The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
Contents
田中大喜
© Yuichiro Kariya
田中大喜(たなか・ひろき)
黒森神楽 神楽衆
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神楽宿(釜石宝来館)
神楽宿
『権現舞』
権現舞
「身固め」(アメリカにて)
身固め
神楽宿での「舞い込み」
舞い込み
『榊葉』
(悪魔を祓い祝福を込める舞)
榊葉
『山の神舞』
(山仕事や農耕を守護する神。勇壮で力強い代表的な舞)
山の神舞
『恵比寿舞』
(恵比寿神が鯛を釣る、大漁祈願と海上安全の舞)
恵比寿舞
囃子方
囃子方
神楽宿の権現様
権現様
米国マサチューセッツ州ミドルタウン市公演時に小・中学校でワークショップを開催(2012年11月/ケィグウィンミドルスクール)
神楽ワークショップ
ニューヨーク公演時に開催したワークショップ(2012年10月/NYジャパン・ソサエティー)
神楽ワークショップ
Artist Interview
2013.3.27
other
The spirit of traveling Kuromori Kagura ritual performers, two years after the Great East Japan Earthquake and Tsunami  
東日本大震災から2周年 黒森神楽の巡行精神  
2011年3月11日の東日本大震災から2年。未曾有の被害を受けた東北地方は、民俗芸能の宝庫として知られ、中でも岩手県には1000を超える民俗芸能が伝えられてきた。その中の一つ、黒森神楽は宮古市の黒森神社を中心に、三陸沿岸を北は久慈市から南は釜石市までの広い範囲を数カ月かけて集落から集落へと巡行する神楽として知られている。その貴重さから、2006年には国の重要無形民俗文化財に指定された。この震災によって黒森神楽もまた、巡行先で彼らを迎え入れる神楽宿を多数失い、400年続いた伝承に警鐘が鳴らされた。しかし、彼らは地元の人々を元気づけようと各地で神楽を上演。また、国際交流基金や文化庁の支援を受けて、ロシア、フランス、アメリカに出かけ、困難にも負けない日本の民俗芸能魂をアピールし、支援を寄せてくれた各国の人たちに感謝の巡行を行ってきた。民俗芸能は地域住民を繋ぐコミュニティの柱であり、その再生は復興に欠かせないものだ。黒森神楽の釜石巡行に同行し、神楽衆の若者頭、田中大喜さんにお話をうかがった。
聞き手:花光潤子[NPO法人魁文舎/ダンスプロデューサー]

──黒森神楽の神楽衆の編成や職業を教えてください。
 現役メンバーは15人です。下は大学4年生から最年長は昭和9年生まれ(1934年)の77歳までと、結構幅広いですね。普段は皆仕事を持ち、漁業や農業、畜産業などの一次産業の人、それに会社員や公務員など職業はまちまちです。私は大槌で生まれ育って大学は東京に行きましたが、今は地元にもどって県職員として勤めています。

──黒森神楽に出合ったきっかけは?
 大槌にある実家が昔から神楽の巡行を受け入れる神楽宿をやっていて、小さい時から見て好きでした。神楽宿は家に権現様を招いて、地元の人たちと一緒に夜神楽などを楽しむのですが、十何人もの神楽衆を泊め、食事の接待もします。そうしたことができる財力のある地主さんや地元の有力者が宿になったそうで、私の実家も昔は漁業会社を経営していました。漁船を持っていて、ある時海で流れてきた黒森神社のお札を拾ったことから、船に黒森丸と名付けたそうです。

──少年の時に見た黒森神楽の印象は?
 ほんとに神様が出てきたように見えました。「オオー…」って大興奮でした。

──それからどのようにして神楽衆の一員になったのですか?
 私たち若手を育てて39歳で急逝した佐伯裕則という伝説の舞手がいるのですが、家に巡行が来た時にその佐伯さんから誘っていただきました。近所の人が、「あそこの息子はかわいそうなくらい神楽が好きだから、何とか入れてくれ」と推薦してくれたらしい。それを聞いた佐伯さんはシメたと思ったんじゃないですか。その日の晩、家に泊まった時に「ちょっと、やってみようか」と手合わせをして、それからですね。それが高校2年の時でした。

