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長田育恵
長田育恵(おさだ・いくえ)
1977年、東京都出身。劇作家、日本劇作家協会所属。早稲田大学第一文学部文芸専修卒業。96 年よりミュージカルの脚本・作詞執筆や演出を手がける。2007年に本格的な劇作を目指し、第7期日本劇作家協会戯曲セミナーに参加。08年度同セミナー研修課において井上ひさし個人研修生に選抜される。08年に自ら主宰する「てがみ座」を立ち上げ、09年に『カシオペア』『鉄屑の空』2本立てで旗揚げ公演を行う。以後、作品毎に演出家を招き、公演を行う。史実や実在の人物に対する丁寧な取材を基に、イマジネーション豊かに書き上げる戯曲は高く評価されている。宮沢賢治を題材にした『青のはて─銀河鉄道前奏曲(プレリュード)─』が第16回鶴屋南北戯曲賞ノミネート、『地を渡る舟─1945/アチック・ミューゼアムと記述者たち─』が第17回鶴屋南北戯曲賞および第58回岸田戯曲賞(発表は2月19日)にノミネートされた。主な作品に江戸川乱歩を主人公にした『乱歩の恋文』(第22回テアトロ戯曲賞最終候補)、金子みすゞを主人公にした『空のハモニカ─わたしがみすゞだった頃のこと─』など。
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『地を渡る舟─1945/アチック・ミューゼアムと記述者たち─』
渋沢敬三が私財を投じて自宅の敷地内に創った民俗学研究所「屋根裏の博物館(アチック・ミューゼアム)」と、渋沢の同志とし膨大なフィールドワークを行った在野の民俗学者・宮本常一が題材。昭和10年から20年まで、満州国建設から第二次世界大戦の敗戦へと向かい焦臭い時代を背景にした、記憶を語り継ぐものたちの物語。
2013年11月20日〜24日/東京芸術劇場シアターウエスト
撮影:伊藤雅章地を渡る舟
地を渡る舟
地を渡る舟
Play of the Month
『乱歩の恋文』
人気怪奇小説家の江戸川乱歩こと平井太郎を下宿屋を営みながら支えた妻の隆子が題材。昭和9年1月、執筆中の『悪霊』が書けなくなった乱歩が失踪する。行方を探して乱歩が愛した浅草の町を訪れた隆子は、傀儡師と生き人形たちが演じる二人の結婚にまつわる物語を幻視する。
(2010年初演)
2012年1月26日〜29日/シアタートラム
撮影 : 伊藤雅章 乱歩の恋文 乱歩の恋文 乱歩の恋文
『空のハモニカ─わたしがみすゞだった頃のこと─』
童謡詩人の金子みすゞこと金子テルと夫との関係が題材。路地裏の狭い家に移り住み、夫によって「みすゞ」としての筆を絶つことを強いられたテル。しかし、足元の水たまりにも詩があることを見つけ、愛する娘を護るために渾身の詩を遺して、死を選ぶ。
(2011年初演)
2013年8月1日〜4日/座・高円寺1
撮影 : 伊藤雅章 空のハモニカ 空のハモニカ
2013年7月5日〜7日/京都芸術センター フリースペース
撮影 : 清水俊洋 空のハモニカ
『青のはて─銀河鉄道前奏曲(プレリュード)─』
1923年、妹のトシの死後に行われた宮沢賢治の樺太への旅が題材。父親、トシ、友人の保阪嘉内ら実在の人物との関係を反芻する賢治の旅と、賢治の足跡をたどる二人の女性の旅が交錯。永遠に未完の物語として『銀河鉄道の夜』を書きはじめることで再出発した賢治を描く。
2012年11月30日〜12月3日/吉祥寺シアター
撮影:伊藤雅章 青のはて 青のはて
Artist Interview
2014.1.31
play
Portraying the strength of people struggling to live on the brink  
崖っぷちを生き抜く人間力を描く  
評伝劇の旗手として注目されているのが、演劇ユニット「てがみ座」を主宰する劇作家の長田育恵(1977年生まれ)だ。東京・馬込の文士村近くで育ち、子どもの頃から物書きに憧れていた長田は、早稲田大学文芸専修に進学。たまたま手掛けたミュージカル脚本がきかっけで生の舞台の面白さに目覚め、働きながら日本劇作家協会の戯曲セミナーで劇作を学んだ経歴をもつ。これまで発表した主な作品は、怪奇小説作家の江戸川乱歩こと平井太郎と妻の隆子との出会いを題材にした『乱歩の恋文』(2010年)、童謡詩人の金子みすゞこと金子テルと夫との関係を題材にした『空のハモニカ─わたしがみすゞだった頃のこと─』(2011年)、宮沢賢治の樺太への旅を題材にした『青のはて─銀河鉄道前奏曲(プレリュード)─』(2012年)、渋沢敬三が私財を投じて創った民俗学研究所「屋根裏の博物館(アチック・ミューゼアム)」と在野の民俗学者・宮本常一を題材にした『地を渡る舟─1945/アチック・ミューゼアムと記述者たち─』と、いずれも実在する人物を主人公にしたものだ。膨大な資料を読み込み、舞台となる土地を訪ね、その果てに長田が掴み取った言葉で描いた作品には、時代の断層を生き抜き、崖っぷちで踏みとどまった人々の人間力が込められている。故・井上ひさしに個人研修生として師事したこともある長田に、評伝劇に込めた思いと、これまでの歩みを語ってもらった。
聞き手:大堀久美子

