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詩森ろば
詩森ろば(しもり・ろば)
劇作家、演出家。岩手県出身。1993年に風琴工房を旗揚げ。主宰であると同時に劇作・演出を務める。劇団名の「風琴=オルガン」は、「ことばという美しい音楽を奏でるための楽器でありたい」という願いを込めたもの。少年犯罪、セクシャリティ、公害問題などの社会的なテーマを個人的視点で捉えなおし、緊密な対話劇として構成する手腕が高く評価されている。また、その作品は言葉の詩的なイメージが広がる抽象的な舞台空間で展開されることが多いのも特徴。近年の作品に、実在した雪の研究者・中谷宇吉郎をモデルにした『砂漠の音階』、ロシア・アヴァンギャルドの建築家たちの群像劇『機械の音楽』、水俣病の加害企業チッソの内部研究の内幕を描いた「猫の庭」と、胎児性水俣病患者の作業所を舞台にした「温もりの家」の2部で構成された『hg』などがある。2003年、児童虐待をモチーフとした『紅き深爪』で日本劇作家協会新人戯曲賞優秀賞受賞。2010年初の小説『記憶、或いは辺境』を上梓した。
http://windyharp.org/
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『penalty killing』
(2015年2月12日〜18日/下北沢ザ・スズナリ)
(C) fukinkobo
penalty killing
『わが友ヒットラー』
作:三島由紀夫
(2014年9月9日〜14日/渋谷TRUMP ROOM)
(C) fukinkobo
わが友ヒットラー
『国語の時間』
(2013年2月22日〜28日/座・高円寺1)
作:小里清
撮影:奥山 郁
国語の時間
国語の時間
『hg』
(2008年5月9日〜18日/下北沢ザ・スズナリ)
(C) fukinkobo
hg
『葬送の教室』
(2010年10月6日〜13日/下北沢ザ・スズナリ)
撮影:吉田欽也
葬送の教室
葬送の教室
『無頼茫々』
(2009年5月10日〜18日/下北沢ザ・スズナリ)
(C) fukinkobo
hg
Artist Interview
2015.4.1
play
The resolve of Roba Shimori  Confronting reality head-on  
現実と真っ向勝負する 詩森ろばの決意  
児童虐待やセクシャルマイノリティなどの社会問題、日航機墜落事故などの歴史的事件、経済問題など、私たちをとりまくさまざまな現実に、綿密なリサーチでアプローチする劇作家、演出家の詩森ろば。自らが主宰するユニット「風琴工房」で20年以上にわたって活動。近年では、世界が変わるために多くの観客に理解されるエンタテイメントを目指し、硬派でありながら、多様な価値観に揺れる人間を肯定した群像劇を次々に発表。自分の感性に閉じ籠もる現代作家が多い中、演劇を介して社会を見つめてきた詩森の軌跡とこれからを聞いた。
聞き手:大堀久美子

──仙台で生まれ、小学校から盛岡に移られて、中高と演劇部にいらしたと伺っています。演劇に興味をもつようになったきっかけから聞かせてください。
 小学3年生から必修クラブというのがあって、何となく面白そうだと演劇部を選んだのがきっかけです。本が好きで、小学校の頃はちょっといじめられたりしていたこともあって、ずっと図書館で本を読んでいるような子どもでした。伝記からミステリーまで、何でも読んでいました。文章を書くのも好きで、初戯曲は多分、小学2年生の時。学芸会でやる劇のために書いた記憶があります。
 4年生になって、演劇部の先生に小学生向けの童話を戯曲にしてみろと言われて書いて、それをすごく褒めてもらった。私は役者がやりたかったのに、そっちはあまり褒められた記憶がなくて。もしかして書く方が向いているのかな?と薄々思いつつ高校まで、という感じです。