──他の皆さんも巡行先で小さい頃から神楽を見ていたのですか。どのような経緯で神楽衆になられたのでしょう。
 保育園ぐらいの頃からおじいちゃんに連れられて見に来ていたメンバーもいます。物心付くか付かないかの頃から見よう見まねで踊って、中学1年の時から巡行に参加したという特別な例もあります。先輩方は親戚や家族などに神楽衆がいて、その縁で始めた人が多いですね。でも今の若い世代は、血縁からではなく、他の地域で念仏剣舞や中野七頭舞など別の郷土芸能をやっていて、そこから黒森神楽に入ってくることが多いです。

──正式に神楽衆の一員になる際には何か儀式のようなものがあるのですか。
 いえ、何にもないです。昔は師匠と弟子とで水杯を交わし、師弟の契りを結んだ。まあヤクザみたいな感じですけど(笑)。しかし、今はそういう儀式も特になく、技術を覚えれば、まず連れて歩くといった感じです。

──今神楽衆は60代以上が7人、実力ある20〜30代の若手中堅が7人と、団体として充実しているように見えます。一方、後継者がいなくて存続の危機に瀕している神楽や伝統芸能の話を耳にしますが、黒森神楽もそういう時代はあったのですか。
 もちろんありました。昭和50年代には人がいなくて巡行を6年ぐらい休んだことがあります。都市化の影響や高齢化でなかなか大変です。
 昭和58年に保存会組織が出来る以前には、胴取り(親方)が巡行のつど神楽衆を選抜していました。神楽衆は巡行先の陸中沿岸の広い地域から参加していましたし、昭和30年代には旧宮古市内だけでも地域単位で儀礼や祭りができる地区が赤前・金浜・長沢折壁・八木沢・牛伏・重茂(黒崎神社)・津軽石(駒形神社)と7つもあり、そうした中から上手い人を選抜して行ったそうです。ですから昔は黒森神楽で使ってもらえるというのは、大学に入るのと同じくらい名誉なことだったようです。
 そのように昔はやりたい人もやる人も多かったので、芸を後輩に伝えるどころか自分の役をとられないように、自分が出たい演目の衣装を隠したりしたそうです。今はそんなことはしていられません。興味のある人を拾って拾って育ててかないと。今は何とかやれていますが、皆仕事もあれば家庭もあるし、いろんな事情を抱えてやっているので。神楽は拘束される時間が結構長くて、自分のような子育て世代は大変です。

──素質がありそうな子ややりたいという子がいたら、入れますか?
 もちろん、やっぱり入れていかないと。いまは良いかもしれないけど、40代が全くいないので、近い将来を考えると危機感を覚えます。こうしたものは「教えなきゃ」と思って教えるものではないし、1万円あげるから覚えてよっていうものでもない。本人が好きで、向こうから習いたいと門戸を叩いてくるような人じゃないと続きません。

──現代の巡行は、神楽衆も仕事があるので宿泊しないで土日に出かけていますが、昭和20年代くらいまでは、まだ泊まって平日に巡行していたそうですね。
 ええ。「家のお父さんは3カ月帰ってこない」というのが普通でした。ある程度収入にもなったから、仕事だと割り切って奥さんたちは送り出したんじゃないかと思います。巡行の出発日も今のように1月3日じゃなくて、農閑期の出稼ぎじゃないけれども、秋の稲刈りが済めばすぐ出かけていました。

