The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
Contents
多田淳之介
多田淳之介(ただ・じゅんのすけ)

東京デスロック
http://deathlock.specters.net
pdf
『가모메 カルメギ』
(2013年10月1日〜26日/ソウル市 Doosan Art Center Space111)
(C) Doosan Art Center
カルメギ
『再生』
(2006年10月26日〜31日/アトリエ春風舎)
(C) Tokyo Deathlock
再生
『LOVE Tottori ver.』
(2010年2月20日、21日/鳥の劇場)
撮影:米井美由紀
LOVE Tottori ver.
『ROMEO & JULIET 〜JAPAN ver. 〜』
(2009年10月24日〜28日/富士見市民文化会館キラリ☆ふじみ)
(C) Tokyo Deathlock
ROMEO & JULIET
『WALTZ MACBETH』
(2011年2月25日〜27日/富士見市民文化会館キラリ☆ふじみ)
撮影:石川夕子
WALTZ MACBETH
『MORATORIUM モラトリアム』
(2012年5月19日〜20日/STスポット)
撮影:佐々 瞬
MORATORIUM
Artist Interview
2015.5.11
play
Creating performances in a live mode like a DJ, the world of Junnosuke Tada  
DJのようなライブ演出で創り出す 多田淳之介ワールド  
激しい音楽とともに集団自殺する前のどんちゃん騒ぎを反復する『再生』(2006年)で注目された演出家・多田淳之介(1976年生まれ)。東京デスロックを主宰し、「目の前に俳優がいることを演劇の最大の魅力とする」「既存の演劇の手法を見直して新たな可能性を広げる」「現代口語演劇としてのコミュニケーションを追求する」ことを掲げ、多彩な作品を発表。椅子取りゲームで表現する『WALTZ MACBETH』(2008年)、喪服を着た何組もの男女が走り回り、絶叫する『ロミオとジュリエット』(2009年)、舞台と客席の壁を取り払い、観客とのコミュニケーションを図る8時間のパフォーマンス『MORATORIUM』(2012年)など。いずれもDJのように多田がオペレーションする音楽やライブカメラ映像などを駆使し、俳優の身体が躍動するコミュニケーション演劇を生みだしてきた。多くの若手演出家を輩出している青年団演出部に在籍した経験をもち、2010年には富士見市民文化会館キラリ☆ふじみ芸術監督に就任。これをきっかけに各地で市民が台本をつくる市民劇を構成・演出する他、近年では韓国演劇界との交流に注力。2013年には韓国の劇作家ソン・ギウン(第12言語スタジオ主宰)とのコラボレーションによる『カルメギ』で韓国・東亜演劇賞の作品賞・演出賞・視聴覚デザイン賞を受賞。多田淳之介ワールドとも言える演出スタイルの成り立ちから韓国との交流まで、その幅広い活動の全容を振り返ってもらった。
聞き手:野村政之[演劇制作者、ドラマトゥルク]

青年団に出逢うまで

──演劇を始めたのは大学に入ってからですよね。

 中学、高校はバンドをやっていて、演劇には興味がありませんでした。ただ、文化祭で演劇を盛んにやる高校で、3年生の時には参加体験型演劇みたいなことをやりました。5クラスくらい借り切って、教室ごとに「気持ち悪い」とか「気まずい」というコンセプトの授業をやりました。お客さんが生徒としてその気持を体験するんですが、考えてみると今やっていることと繋がっているかもしれません(笑)。
 漠然と俳優になりたいと思っていたのですが、演劇はダサイから嫌で(笑)、日本大学芸術学部の映画学科俳優コースに進学しました。大学に入ってから鴻上尚史さんのワークショップ公演のオーディションを受けたりしましたが、下手すぎて公演2週間前に下ろされた(笑)。大学を3年で辞める頃には、高校時代の友達と一緒に、早稲田界隈でアマチュア劇団を渡り歩いて演劇をやるようになっていました。当時の早稲田大学は、阿佐ヶ谷スパイダースの長塚圭史さん、東京オレンジの堺雅人さん、ポツドールの三浦大輔さんたちが活躍していて、とても活気があった。1999年に、何の巡り合わせか鴻上さんの公演で降ろされた僕の代役を務めてくれた高橋拓自さんのいた動物電気に入団し、7年ぐらい俳優をやりました。