──長田さんは東京・馬込で育ったそうですね。
 はい。小学校に上がる頃、馬込にあった祖父の家に同居することになりました。祖父の家はかつて「文士村」と呼ばれた界隈のど真ん中にあって、すぐ裏には尾崎士郎さんや宇野千代さんの旧居があり、あちこちに文人ゆかりの石碑が立っていました。作品を読んでもいないのに、学校の図書館で彼らの本や名前を見つけると、住んでいる家や近くの路地の景色が思い浮かぶ(笑)。変な子どもでした。

──それで自然に物を書くことに興味がでてきたのですか。
 住んでいたところだけでなく、家族の影響もあったと思います。母は学生時代に新体操をしていてコンテンポラリーダンスが好きでしたし、彫金や陶芸など、手を使ってものを創ることも大好きでした。祖父も書斎に籠もって何かしらものを書いているような人で、そこにお茶を運ぶのが私の仕事でした。一時、母の勧めでバレエを習わされたことがあったのですが、他の子にぶつかって私だけ骨折するみたいなことが多くて(笑)、自然と本好きになっていったように思います。でも最初にハマったのは先の文士たちの小説ではなく、子どもらしく江戸川乱歩の「少年探偵団」やコナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」、モーリス・ルブランの「怪盗ルパン」などのシリーズです。図書館にあるこれらの本を目当てに学校に通っていたようなものでした。

──文学少女だったんですね。
 とにかく「物語」が大好きでした。小さい頃も、私が筋を考えて幼馴染と二段ベッドを船にして嵐の中を航海するごっこ遊びに夢中になったり。逆に大勢で遊ぶときには加わらないで見てるほうでした。そういう感じだったので、小学生の頃には「自分は物語を書く職業に就こう」とうっすら思っていました。5年生の時に、担任の先生が宮沢賢治の『やまなし』をもとに私が作った紙芝居を見て、初めてきちんと褒めてくださった。それでもっと作文を書いたほうがいいと勧めてくださったんです。この先生のお陰で、私は文章を書くことで世界の扉を開ける、その開け方に少し気づくことができたように思います。

──それからどのような針路に進んだのですか。
 中・高はミッション系の女子校に進み、それまでの反動と武道の独特の空気に憧れて剣道部に入りました。途中で辞めたくなったのに言い出せず、結局6年間続けて部長までやりました。でも図書館にも入り浸って、栗本薫の「グイン・サーガ」シリーズのような長大な小説を端から読んでいました。
 中学時代には、既存の物語の好きなキャラクターを使った短いアナザー・ストーリーを書いて、友達と一日おきに交換したり。相手は3日でギブアップしましたが、私はいくらでも書けたのでひとりで続けました。読んでもらえるのが嬉しかったし、登場人物が勝手に動いて喋る感覚が楽しかった。
 この時期、実は私の人格形成にとても大きな影響を与えた出来事がありました。

