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東憲司
東 憲司(ひがし・けんじ)
劇作家、演出家。1964年、福岡県出身。1999年秋に「劇団桟敷童子」を旗揚げ、劇団代表を務める。作品の多くは炭鉱町の筑豊など出身地・福岡が舞台。倉庫などに凝った舞台美術を仕込み、集団的なパワー溢れる群像劇で高く評価されている。代表作は、『泥花』(2006)、『オバケの太陽』(2011)、『泳ぐ機関車』(2012)の炭鉱三部作。『しゃんしゃん影法師』(2004)、『風来坊雷神屋敷』(2005)、『海猫街』(2006)で3年連続岸田國士戯曲賞の最終候補となる。『海猫街』で平成18年度文化庁芸術祭優秀賞(関東の部)、12年には文学座アトリエの会公演『海の眼鏡』の戯曲と劇団桟敷童子公演『泳ぐ機関車』の戯曲・演出で第47回紀伊國屋演劇賞個人賞、トム・プロジェクトプロデュース『満月の人よ』と『泳ぐ機関車』で第20回読売演劇大賞優秀演出家賞を受賞。『泳ぐ機関車』は第16回鶴屋南北戯曲賞も受賞した。

劇団桟敷童子
http://www8.plala.or.jp/s-douji/
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『泳ぐ機関車』
(2012年12月13日〜25日/すみだパークスタジオ 倉)
泳ぐ機関車
泳ぐ機関車
泳ぐ機関車
撮影:長田 勇
Play of the Month
『オバケの太陽』
(2011年6月15日〜26日/すみだパークスタジオ 倉)
オバケの太陽
オバケの太陽
撮影:梶原慎一
『泥花』
(2006年2月10日〜19日/下北沢・ザ・スズナリ)
泥花
泥花
撮影:浅香真吾
Artist Interview
2013.4.2
play
Kenji Higashi and his plays driven by group performance and the power of fantasy  
妄想のパワー 東憲司の群像劇  
劇作家・演出家の東憲司が率いる劇団桟敷童子。倉庫などに猥雑で凝った舞台美術を仕込み、社会の底辺で生きる人々を描いた群像劇を発表。自らの生まれ育った炭鉱町や山間の集落をモチーフにしたパワー溢れる舞台により、日本の演劇シーンの中で異才を放っている。特に、2012年に発表した最新作『泳ぐ機関車』は、炭鉱主の息子である虚弱児ハジメと、知的障害のある孤児のカミサマが破綻した炭鉱の地下にあるという涙の海に妄想の機関車を走らせるという物語で、第47回紀伊國屋演劇賞個人賞、第20回読売演劇大賞優秀演出家賞、第16回鶴屋南北戯曲賞をトリプル受賞。シナリオライターを目指して上京し、アングラ演劇と出会い、現在に至るまで、今、もっとも注目される東憲司に、その遍歴を語ってもらった。
聞き手:大堀久美子

──炭鉱町や土着的風習の残る山里、一般社会から差別を受ける人々など、東さんの作品には出身地である九州の筑豊の原風景が反映されています。
 はい、両親ともに筑豊の人間で、病院も小学校もみんな炭鉱に付属した施設だったので、それを抜きには生活できませんでした。僕自身は生まれただけで1年もいませんでしたが、母方の祖母は炭鉱付属病院で賄い婦をしていたので、おばあちゃん子だった僕は炭坑の事故を告げるサイレンの怖さや、そこで生きる人々のことをよく聞かされていました。それが僕の一番の原風景になっています。「炭鉱三部作」としてもまとめましたが、劇団旗揚げ以来、劇作家として書き続けている世界です。
 炭鉱町から引越した先が、少し離れた糟屋郡という山間の集落です。そこには山の神を祀る信仰や霊山がありました。しかも間借りしたのがお寺で、周りにはお墓やお地蔵様がズラリと並んでいるという環境でした。僕はそこに幼稚園までいて、小学校に上がるときに、古墳が残る海辺の町・福津市に引っ越しました。この町の人たちは、福津が海女発祥の地だと言っていて、それは文学座に書き下ろした『海の眼鏡』の元ネタになっています。

──原体験が非常にダイレクトに現在の創作と結びついているんですね。
 そうですね。それともうひとつ、僕に大きな影響を与えたものがあるとすれば、中学の美術教師をしていた母でしょう。家には美術全集や石膏像など専門の資料があり、子どもの頃から、分からないなりにそれらを眺めるのが好きでした。また休日でも母が学校に出なければいけない時は、美術室で一人粘土をこねているみたいな子どもでしたね。それと、母が勤務していた博多の中学校の地区には被差別部落があって、そうした話も聞くともなく耳にしていました。そういう母や祖母の強い影響によって、今の僕がつくられていると思います。