──東京デスロックの結成は2001年12月です。立ち上げの経緯を教えてください。
 この頃、早稲田界隈でプラプラと客演していた俳優の夏目慎也と知り合いになりました。彼の出演機会をつくってやろうと、もう一人の友人と3人でちょっとふざけ気味に立ち上げたのが東京デスロックです。どことなく演出をやりたいという気持ちにもなっていたので。

──2003年には東京デスロックをやりながら青年団演出部に所属します。
 鴻上さんがワークショップのときに、当時、小劇場にとても影響のあった青年団の平田オリザさんがやっていた「静かな演劇」についてネガティブな話をしていて、はじめてオリザさんの名前を知りました。その後、猫のホテル、グリング、THE SHAMPOO HATなどいろいろな芝居を見るようになり、「静かな演劇」についてのイメージが変わっていきました。もう青年団を観に行くしかないと思って、『上野動物園再々々襲撃』(金杉忠男原作)を観たらとんでもなく面白かった。
 それで、東京デスロックを旗揚げするときに、暗転もするし、音楽もかけるけど、「静かな演劇」のようにリアルに喋ろう、客に背中を向けて喋ろう、現代口語演劇をやろうと思いました。でも旗揚げのビデオを見ると、見様見真似なので全くできてない(笑)。台本が書けてないというのもありますが、これは無理だよね、というレベルでした。

──それですぐに青年団に入ったのですか。
 当時、青年団の新人募集が2年に1度だったので、2003年1月に入りました。夏目も僕も俳優部の試験には落ちて、僕は演出部で何とか入れた。この頃、演出部に演出家がたくさん入団したので、「青年団リンク」(青年団とは別に自ら主宰するユニットの活動を行う)というシステムが出来ました。

──多田さんは演出家としてはほぼ白紙状態で青年団に入団したわけですが、平田さんからはどんなことを学んだのでしょう。
 入団して学んだことという意味では、オリザさんからのダメ出しももらいましたが、永井秀樹さんや山内健司さんといったオリザさんが育てた俳優たちと作業できたことが大きかったです。自分の作風が変わったのも彼らのおかげです。青年団の俳優は、普通の会話をリアルに演じますが、例えば、会話をするときに相手を見ないでリアルな表現をすることができる。そうすると、例えば、あなたはブラジル、あなたはアメリカにいます、という設定で、隣に立ってリアルに会話してみたらどうなるか、といったことがやれるわけです。俳優の現代口語演劇としてのコミュニケーションや反応の部分だけ死守しながら、「この俳優たちを使うと、もっと何か色んなことができるんじゃないか」と思って、試していきました。

──東京デスロックでは何をテーマにしていたのですか。
 当時、「死に纏わる物語」というコンセプトがありました。一応劇団名もそこからです。登場人物が殺されるというよりは、むしろ誰かに死なれた人たちがどうやって生きていくか、を一貫して取り上げていたように思います。演出をやろうと思っていた時期に、たまたま家族に不幸があって、死ぬこと、残されることの理不尽さに対してモヤモヤと考えていたのが関係していると思います。「何かひどい目に遭うんだけど、何としてでもポジティブに生きてやろう」というような感覚、「やせ我慢してでも頑張るぞ、明るくするぞ」みたいな感覚に興味があったんでしょうね。

──2006年に発表した『再生』が、東京デスロックの最初の代表作だと思います。この作品は、青年団が若手に開放している実験的な稽古場兼小劇場のアトリエ春風舎で上演されたもので、集団自殺する前に集まった若者たちが激しい音楽をかけながらどんちゃん騒ぎをするのですが、同じ行為を3回繰り返します。演出は同じでも俳優達はどんどん疲れていく。観客はそこからさまざまなメッセージを読み取ります。
 当時は、現代口語演劇を使ってどういうことができるのか、色々試してみるのが楽しくて、『再生』の前に『3人いる!』(2006年)という作品を発表しています。『3人いる!』では、「同じ俳優が同じ役をやり続けなくてもいいんじゃないか」と、物語とは関係なく俳優の間で役を交換し続けました。『再生』の場合は、「話をスタートから終わりまでやってお終い、にしなくてもいいんじゃないか」「同じ話を繰り返すことで何かできるんじゃないか」と考えました。稽古当初は地味な会話劇を3人が繰り返すだけだったのですが、色々試していくうちに運動量がどんどん増えていきました。運動量が多いものを3回繰り返すと別のものが見えてくる、死ぬ話を繰り返すと生き返ったようにも見えてくるんですよね。