──それは、どういうことでしょう?
 中学1年のとき祖父が亡くなり、それと同時期に、母が国が指定する難病に冒されていることがわかったんです。学校と病院を往復する毎日が長く続きました。まだ治療薬が見つかっておらず、母は今でも闘病生活を続けています。
 家族の中に、常に「死」に向き合い続けている人がいると、生きる時間を刻む砂時計の存在を強く感じるようになります。周囲の同じ病気の方の変化によって母の気力が影響されるのを見ると、生きる力や意志によって砂の落ち方が変わるんじゃないかと思える。母のおかげで、何でもない日常もいつまで続くかわからない、だからこそかけがえのない大切なものだと、随分若い頃に気づきました。このことは、今私が書いているもののカラーに、決定的な影響を与えていると思います。

──若くして人生観が変わるような経験をされたのですね。作風のお話の前に、もう少し演劇と出会うまでについて聞かせいただけますか?
 はい。その後、作家志望だったので早稲田の文芸専修に進学しました。剣道のときと同じように反動的な欲求が湧いて、ジャズダンスがやりたくなり、早大ミュージカル研究会なら踊れるだろうと入部しました。ここは創作ミュージカルをつくっていて、部員が投稿した台本から上演作品を選ぶのですが、入部したての私がたまたま「映画シナリオの書き方」みたいなノウハウ本を読んで書いたものが選ばれてしまった。しかも「執筆者が演出もやる」という伝統があり、私は必要に迫られて演劇の世界に飛び込むことになりました。
 本当に何も知らなかったので、文学座や東京乾電池などにいるミュージカル研究会の先輩に連絡して、「手伝いますから、芝居作りの現場を勉強させてください」とお願いしました。劇団の運営や制作的なことも知っておくべきだと考えて、当時大学に一番近かった水森亜土さんの未来劇場でアルバイトもさせてもらいました。演劇そのものだけでなく、社会人とは違った人間くさい人たちや劇団ならではの面白い人間関係など、裏から演劇をすることができたのは貴重な体験だったと思います。
 それから、手当たり次第にいろんな劇団の公演を見に行きました。紀伊國屋ホールで自転車キンクリートの公演を初めて見たとき、劇場から出てくるお客さんがものすごく喜んでいて、笑顔で、内側から発光しているように見えたんです。母が闘病していたこともあって、人の命が活力に溢れている瞬間に立ち会って、演劇は本当に凄いなと思いました。小説を読んでいるときにも感動はありますが、たまたま客席で一緒になっただけの普通の人達が、壁がパッと開いていくような場を一堂に体験できる。生の人間が演じるというのは凄い。演劇を真剣にやってみたいと思うようになりました。

──たまたま部活のミュージカル公演をやることになっただけなのに、すごいモチベーションですね。
 読書などと同じで、夢中になると際限がなくなるところがあるんです。ミュージカルに関しても始めた途端に、日本でも本当に面白いオリジナル・ミュージカルがつくれるはず!と、すごく燃えちゃった(笑)。作詞も自分でやるので、日本語の単語を、意味だけではなく音程やイントネーションで捉え直す訓練も自主的にしました。限られた言葉数でいかに表現するか、そのためにどう言葉を選ぶかの感覚は、この時代に培われたのだと思います。
 在学中は、文芸専修にいましたが、結局1本も小説を書きませんでしたね。

──卒業してからミュージカルの台本を書かれるようになります。
 ミュージカル関係の人とはツテができたので、商業ミュージカルの台本を書くようになりました。ただ、そこでは私の作家性が問われるというより、誰かの求めに応じて職人的に仕事をするという感じでした。それで現代演劇の戯曲を書きたいという思いを抱くようになっていきました。

──それで2007年に劇作家協会の戯曲セミナーに行かれるわけですね。
 はい。小劇場の世界に行きたいけど、どうすればいいかわからない。それなら手始めに現代演劇の戯曲を書きたい人がいる場へ行こうと思いました。でも、当時、私は日暮里サニーホールの副支配人として勤務していて、「毎週何曜は休みます」とは言えなかった。4年ほど勤めていたのですが、結局辞めることにしました。