──黒森の巡行の歴史について簡単に教えてください。
 普通は各村々に山伏が持っている権現様の神楽があり、その山伏が与えられている霞(かすみ)の中でしか神楽は出来ません。ですが、古文書によると黒森神楽には南部藩の殿様が縄張りを超えた活動を許可したとのことで、裁許状(免許状)を貰って他所の地域まで巡行していました。「黒森国がけ、八木沢八わたり」といって、宮古の八木沢地区にあった神楽は自分の八ヶ村しか回れなかったけれど、黒森は国中歩けたという言葉が残っているくらい、昔から特別な神楽だったようです。
 でも、黒森の歴史は裁判の歴史と言っても良いくらい、在地の山伏からよく訴えられていた。それに対して「太古より三閉伊通りを廻って歩いているのだから」と、免許状で対抗した。黒森神社も南部藩主から庇護されていて、藩政が確立する前からかなり広い範囲で権現さまが信仰を集めていました。それは多分、神楽がくれば大漁する、魚が獲れれば藩はそこから税金が取れるという豊漁祈願からきているのではないかと思います。ですから、黒森神社はこんな地方の小さな神社のわりには、古い権現様もたくさん伝わっているし、江戸時代からの古文書も残っていて、珍しいことだと思います。

──巡行はどのように行われるのですか?
 まず1月3日に舞い立ちの神事があります。「神降ろし」と言っていますが、神社の本殿の前で宮司が祝詞を上げ、神楽衆が権現舞を舞います。神社の神様が権現様に乗り移ったということで、その権現様をお連れして巡行に出かけます。
 神楽宿のある村落に着くと、最初に「神出し」と言って、その地域の神様や神社に向かって権現舞を舞いご挨拶します。宿に入る時にも庭で権現舞を舞い、「シットギ舞い込み」といって、臼を庭に据えシットギをお守りとして皆の額に付ける儀礼を行います。宿では近隣の方が集まって夜神楽をやります。翌日宿を立つ時には、家の中で権現舞を行い、台所や床の間、神棚、仏壇を歯打ちしてお礼をします。最後に宿の人たちに身固めする「舞立ち」の儀礼をして宿を後にします。

──権現様の儀礼を簡単に説明してください。
 身固めは、権現様に頭を噛んでもらい、無病を祈祷してもらうことです。柱固めは新築の家の柱を咬んで祈祷します。その他仏壇やお位牌の前で権現様が歯打ちして供養する神楽念仏や墓の前で行う墓獅子などがあります。ほかに船の祈祷や頼まれれば厩もやったようです。こうした儀礼が多いのが黒森神楽の特徴のひとつだと思います。結婚して家を建てたら柱固めなど、年を重ねて亡くなれば神楽念仏、人生の節目節目に応じた儀礼があります。生活に密着している神楽だからこそ、必要とされる儀礼が今に伝わっています。

──黒森神楽の演目について教えてください。
 数は記述されているもので70演目くらいあります。神を招く神下ろしの『打ち鳴らし』から始まり、必ず舞わなければいけない「役舞」と言われる重要な演目『榊葉』『山の神舞』『恵比寿舞』などがあります。それに『岩戸』などの神話の由来を説いた「御神楽」、合間に地元の生活に根付いた滑稽な「狂言」が入ります。宿の夜神楽では夕食を挟んで4時間くらい、10演目程行います。

──最初に習う演目はどれですか。舞の他に太鼓や笛、鉦の演奏がありますが、何から教わるのですか。
 笛と太鼓は習いません。基本は舞から入ります。最初に教わるのは、若い人でなければできない激しい回転や跳躍の入った『榊葉』。次にもっとも大切な祈祷の舞の『山の神』、それから『恵比寿舞い』を習います。人にもよりますが、『榊葉』から『山の神』にいくまでに通常3年はかかります。

──『榊葉』の後にいきなり『山の神』とは、すごくハードルが高いように感じますが。
 黒森の場合は、そこで舞手をふるいにかけていたのではないかと思います。昔は人もいっぱいいたので、「最初からそれができないのなら巡行には連れて行けないよ」という厳しさがあったのではないかと思います。

──全員が笛や鉦などの囃し方もできなくてはいけないのですか。
 鉦を習うということはまずありません。鉦は舞手が兼務したり、舞手を卒業したような年輩の人がやっています。笛も、踊ったり見たりしていくうちに覚えました。