──観るほうの演劇体験は何が最初ですか。
母親に連れて行かれた「夕鶴」です。母はわたしに優良な舞台をたくさん見せてくれました。わたしみたいな子供に質のよい演劇を見せたら、それは道を踏み外しますよね。自分の意志で初めてひとりで行ったのは、黒テントの盛岡公演です。初めて観たのは中学生の時。内容は全くわからなかったですけど(笑)、あまりに面白くてビックリ。見た瞬間に、私はこういうタイプの芝居(小劇場)が好きなんだな、と思った。あれを観たせいで演劇を続けているところがあると思います。
 高校時代には、夏休みや冬休みに芝居を見るために上京していました。東京で初めて観たのが第七病棟です。山崎哲さんが書き下ろして、町屋のアトリエでやった『おとことおんなの午后』で、緑魔子さんに衝撃を受けた。こんな人しか役者さんはやっちゃいけないんだ、私は無理だと思いました。日生劇場でやっていた劇団四季のストレープレイや名前も憶えてない劇団のものまで、いろいろ観ていました。

──高校の演劇部の頃も、戯曲を書いていたのですか。
 ええ。当時はつかこうへいさんが評判になっていた時代でしたが、私は別役さんが好きでした。だから、両方が融合している、不条理だけどちょっとつかっぽいというような、よくわからないものを書いていました。県立の進学校で、部員が少なかったので、県の大会などに出る時は、他の部から人を借りてきていました。人手がないので、装置に照明、裏方も私がやりました。それでも俳優がやりたくて、演劇関係の大学に進学しようとダンスや声楽を習っていました。結局落ちたんですけど。

──こんなに優秀な人材を落とした!
 いや、演技が下手だったんだと思います(笑)。それでも、東京でとにかく演劇をいっぱい観たいと、演劇とは関係ない専門学校に入って。でもやっぱり演劇がやりたいとすぐに思ってしまって、結局、潜りで高校の先輩がいた上智のアングラっぽい演劇サークルで芝居をはじめました。観る方も、ありとあらゆるものを、やみくもに観ていましたね。

──読書と一緒で、演劇も乱観劇だったんですね。
 やってみたい劇団を探していたということもあるかもしれません。19歳ぐらいの頃から、いろんなジャンルのものを趣味に拘らずに観て、つくっていくための勉強をしなくちゃいけない、と思っていたような気がします。

──大学の演劇サークルから、自分で集団をつくるというところに至ったきっかけは?
 サークルには作家がいたので劇作はしなかったのですが、自分で書いて演出することを1度やってみたいなと思い、情報誌「ぴあ」の“はみだし情報”(ページ脇で同好の士の募集や告知をするコーナー)で仲間を募集して、明石スタジオで公演しました。それが割と好評だったのと、集まった人たちが、1度しかやるつもりがないのになんで募集したの?みたいな感じになり、そりゃそうだということで続けたのが、93年の風琴工房の立ち上げに繋がりました。最初の10年ぐらいは、多少の入れ替わりはありましたが基本的に女の子ばかりの同じメンバーで、アングラファンタジーっぽい作品をやっていました。

──作・演出を兼ね、初期は俳優もされていました。
 劇団を旗揚げする頃には、俳優はもう諦めていました。何より自分みたいな演技をする人は演出家としてあまり好きじゃないと気づいた(笑)。ある時急に出たくなくなって、かなり明確な意志で、演出に専念したいと思うようになりました。演劇界的には劇作家として認知されている気がしますし、能力としても書くことが一番高いのは自分でもわかっているんですが、モチベーションとしては演出が一番上です。でもちゃんと演出をするには、本がしっかりしてなきゃいけないから頑張って書く、という感じです。

──作家にシフトしようと腹をくくったのは、チェルノブイリの原発事故を題材に放射能に汚染された世界を描いた『人魚の箱舟』(1996年)がきっかけだと伺ったことがあります。
 そうです。チェルノブイリの原発事故(86年)は、こんなことが起こるんだと、物凄く衝撃を受けました。ただ、それ以前も拒食症の話とか、アングラファンタジーとはいえ社会的なものを題材に取り上げていました。でも私も若かったので、センシティブな少年少女の話を書くことが多かった。でも『人魚の箱舟』あたりから、もうちょっと大きなテーマを書くようになっていったと思います。
 イジメ的な体験もあってマイノリティに対して強くシンパシーを感じるし、子どもの頃からなぜそういうことが起こるんだろう?と疑問をもつ質だった気がします。高校がまた、哲学書とかを普通に読んでいて、やたらに議論するような雰囲気でしたし。当時、初めてひとりで観に行った映画も、ロシア革命の話『レッズ』でした。