──いつも針路変更が強引ですね。
 それは、母の影響が強いからだと思います。「身体が動くうちに」ではないけれど、「何かをできる時間は限られている。迷っている暇はない」というような切迫感を、私も常に感じているところがあります。
 それで、2007年から派遣社員として早稲田の演劇博物館(演博)で広報の仕事をしながら、セミナーに通う二重生活を始めました。実はこの演博での経験が私にとってとても面白いものでした。学芸員の方たちが、もう亡くなっている歌舞伎俳優や浅草軽演劇の人たちについて、今も交流がある知人のように話題にするんです(笑)。作品に関してより、どれだけ女好きだったかとか、ダメなところや魅力的なところなど芸術家の人間としての見方に触れる機会になった。私がものを書くとき、人間のどこに惹かれ、何を愛おしく感じ、書くためのモチベーションにするかというベースは、この演博時代に培われたのだと思います。

──セミナーでは、故・井上ひさしさんの指導も受けられました。
 先生は2010年春に亡くなったので、私を個人指導してくださった08年が指導最後の年です。07年のセミナーで書き上げた提出作品がきっかけで、特定の劇作家と師弟関係を結んで個人指導を受ける選抜クラス(研修課)に採用していただきました。教室での授業はなく、師にあたる作家の裁量でコミュニケーションを取りながら指導を受けます。
 でも先生が忙しくて、なかなか会う時間はとれませんでした。それで公演のときなどに挨拶に伺うと、ロビーで物販本に黙々とサインしながら、3カ月前に提出した作品について「あれ、ああしたらいいと思うんだよね」と語られる。開演前、時間にして5分くらいだと思いますが、そこで聞いた話を客電が落ちるまで必死にメモしました。仙台の文学館での講演会を聞きに行ったときも、懇親会が始まる前の10分くらいで大切なことを1つ、2つ仰るんです。それを帰りの新幹線で懸命にメモして。「指導」というか、「背中を見る」という感じの1年でした。

──作家としての在り方を学んだということでしょうか。
 確かに一番大きな教えは、先生があの年齢で第一線の創作者として在り続ける姿を間近に見られたことかも知れません。鎌倉の喫茶店でお会いしたときも、私へのアドバイスに加え、必ずご自分が今書かれようとしているものの構想を話されていた。『ムサシ』や『ロマンス』の執筆中で、「面白いと思う?」と訊かれたりもしました。
 教えていただくのは、とてもシンプルなことばかり。「人生で1回しか言わないようなことを言わせなさい」「この世界のルールをわからせた後は、全部それを逆転させていくんです」というような、先生が自分の作劇で心がけていることを格言のように言われ、私はひたすらそれを書き留める。その、本当の意味がわかってくるのは、てがみ座を旗揚げした後になってからです。
 最後の研修会では、「今日1日をあなた自身の意志の力で良い方向に向かわせなさい」という言葉をいただきましたが、その時は、ただ「はい」としか言えませんでした。自分が物書きとして仕事をするようになり、追い詰められて自分の精神やアンテナを原稿に向かわせ続けるのがどれほど難しいかを経験し、あの言葉が「一生第一線で物書きであるための秘訣」だったんだと気づきました。先生は「100本ぐらい書いてやっと書き方がわかってきた」とも言っておられて、どこまで行ってもクリエーターが楽になる日は来ない、物書きでい続けるのは大変なことなんだと思いました。

──物語を書くのと、戯曲を書くのは違いますか。
 最初は戯曲というのは台詞で全てを書き表すものだと思っていました。でも次第に、劇作家というのは耳で聞える台詞だけでなく、身体や劇空間、目に見えないこと、耳で聞こえない言葉も書くものだと考えるようになりました。その「聞えること」と「聞えないこと」の両方を編みこんでいくのが本当に面白くて。言葉以外の何かを綴るのに、綴るための手段としては言葉しかない。矛盾ではないですが、戯曲を書くようになって「目に見えるものを使って、目に見えないものを書く」という面白さを発見していったように思います。