──東さんはどんな子どもだったのですか?
 今からは想像できないと思いますが、とにかく身体が弱くて入退院を繰り返すような子どもでした。小学校も3年生くらいまで体育はほとんど見学。危ないからって自転車も買ってもらえなかった。その上、住んでいたのがすごく田舎だったので、妹は二人いるものの、遊ぶのはほぼひとり。就学前は本ばかり読んでいましたし、お寺の縁の下で空想を巡らせたり、木の上でひとりボーッと考え事をしたり、自作のお話や漫画を描いたり。かなり暗い子どもだった(笑)。家族以外の人と交わる機会はほとんどなかったし、身の回り以外の世界を本当に知らなかった。だから僕の作品の登場人物にはほとんどモデルがいません。いるとしたら家族くらいで、あとは妄想の産物です。

──引きこもったままの状態が続いたのですか。
 いえ、それが小学校の後半からバスケットボールを始めたんです。激しい運動はずっと止められていたんですが、たまたま体育の授業でやってみたら意外に上手くて、人並みの運動神経があることが分かった。それからはバスケットにのめり込んじゃって、性格も明るくなり、中学・高校でもバスケ部に入りました。しかもキャプテンにまでなった。大変厳しい練習で鍛えられて、お陰で劇団に入った後の体力的にキツい生活にも耐えられました。

──演劇とはどうして出会ったのですか。
 実は父が映画音楽が好きで。子どもの頃、ときどきチャップリンの映画や『ジョーズ』みたいな映画に連れて行ってくれたんです。僕は好きになるとのめり込む性格らしく、映画にもハマってノンジャンルで見まくりました。一時は年間150本くらい観ていましたね。だから高校を卒業して上京したときには、シナリオライターを目指していました。そこで出会ったのが寺山修司の実験的な映画です。寺山さんはもう亡くなっていましたが、寺山さんの演劇はいろいろな形で上演されていて、それを観たことがきっかけになって演劇に傾倒していきました。
 当時、渋谷にあった小劇場のジァン・ジァンで清水邦夫さんの作品を観て、心に響くものを感じました。清水さんの戯曲を蜷川幸雄さんが演出した『タンゴ・冬の終わりに』をパルコ劇場で観たときには、終演後、しばらく席を立てないほど感動しました。劇中に降らせた紙吹雪を記念に一枚拾って、最後の一人になってからようやく劇場を出ました。その時の衝撃が僕の「芝居をやりたい!」という決意を決定的なものにしたんです。

──それで木冬社に入団されたんですね。
 はい。でも実はその前に、1年ほど北海道の牧場で住み込みで働きました。演劇をはじめると、ひどく貧乏になるから好きな映画も見られなくなるんじゃないかと思ったら急に切なくなって。以前から憧れていた牧場で働いてみて、それでもやりたいという意志が変わらなければ演劇をやろうと。その牧場暮らしが凄くて、新聞は2、3日に1度郵便と一緒に配達されるだけ、キタキツネが周りを飛び跳ね、クマも出没するという奥地で。ノイローゼに近いほどのホームシックになりました(苦笑)。その間も友人に頼んで「新劇」「テアトロ」といった演劇雑誌を送ってもらっていて、結局、演劇をやるという気持ちは変わらなかったので、東京に戻りました。
 幸い、希望した木冬社に入ったのですが、お世話になったのは2年半ほど。若くてまだ自分がどうしたいのかも定まっていなかったし、木冬社は清水さんの奥様で女優の松本典子さんが中心だったので、戯曲も『楽屋』など女優ものが多かったんです。僕が憧れた清水さんの世界とは何かが違うと思い始めた頃、石橋蓮司さんと緑魔子さんの劇団第七病棟と新宿梁山泊に出会いました。どちらも、劇場以外の空間や野外のテントで芝居をしていて、そのダイナミックな世界に強く惹かれました。当時、梁山泊で劇作をしていた鄭義信さんの叙情的な作品に清水さんと通じるものを感じたこともあって、新宿梁山泊に入団させてもらいました。

──当時から劇作家や演出家を志していたのですか。
 いいえ、入団したときには何をやりたいということはなくて、9年間在籍していましたが、大道具や音響に関わっている時間が長かったですね。最後のほうは役者もやりましたが、実力というより順番が回ってきたという感じでしょうか。梁山泊で一番大きかったのは鄭義信さんという作家にじっくり触れられたこと。義信さんは劇作だけでなく人間的にも非常に魅力的でした。梁山泊は俳優も主宰の金守珍さんも個性的でアクの強い方ばかりで、刺激をたくさんもらいました。

