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沢井一恵
沢井一恵(さわい・かずえ)
箏曲家。1941年、京都生まれ。8歳で宮城道雄に入門。63年東京芸術大学音楽学部卒業。79年、夫の沢井忠夫と沢井箏曲院を創立。79年第一回リサイタルで芸術祭優秀賞を受賞。求められればどこへでも行く全国縦断「箏遊行」ツアー、一柳慧、吉原すみれと組んで日本各地70回にも及ぶ現代音楽コンサートを敢行した「トライアングル・ミュージック・ツアー」、高橋悠治プロデュースによるリサイタルをはじめ、ポップス、ジャズ、クラシック、現代音楽など様々な分野の音楽家と多彩な活動を展開。89年には池袋のスタジオ200でジョン・ケージの2台のプリペアド・ピアノのための『3つのダンス』を四面のプリペアド十七絃箏に編曲した箏ヴァージョンを初演。海外での活躍も目覚ましく、ニューヨークのBANG ON A CANフェスティバル、ドイツのメールス・ジャズ・フェスティバル、パリ市立劇場などアメリカ、ヨーロッパ各地のフェスティバルから招聘を受け、KAZUE SAWAI KOTO ENSEMBLEでワールド・ツアーを展開。
1999年にはロシアのソフィア・グバイドゥーリナ作曲「箏コンチェルト」(NHK交響楽団委嘱)を初演し、アメリカツアー(N.Y.カーネギーホール、ボストンシンフォニーホール、シカゴシンフォニーホール、リンカーンセンターなど)。 2003年よりヴァイオリニストの五嶋みどり主宰のNPOミュージックシェアリング学校訪問プログラムに参加。2010年には坂本龍一作曲「箏とオーケストラのための協奏曲」を初演。国内外の若手アーティストとコンサートを行う「沢井一恵 箏360°の眼差し」に加えて、2011年から箏曲家野坂操壽と「ふたりのマエストロ 変絃自在」ツアーを実施中。

沢井箏曲院
http://sawaisoukyokuin.com/
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野坂操壽×沢井一恵「変絃自在」東京公演(2012年12月6日/渋谷区「さくらホール」)
撮影:ヒダキトモコ

変絃自在
沢井一恵
沢井一恵
沢井一恵
Artist Interview
2013.2.28
music
Opening new realms in Sokyoku: The world of Kazue Sawai  
箏曲の可能性に挑み続ける 沢井一恵の世界
 
沢井一恵は、古典から現代音楽まで、箏曲の可能性を追求しつづけている日本を代表する箏曲家だ。8歳で宮城道雄に入門し、63年東京芸術大学音楽学部卒業。箏曲家で生涯に90を超える新曲を発表した作曲家の夫、沢井忠夫とともに79年に若手演奏家の育成を目的とした沢井箏曲院を創立。忠夫との結婚により一時演奏活動を休止していたが、79年にソリストとして行ったリサイタルで芸術祭優秀賞を受賞したのをきっかけに箏曲家としての活動を再開。現代邦楽界で活躍する一方、一柳慧、高橋悠治、坂本龍一、ジョン・ケージ、ジョン・ゾーン、ソフィア・グバイドゥーリナといった作曲家や音楽家と多彩な活動を展開し、日本の伝統楽器としての箏と西洋音楽、現代音楽、JAZZ、即興音楽などとの接点を探求。箏曲界の前衛として走り続け、2011年から箏曲家の野坂操壽とのコンサートツアー「ふたりのマエストロ 変絃自在」をスタートするなど、新たな挑戦をはじめた沢井にその歩みを聞いた。
聞き手:奈良部和美[ジャーナリスト]