──2009年には「てがみ座」を旗揚げされます。てがみ座は劇作家の長田さんが主宰し、メンバーは数名の俳優だけで、演出家を作品毎に招く演劇ユニットです。
 先生から教わったことをとにかく形にしたかった。それと、発表しなければ仕事も来ないし劇作家にもなれないので、とにかく発表できるようにしたいというのが旗揚げの最大の動機でした。だから、最初は出演者もスタッフも決まってないのに、書き上げた戯曲だけ持って来年の公演の会場を予約するために王子小劇場に行きました。今思うとムチャクチャです(笑)。
 その日はちょうど詩森ろばさんの風琴工房が公演をしていて、終演後にカフェをやっていたんです。劇場の人がそこにいた美術家の杉山至さんを紹介してくださって、それが縁でずっと杉山さんに美術をお願いしています。出演していた扇田拓也さんにもその場で戯曲を渡して、主演してくださいとお願いしました(笑)。扇田さんは、今ではてがみ座に欠かせない演出家になっています。私にはいつもやりたいことや思いが先にあり、そのための手段は後からついてくるという感じです。

──長田さんが自分で演出しないのは、劇作に専念したいからですか?
 私にとって演出は別種の仕事で、劇作との兼業はできないと思いました。演出家は多分、生身の人間を俳優にすることができて、劇空間そのものをクリエイトすることができる人。私はそういう力をもっている人に、私のテキストを踏み越えてもらうために書いているので、自分でやるのはあきらめました。ただ、劇作だけやっているのではなく、毎回劇中の小道具、オブジェなどは稽古場の隅で私が作ったりしていますし(笑)、主宰者として制作業務にも関わっています。

──江戸川乱歩、金子みすゞ、宮沢賢治、宮本常一など、長田さんは実在の人物を題材にされています。なぜ実在の人物にこだわっているのでしょう。
 先にもお話ししたように、特定の分野や状況では天賦の才を発揮できても、日常的には欠落や過剰性のあるダメな人たちに、作家として魅力を感じています。でも、その人たちを描きたいから評伝劇を書くようになったというより、自分に合う文体を探しているうちに人間を題材にした評伝劇に行き着いたというのが正確なところです。
 そのターニングポイントとなったのが、青蛾館25周年記念の『青ひげ公の城』(2010年)です。これは、寺山修司の『青ひげ公の城』と岸田理生の『悪徳の栄え』を脚色して一つの作品にして欲しいと依頼されたものですが、そのときアングラの文体を模写するという経験をしました。そこでアングラの劇作家が紡ぐ言葉の熱量、詩情に触れて、その文体が自分にとって非常に魅力のあるものだと気づきました。
 現代演劇では平田オリザさん系の口語演劇が主流になっていましたが、私にはそういう自分の日常から発する戯曲は書けそうもなかった。でもアングラの文体と出会い、自分には合っていない口語演劇を書く必要はないと気づいた。これは大きな発見でした。それでアングラのような文体を試みることのできる題材として思い付いたのが江戸川乱歩の世界でした。乱歩が早稲田に下宿屋を開いていたのは知っていて、その下宿を切り盛りしていた乱歩の奥さんが面白そうだと思ったのが、評伝劇を書くようになったきっかけです。

──興味深い経緯ですね。戯曲を書く工程についても聞かせていただきますか。
 題材選びで最初に考えるのは、「時代の断層」があるかどうかということです。乱歩や金子みすゞらに注目したのは、彼らの人生に「大正12年」という関東大震災の年があったから。古い時代の帝都・東京が滅び、新しい東京が始まる切り替えの時期で、少なからぬ影響を受けていました。『地を渡る舟』では第二次世界大戦がそれに当たります。そんな「時代の断層」から垣間見えるものを見たいという欲求が作家としてあります。
 そして、その時代に生きた人間にフォーカスを当てていきますが、有名な人であればあるほど、その人のアウトラインや情報が世の中には溢れている。一見素材が多いように思われるかもしれませんが、実はそれら一般的に知られている情報は材料にならないんです。

