有無を言わさず揃えたこともあります。それが付き合っていくうちに、それぞれが自分の一番格好良く見えるところでいいじゃないかと考えるようになりました。一人ひとりが、指先一本、角度まで合わせるのではなくて、流儀が違う、背負っているものも違うから、自分の一番格好良く見えるところでいいじゃないかと。「弧の会って扇子の位置がバラバラね」と言われることもありますが、敢えて揃えないんです。

──日本舞踊には、もともと「揃える」という発想はないのですか。
 日本舞踊は本来、背丈も太さも違う人間が大勢で合わせて踊るものではありません。群舞というものが出来たのがそもそも遅いですし、やはり個人プレーの踊りです。
 私たちは子どもの頃から稽古をしてきましたから、それぞれに板についた形があります。扇子を持つ角度や足の開き方、踊りの要素すべてに、それぞれの流儀があり、無意識に出来るほど体得してしまっています。寝ていても、扇子を持たされたらピッと位置が決まるほどです。それを、今日はこれぐらいに揃えようとなったら、なんか気持ちが悪い。12人を揃えるというのは至難の業です。素人さんのほうがよっぽど揃うと思います。
 もちろん、間は合わせます。ジャンプするのに、一人遅れたら、これはダメです。徹底的に、何十回も何百回もお稽古します。ただ、日本舞踊の流儀の味も大切だと思っていますから、本当に変わった団体だと思います(笑)。

──日本人でありながら、そういった日本舞踊の流儀の違いについてあまり知りません。
 それで、先日、流儀の違いを説明して欲しいと言われて、口で言ってもわからないので、猿若、若柳、花柳、市山の4流で、長唄の『七福神』を同時に並んで踊ってみました。簡単に言うと、音楽は同じですし、着物を着てお扇子を持つのも同じですが、振付が違う。振りの解釈も違う。間も違う。踊り口も違う。踊り口は説明が難しいのですが、踊りがつくりだす雰囲気でしょうか。歌詞は同じなので、例えば「釣り」と言ったらばみんな「釣り」の所作をするのですが、釣り方が違うし、鯛が釣れる流儀もあれば、逃がしてしまう流儀もあるし、扇を使って鯛を表現する流儀もある。この踊り比べは私たちでも面白かったですね。

──子どもたちのワークショップをされているそうですが、どのような内容ですか。
 いろいろなやり方がありますが、例えば、女の子は『元禄花見踊』、男の子は『供奴』などを題材にして踊りを体験してもらいます。もちろん我々がいつもやっている踊りをわずかな時間で出来るわけはないので、まず、日本人として基礎の基礎、和室でのお辞儀の仕方、姿勢、立ち居振る舞いを教えます。その後、摺り足などから入って、曲に乗せて一緒に踊る。そうやっていると、お子さんも短時間で『供奴』の一部が踊れるようになります。たぶん外国の方でもお出来になります。

──衣食住、生活のすべてが洋風になって、今の子どもたちは正座をしなくなりましたし、体形も手足が長くなって、日本舞踊が生まれた時代とはかなり変わりました。日本舞踊の美を伝えていく難しさを感じますか。
 日本舞踊には体形を補う技術があります。歌舞伎役者の方でも有名な日本舞踊家の先生でも、小さい人もいれば大きい人もいるし、女性もいればご年配の方もおります。お上手な方はそれぞれ自分の体の欠点といいますか、特徴といいますか、手が長いところ、足が短いところをわかっていて、補う技術があるわけです。私は手が分厚いのですが、ちょっと角度をつけて指を反らすことによって細く見せることができる。長い修練の中で培われるものだと思いますが、舞踊家にはみんなそういう技術があります。
 ですから体型が変わったからと言って日本舞踊の美を伝えられないとは思いませんが、足腰が弱いのは困ります。正座をしない、胡座をかけない、蹲踞をしない。「日本人は腰である」と言っていた時代は終わっていると思います。ですから、もう少し、学校教育で、腰が大事だ、正座が大事だ、ということを教えていだだければと思います。花道、茶道、空手、柔道…「道」が付くものを取り入れてほしいとつくづく思います。

──腰は日本舞踊の美しさの要になっているのでしょうか。
 そうですね。日本舞踊で言うところの「腰を入れる」とはどういうことなのか、どれほどの名人の先生でも一言では言い表せないと思います。膝を折るから腰が入るわけでもないですし、安定させるというか、地に根を張るというか。腰が入る瞬間というのは、例えば、相撲を見ていると、力士が持ち上げようとしても、相手力士が全く動かないことがありますよね。相手が急に重くなったように持ち上がらない。あの持ち上がらない力士が腰の入った状態です。あるいは水を満たした杯を持った時にはこぼさないように、クッとこう体の重心を落としてから歩きますよね。あれも腰の入った状態です。言葉ではなかなか説明が付きませんが、農耕民族であった日本人には自然と身に付いてきたものです。
 「腰を入れる」もそうですが、日本人が日常の仕草や動作から作り出した美しい振りがたくさん入っている日本舞踊を未来に繋ぐとともに、もっともっといろんな方に見ていただきたい。外国の方はどういうふうに見てくれるか知りたくて、20代前半にいとこと2人でヨーロッパに行き、ツテを頼ってパリ日本文化会館や、ケルンの学校のロビーなどいろいろなところで踊りました。その気持ちは今も変わりません。一人でも多くの方に見ていただいて、日本舞踊の良さを実感していただきたい。弧の会はそのために活動しています。

──来年は結成15周年ですが、記念の公演や海外公演など考えていることはありますか。
 10周年の時は、大きな節目で東京の国立劇場で記念の会を昼夜2回いたしました。15周年の記念公演を考えましたが、自分たちの流儀の仕事がありますし、弧の会を呼んでくださるところがたくさんあるので、できるだけ出かけていって踊りたいと思っています。
 踊りを創る、踊りを踊るということにかけてはみんな命懸けでやっていますけど、実は弧の会としては海外公演をしたことがありません。海外の方が弧の会の素踊りの群舞を見てどう思われるか、本当に反応を知りたいです。これは弧の会のポリシーのひとつですが、お客様と近くなる、心を通わせるという意味で、幕間に解説を入れています。海外でもそうした工夫をして、日本舞踊の良さを絶対に伝えられる自信があります。オリンピックの代表選手になったつもりでまいりますので、お声掛けいただければと思います。
 
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