──そういう資質があって、芝居でも次第に大きな社会的な題材に興味を惹かれるようになっていったのですね。
 80年代の終わりにチェルノブイリ、90年代にオウムの事件があって、次は多分子どもがおかしくなるだろうと思っていたら、酒鬼薔薇の事件(97年)が起こった。2001年にアメリカ同時多発テロ事件が起こったときは、ここからイスラム圏に世界の問題とか歪みが集約されて戦争となり、日本もまたどんどん戦時下のようになっていくんじゃないかと思ったのですが、予想が当たってしまいました。
 アメリカ同時多発テロ事件をきっかけに、日本の文化の空洞化を強く感じるようになりました。カウンターカルチャーだけがあり、撃つべき敵がない状況が貧しすぎると思ったんです。それもあって、私はメインカルチャーを目指そうとはっきり意識しました。メインカルチャーの定義は難しいですが、誤解を恐れず言えば、演劇においてはやはり物語があり、人間の描き方が重層的ということではないでしょうか。なので、本を書く上では、ある種のわかりやすさみたいなことを追求するようにもなりました。それはわかりやすいテーマを扱うということではなくて、わかり難いテーマを扱っていてもわかりやすく提供することを考えるようになったということです。カウンターカルチャーに対して、さらなるカウンターカルチャーを発明することがカッコいい時代に、なんかダサいな、と自分でも思いますが、誰かがやらなきゃならないことだから、と覚悟してやってるつもりです。

──演劇を介して社会に向き合おうと自覚するようになり、初期のアングラファンタジーから戯曲のスタイルは変化しましたか。
 97年に、スタジオアルスノーヴァという廃墟のような劇場で年に6本か7本、「病の記憶」という病をテーマにしたシリーズ公演をやりました。1時間ぐらいの作品で、その中の2、3本で初めてきちんとした対話劇を書きました。それが図抜けて評判が良かった。そこから対話劇が有効なのではないかと思うようになりました。

──現在の詩森さんの劇作の方法、取材や資料を通じた詳しいリサーチを行うようになったのはそれ以降ですか。
 2000年の『透き通る骨』は、当時の劇団にセクシャルマイノリティの女の子がいたことから生まれた作品です。ゲイの友達はそれまでもいたけれど、女性は初めてで、本当に凄く大変なんだということを目の当たりにした。そのキツさを、そうじゃない人たちにわかってもらうように書くにはどうしたらいいんだろうと考えて、インターセックス=半陰陽という男女の中間性の人のお芝居を書きました。作風的には昔のファンタジックなものに近いのですが、初めて当事者に取材をしたり、稽古場に来てもらったり、いろんな努力をして書いた作品です。その時に、こういう取材をして芝居をつくるやり方は面白いし、人の話を聞くのが物凄く好きだから自分に合っていると思ったのが大きいですね。

──生身の人間と向かいあうということですよね。
 セクシャルマイノリティの世界にもパイオニアのような人がいて、そういう方たちはものすごく頑張ってきた分、自分が守っていかなければならないものなのだ という意識も強い。なので、いろんな電話がかかってきました。自分の浅はかさを恥じたこともありましたし、ちょっと待って、それは問題の私物化でしょって思って、怒鳴り合いになってしまったこともありました。たいへんでしたが貴重な体験でした。
 劇場で、当事者の人たちと、そうではない一般の観 客が一緒に観ているという状況も初めての体験でした。“人と書く”ということがどういうことなのか、この体験を通じて知ったと思います。それまではイメー ジの世界に過ぎなかったんだって。自分が最初に書こうと思っていたものと、最後にアウトプットされるものがどんどんズレていく。それだけ、わかっているようでわかってなかったんだなと気づかされました。

──歴史資料にあたって戯曲を書くという意味で、転機になった作品は?
『記憶、或いは辺境』(04年)ですね。やはりアメリカ同時多発テロ事件のことが大きくて、実際に戦争が起こってしまうという時に、ファンタジーを書いて何の意味があるのか、と思ったんです。それで、以前からずっと調べていた戦時下の樺太の残留朝鮮人の話を書きました。初めて書いた歴史劇だったので、本当に手探りでした。
 物凄く資料を読んだし、樺太から引き揚げてきて、まだ生きてらした当事者の方の話もギリギリで聞くことができた。実は、劇作家として一番知りたいことは、資料には載っていないんです。載っているのは戦局のようなことばかりで、私が知りたいこと、モンペって本当に穿いたの?とか、どんなものを供出させられたの?とか。そういう暮らしのことは載ってない。この時は、自分の親の世代の話をたくさん聞けたのも面白かった。『記憶、或いは辺境』以降は、本当にファンタジー的なものを書かなくなりました。