──周知の事実をなぞっても意味がない。
 ええ、書くモチベーションにもなりません。それら膨大な情報を全て消化してしまった後で、それまで見えていなかった部分を掴むことこそ評伝劇を書く醍醐味だと思います。他者が書いたその人の「像」ではなく、自分で現地を訪ね、描くべき人物も感じたであろう感覚を自分の身体で感じ、自分の主観とすることで、描くべき人物像に辿りつきたい。すでに目に見えるもの、ノンフィクションに見える部分を全部通り抜けた後、「なぜこの人に惹かれたか」の理由も分かってくることが多いです。自分のアンテナを使って、題材となる人物と交信するような感覚もあります。
 私が一番こだわっているのは、多分、その人物の生きる力を書くということ。この人が存在を賭けた理由は何だったのか、生きる意志はどこにあったのか、それを掴まないと何にもならないといつも感じるので、きっとそこが一番書きたいんだと思います。

──そこが掴めれば、人物が勝手に動き、語り出すのでしょうか。
 はい、その人の主観に自分が共振できれば、登場人物の言葉も本などからの引用はほとんど必要ないほど、自分の言葉として出てきます。そのためにも対象となる人物の意志のありようやルーツ、その人物が存在を賭けた場所がどこかなどを掴むために、関連する場所を訪ね歩いたり、人に話を聞いたりします。

──書斎派ではなく、行動する作家なんですね。
 宮沢賢治を主人公にした『青のはて』では、サハリンに取材に行った自分の足跡を反映した作品にしました。『地を渡る舟』では、作品の核である宮本常一が民俗学に魅了される部分が掴めなくて、彼の故郷・周防大島や沖家室島などの所縁の地を尋ねました。彼を知る人にできるだけ会い、話をしました。常一から感化された人たちは、今もその土地で生きていくために何ができるのか、市民講座や青年会の活動などを通じて地域に貢献することを考えていらした。常一の思想や信念が、今も人々の中に息づいているとわかり、そこから私は「列島が発光する」という言葉を見つけた。常一の活動が出会った人の目を開かせ、心に火を灯し、その火が各地で点々と燃え広がる様子を表現する言葉です。それでやっと戯曲を書き上げることができました。

──『青のはて』で描かれたサハリンの原野が白々と明けていく風景や、『地を渡る舟』の周防大島の海に面した小屋からの眺めと波音など、長田さんの戯曲では印象的な風景が描かれています。
 「景色を描きたい」という欲求が作劇の大もとにあると、自分で書いていても思います。その景色は、主人公の目や心を通して見た主観的な景色、心に残った景色です。それは、私が書くための拠り所になり、書き進めるための原動力にもなる。がんばってその景色に辿り着くために、2時間余りの旅を書いていると言っても過言ではありません。
 私にもそうした原風景になるような景色があります。自分の経験ではなく、母から聞かされた思い出話が元になっているのだと思いますが、綺麗な月が出ているんだけど真っ暗な畦道を人が歩いているんです。その人は祖父で、その風景には祖父の故郷に対する思いや母の心細さといった主観的な感情が折り込まれている。私が探しているのは、そういう景色なんだと思います。

──その景色を舞台上で表現するために、美術家や演出家と入念に話し合われるのですか。
 美術の杉山さんはてがみ座の最初からの付き合いで、作品のコンセプトや理念を共有していただいていますし、毎回詳細な意見交換をします。『地を渡る舟』では竹林のようなセットを組みましたが、竹は生命力の象徴であり、いざというときの農民にとっての救荒植物であり、日本古来からの文化を繋ぐツールだとか。そういうキーワードを共有した上で、いろいろなものを呼び込める余白ある装置を目指しました。演出家には、いつも戯曲を踏み越えて欲しいと思っていているので、「違う景色を立ち上げる!」という意志を持った人との仕事の方がワクワクするし、上手くいくように思います。なので扇田さんとはギリギリまで話し合いを続けますし、毎回、思いがけない景色を見せてくださっていると思います。

──長田さんの戯曲は、実在の人物が登場するためにリアリズムの演劇だと思われがちですが、目指しているものが全く違うことがよくわかりました。
 リアリズムでは到達できない熱量の台詞を書いていますから、演出も演技も、通常の表現より飛躍のあるものでないと成立させられない。扇田さんもそれを踏まえて、戯曲を解体し、そこに役者の現在、彼らの裸のリアルが見えてくるような演出をしてくださるので、安心して戯曲を預けられます。結局、私も扇田さんも欲張りなんですよね(笑)。
 
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