──沢井さんにうかがうお話のキーワードは“伝統と革新”になると思います。宮城道雄さんに入門されたのは確か8歳。宮城道雄さんは洋楽の要素を取り入れて作曲をなさった革新的な箏曲家でしたが、今の感覚で聞きますと伝統的な香りの濃い音楽です。沢井さんが現代音楽に辿り着くまでをお聞かせください。
 最初に疑問を感じたのは、芸大に入った時です。邦楽科が他の音楽と全く別世界になっていと感じました。すごく肩身が狭くて、西洋楽器をやっているところに行くと、同じ楽器なのに、同じ音楽のはずなのに、私たちがやっている邦楽は音楽じゃない、みたいな感じで見られているように感じました。
 今はそんなことはないと思いますが、当時の邦楽科の学生は五線譜が読めないのは当たり前でした。私が習った楽式論の先生は、「あなたたちに講義してもわからないと思うから、ピアノを演奏します」といった授業をされていた。でも、それはその通りだったので、差別されているとは思いませんでしたが、一事が万事そんな感じでした。教授陣を見ても、着物を着てゾロゾロ学生を後ろに従えて歩く邦楽科の先生と、ラフに闊歩している洋楽の先生と、まるで雰囲気が違う。オーケストラの演奏を聴きながら、どうしてお箏はああいう所で一緒にやれる楽器じゃないんだろうと、不思議に思っていました。

──邦楽科の同級生で、同じような考えを持つ方はいなかったのですか。
 邦楽科がだいたい20人で、箏は8人でしたが、いませんでした。たぶん何の疑問も持たなかったのではないでしょうか。もちろん宮城道雄先生はオーケストラとも共演されていますが、私たちは日々お稽古する中で昔からの古曲を一生懸命やるのが普通でしたから。でも私は芸大に入って、ほかの楽器とお箏はどうして違うんだろう、どうしたら同じ楽器としてありうるんだろうと思い続けました。卒業してから、清水脩先生とか洋楽の作曲家が書いてくださった数少ない箏の曲を弾くようになり、洋楽の作曲家と一緒にやれる方法を探せば可能性が開けるかもしれないと思い、作曲の委嘱を始めました。
 しかし、当時の私たちは本当に箏で使う漢字で書かれた楽譜しか知りませんでしたから、五線譜に書かれた楽譜を与えられ、どうすれば箏で弾けるようになるのか工夫をする必要がありました。日本の伝統音楽は5音から成る五音音階ですから、やっていた音楽も全部五音音階。そこへ、西洋クラシックと同じ7音の音階の楽譜を弾かなきゃならなくなった。箏は五音音階で絃は13本しかありませんから、間に無い音が山ほどあるわけです。与えられた楽譜を再現できるように、13本の絃で無い音を出す工夫を必死にしました。そのうち、十二音階の音楽も出て来るわけです。それはもう大変でした。本当にゼロから全部自分たちで考えて弾けるように工夫していきました。

──芸大を卒業後、現代に息づく箏曲を目指して作曲・演奏活動を始めた沢井忠夫さんと結婚なさいました。後にお二人で後進を育てる「沢井箏曲院」を設立されますが、箏に対する考えは同じ方向を見ていたのでしょうか。
 卒業してすぐ、芸大で3年先輩の沢井忠夫と結婚しました。私は結婚した時に一度、演奏活動を辞めました。箏曲界の恐い方から「主人を一人前の箏曲家にしたいなら、奥さんになる人は演奏を辞めなさい」と言われましたし、当時はそんなものかなあと思っていました。大学院にも進めたのですが、それも教授から結婚するならあきらめなさいと言われて、「ああ、そうなのかな」って(笑)。沢井忠夫は箏曲家の家の出身でもありませんし、引き立ててやろうという人もいませんでしたから、結婚した時にはお弟子さんもいませんでしたし、収入もなくて、箏曲家としてやっていけるかどうか、というところからの出発でした。
 子どもも一人生まれたし、主人は優しいですし、私の実家に住んでいたので収入こそ少ないけれど何の不足もない。主人を支えるのが役割だと思っていたのですが、3、4年もすると、何だかだんだん悲しくなってきて。そうしたら主人が、「箏を弾かないからだよ、弾いたら」と言ってくれたので、それからボチボチ弾き始めました。
 最初は、というか長いこと、主人の伴奏をしていれば満足だったのですが、段々と人間不遜になってきて、私は私で一応やりたいことがあるんだけど、みたいなものが頭をもたげてきた。それで、一度だけリサイタルをやらせてくださいと言ったのが、もう39歳の時です。私も伝えたい音楽を持っている人間なんだというほうが、主人にとってもプラスになると思いました。そのリサイタルが、いきなり芸術祭優秀賞を頂いてしまった。そこからです。人を支えていく謙虚な私、と思っていたのが、嘘八百だった(笑)。

