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野木萌葱
野木萌葱(のぎ・もえぎ)
1977年、神奈川県横浜市出身。日本大学芸術学部演劇学科劇作コース(第1期)卒業。中学2年の時に観た映画をきっかけに劇作に目覚める。高校進学後は演劇部にて劇作・演出を担当。大学在学中の98年に、ユニットとして「パラドックス定数」を結成し『神はサイコロを振らない』を上演する。2007年、代表作となる『東京裁判』初演時にメンバーの固定化を受け劇団化。史実や実際の事件・人物を題材・枠組みに用い、大胆な想像力で物語を創造。濃密な人間関係より生まれる緊張感のある会話劇を得意とする。主な作品に、グリコ森永事件の犯人たちの姿を描く『怪人21面相』、大逆事件を材に取った『インテレクチュアル・マスターベーション』、2.26事件当夜を描く『昭和レストレイション』、劇団青年座に書下ろした、戦前から東京裁判に至る日本の動静を、後に戦犯として裁かれることになる外交官たちの目線から語る『外交官』など。
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パラドックス定数
第36項『東京裁判』 2015 pit北/区域 公演

(2015年12月22日〜31日/pit北/区域)
撮影:渡辺竜太
Play of the Month
東京裁判
東京裁判
劇団青年座 第218回公演
『外交官』

(2015年7月31日〜8月9日/青年座劇場)
撮影:坂本正郁
Play of the Month
外交官
外交官
Artist Interview
2016.1.29
play
Theater as a battle fought in words   The world of Moegi Nogi  
演劇は言葉の闘い 野木萌葱の世界  
史実や実際の事件から登場人物を造形し、男優ばかりで緊張感のある会話劇を展開する劇作家・演出家の野木萌葱(1977年生まれ)。大学在学中の1998年に立ち上げた劇団「パラドックス定数」を主宰し、グリコ森永事件の犯人たちの姿を描く『怪人21面相』(2006)、日本の弁護団が尊厳をかけて連合国側に弁論を挑む法廷劇『東京裁判』(2007)、大逆事件に材を取って無政府主義を掲げた男たちが暴走する『インテレクチュアル・マスターベーション』(2009)、第二次世界大戦という国の命運を左右した外交官たちが激論する『外交官』(2015)などを、裸舞台に近い小劇場空間を舞台に発表。「演劇は言葉の闘い」と言う野木の創作を刺激してきたものとは?
聞き手:大堀久美子

──野木さんは1977年の横浜生まれで、現在も横浜に在住されています。どのような子ども時代を過ごされたのですか。子どもの頃から作家になりたいと思っていたのですか。
 物心ついて最初に住んだマンションの1階が書店で、幼稚園の行き帰り、毎日覗いていたような記憶があります。実は自宅にも本が溢れるほどありました。父は橋梁や船舶などの設計が仕事で関連書籍が山のようでしたし、母が好きな美術の本があったり、海外の小説、エド・マクヴェインの「87分署シリーズ」などのスパイ物や刑事物もたくさんありました。わからないことも多かったのですが、背伸びして読んでいました。ハヤカワ文庫のビニールカバーが格好よくて、独特の手触りが気に入っていましたね。

──読書好きから、自然と書くことにも興味が湧いたのですか。
 何でも書くことが好きかと言われるとそんなことはなくて、学校の作文などは大嫌いでした。国立の附属小学校に通っていたのですが、通年行事が多く、その度に感想文を書かされるのが嫌で仕方なかった。国語の時間に「この文章の意図を要約しなさい」みたいなことをやらされるのも苦手でした。でも、絵本を見せられて「この場面のみんなの気持ちを書きなさい」という課題は忘れられないぐらい面白かった。「おおきなかぶ」で、畑の巨大なカブをおじいさん、おばあさん、ロバなど動物たちも一緒になって引き抜く有名な場面です。俄然張り切って、一人で何パターンも書いて提出しました。

──演劇との出会いはいつでしょうか。
 中学の校長先生が高校演劇界の指導者で、クラス毎にお芝居をつくって競う「学芸祭」という行事がありました。2年の時に急にやる気がでて、クラスメート40人を巻き込んで『オペラ座の怪人』を上演しました。