──リードとなる太鼓はすごく重要だと聞きましたが、太鼓はどのように覚えるのですか。リズムがとても複雑ですが、子どもの時から聞いているので体に自然に入っているのでしょうか。
 舞を覚える時に、俺らは口拍子と言いますが、デゴデン、チャカチャカチャ、チャカチャカチャと、喋りながら踊ります。口拍子は、デンは太鼓の右側を右手で打つ、コは左、チャカチャカは太鼓のヘリを打つというように出来ているので、ある程度それを覚えれば太鼓も打てるようになります。

──韓国のサムルノリなどに似ていますね。みんなが太鼓も笛も踊りもやるという…。
 神楽は一晩で10何本の演目を上演します。衣装の着替えもあるし、同じ舞手がずっと出ることはまずない。さっき舞手だった人が次は太鼓に回り、太鼓の人が舞手になるために着替えに行くとか、配役を組み合わせて一幕の番組を構成します。今は巡行に行く人数も少ないので、上手くプログラムを作るためにも一人で何役もこなせるのはすごく重宝なのです。

──稽古はいつ、どこで行っているのですか。
 皆が一堂に集まる定期的な稽古は設けていません。久しぶりにやるような演目を手合わせすることは年に数回はありますが、基本は師匠と弟子の間で教えてもらって、本番で合わせます。私も舞いの基礎は師匠の佐伯さんから一対一で教わりました。昔は扇子一本を持って師匠の家に行って稽古したものです。今でも後輩には夏の土日を選んで教えに行ったりしています。まあ順序を覚えてしまえば、細かいところはその都度その都度という感じで、特別日にちを決めてやることはありません。
 5、6年経ったらいよいよ権現様を扱う儀礼の権現舞を習います。その間に神楽だけではない様々な下回りの仕事を教わります。巡行では、若い人は宿についたらシットギを作るとか、翌朝には一番先に起きて権現様への供物を取り替えるとか、仕事があります。上演のことだけではなく、そうした慣習が伝えられていくのが巡行です。だから神楽以外の多くの部分の時間が本当はすごく大事なのです。こうしたことは巡行でなければ習得できない。1時間前に集合して神楽が終わったら解散という公演では、みんなでいる時間があまりありません。まして普段は別な地域に暮らしています。みんなで長い時間寝食を共にして行うのが巡行の良いところだし、それがあるから今の形なのだろうと思います。巡行の釜の飯を食わないと神楽はうまくなりません。

──いまで言ったら合宿をずっと続けているようなものですものね。
 まさに強化合宿のような感じです。黒森は4月29日から春祭りが始まって、夏祭り、秋祭りとお祭りでの公演回数は結構あります。でもやはり巡行の神楽は違うのです。それによって魂が伝わっていくのです。

──演目の教則本のようなものがあるのですか。
 詞章というか、謡や台詞が書いてある本を自分でつくりました。昔から伝わっている謡本もあるにはあるのですが、振り仮名なしでは今の人には全然読めません。ひとつの漢字で「うえ」と読むのもあれば「かみ」と読むのもあるので、きちんと覚えておかないと意味が違ってしまう。これではダメだと思って、大学の時につくり始めて、地元に戻ってきてから何とかまとめ上げました。古い本を見て、これはどういう意味なのだろう?と考えながら写したので、とても時間がかかりました。でも自分も志半ばで師匠を失くして苦労したので、何かあってもそれを見れば何とかなるといった教科書を残したいと思ったのです。とりあえず巡行の時に1冊持って歩けば困らない虎の巻です。
 謡や台詞は家で覚えられます。まずは勉強しなさいと若い人みなに持たせました。神楽宿の人から注文された時にパッとできるようでなければ恥ずかしいと、常々言っています。
 
──小道具や衣裳は誰がつくるのですか。
 自分たちの中でつくれるものはつくっています。私は烏帽子や小道具をつくりました。権現様やお面は田老の職人さんがつくっています。お面も権現様を彫るのも太鼓を張るのもその人だけでやっていたのですが、高齢なので心配です。面は消耗品ではないので、新しいのをつくることは滅多にありません。そもそも獅子頭はその地域や関係者から奉納されるもので、歴代の権現様を見ても彫師さんの好みで顔が全部違います。今の権現様は亡くなった佐伯さんの好みの天保13年の型を彫り師さんが少し小振りにして奉納してくれたものです。