──学生時代から胸に秘めていたものが出てきたのですね。
 ええ。1回目のリサイタルは、一柳慧さんとか石井眞木さんとか、杵屋正邦先生、入野義朗先生、沢井忠夫の曲などで構成しました。みなさん、主人と一緒にお付き合いしてきた作曲家です。
 自分でやりたいことをやっていなかった時期は、こういう演奏会がいいとか、こういう委嘱がいいとか、主人を通して自分の思いを実現していたんだと思います。「絶対にコンチェルトの会をしてください」と言って、ドイツ人の作曲家や石井眞木さんに箏コンチェルトを書いてもらったこともあります。主人は「なぜオーケストラとやる必要があるんだ」と迷惑顔でしたが、「きっと今にそういう時代が来るから、どうしてもあなたにやっていただきたいんです。委嘱の交渉も、オーケストラとの交渉も、会場のことも、すべて私がやりますから、あなたは練習だけしてください」と説得しました。
 そんな風に自分でやりたいことが何となく沸々とあったので、1回で終わるはずのリサイタルが続いちゃったんです。でも多分そのために、古典が中心の箏曲の世界からは外れていったのだと思います。

──芸術祭優秀賞を受賞されて、さまざまな分野から非常に高い評価を受けられたと思いますが、箏の世界、今まで古典的なことをされてきた先生方の評価はいかがでしたか。
 頑張りなさい、と言ってくださった方はいらっしゃいました。でも、沢井忠夫の作曲した「独奏十七絃と箏群のための『焔』」を初演したのですが、専門家になろうとしていた箏弾きたちからも「わからない」と言われました。

──そうなんですか。沢井さんが時代より先をいっていたからなのでしょうか。忠夫さんの曲、一恵さんの演奏は、若い演奏家には刺激になったと思いますが。
 私たちが先をいっていたというのではなくて、自分では外れたと思っています。今でもそうだから、邦楽界を追放になっていますとよく言っています(笑)。
 それで沢井忠夫を慕って集まった人たちで、若い演奏家を育てることを目的に、1979年に沢井箏曲院を設立しました、古典だけでは飽き足らない、古典中心で動く箏曲界に居づらい人たちが集まったのですから、かなり若い集団でした。

──沢井さんが始められたことは、今や新しいというよりも普通になっていますので、お話しを聞いていると、そんな時代があったのかと驚いてしまいます。
 そうですよね。スタジオ録音に行くと、洋楽の人たちから、「え、箏? 調弦も合わないんだろ?」みたいな言い方をされたものです。「何を言ってるの! 日々何十本と絃の音を合わせているのに!」とは思いつつ、小さくならざるをえなかった時代ですね。