──その後、1999年に『餓鬼道の都市』で劇団桟敷童子を旗揚げされます。
 一度、いろんなことを精算しないとこのままではダメだなと感じてたんです。そうしたら同じようなことを考えている仲間がいることがわかり、どうせなら自分たちが本当にやりたい芝居をやってみようと梁山泊を出ることにしました。それで、先に劇団を辞めて唐組に居た伊原裕次と彼が連れてきた池下重大、板垣桃子、稲葉能敬、僕と一緒に梁山泊を辞めた鈴木めぐみと外山博美、木冬社で一緒だった原口健太郎の9人で劇団桟敷童子を旗揚げしました。正直に言うと、各劇団から劣等生が集まった感じでしたね(笑)。僕が30代半ばで下は20代もいたから、一回りくらい年齢差があって。でもとにかく頑張ろう、納得いくまで芝居でバカをやろうというのが共通の想いでした。

──桟敷童子では、作家が「サジキドウジ」、美術が「塵芥(ちりあくた)」という架空の名前を名乗っています。これは集団創作をしているからなのでしょうか。
 旗揚げのとき、僕にも書きたいという想いは多少はありましたが、それより美術に対する欲求のほうが強かった。それで作家を探したんですが見つからなくて、劇団員全員で構想を話し合い、それを元にして僕が3分の1ほど書いたものを見せたら「これでいこう」ということになりました。でも、一人で書き上げるのは絶対に無理だと思ったので、劇団員全員の共同作業にして、「サジキドウジ」を名乗ることにしました。それが福岡に伝わっている水神伝説を元にした『餓鬼道の都市』です。
 「塵芥」も同様で、美術プランは一応僕が立てますが、劇団員総掛かりでつくるということでこの名前を名乗っています。劇作に関しては、数本伊原が手がけたこともありますが、基本的にはほとんど僕一人で書いています。それでも「サジキドウジ」を使い続けているのは、初心忘るべからずという戒めみたいなものです。
 ちなみに「桟敷童子」という劇団名は、日本に古くから伝わる妖怪・座敷童子をもじったもの。座敷童子は姿は見えないけれど、棲み着いた家に繁栄をもたらすと言われています。「見えない人には見えなくてもいい。でもそんな俺たちの芝居を、良いと言ってくれるお客さんもいるんじゃないか」という、消極的な願望を込めて付けました(笑)。

──戯曲は基本、博多弁で書かれていますよね。
 はい、とはいっても厳密に博多や筑豊の方言ということではなく、色々と混じっています。九州弁っていうか。劇団員にも正確なイントネーションは気にしなくていいので、雰囲気で訛ればいいと言っています(笑)。方言を使うのは、やはり自分にとって一番慣れ親しんだ言葉、いわば母国語なので、その方が筆が進むからというのが大きいです。それと東京の芝居は標準語が当たり前ですから、他の劇団との違いを出すにも有効だと思いました。語感の良さやリズム感を出せるし、登場人物の生活感を出すためにもいまや欠かせなくなっています。 

──実際の執筆作業はどうやって進めるのでしょう。
 結構乱暴で、大きなテーマが決まったら箱書きも何もせず、何でもいいからいきなり書き始めます。感覚的に筆を進め、それでも10ページくらいになる頃には、だいたいの話の構造は見えて来る。さらに3分の1くらい書けたなと思えたら「途中にこういうことが起きて、ラストはこうなる」というようなことを箇条書きにして、それに従って最後まで書き進む感じです。
 俳優のイメージがないと書けないので、外部に書き下ろす場合は、出演者の顔写真をもらって眺めながら書いています。劇団の場合はもう12年以上一緒にやってますから、当て書きして役がパターンにならないように、劇団員の顔を一度消去して、映画で好きだった銀幕のスターを思い浮かべながら「この役は三船敏郎で、こっちは乙羽信子で」と、僕の妄想キャスティングで登場人物を造型することもあります。凄いキャスティングですけど(笑)、俳優の可能性を狭めないためにも必要な作業だと思っています。
 題材にするのに資料を調べることも多いです。福岡に帰ると、古い寺社仏閣や郷土史に関する資料が豊富に残っていて、そこに記録された謂われや風習にはとても興味を惹かれます。戦争も安保闘争も知らないし、アングラ芝居が血気盛んな時代にも乗り遅れた僕たちは、抱えるものが何もないバブル世代なんですよね。そんな自分にとって郷土史は、創作のネタの宝庫。土着の伝承や風習には人間の知恵や哀しみが、深く濃くまとわりついていますから、それを引き出し、大きく広げていくのが、僕が戯曲を書くということです。最近は時間がつくれなくて難しいのですが、以前はそうした土地の空気を感じたくて、実際に訪ねたりもしていました。