──次作の『LOVE』(2007年)では、音楽が流れる中、女の子数人が踊りながら無言で感情を表現し続けます。男の登場によって女の子達の空気が変わり、また、男(客席に背を向けている)が女の子達に質問され続けることで感情が変化します。
 現代口語演劇の俳優は、相手の台詞や動作のどこかに反応して台詞を出しているわけですが、一方で、すごくテクニカルに動いていて、同じ景色で、同じ音が聞こえたら、同じタイミングで同じように身体を動かしている。ならば、言葉がなくて身体だけでもできるんじゃないかと、身体のコミュニケーションだけを抜き出すことを考えました。それに加えて、『再生』の時に発見した、運動していくと時間とともに身体が疲労していくことを掛け合わせました。「繰り返しているけど、現実には身体が疲労しているので繰り返せてなくて…時間は確実に流れていく」ということを使って何かやってみようとしたのが『LOVE』です。


独自の演出作法を磨く

──多田さんの作品づくりは、稽古場で実験を重ねて、先の見えない試行錯誤をギリギリまでやるところに特徴があります。こういうスタイルで作品づくりができたのも、自由に使えるアトリエ春風舎という場所があったからだと思います。

 アトリエ春風舎がオープンしたのが2003年で、翌年から4年くらい演出家として春風舎を使い倒していました。青年団若手自主企画が2本、東京デスロック公演と合わせると、年間4〜5本はあの空間でやっていました。1カ月春風舎で稽古できて、そのまま本番がやれる。舞台美術を徐々につくれたし、照明も少しずつ仕込んで実験ができました。当時は、僕が春風舎の管理人もやっていたので1年中あそこにいました。実際今でも、時間もないのに劇場入るまでつくらない、つくれない、ということもあります。

──稽古場ではどのようなつくり方をしているのですか。
 話し合いですね(笑)。お題を投げて、「語り合ってください」とやって、その姿を僕がずっと見ている。毎回、だいたいそうやってつくっています。戯曲があるときでも同じです。お題は、自分が生きていて、生活していて、考えていることから出てきます。例えば、今年は終戦70周年や日韓正常化50周年もあるので「平和」をテーマにした作品をつくろうと考えています。

──ただ話し合っても芝居にならないような雑談しか出てこないと思いますが…。
 他人の無駄話が聞きたいんです(笑)。自分じゃない脳味噌が何を考えているのか知りたい。特に戯曲を使わない作品や市民劇の時は、自分じゃない脳味噌をまず使ってもらって、そこからいろいろと出てきたものを、「自分にはどう見えるか?」と考えます。1時間喋ってもらって、休憩して、何か面白い話が出たら「ちょっとそれやってみる?」と取り掛かる。「とりあえず1回戦争反対って大きい声で言ってみよう」「じゃあ賛成も言ってみよう」「違うものに反対してみよう」とやって、どう見えるかを試すんです。

──実は、僕も稽古場を見たことがあるのですが、その無手勝流ぶりは凄いですね。普通はどこかに落としどころを考えているものですが。
 ないですね(笑)。みんなの無駄話を聞きながらやってみたことをメモして、試し続けて、本番直前に形になることが多いです。段々組み上がっていく時もあるし、組み上げてダメだという時は、シーンのつくり直し、入れ替えをギリギリまでやり続けます。

──そうすると、出演者を誰にするかが決定的な要因になりませんか。
 はい。各々が出してくる話題も違うし、人としての見た目も違う。だからキャスティングはとても難しいです。2013年に発表した『シンポジウム』では「日本」をテーマにしたかったので、日本各地、韓国からも俳優を呼んで、バックグラウンドの違う人たちとつくりました。