──それが変わってきたのはいつ頃からですか。
 石井眞木さんでさえ、最初は「邦楽器の曲は書かないよ」と言われていました。作曲家がこういうジャンルを自分たちも手がけていく必要があると思われたのか、頼まれたから仕方がないと思われたのかわかりませんが、まず作曲家が変わり始めたと思います。1981年に一柳慧さんが、「トライアングル・ミュージック・ツアー」をやるから、パーカッションの吉原すみれさんと僕のピアノとあなたの音で一緒にやろうと誘ってくださった。その頃から大きく変化したと思います。でもそれは、邦楽界とは全く別の動きでしたけど。
 その時、最初は、ええー?、お箏がやる役があるかしら?と思いました。石井さんの曲『漂う島』ですみれさんとの二重奏があって、もちろん私もお箏を弾きましたが、何も出来ていないんじゃないかと思いながら各地を回りました。そうしたら、お箏の評判が結構高くて、そうか、この楽器も案外捨てたもんじゃないのかも、と思い始めました。正直、それまで、かなりお箏という楽器への失望がありました。絃が13本しかない、あってもせいぜい低音が加わった十七絃の17本まで。出せる音が決定的に少ない…。
 でも、鎌倉で古典の『乱』を弾いたときに、音楽評論家の吉田秀和さんが聴きにいらして。朝日新聞の今年のベスト5で選んでくださった。そんなこともあって、もう少し頑張ってみようかなと思いました。
 それと、作曲家の高橋悠治さんと出会い、考え方の影響を受けたことも大きかった。ついていけないほどの天才ですが、何回か曲を書いていただきました。音楽とはどうあるべきかみたいな曲で、ああ、こういう方法、箏の捉え方もあるのか、と視野が広がりました。
 お箏はいい楽器なのかもしれない、とハッキリ感じたのは、海外公演での経験があったからです。いつだったか石井眞木さんを頭にして、ヴァイオリンとピアノとお箏2人と、パーカッションで、ブラジルから始まって、アメリカをツアーしました。小澤征爾さんが音楽監督を務めていらしたタングルウッド音楽祭でも演奏しましたが、終演後、小澤さんがあちらの作曲家と一緒に楽屋へ走ってきて、「今ね、こいつに怒られたんですよ。日本にこんな凄い楽器が、こんな凄い音楽があるのに、なんでお前は西洋音楽をやっているんだ」って。これは自信に繋がりました。
 お箏にはもっと可能性があるかもしれない。ただ、自分の知恵の範囲では、それ以上のものは開けないので、作曲をお願いしました。箏という楽器を知らなくても、楽器として見て、曲をつくってもらう。これやってみろ!みたいな、とんでもないことも出て来るわけですが、それを箏弾きとして音楽に仕立てるにはどうやるか、鍛えられました。

──七音階、十二音階の作品を演奏する場合、どうやって工夫なさったのですか。
 一番大変だったのは、武満徹さんの『海へ』というギターとフルートの曲でした。それがどうしてもお箏で弾きたかった。今考えれば、野坂操壽さんが開発された二十絃箏、二十五絃箏のように音を増やす方向に行けばよかったのかもしれませんが、私はやっぱり十七絃の音というのが好きなんです。あの響きで『海へ』をどうしても弾きたかった。3分、3分、3分で、全体で9分ぐらいの3楽章の曲なのですが、その中で、80何回転調しなければならない。ワンフレーズ弾いたらもう箏柱を動かして転調する。その繰り返し。それでも弾きたかったからやりましたが、必要な音を再現するための苦労というのはあれが一番でした。ギターの方には申し訳ないけど、ギターより絶対箏のほうが良いはずだと思っています(笑)。

──絃を増やして音域を広げて新しい楽器を作るのではなく、制約の中で楽器の可能性を追求するということですね。
 そうですね。絃を増やしていくということは、ハープに近づいていくように思え、それならハープのほうがずっと便利だし、音もフワーッと響いてくる。お箏で絃が増えたら音を探すだけでも大変だし、そういうこともあって、私は絃の数を増やさない方を選びました。

──十七絃は沢井さんの師匠・宮城道雄さんが1921年に作られた低音域が加わった箏です。十三絃より十七絃の方がお好きですか。
 糸が太いから、一つの音の中にいろいろな色や、音階が含まれている。十七絃の音の中に内包されているいろんな豊かさが私は好きです。自分の声が低いせいなのかもしれませんね。