──歴史資料にあたって書く劇作家は沢山いますが、詩森さんの作品では等身大の人間が描かれていて、歴史を生モノとして扱っている感じがします。過去の歴史資料に当たって書くのと、今現在生きて苦しんでいる人を取材して書くのとでは、自分の作品に影響はありますか。
 後者のほうが難しいですね。どうしても当事者を傷つけたくないという思いが出て来てしまう。ドキュメンタリーを書くわけではないので、創作物にしていく上で、どのラインでどこまで取材をし、どこまで想像で埋めていいのか、ということに関してはいつも悩んでいます。だからもしかしたら、文書資料だけ読んで、想像力を働かせたほうが良い作品になるのかもしれません。題材として自由に使えますから。

──詩森さんの作品は基本的には群像劇ですが、その中で、この人が言っていることはある側面から見れば正しいけれど、別の側面から見たら違っているかもしれない、というふうに、関係性が捻れるような感じで動いていく。社会的なテーマを扱うと、たとえ取材をしていたとしても、結論が最初にあって、そこに向けて登場人物が動くというふうになりがちだと思うのですが。
 そうならないように、割と自覚的に書いているので、そういうふうに見ていただけて凄く嬉しいです。書くときには、作品のプロットはもちろんガッチリ立てますが、場面の中で何が起こるかは、ある程度緩みをもたせて書き始めるんです。すると登場人物が意外なことを言い出す。それは多分、自分が取材している中で思いもしなかったことを見聞きして、そこから出てくるんだと思います。それでこの人がこんなことを言い出したとなると、じゃあこっちの人はどう思うのだろうかとか、そんな風に書いていきます。
 そもそも題材を選ぶ時に、これを書けば多面的な価値観が出てこざるを得ないだろうというものを選んでいるということもあります。そういうビューポイントを探すのは割と得意だし、自覚的にやっています。歴史的な題材にしても、既に価値観が決まっているようなものには興味はありませんし、たとえそうだとしても、それを一度疑ってかかるということはあるかもしれません。

──そういう芝居をつくっていくうえで、影響を受けた演劇人はいますか。
 社会的なことを扱っている劇団は当時も今も結構あると思いますが、この人の考えていることは近いなと思った人は正直に言うといません。ただ、演劇的な先生はいっぱいいる気がしています。
 私は転形劇場がとにかく好きで、それこそ高校生の頃に赤坂のアトリエで『水の駅』を観て以来、解散するまでの公演をほとんど観ています。太田省吾さんに直接師事したわけではありませんが、人間の身体であるとか、人と人との間に何かが起こるとか、そういったことは転形劇場に勉強させてもらったという気持ちが凄くあります。
 劇作家の斎藤憐さんには、実際にいろいろなことを教えていただきました。03年に、中堅の劇作家を集めた勉強会をやってくださったことがあって、10回ほどですが、私も参加していました。ほとんど叱られた記憶しかありませんが、大事なことをいっぱい教わった。一番印象に残っているのは、自分の思想を中心にして書いてはいけないということ。戦争は嫌ですと書くよりも、なぜ戦争は嫌ですと言えなかったのか、たとえわからなくても、当時の人の意識を考えることの方が大事なんだと叩き込まれました。書いた後、私の都合で書いていないか立ち止まって考えるようになったのはやはり大きいし、戯曲の読み方とか演劇の観方にも影響を受けていると思います。