──2008年には富士見市民文化会館キラリ☆ふじみの企画で『ロミオとジュリエット』の一部を演出しました。ここから既存戯曲の演出が増えていくように思います。こうした既存戯曲の演出については、交流のあった三条会の主宰者である関美能留さんの影響もあると聞いたことがありますが、いかがですか。
 三条会に俳優として出演させてもらったこともあり、関さんには相当影響を受けています。戯曲があってそこからどう作品を立ち上げていくか、俳優に何をさせるか、曲の選び方、古典をいかに現代的にやるのか。戯曲とお客さんの間を繋ぐという演出家の立場についてなど、いろいろ考えさせられました。
 関さんの場合は、舞台美術など造形的、美的なところからも入っていきますが、僕は俳優を自由にさせるのが好きじゃなくて、俳優に負荷をかけることから何か見えてくるんじゃないかというアプローチをしています。それと、古典をやる時の台詞術への嫌悪感が強くありました。でも、大きな声で格好良くは言わせたいとも思っていて。そうした時、身体に負荷がかかっていると大きな声を出してもそんなに恥ずかしくないんですよね。

──オリザさんと違って、多田さんの演出では舞台と客席に光が回るミラーボールを使いますし、音楽、照明、映像などを過剰に使います。現代口語演劇の演出方法と少し方向性が異なるような気がします。
 個人的には現代口語演劇から離れているつもりはなくて。例えば、青年団の場合も、台詞と俳優が一番大事ですが、それと同じぐらい小道具や、俳優のいない時間にも価値があると考えます。つまり、コップと俳優は等価なわけで、その延長線上で言えば、俳優も音響も照明も観客も等価なのでその場にあるものは同じくらい使ってもいいと考えることも出来る。だから、体感としてそれを感じてもらいたくて、お客さんを煽りたくて、音楽の音量もやけにデカイくなるんですね。ミラーボールを使いたくなるのも、「作品があって観客がいる」というよりは「この空間で起きていることすべてが演劇」という感覚がすごく強くて、それを感じてほしいからだと思います。

──いろいろな要素をコントロールしている演出家としての立ち位置が、DJに似ている気がします。
 そうですね。音響や映像も自分でオペレートしますし。お客さんの数や、その日の天気、俳優の調子によって、音響や映像が変わってしかるべきだと思っているところはありますね。もともと演劇は、ライブの上演の瞬間で成り立っているものですが、それと同時に、もうちょっと観客とも関係を結んで、観客の反応を期待して、それが可視化できると面白いんじゃないかと、最近は思っています。

──プロレスのリングに客席から野次が飛んだりするように、舞台と客席のテンションがほぼ100パーセント同じような関係の芝居をつくりたい、ということですか。
 そうかもしれません。ライブに行ったときに、同じ空間にプレイヤーもいて観客もいて、場を共有しているという感じが良いなあ、と思います。演劇ももうちょっとそのように、お客さん同士がお互いを意識できるような仕掛けにしたいというのはありますね。


市民劇における探究

──多田さんは、2010年に富士見市民文化会館キラリ☆ふじみ芸術監督に就任しました。それをきっかけに各地の公立ホールで市民とのワークショップや市民劇の演出をするようになりました。

 演劇をやったことのない人に演劇を渡せるというのもありますし、演劇をやったことのない普通の人だからこそ舞台上でできることがあると思っています。市民とやる場合は、既成の台本を使わないで、参加者たちにつくってもらいます。演出と台本の構成は僕がやりますが、「あなたたちが頑張らないと作品は出来ませんよ」と言っています。市民劇がプロの劣化版になっても仕方ないし、僕の演出を体験できるみたいなことで終わっても意味がないので、台本をつくってもらうことは大事にしています。