──いきなり大作ですね(笑)。
 新聞のテレビ番組表に、日曜洋画劇場で映画『オペラ座の怪人』が放映されると掲載されていて、そのタイトルに惹かれたんです。うちは両親ともに厳しく、21時以降のテレビ番組は見せてもらえなかった。どんな映画か母に訊いたら、「シャンデリアが落ちてくる」とめちゃくちゃ端折った説明で(笑)。でも逆に「なんかスゴそうだ!」って、余計に惹きつけられた。
 映画は見せてもらえなかったけど、原作を読んで、ビデオのパッケージに載っているあらすじや場面写真から想像を膨らませて、見よう見まねで戯曲を書きました。クラスメートとはケンカもしましたがお祭りみたいに盛り上がった。シャンデリアも作ってちゃんと落としたんですよ、真下に担任を座らせて(笑)。
 それから1年半後くらいに劇団四季のミュージカル『オペラ座〜』を観たのですが、「これはできる、これはできなかった、この仕掛けはこうやってたんだ!」と、ずっと演出家目線でチェックしてました。

──観劇する機会は増えていったのですか。
 いえ、テレビ番組の舞台中継で観るくらいでした。銀座セゾン劇場に来日したスティーヴン・バーコフの『サロメ』『変身』『審判』などは、今も記憶に残っています。本当に、中学時代までの我が家は厳しくて、舞台も映画もマンガも基本禁止。高校から反抗期もあり、徐々に解禁になっていきました。解禁後は、図書館で本当に片っ端から本を読みました。純文学からミステリーまでまさに乱読。一番ハマったのは芥川龍之介ですね。教科書の副読本にあった『河童』の一節がミステリアスで興味が湧き、結局作品より芥川本人のことが面白くなって研究書などを読みふけりました。
 
──高校から演劇部に入部されます。
 はい、中高一貫の女子高に入ったので、最初は「生意気だ」と周囲とぶつかりました。でも女子高の演劇部は俳優として舞台に立ちたい人が多いけど、私は演出など雑用を引き受けたのでだんだん認めてもらえるようになりました。全国高校演劇大会は学校行事と重なっていたので参加できませんでしたが、文化祭と卒業生を送る会の年2回が演劇部の晴れ舞台になりました。それで1年生の時に『河童』を題材にして私が脚色・演出した作品を発表しました。2年生になって初めてオリジナルを書き下ろしました。

──どんな内容の作品ですか。
 恥ずかしいんですが……擬人化した蒸気機関車の女の子が主人公で、解体されることになったその機関車が、自分を運転してくれていた元機関士を探すために脱出するという物語です。私、ゆるい鉄子(鉄道マニア)なので、自分の趣味を力いっぱい反映させました。

──女子高で機関車の話というのは、部員が反対しそうですねえ(笑)
 そこはちゃんとイヤらしい計算をしていて(笑)。衣裳を可愛くしたり、ドラマの展開に凝ったりしていました。部員を納得させないと、自分の天下は続かないとわかっていましたし。文化部の出し物には点数がつけられるのですが、なんとか最優秀賞も取りました。3年の文化祭では『オペラ座〜』の現代版のつもりで、多重人格の美容整形医師と整形を望む売れない女優の物語も書きました。

──その後、日本大学芸術学部演劇学科劇作コースに進学されます。
 はい、1期生として入学しました。書くことは好きでしたが、別に「絶対この道でプロになりたい」といったことまで考えていたわけではありません。高校時代には遊びで小説を書いたこともありましたが、周囲の何人かに読んでもらって終わりだし。それに比べると戯曲は上演しなければいけないものだと思っていたので小説に比べると広がりがあるように思えたのかもしれませんが、あんまり考えてなかったというのが正直なところです。
 母が亡くなった後に父が話してくれたのですが、大学で演劇に進んだ娘を見て、両親は「専門的に学ぶことで、演劇に失望するのではないか。その時、親である自分たちはどうすべきか」と話し合っていたみたいです。私の方は「つまらない演劇もあるんだ」と知ったくらいで、特に失望もしませんでした。

──徹底して、我が道を行くタイプですね(笑)。そして大学3年のときに自分の劇団「パラドックス定数」を立ち上げます。経緯を聞かせてください。
 2年〜4年まで、大学の授業で劇作や演出、俳優などいろいろなコースの学生がまとまって創作・上演するという「舞台総合実習」という授業がありました。その実習では、普段は学生に貸し出してもらえない、通称“ブラックボックス”と呼ばれていた空間を使うことができたんです。私はその空間に一目惚れして、2年生になってからその実習に没頭しました。