──風琴工房ではご自身が書かれる戯曲以外にも、たとえば『ガラスの動物園』をモチーフにした作品(06年『食卓夜想』)、イヨネスコや岸田國士、前田司郎など不条理劇の小品を集めた公演(07年)など、折々に他の作家の作品を手がけていらっしゃいます。09年からは、俳優が現代作家の小説を選び、詩森さんが戯曲化して上演する〈おるがん選集〉というシリーズもスタートさせました。
 俳優を育てたいという気持ちと、演出家としてもう少し技術をつけたいということもあって意識的にやっていました。私の作品をやると、当然資料にあたっている私の方が詳しいので、俳優が気持ちの上で負けてしまう。他の人の作品だったら、お互いスタートラインが一緒なので対等な立場でつくることができます。それと、新作は調べる時間がどんどん長くなって年に何作も書けないわけです。それだけだと鈍るので、他の作家の作品をもとにした公演を行うことで、技術を磨きたいという思いもありました。

──2000年代後半ぐらいは、演出家としてのスキルを上げていくことを意識的にされていたということですね。
 かなりあります。人の作品をやるのもあるし、自分の作品でも、やったことのないスタイルをどんどん取り入れてみようという感じでやっていました。

──演出面で言うと、風琴工房の常打ち小屋とも言うべきザ・スズナリのほかに、廃墟になった映画館(98年『最後の素足』)、巨大な元倉庫(前出『透きとおる骨』)やギャラリー(10年〈おるがん選集〉他)など、劇場ではない場所でもいろいろおやりになっています。
 面白い場所にするとお客さんに喜んでもらえるし、親密な空間が出来るという意味合いもあってやっていました。やるからには、他がやったことがない面白い所で、ここで観て良かったと思ってもらえるようなものをやろうと。

──最近の作品では、13年の〈おるがん選集〉はレンタル民家、三島由紀夫の『わが友ヒットラー』(14年)は、シャンデリアだらけの絢爛豪奢なパーティスペースが会場でした。こんな空間を良く見つけていらっしゃるな、と驚かされます。
 この作品はこういう感じの場所でやりたいというイメージがはっきりあったので、まだ探しやすかったですね。

──デビッド・オバーンの戯曲『proof』(14年)を上演したガラス張りの「SHIBAURA HOUSE」も、まるでそのためにあるような空間に見えました。
 『proof』は、シカゴ大学の教授で、精神を病んだ天才肌の数学者をめぐる話です。シカゴが水辺の街なので、廃れた雰囲気のある湾岸が良いなと思って探しました。

──スズナリ公演も、あの小劇場の空間を通常の劇団ではありえないぐらい造形されています。舞台美術は杉山至さんで、風琴工房の20周年記念公演として上演した『国語の時間』(13年/小里清作)により第21回読売演劇大賞の最優秀スタッフ賞を受賞されています。
 舞台美術は杉山さんにお任せしている部分も大きいです。もちろん私もイメージを伝えますが、私が思った以上のことをやってくれる。最初に組んだのは、シアタートラムで再演した05年の『ゼロの柩』(ゼロ番区と呼ばれる死刑囚監房に収監されている男の話)ですが、道路の真ん中に唐突に檻があるという空間でした。そこからは杉山さんとしか組んでいません。私の作品のスケール感が杉山さんに合っているのかなと思いますし、自由に暴れて貰えば貰うほど、私の創造性も最大限に発揮できる。相性がいいんだなと勝手に思っています。

──歴史上の人物や社会的事件、今現在の人間が抱える病まで、取り上げる題材が多彩で、詩森さんの好奇心の幅に驚きます。
 好奇心がなくなったら自分は死んじゃうんじゃないかと思ってます。でもそれさえあれば退屈しない人生ではあります。
 取材をするようになって、本当にいろいろな経験をしました。雪の人工結晶をつくった学者・中谷宇吉を描いた『砂漠の音階』(06年)では、北海道大学まで行って低温実験室に入れてもらいましたし、化粧品会社を起こした女性起業家の『紅の舞う丘』(07年)では、女社長行脚をしました。ひとりの方を取材すると、次の方を紹介してくださって、止まらない(笑)。そのパワフルさは強烈で、本当に面白かった。