──どのようなつくり方をしているのか具体例を説明していただけますか。
 北九州芸術劇場で2012年に発表した『冬の盆』は3年間のプロジェクトでした。北九州市内にある枝光北市民センターと北九州芸術劇場とアーティストが連携する企画で、1、2年目は短期のワークショップを行い、3年目に創作市民劇をつくりました。枝光北市民センターがある地域は八幡製鉄所があった時代に人口が増加して山の斜面に家を建てたという坂道の多い町で、今はすごく高齢化が進んで空き家も増えている。60代、70代がすごく元気なのですが、課題も一杯ある。そういう町をたくさん歩いて、町の人ともたくさん話しをしました。
 昔は各所で行われていた夏の盆踊りもほとんどなくなり、1カ所だけ昔ながらの盆踊りが続いていて、その時だけ町を出て行った子どもたちが帰ってくる。「お盆は死んだ人が帰って来る日だけど、生きている人たちも帰って来る日だから、そのために盆踊りを続けている」という話しを聞いて、とても感銘を受け、市民劇のテーマを「盆踊り」にしました。それで参加者を3チームに分けて、盆踊りの櫓を色々な背景に見立てて寸劇をつくってもらいました。一度台詞を書き起こした台本を配ったら、決まった台詞を言うことだけを意識して演劇としてつまらなくなっちゃったので、台本は即没収しました。
 自分たちで考えたエピソードを自分たちでやるので、物語の構造も理解しているし、台詞を忘れてもお互いにフォローし合う、お客さんともうまくコミュニケーションを取って、その場を楽しくしている。その美しい姿、行為を見せたい、そういう空間をつくりたい、というのが僕の市民劇のあり方です。目指しているのは、「今を生きている私たちの姿が素晴らしく見える」ということ。普通の人とやるという企画だったので、むしろ演劇経験者は入れませんでした。そういう市民劇を見て、「ここで生きていて良いんじゃないか」「地域のことを考えるって大事なんじゃないか」とお客さんが感じてくれたらいいなと思っています。

──上演時間8時間の『モラトリアム』(2012年)は、たまにイベントが起こる空間で観客が好き勝手に過ごす、観客が作品に介入してもOKというものでした。この作品が生まれたのは、市民劇で演劇の時間を素人に担って貰う経験を積んだことが大きかったように思いますが、いかがですか。
 確かにそれはあるかもしれません。キラリ☆ふじみや市民劇での経験はすごく大きくて、お客さんとの関係が直接的になってきたような気がしています。『モラトリアム』という場をつくり、場に人が入ってきて、その場に何か作用を起こすために俳優がいる。「作品とお客さんで時間をつくる」ことをダイレクトに試したような気がします。例えば、途中でお客さんが帰ったら、空間はザワッとしますが、それをなかったことにはできない。お客さんが帰ったことは残っている人の演劇体験にはすごく影響するので、それをダメなことにはしたくない。そういうお客さんがいたことも上演中の出来事の一つとしてきちんと受け止めたいんです。

──演劇によって「何かを無かったことにする」のではなく、演劇によって「あったことを全部あったことにしよう」と。
 そうです。多分、最初は、俳優に負荷をかけて「舞台上で実際に起きていることを利用してつくろう」と考えていたのですが、それがどんどん拡張して、「客席で起きていることも、やっぱり無しにしちゃいけないんじゃないか」と思うようになった気がします。


韓国での活動開始から現在まで

──2008年に韓国アジア演出家展に招聘されて、韓国人俳優と『ロミオとジュリエット』をつくって以来、東京デスロック公演や、韓国人俳優との滞在制作をされています。どういう経緯で韓国との交流がはじまったのでしょうか。

 オリザさんに韓国の演劇祭から照会があり、青年団の中で演出家を募集したので企画書を出したのが始まりです。その時は、韓国というより、海外に興味がありました。オリザさんがよく、「演出家はなるべく早い時期に海外に行ってひとりで作品をつくる経験をした方がいい」と言っていたので、機会があれば行きたいと思っていました。当時、韓国については何も知らなかったのですが、結果的にそれが良かったと思います。