──日本の作曲家はもちろんですが、外国人の作曲家にも委嘱をされますし、ソフィア・グバイドゥーリナさんのように、沢井さんに弾いてほしいと作曲なさる方もあるように伺っています。外国人の作曲家の書いたものは、日本人の曲と違いますか。
 すごく日本的なものを求めて書く作曲家と、そういうのは無視して書く作曲家がいます。無視して書かれた作品は、演奏するのに非常に無理があるけど、ああ、こういうのもあるんだみたいな啓発を受ける。その最たるものが、ソフィア・グバイドゥーリナですね。名前が長いからグバちゃんって呼んでいますが(笑)、グバちゃんが2回目に来日した時だと思いますが、沢井さんのところに連れて行って箏を聴かせろと言った人がいて、ここ(自宅)に来たんです。いろいろ弾いて聴かせました。弾き終わった途端に、彼女が楽器に吸い寄せられるように箏の前に来て、自分で弾き始めたんです。そのまんま近寄ってきて、弾く位置なんて関係なく、反対側から触って音を出し始めて。それが、美しい音を出すんです。あんまり夢中になるので、「そんなに好きですか。楽器をさしあげますから持って帰りますか」って言ったら、本当に喜んで、お箏を1面一人で抱えてドイツに帰りました。
 その時に、若い人に手伝ってもらって弾いたのが、古典と沢井忠夫作曲の『焔』でした。グバイドゥーリナは、「曲も素晴らしい…でもね、今日聴いた音楽以外の音楽を、この編成で私が書くわ!」って。「じゃあ書いてください」って。その時は、そんなに偉い作曲家とは知らなかったし、その場の感情で言っただけだと思っていたのですが、本当に楽譜が届いたんです。7人編成のアンサンブル。その初演を、グバイドゥーリナにも来てもらって青山の草月ホールの石の庭でやりました。
 そのうち、グバイドゥーリナと即興のCD『異邦人の語らい』をつくることになり、パリのスタジオで録音していた時に、ボソッと、オーケストラから曲を頼まれているけどお箏のコンチェルトを書いたら弾いてくれるかと聞かれたんです。空耳かな、と思っていたら、5年後にNHK交響楽団から連絡があり、N響創立60周年記念でグバイドゥーリナに委嘱したら、沢井一恵の箏のコンチェルトだったら書くと言われ、出来上がってきたので弾いてくださいと。それはもう、即興やらいろいろ入った曲でした。

──古典の技法に捕われない斬新な奏法がちりばめられていたんですね。
 そうです。ジョン・ケージの2台のプリペアド・ピアノのための『THREE DANCES(3つのダンス)』という曲がありますが、お箏でやったら絶対もっと面白いと思って、1989年に十七絃でプリペアドを試してみたことがあります。なので、大抵のことは驚かないわと思っていたけど、グバイドゥーリナのコンチェルトは予想を超えてました。
 ケージの楽譜にはピアノのどこに何を挟むか、厳密に書いてあったのですが、お箏でやっても良い音がしなくて。高橋悠治さんに相談したら「ピアノによって全然響き方が違うんだから、お箏なりに考えてやればいいよ」と。それで、何を挟むかいろいろ試したら、一番良い音がしたのが割り箸。割り箸を挟んだら、ガムランみたいな音が出るんです。自分の中に楽器が生まれた感じでした。伝統が確立して、箏の音楽とはこういうものだというのが定まって、私たちに伝わってきましたが、箏という楽器の本質を残し、後から張り付いたものを全部取っ払った時にどうなるのか、私はずっと考えていました。プリペアドをした時に、これこそ後から付いた情報が取り払われて、楽器本体が生きるみたいなことを感じた。満足のいく音楽になるまでは本当に難しかったけど、面白かった。
 グバイドゥーリナは、お箏をもっと知るために我が家に何日か滞在したことがあるのですが、そのときにこっちに十七絃、こっちに十三弦というお箏が何面もおいてある部屋に泊まってもらった。そしたら寝ながら箏をいじって遊んでいて。そのうちに声が聞こえてきたと思ったら、歌っていた。で、翌朝、この楽器はこんな音がするのって、見たら歯磨き用に渡していたコップで絃を擦ってるんです。だから、そのコンチェルトには、コップで絃をこする奏法が取り入れられていた。本当にコップで擦ると良い音がするんですよ。しかも、東急ハンズへ行って、売り場にあるコップをひとつひとつ音を出して全部調べて、このパートはこのコップって指定してあった。