──08年には、水俣病の問題を扱った『hg』を書かれています。
 正直言って、作品としてはかみ砕けなかったという思いもあるのですが、劇作はここまで頑張れるんだという意味で、『hg』は私にとってエポックメイキングな作品でした。水俣に何度も通いましたし、客演も含めて俳優全員と一緒に、一度ですが水俣に行けたことが鮮烈でした。
 現地に行くと、「チッソ」(旧・新日本窒素肥料株式会社)の社屋が水俣駅の真ん前にドーンとあるんです。どこかでもう過去のものだと思っている部分があったのに、水俣はまだチッソのまちだし、その問題が今も現在進行形であるということは、行ってみないと具体的にわからない。同時に、そこには明るいまちとしての側面もあるわけです。いつまでも暗く厳しいイメージばかりの水俣じゃない。戯曲は2部作として、水俣の過去と現在を書きましたが、現在に関してはもっと斬り込むべきだったと思っています。そのためには、それを書いても許される関係性がつくれるまで、もっと時間をかけてコミットする必要があったと、凄く思っています。

──その次の大きな作品が、日航機墜落事故を題材にした10年の『葬送の教室』です。鶴屋南北戯曲賞の最終候補作になるなど、外部評価も非常に高かった。これを取り上げようと思ったのは?
 演劇的にも何度も取り上げられた題材でやるつもりはなかったのですが、たまたま大事故災害の遺族の話をまとめた本で、日航機事故の遺族で航空機を安全にするための運動をした方がいらしたというエピソードを読んだんです。ちょうど事故から25年という時期でしたし、有名な事故だけれど一度取り組んでみたら、いろんなことを考えていく基盤になるんじゃないかと思って取り上げました。
 この時はJALに取材に行って、あの事故を教訓にしていろいろなことに取り組んでいる姿を見せていただいたのも大きかったですね。JALは酷いというイメージがあるのは一方的だということを、直に感じた。遺族の方たちにとってはやはり心の補償が大事で、その心の補償ができていく過程みたいなものも演劇にできたのではないかと思います。同時に、現実に関してまだまだいろいろな思い込みに縛られていることがあると気づかされた作品でもあります。

──そこから今度は、発光ダイオードを発明した科学者たちの話『Archives of Leviathan』(11年)、投資ファンドを扱った『hedge』(13年)へと、テーマは経済問題にも広がっていきました。
 アメリカ同時多発テロ事件の話に戻りますが、あの頃から、経済に強くならないと現代社会を何もわかっていないのと同じだなと思い始めたんです。全ては石油の利権などに関わるグローバル経済の結果だし、当然日本もそこに晒されているわけで、原発が止まらないのもまさにそれですよね。私は普通の女性以上に経済が苦手でしたが、本腰を入れて勉強しました。少しわかるようになったら段々面白くなってきて、もう書いても付け焼き刃ってことにはならないなと思ったのがこの辺りです。『hedge』は、バイアウトファンド、企業立て直しの話でしたが、経済のことが苦手な人たちにわかるようにするにはどうやったらいいかに苦心しました。

──ドラマの流れとは別に、解説部分をエンターテインメント的に見せる工夫もされていて、演劇でこういう体験ができるという領域を拡大してもらったような気がしました。
『葬送の教室』で、誰もが知っているような事柄を扱うのはこれで最後にしてもいいなと思うぐらいやった気がして、今度は誰もやっていないような題材をやりたいという気持ちが強くなったのかもしれないですね。ただ、『hedge』は経済そのものというより、少し傍流の物語にしやすいものに落ち着いちゃったかな、という反省もあり、そのうちもっと経済のど真ん中 というようなものを書きたいと思っています。例えばリーマンショックの辺りの金融工学の話は、凄く面白いし、現代を象徴してるとも言えるので。

──題材として興味をもってから作品にするまでに大体どのぐらいかかりますか。
 作品によりますが、最短で1年半、長くてもう10年ぐらいずーっと考えている案もあります。作品になるのかならないのかわからないもの、作品にするつもりじゃなく調べているものもあります。
 たとえば、今は東日本大震災のときの損害保険について調べています。地震保険がついていると査定にいかなければならないのですが、査定すべき地域に立ち入 れない。辿りつけないわけです。企業の論理と、人の生活や繋がりがクロスオーバーする視点なんじゃないかな、と思って少しずつ調べ出しているのですが、一介の劇作家にどこまで本当のことが取材できるのかは、いまのところまったく自信がありません。