──初めての滞在制作はどのように行われたのですか。
 着いた次の日に韓国の俳優のオーディションでした(笑)。その時、第12言語演劇スタジオを主宰する劇作家・演出家のソン・ギウンさんが現場で面倒を見てくれました。韓国の演劇や俳優のバックグラウンドについて教わったり、アドバイスを受けたりしました。『ロミオとジュリエット』が終わった時に、2人で話をして、僕が創るような作品はソウルの小劇場にないのでもっとお客さんに見せたい、と言われました。それから、「1回で終わる交流が多いが、それはダメだ。30代の若い劇団同士で継続できる姿を示そう。絶対やろう」と互いに確認しました。
 それから続けてこられたのは、『ロミオとジュリエット』に出演した俳優が、ギウンさんの劇団に入団したり、ギウンさんの公演に参加するようになったことも大きいです。彼らは緩やかなネットワークを形成していて、“多田の友達”みたいな呼ばれ方をしています。

──2008年前後の多田さんの活動はものすごく攻撃的です。助成金も取れないうちから旅公演をしたり、東京デスロックの東京での活動休止を宣言したりして、行動範囲を広げていきました。
 そんなに助成金が取れないのもわかっているし、青年団のやり方をみていて、とにかく現地に行って友達になるところからしか始まらないというのは何となくわかっていました。自分たちから企画書を送って、返事をくれた所とどういう形でやるか、お金がなければこっちで用意してとにかく行く。東京にいて「呼んでください」では絶対に地方公演はできないので、とりあえずやるしかない。それが後々何かに繋がっていくんじゃないかと考えていました。韓国についても、外国で活動できたらそれはすごく刺激になるなと思っていて、僕のことを全然知らない人たちに見せ続けることができるのが重要でした。

──ギウンさんがプロデューサーとして多田さんを招き、韓国の俳優たちと創るという形が続き、2013年の『カルメギ』に繋がりました。この作品は、ソウルのドゥサンアートセンターのプロデュースでギウンさんの戯曲を多田さんが初めて演出したものです。チェーホフの『かもめ』を日本占領下の朝鮮を舞台に翻案したもので、韓国と日本の俳優が登場し、韓国語と日本語が飛び交うという問題作です。ここに辿り着くまで5年かかっています。
 2010年くらいから、ギウンさんの戯曲を僕が演出することを話しはじめました。ただ、僕は韓国語でも古典やセリフの少ない作品はつくっていましたが現代語の作品をつくったことがなかったので、それをやってからのほうが良いだろうと考えて、韓国の俳優と『3人いる!』(2012年)をやりました。その前年には、『再生』をソウルでつくっていますが、当時韓国で、自由貿易協定のデモが盛り上がっていたので、社会的な意味合いも入れて試してみました。『3人いる!』でも、最後にちょっと竹島についてのスピーチの音声を入れてみたのですが、びっくりするような反響があって、日韓の歴史についての扱い方が難しいのがよくわかりました。

──ギウンさんの戯曲を演出するために、一歩一歩コマを進めていたのですね。
 そうです。ギウンさんは日韓の歴史に関心をもって、それを作品にしてきた人で、彼にとっても日本人と一緒に歴史を扱った作品をつくるというのは、一大事でした。そこに向けて状態をつくっていったということは言えます。

──『カルメギ』のクリエイションで葛藤はありましたか。
 日本のお客さんにはわかりにくいですが、韓国人俳優は韓国語の方言を使っているんですね。しかも今は北朝鮮になっている場所の方言なので、彼らにもわからない。例えれば、日本が東西で分断されて別の国になっていて、関西弁の人がわからないで津軽弁を使って作品をつくるというような感覚です。そこの大変さは僕にはわからないけど、韓国人の俳優にとっては大変な問題だったようです。でも、やっぱり歴史認識に関わる部分が一番高いハードルでした。
 ソウルで初演した時は日本公演がまだ決まっていなかったので、とりあえず韓国のお客さんに向けてつくろうということで、『ソウル市民』三部作(平田オリザ作)を俳優達とも一緒に韓国語字幕付きで見たり、ギウンさんが持っている1930年代当時の映像を見たり、日帝時代に朝鮮人がつくった日本語の映画を見たりしながら、お互いにどう思うかを話し合うことに時間をかけました。通訳兼ドラマトゥルクのイ・ホンイさんとも相当話をしました。つくっている途中は「こんなにも大変なのか。本当にもう歴史物の作品はつくりたくない」とお互いにこぼしていました。韓国の観客がどう思うかが感覚的に見えてこないんです。
 俳優たちにもいろんな意見があって、この戯曲自体が問題だという俳優もいたし、悪い日本人が出てこないことが問題だという意見もあった。いろいろなレベルで問題意識が違う。そうなってくると、どこに合わせるのか難しい。日本人は暴力的だという演出で、ずっと韓国人の髪を引っ張り続けるような演出も試してみたのですが、逆に僕ら日本人にはそれは感情的にかわいそうで耐えられない。でも彼らにとっては見慣れているので平気なんです。韓国初演は本当に苦労して、立ち上げるので精一杯でした。