──神楽宿に古い獅子頭が祀ってありましたが…。
 神楽宿によっては、権現様の祀ってある家があります。その場合は、黒森の神様とその家の権現様を一緒に遊ばせます。権現舞を四頭で舞うのです。そういう家は神楽を迎えなければという使命感を持ってくれています。そうした気持ちが次の世代に伝わってくれればいいのですが、世代が変わって、オヤジは好きだったけれど俺は別に…と言われればそれまでです。いくらそこが権現様を祀っていても、頼まれなければ行くわけにはいかないし、神楽は受け手がいないと成り立たないのです。

──和紙で作られた切り絵の幣束は毎回作るのですか。
 行った宿に納めてくるので、その都度切ります。切り絵のパターンも伝えていかなければならないので、教則本にはそれも入れています。幣束をどうやって切っていいか見本がなくて、散々苦労した経験がありますから。見本を縮小してスキャンして掲載してあります。使えるテクノロジーは使わないと(笑)。

──演出などは、工夫して変えたり新しくしたりすることはあるのですか。それとも、ずっと続けてきた形を踏襲しているのですか。
 守る部分と切り替える部分があります。「役舞」などは先輩方から習った通りをできるだけ真似しようと頑張っています。神楽は一人舞が多いですから、型は決まっていますがちょっとした所作の違いは舞手の好みや身体性によって個性が出てきます。ですから同じ演目でも舞手によって違ってきます。恵比寿舞などはその場でアドリブもやるので、昔に比べれば変わってきているのかもしれませんね。

──狂言の掛け合いはアドリブ満載で、お客さんがとても楽しんでいました。楽しかったと言えば、アメリカ公演で現地の日本食店に招かれたときに、皆で即興の歌を歌われていました。独特な手拍子に合わせた歌詞が、粋な言葉遊びで素敵だったことを覚えています。
 お祝いの歌ですね。即興というか、100種類ぐらいあります。その時に音頭を取る人が上の句の歌い出しの部分を歌うと、下の句はもう決まっているので皆で合唱します。あの時はお店だったので、その店が繁盛するような歌をかけましたが、その場所に合わせて文句を選びます。多くは時候や季節の挨拶から始まって、例えば朝なら「今朝の日は黄金にましたる朝日かな〜」など燦々と入ってくる文句をかけたりして、洒落た言葉遊びで終わりを結びます。神楽宿では旦那さん方が一堂に会して食事をする時に、お酌をしてから歌います。

──田中さんたちは年輩の先輩をどのように見ていますか。神楽に対する意識や考え方の違いなどありますか。
 いまの60代ぐらいの人が始めた頃は、まだ平日の巡行でした。彼らが神楽宿の要望や時代のニーズに対応して、現在のような土日だけの巡行というスタイルをつくり上げてくれました。神楽として、芸能として守らなければならないことは守らないといけないけれど、ある程度改善すべきところは改善して、何とか巡行という形態は保っていこうと。そうしていまの若い人たちも対応できる現在の形態をつくり上げてくれたことは、非常に意味があると思っています。