──グバイドゥーリナさんの音に対する探究心は、沢井さんにも驚きでしたか。
 ほんとに目からウロコ。この音を出すためにはこういう練習をして、なんてことはもう吹っ飛んじゃって、ああ、素晴らしいと思いました。お箏の本質は何も損なっていない。お箏でしかできないことをやっている。お箏というのは大地に向かって置いてありますから、ハープをコップで擦ってもこういう音はしないでしょう。絃をつま弾きながら弓でメロディーも演奏するんですが、ここでもお箏でしかできないかもなあ、と思うような使い方をしてる。それこそ目からウロコ…コップで音を出してみましょうか、面白いから!(実際に演奏しながら)ちょっと金属的な音がしますでしょ。奇をてらって、変なことをやっているとは思えない。じゃあこの音を、爪をつけて再現しようとしたってできない。楽譜にはコップの形と、どっち側で弾くか、全部きちんと絵で書いてあります。

──箏をやっている人にはできない発想かもしれませんね。
 そうなんです。私たちも伝統から発想しますし、日本人全体が伝統から発想しています。コップで絃を擦っている時に、自分が地平線に行っちゃったと思いました。

──あまり力を入れなくても、音が出ますね。
 体力がいらないし、音は多様だし、私としては目からウロコです。何とかしてお箏でシャープな音を出したいと思って爪で訓練をしてきましたけど、え〜、これだけでこんなシャープな音がするのって。

──シャープな音ですが、箏独特の柔らかな音は全く損なわれていませんね。
 桐で出来た胴に響いているから柔らかな音になる。それがお箏の特徴です。コップを使うという変わったことをするにあたって、どうしても箏でなきゃならないのかと、一生懸命考えました。そして、箏だからこそ出来ることだな、と思えたので、人が何と言おうと弾こうと決めたんです。

──奏法が確立する前の人たちは、グバイドゥーリナさんのように自由な感覚で箏を弾いていたのではないでしょうか。
 きっとそうです! あっちからグバイドゥーリナが吸い寄せられるように来て、「なんて素晴らしい楽器なの。私は知らなかった」ってお箏を反対側から弾き出して、でもとても美しい音が出ている。私はああいう音を出したことない、みたいな経験でした。彼女の滞在中に、私が弾いたオーケストラのコンチェルトや古典のお箏の会も現代音楽のコンサートも聴いて、「ここでは聴かなかった音楽を私はつくるわ!」って言ったのを忘れられません。

──誰もやらないことをやるのが自分だという作曲家の自負は素晴らしいですね。沢井さんにとってグバイドゥーリナさんとの出会いは大きな転換点になりましたか。
 それは大きいですね。もう、すべて解体していった。私も解体の道を一生懸命歩いてきたつもりだったけど、グバイドゥーリナに全部解体していただきました、みたいな感じでした。でも、やっぱりお箏は良い楽器だと、本当に思えてきた。

──その解体の道を歩まれて来た沢井さんが、野坂操壽さんと2011年に始められたコンサートツアー「ふたりのマエストロ 変絃自在」では、古典の魅力も引き出しています。お二人が意気投合して始められたそうですね。
 長年、箏を弾いてきたのに、2人で演奏会をしたことはなかったんです。2人の爪の形を長年研究してつくってくれている上越の箏屋さん、中嶋由直さんの山荘で合奏をしたら、それが本当に楽しくて。私がこう弾くと、野坂さんが「では」って応える。そうきましたか?って、私が弾く。もう本当に自由で、楽しくて、ずっと弾いていたい、そんな思いがツアーに発展しました。だから、私たちは楽しいわねって弾いているだけで、この演奏会でどうしようという意識はなかった。ところが、ツアーをやると、みんなの元気の素になっていますと言われて、そういう効果もあったんだと気づきました。