──解釈が分かれる中で、韓国人俳優たちとの作業をどうやって進めたのですか。
 歴史の解釈についてはそれほど問題ではありませんでしたが、韓国の俳優から「解釈ができないから、その台詞は言えない」と言われることもありました。一応話は聞きますが、僕のつくり方というのはそういうことを俳優に求めていないので、「とりあえず今はわからないまま言ってください」という指示をする。でも、試行錯誤していく間に腑に落ちる瞬間があって、その時の韓国人俳優たちの出してくるものはすごく良いんです。そこのやり取りは、この作品をつくったことでいろいろとわかってきました。

──『カルメギ』の日本公演を見ましたが、戯曲を解釈した結論を見ているというのではなく、「ソン・ギウンの物語」の時間と音楽や照明に彩られた「多田淳之介の演劇」の時間が縄のように絡み合いながら並走していて、歴史認識に捕らわれそうになる瞬間に人間の関係に気持ちが戻っていく感じがして、コラボレーションとして意義深い舞台だと思いました。
 演出的には、ソウル初演と日本再演で変えたところもあります。初演のほうが、もうちょっと日本人が酷く、朝鮮人がかわいそうな感じになっています。再演のときにプロデューサーとも話しましたが、初演で気になったところはほぼクリアできたと言ってくれました。なので、本当はもう1回ソウルでやりたいですね。再演の稽古の時ぐらいからびっくりするぐらい気持ちも変わって、戯曲もさらに面白いと思えました。

──今後の韓国との仕事はどのように展開しそうですか。
 もちろん韓国での活動は続けたいと思っています。今年はシェイクスピアをもとにギウンさんが書いて、僕が演出します。去年の12月には東アジア文化交流使として日韓のアーティストでセウォル号事件に関連するフィールドワークもしました。そのつながりで5月にはアンサン・ストリート・フェスティバルで、F/T12にも参加したユン・ハンソルさんの作品に参加します。日本でやっているようなことを、東アジアでもできるようになるのが当面の目標なので、韓国で市民劇もつくりたいですし、学校でのワークショップもやりたいです。滞在制作を続けていけば共有できることも増えてくるので、そこもきちんとやっていきたいと思っています。

──一方で、ここのところの多田さんの作品は、韓国での活動の影響もあってか、政治性を帯びてきているように思います。「演劇で無かったことにしない」というのがだんだん、「日本の社会の中にあることはあったことにする」というところに向かっているのですか。
 確実にそうですね。いま興味があるのがそれだから、しばらくはこのまま行くんじゃないかと思います。別に政治的なことをテーマにしたいわけではないですが、今の混乱し始めている状況で生きている人たちというのに興味があるので、そこを扱っていくんじゃないでしょうか。

──最後に、アジアとのコラボレーションについて、多田さんはどうあるべきだと感じているのか、一言いただけますか。
 自分がやってきたことを考えると、やはり継続性というのがすごく大事だし、違う国のアーティスト同士で何に興味をもってやっていくかということを共有する時間が必要だと思います。僕が韓国とやろうとしているのは、今の日韓の状況というのをどう捉えて、いかに演劇を使って表現していくかということ。今の社会を描くには、日本人だけでは難しいので、国際的なプロジェクトを通して、共有している問題や現状を双方の視点から上手く扱えることに、価値があると思っています。文化の交流の末に、お互いが「別々の国に住んでいるんだから」じゃなくて、「国は違うけど同じ地域に住んでいるんだから」というふうになっていくといいなと思っています。これがソウルで活動をしてきた実感だし、そういうことなら僕にもできるんじゃないかと思います。
 
TOP