──黒森神楽にとって神楽宿の存在は本当に大きなものです。しかし、今後、一軒の家が神楽を迎え入れるのは、経済的にも人的にも大変になるのではないですか。
 そうですね。ましてやこの震災で高台の新しい土地に移転するなど、地域コミュニティが昔どおりではなくなっています。隣の人が何処に勤めているのか、名前も知らない、といった状況も生まれています。神楽を一軒の家で迎えるとなると、布団は干さなければならないし、前の日から十数人分の料理の支度もしなければならない。親戚や近所の人たちが手伝ってくれる地域のコミュニティ、神楽を迎える素地がないと難しいでしょう。神楽衆は、ご飯とみそ汁と漬け物があればいい。おにぎりとカップラーメンでもいい、それでも神楽宿があった方が有り難いと言うのだけれど、受ける宿としては神様を迎えるからそういうわけにはいかないという気持ちがあるでしょうし。
 何を根拠に神楽を迎え入れるか、その根拠の部分も薄くなっていると思います。昔は農業や漁業など自然を相手にする仕事に就いている人たちが多かったので、権現様がやって来れば、「神様だ!」と信仰心で迎えてくれた。けれども今のように会社勤めの人が多くなると、そういった信仰心というのも薄くなってきているかもしれません。
 そういった中で、本当に神楽が好きだという人たちが地域にいないと、迎えてくれる地域も先細りしてしまいます。そうならないように手を変え品を変え、「こんなに面白いものがあるんだよ」といろいろな演目を出してアピールしています。巡行は、見てくれる人、迎えてくれる人がいるから成り立っているので、やる側だけがんばっても続かない。神楽をやる人も見る人も若い人たちが多くなっているので、その人たちの横の繋がりが出てくればと思っています。見る側を養成すると言うと大げさですが、どうやってそういう人たちの裾野を広げていくかが課題です。

──中学校でダンスが必修になりましたが、そうした時間に神楽を教えに行くことはありますか。
 アメリカで幼稚園児や小・中学校でワークショップをやった時に、こうしたことを本来は日本でやらなければいけないという話しになりました。地域の子どもたちが大人になって、例え他の地域に勤めに行っても、神楽をやったことを思い出せるようにしておかないと。地元の学校に指導に行っているメンバーもいますが、平日は仕事があるのでなかなか時間を割けないのが現状です。

──自分は神楽衆の一員だ、というのはどういった意識なのですか?誇りや自信ですか、それとも使命感とか。
 そんな格好いいものはないですが。何て言うのかな、「守るべきを守る」と言うのですかね。巡行の形態など変えていく部分は変えていかなきゃいけない。でも舞だけじゃなくて、自分らがどこかでしっかり芯にして守っていかなければいけない部分というのがあると思うのです。そこをちゃんとしておかないと、それこそ時間やお金をかけて迎えてくれる神楽宿の人にすごく失礼です。

──人々は神楽衆をもてなすというより、神様を迎えるという気持ちの方が強い。ベースにやはり信仰というものがあると…。
 もちろんそうです。集落に入った門打ちの音を聞いて、その地域のおばあさんなどが窓を開けて手を合わせて私たちを拝むのです。お遍路さんを拝むのと同じで、私たちが人から拝まれる。もちろん神様もそうだけど、神楽さんを拝むのです。そのように信仰されているという意識があるから、やはり恥ずかしいことはできない。例えば、外で寒いと思っていてもそんなこと言っていられない。その信仰心に恥じないように、と思うのです。
 だから、巡行が終わって神様を神社に戻すと、どこか安堵します。非日常から日常に戻った、とりあえず神様にご奉仕する期間が終わったな、と。巡行の間、神楽衆の誰かが権現様を預かっているわけですが、その間はやはり神様に仕える身だという意識があります。

──そういう精神は先輩から教えられたのですか。
 物言わぬ指導で。それこそ巡行中に一緒にご飯を食べて寝泊まりをする中で自然と学びました。秘すれば花じゃないけれど、何でもかんでも言って教わるより、それがいいところなのです。

──今回の巡行やアメリカ公演には北海道から参加したメンバーがいました。北広島市でも黒森神楽が行われているそうですね。違う土地に神楽の伝統が移植されたのは凄いですね。
 彼らも自分の地域の神社の神楽を再構築してみたいという強い意志があり、佐伯さんが指導し、縁結びの水杯を交わして権現様を新しく向こうでつくりました。ある程度基本はビデオを見たりして覚えてもらい、私たちが北海道の祭りに行った時に時間を取って個別で指導します。

──黒森神楽保存会の組織について教えてください。
 保存会は黒森神社の総代と神楽衆とで構成されています。会長は神楽衆の代表です。江戸時代には神社の管理者は宮司でも山伏でもなく、普通の一般の農家で俗別当と言っていましたが、今は総代に代わりました。総代さんは1月3日の舞い立ちの神事やその後の山口公民館の神楽の公演の段取りなど行っています。7月の黒森神社の例大祭や12月の舞納めも総代さんが準備したりします。