──2012年12月に東京で行われた公演を聴きましたが、聴衆が前のめりに聞き入っているのが分かりました。緊張感がありつつも、楽しい雰囲気の演奏会でした。最初の曲が沢井さんの弾く『六段』。江戸時代初期、18世紀に十三絃の箏のために作られた曲を十七絃で演奏された。
 大変ですけど、十七絃の音の多様さで古典を弾くというのは、やっぱり面白い。

──古典を離れた様々な活動を経た後に古典に戻ると、表現方法などに違いはありますか。
 昔から思うのは、どんなことをやっていても、精神は古典を弾いている時と同じなんです。集中の仕方も同じ。現代曲だから、古典だから、即興だから、コップでやるから…というのではなくて、音楽に立ち向かっている自分というのはいつも同じなんです。古典は地べたに座って弾くのが落ち着く、というかその方が好きなのでなるべくそうしていますが、曲への向かい方は変わらないのです。古典の世界では、この曲はこうでなきゃダメ、というのを徹底的に言われますから、みんなそのように勉強するわけですが、私のように外れてくると、自分で感じたまま弾くしかないから、同じなんです。

──ヴァイオリニストの五嶋みどりさんとのプロジェクト「ミュージック・シェアリング」では子どもたちにお箏を伝えていらっしゃいます。
 年間4、5校の小学校に行って箏を弾くんですが、まず「六段」を聴かせます。「眠い曲弾くからね、350年前の古い曲だよ、眠かったら寝てもいいよ、眠くなかったら耳をダンボみたいに広げておいてね」って言いながら弾きます。そりゃあ集中して聴きますよ。学校の先生は「この子たちがこんなに集中して音を聴くなんて信じられない」とびっくりします。
 お箏に初めて出合った子どもたちでも音楽ができる方法があるんです。「今日は生まれて初めてお箏に触るでしょ。でもすぐ音楽できるからね」と言って、中指に爪をはめさせて、体の一番遠いほうから弾くと「か、え、る、の、う、た、が、き、こ、え、て、く、る、よ」と鳴るように調弦しておく。子どもたちは夢中になります。楽器は楽しいもの、というところから入ってもらいたいので。

──そういう子どもたちがこれからどういう音楽をつくっていくか、楽しみですね。
 「ふたりのマエストロ」の東京公演では、若い男性箏曲家17人と演奏しましたが、みんなとても上手で、必死でいろんなことを追求している。「あなたたちが大人になった時には、どんな音楽をしてるんだろうね、それは自分たちでつくり出すしかないよね」って彼らに言いました。そういう若い世代から新しい箏曲が誕生する…と予感しています。
 私が教えるのは、音楽は音だから、ひとりひとりが音を出すのだから、その人にしか出せない音を必ず開発しなさい、ということです。そのためには、楽器自体が鳴ってくれるための方法として、まず体重をかけて大きな音を出せるようにする。小さな音というのは、その後で開発していけばいい。リズムは、それによって曲を確固たるものにするから、きちんと取れるように…そういうことをまず教えます。弾き方は、こういう引き出しがあって、こういう引き出しがあると。さあ自分で好きに使って、一刻も早くお稽古に来なくて済む人になりなさい、と言っています。