──経済ネタをやったと思ったら、今年2月の『penalty killing』は突然体育会系で、実在のプロチーム「日光アイスバックス」をモデルにしたアイスホッケーの話でした。スズナリを、360度から観られるアイスアリーナにして、ホッケーの試合をしてしまうという発想にも仰天させられました。
 アイスバックスは日本で唯一のプロチームでありながら、経済的に行き詰まっていたということもあって、私の中では経済と繋がってはいるんですが(笑)。書いていくうちに、地域に根づいているという部分が膨らんで、地域コミュニティの話になっていきました。そして自分が想定していた以上にスポーツそのものの話になりました。スポーツ書くから当たり前なんですけど、地域コミュニティより、経済的な視点より、スポーツがわたしにとっていちばん未知の領域で、手探りで、スリリングで、エキサイティングでした。

──どういう要素と出合ったときに、作品にしたいと思うのでしょう。
 今こういうテーマを書かなくちゃいけないんじゃないか?という問題意識は常にもっていますが、それに対しての結論をむしろ揺らしていくために作品を書いているみたいなところがあるように思います。常に疑うことが大事だと思っているし、AプラスBでCが出て来ることがスリリングだし、それが面白いから書いている。

──好奇心をもって疑ったものを調べているうちに、別の題材と出合う。
 そう、それである時、天恵のように「アイスホッケーだったかも…」と、書き始めてしまう(笑)。

──取材や調べものの過程でいろいろな出会いがあり、詩森さんの中にある人間観が成長を遂げているのではないかと思いますが。
 取材していると、自分を否定する瞬間というのが必ずあるんです。「浅はかだったな、私」と。この歳になって、そう思えるのはとても良いことですし、自分の知らない世界を見るということは、“次の扉”を開けることだと実感しています。成長かどうかはわからないですが、人間は年齢が幾つになっても、本当にちょっとしたことで刷新されていくという心構えが出来たのは大きな収穫です。作品を書く中で、いろいろなことが刷新されていくというのが、私の前提になっています。

──この間ずっといろいろな取材をされてきて、詩森さんの核心の部分では、人間というのはどういうものだと見えていますか。
 どうだろう…やっぱり“人間は可愛らしい”というのが私のベースにはあるのかもしれません。他の動物に比べて人間は複雑な精神構造と生活様式をもっているから、価値観の違いとかで傷ついたり傷つけたりするし、うんざりするような面もいっぱいあるけれど、そういうことも含めて愛おしいものだと、思っている気がします。
 歴史を書いていると、変わるべきなのに、どうして変わらないんだろうと思うことも多い。でも、人間の行為や営み、対立を否定するのではなく、劇作という形で肯定することで良い方向に変わっていきたいという思いが、ここ5、6年、強くなっています。人間にはこんな可能性もあるんですよということをきちんと提出し、肯定した上で、次のことを考えられるような演劇をつくりたいですね。人って難しいし、わからないことだらけです。何でこんな不思議な生き物なのかというのを考えるのが面白くて、演劇をやっているんだろうなと思います。

──最後に今後の予定、やってみたいことなどありましたら、聞かせてください。
 09年に書いた『無頼茫々』の再演をやります。大正時代の新聞社の話ですが、震災以降、報道に関しての不信が露わになってきています。明治から大正期にかけての新聞の変遷がその起点となっているのではないかというこの物語は、早くやりたかった作品です。書き直して、この間に培ってきたエンターテインメントな演出も入れつつ、今やるべき作品というふうにできるといいなと思っています。それと来年は故郷でもある岩手の演劇人の方たちと組んで、演出をやる仕事が入っています。元タカラジェンヌで、桜隊の一員として広島の原爆で亡くなった園井恵子さんの評伝劇です。
『proof』で初めて英語の戯曲を翻訳して、本当に勉強になりました。解釈をしないと1行も訳せないんですよね。だから、優れた戯曲があったら訳してみたいという意欲はあります。『葬送の教室』で被災地を回るツアーはやるべきだとずっと思っています。個人の範囲を超えてしまった喪失からの再生を描いたこの作品は、震災直後には今な らむしろ書けなかったかもしれないとまで思っていたのですが、あと1、2年したら、震災地のひとたちが次を目指すために手を携えることができるのではないか、という思いがあります。東北は自分の故郷ですから。
 
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