──桟敷童子の特徴のひとつがつくり込んだ大掛かりな舞台美術です。美術プランはどうやって立てるのですか。
 「とにかく凝りたい」、というのが始まりです。ラストに大きくセットを動かして、景色を変えるような可動舞台もやりますが、動かしたり転換が多いと飾りきれない。だから一杯飾りでしっかり仕込み、その中に別空間をつくっていくようにしています。
 モチーフは劇作と同じで、自分がかつて聞いたり、見たりした記憶の中の風景。大量の花や風車で装置を埋めるなど、凝って作り込んだ過剰なものが好みです。番外公演と銘打って、アトリエで小規模作品を定期的にやっているんですが、その場合は、四畳半一間だったり、素舞台に近い舞台美術を使ったりもしています。

──あれだけの美術を仕込むのは大変だと思います。
 全員総がかりで1週間、長くて3週間もの間美術の仕込みにかかりきりになるので、その間はもう全員ヘロヘロで稽古もできません。本水を使うような仕掛けもあるので、舞台美術が完成してから舞台上で入念なリハーサルをやるようにはしています。こういう仕込みができるのも、僕らが普通の劇場ではなく、倉庫などで公演をしているから。劇場とは違うこうした空間で公演を行うのは、野外やテント公演と同じように、建物がもつ場所性を作品に取り込めるので、僕のつくりたい芝居にとっては不可欠な要素になっています。ただ場所探しは本当に大変で苦労しますが、今は錦糸町の鈴木興産さんに倉庫を貸していただけるのでとても助かっています。
 どちらにせよ、これだけの美術をつくるには体力も精神力も相当に必要。でも凝った美術は、僕にとって「劇団のプロである」ことの象徴なので、がんばりたいと思っています。でも年を取ったらギブアップせざるを得なくなるだろうし、その時は、つかこうへいさんのように素舞台の芝居にするか、劇団を解散するか、決断を迫られるでしょうね。

──昨今、プロデュース型で公演をやるところが増え、東さんのように劇団だからできる集団表現を追求しているところは少なくなっています。倉庫に仕込んだ舞台美術の雰囲気からアングラ劇団にカテゴライズされることも多いと思いますが、特権的肉体論に象徴されるような怪物的な俳優の演技よりもアンサンブルを大切にした演技スタイルのように思います。
 僕は、年齢で言ったら鐘下辰男さんと同じ年なので集団性には拘りがある世代なのですが、旗揚げしたのが遅かったので、劇団のキャリアでいうと青木豪さんの「グリング」と同じくらいの世代になります。
 誰かに「アングラですよね」と言われても、面倒くさいから否定はしませんが、演技的にはアングラではないですし、アングラを継承したいという意識もありません。以前所属していた梁山泊では、アングラの系譜にある六平直政さんなど、いわゆる怪優が活躍していましたが、うちにはそういう突出した個性の俳優はいませんし、そういうヒーローのいない、劣等生が集まってつくりだしているのが桟敷童子の世界です。ですから客演を迎えるときも、なるべくナチュラルな芝居ができる方にお願いしています。それは、僕の演技の好みでもあるのですが、母に連れられて子どもの頃に見た新劇の俳優さんの名演が原点になっています。当時は大滝秀治さん、杉村春子さんなどがご活躍で、その存在感に子どもなりに魅了されたことを覚えています。

──最近は外部へ戯曲を書き下ろす機会も増えています。また、2012年度の演劇賞も複数受賞されました。今後の抱負を聞かせてください。
 でも、ここ1、2年は本当に吐き出すばかりで、今は自分の中が空っぽのように感じています。やりたい演劇はあるのに、煮詰まることも多くて。僕は意志が弱いもので、煮詰まると資料探しにかこつけて映画を立て続けに10本くらい見たり、ビクビクしながら好きな舞台を観に行ったりしてる。救いようがない(苦笑)。でも、どんな紆余曲折があったとしても、僕はこれからも演劇をやっていくのだと思います。苦しみながらも劇団員たちに支えられて書き、演出する。自分のできることを地道に続け、自分の観たい芝居をこの先もつくれると、自分で信じるしかありませんから。
 
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