──これまでも多くの箏曲家を育ててこられました。中には内弟子として何年か沢井さんと行動を共にして学び、海外で活躍するようになった演奏家もたくさんいらっしゃいますね。
 自分の音楽的能力の限界は自分が一番よく知っていますから、箏を始めた若い人には、とにかく筝の可能性を知ってもらいたいと思っています。即興ではこういう道もある、現代音楽を作ってもらう道もある、私は全部やるわけにはいかないから、好きな道を選んでいけばいいと示すのが私の役割ですね。ジャズの即興系に走ったのが八木美知依。私がジョン・ゾーンと一緒にやっていた影響をもろに受けた。西陽子、竹澤悦子、みんな力があって、古典の世界でも一級の所まで行く人たちですが、少し壊す方向にもっていく時期が早すぎたかなとちょっと反省しています。でも、一昨年、竹澤さんが十何年ぶりに東京芸大の同級生と演奏会をやった時に、その同級生から「即興や現代音楽も箏曲の重要な要素だ」と言われたというのを聞いて、箏の世界も変わりつつあると感じました。
 でも、まだまだ、古典の世界からみれば私は危険思想。内弟子さんをしてくれると上手くなるのですが、古典から逸脱しちゃうから地元に帰るとなかなか活躍できない。グジグジするぐらいなら、一遍外国に出てみなさいと、海外に送り出します。海外のいろんな大学にお箏を寄付して、指導者を派遣するからと手紙を書いて、10人ぐらい受け入れてもらいました。「3年間歯を食いしばって、ボロボロになったら帰っておいで。でもその3年間はあなたの人生にとって決して無駄じゃないはずだから、自分の力しか頼れない所で箏で生きていく方法をつくってみなさい」と言って放り出した。若い人の力は素晴らしいですね。それこそ泣くことは山ほどあったと思いますけど、みんな居着いて、その場所その場所で立派な演奏家になって、もちろん教えることもしています。
 オーストラリアなんかすごいですよ。シドニーの音楽シーンに影響を与えて、多大なる貢献をしたというので国から表彰されて、ビックリしました。日本ではありえない。オーストラリアからヨーロッパへ、洋楽器と一緒にコンサートツアーにも行っています。オランダにいる子の所には、お箏のための新作がたくさん集まります。弾いてくださいと言って、若い作曲家や学生が新作を書いて持ってくる。お箏のための新曲がたくさん作られているなんて、ちょっと、日本では考えられない。
 お箏の音が嫌いという人は世界中にいないと思います。唯一、ジョン・ケージ。ニューヨークでの私のリサイタルをディレクターのベアテ・ゴードン女史が「ジョン・ケージに聴かせなくては!リサイタルに呼ぶわね」と言ってくれた時、「箏は嫌いだ…」って言ったそうです。女史は、「この人は違うから来なさい!」って言ってくださった。お陰で最前列で聴いてくれて、『THREE DANCES』が可能になり、ニューヨーク公演の時には「これから一緒に、西と東の音楽の未来を切り拓いていこう」という詩を書いてくれました。絃の音は人の心の機微を表したり、司る原点そのもの。箏には、そういう役割があると思っています。

──次に何か考えていることがありますか。
 昔から私の中で気になっている良寛の漢詩があります。「静夜 草庵の裏 独り奏す 没絃の琴」。「没弦の琴」という絃の張られていない箏。絃を没して…自分で没したか、それはわかりませんけど、「没絃の琴」という言葉にすごい意志を感じるんです。没絃から響くお箏の音というのはどういうものだろうと…。
 没絃で全部無くなるとどうしよもないから、十七絃の真ん中だけ残して、一絃琴(いちげんきん)にして、両面ガラス張りのスペースで即興演奏をやりました。が、自分としては、音楽になり得なかった……

──以前、木の切れ端に引っかかった1本の蔓か何かをボヨンボヨンと鳴らしたのが箏のはじまりだと思う、とおっしゃっていましたね。
 そうです。そのつもりで1本の絃を弾いてみました。たった1本の絃で音楽が出来る。もう、本当にいろいろやってきましたけど、何を発展と言うのか、進歩と言うのか。進歩するということは、私の中ではある意味退化かもしれない。箏が生まれた時のように、シンプルなひとつの音、音の響きの大切さを、しみじみ感じます。
 私は地平の果てまで行っちゃったから。もうこれで終わりでいいかなと思っていたら、野坂さんと出会えて。地の果てから、また少しずつ戻るというか(笑)、何が始まるんでしょうね。
 
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