──東日本大震災の時のことを聞かせてください。
 神楽衆は漁師も多いし、連絡も全く取れなくて、ああこれは一人や二人は死んでいるかも知れないと覚悟しました。でも幸いにも全員無事で、家を流されたのはうちともう一人の実家だけでした。権現様も衣裳も、虫の知らせか山の方の家に預けていたので奇跡的に助かりました。震災直後は本当に神楽どころじゃなかった。神楽ができるような日がこんなに早く来るとは思いませんでした。
 
──地元で行った慰問の神楽について聞かせてください。地元の人たちには黒森神楽に励ましてもらいたい、権現様に守ってもらいたいという気持ちがあったのでしょうね。
 2011年6月下旬に前に宮古に居た人から電話があり、宮古市田老の避難所になっていたグリーンピアというホテルに仮設の商店街が出来たお祝いを兼ねて、慰問公演の話がきました。震災後、私たちも一堂に会するのはそれが初めてだったので、「おお、生きていたか!」と言いながら再会を喜びました。
 いろんな芸能人や歌手が慰問にいらっしゃっていましたが、それは一過性のイベントでしかありません。やはり昔から親しんできた地元の神楽で、自分たちで元気を出そうというのとは意味が違います。われわれにとっても再興に向けた一歩になると思いました。被災した人も含めて、地元の人間が自分たちで何かをやり始めたことに大きな意味があったのではないでしょうか。
 
──今回の巡行先では、被災者の霊を鎮魂するといった意味で釜石の海で神楽念仏をされましたね。
 神楽念仏というのは権現様が死者や先祖などを慰めるという儀礼で、神楽宿のご先祖の年忌などに頼まれるとやっていました。あんな大きな震災があって、沢山の人が亡くなって、それこそ避難所への慰問もそうですが、私たちができることは何かと考えた時、結局それは神楽でしかないのです。私たちがご奉仕し、せめてもの供養を上げさせてもらおうと思ったのです。津波の犠牲になった中に、いままで巡行で大変お世話になった方たちも少なからずいらっしゃいます。そういった方々に対して、一軒一軒拝むわけにもいかないので、海に向かって行えば、きっと弔いの気持ちも届くのではないかと思いました。

──皆、すごく有り難いと涙ぐんでいらっしゃいました。
 些細なこと、ちょっとした時間なのですけれど、私たちにはあれぐらいしかできない。何もできない無力さを感じながら、いつも念仏を上げています。

──昨年ロシアやフランス、アメリカで公演しましたが、そういう全く知らない土地に行く時の心構えはありますか。
 うーん、初めて観る人には受けるだろうという自信はあります。巡行先とちがって前に見たことがないから逆にやりやすい。でも外国は外国で、どういう会場だろう、どういう設置ができるかな、幕はちゃんと張れるだろうか、といった環境的な部分がわからないので、そちらの方が心配です。

──海外でも、権現様に頭を神妙に差し出して身固めしてもらっています。子どもは嬉しがったり怖がったり、反応は日本の子どもと全く同じ。
 人がやっているからそれを真似しているだけかもしれない(笑)。でも基本的に人間って同じなのだなという印象を持ちました。権現様が咬んであげたり、一緒に恵比寿舞をやったりして、神様というか聖なるものにふれることは、宗教や宗派を超えて、人間誰でも嬉しいことなのだなあと思いました。理屈じゃなくて、どの国にもある文化、人間の誰しもが持っているものですよね。人間らしいということなのかなあという気がしました。

──今日の演目に『七福神』がありましたが、観ていた人たちは「いや、日本人で良かった」と口々に言っていました。海の神も山の神も色んな神様がいて、いっぱい神様に守られて。神楽を見るとおおらかで幸せな気持ちになります。400年続いたこの伝統がいつまでも受け継がれればいいなと心から思います。
 これからもぜひ見て応援してください。
 
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