──実習ではどんな創作をされたのですか。
 普通は、別役実や唐十郎など日本を代表する劇作家の既存戯曲を使うのですが、私はどうしても自分が書いた戯曲を上演したかった。そのためには、教授と学生の両方を納得させるものでなければやらせてもらえない。どうしたらみんなが納得してくれるか、その辺りは高校の演劇部のときから同じで、何かないかアンテナを張り巡らせました。
 史実や事件、人物などいろいろなことに触れていると、不意に「なんだこれ?」と、頭の隅に引っ掛かることがあって。その“引っ掛かり”が劇作の糸口になることが多いのですが。あの時は母が見ていた、NHKで放映していたベルリン・フィルの演奏会が気になりました。創立100年以上の、ナチスドイツの時代にも活動していた歴史のある交響楽団だと知り、何となく「戦時中はどうだったのかな?」と。調べてみたら、当時もユダヤ人とアーリア人の両方の演奏家が所属していたんです。そこには絶対にドラマがあるはずだと思い、関連書籍を何冊か読みました。
 史実に基づく場合は、年表や人物相関図もつくりますが、私の場合、徹底したリサーチをするというほどではなくて、登場人物が決まるとそこから物語が転がりはじめる感じです。

──テーマや物語の展開を決めるわけではないのですか。
 ええ。参加できる俳優の人数などと摺り合わせて、まずは登場人物を決めます。物語がどうなるのか、自分でも最後までわからないことが多い。大切なのは、その決めた登場人物同士を出会わせたとき、どんな「会話」が立ち上がるか。試しに、ある場面に2人の人物を放り込み「何を喋るかなぁ」と観察し、ファーッとそこから湧いてくる会話を書き留める。
 私が決めた設定に則って登場人物たちに喋らせるのではなく、必要な会話や物語の展開は登場人物たちが知っていて、私はそれを教えてもらいながら書くという感じです。だからゴールもわからないまま頭からひたすら書き続けると、最後にオチもつく。そういう書き方です。書きながら「違う!」と登場人物に引き戻されることもあります。

──それで、実習でつくったベルリン・フィルの芝居がパラドックス定数を立ち上げるきっかけになったのですか。
 実習後も私の芝居に出たいと言ってくれた人が何人かいて。それと卒業したら公演も気軽にできなくなるだろうし、学生のうちにやっておくのもいいかもしれないというぐらいの気持ちでした。そもそも劇団という意識はなくて、最初の作品『神はサイコロを振らない』(1998)を上演するときにチケット販売会社に連絡したら、団体名が必要だと言われて。芝居の題材がアインシュタインだったので、近くにある資料をパラパラめくって目に入った言葉の「パラドックス」と「定数」を組み合わせて個人ユニットの名前として付けました。本当にイイ加減ですよね(笑)。

──「パラドックス」と「定数」という言葉に惹かれたのでしょうね。
 今から考えると数学的なものへの憧れがあったのかもしれません。物理とか数学は大の苦手だったんですが、資料でアインシュタインの本を読んでいて、「数学は答えがあるものを解くのではなく、自分で問題も見つけて答えも見つけるものだ」「良い問題を良い解き方で解くと、全部が最初からそこにあったかのように納まる」「数学は発見であって発明じゃない」みたいなことがずっと頭に引っかかっていて。それでこの言葉に惹かれたような気がします。
 だからと言って、別に数学的にきれいな戯曲を書きたいと思っているわけではなくて。無駄なものはない方がいいかな、と思っているぐらいですが‥‥。

──個人ユニット的な活動を9年続けて、2007年に男優5人と劇団にしたわけですよね。
 ええ。卒業してしばらくはアルバイトをしながら1年に1回公演を行うという生活を送っていて。今思うと、本当に何も考えていなかったのですが、「もうダメかな、シナリオを書くための専門学校にでも行こうかな」と思っていた頃に書いた男優10人の芝居『三億円事件』(2002)が好評で、それから男優だけの芝居を書くようになりました。
 2007年にずっと出演してくれていた俳優の小野ゆたか(現・パラドックス定数劇団員)から劇団にしないかという申し出があり、反対する理由もなかったので私の芝居の常連だった男優4人を誘って劇団にしました。そうして初演したのが『東京裁判』です。

──『東京裁判』は野木さんの代表作といえるもので、繰り返し再演されています。創作過程を教えていただけますか。どうしてこの題材を選んだのですか。
 実はお客様のリクエストだったんです。私はいつも、公演のときには案内がてら劇場の客席をウロウロしているのですが、そこで何回か観に来てくださっているお客様が「パラドックス定数で東京裁判が観たい」と声をかけてくださった。それがきっかけです。

──東京裁判は第二次世界大戦に敗れた日本の戦争犯罪人を裁くために連合国側によって開かれた極東国際軍事裁判の通称です。裁かれるのは連合国側から日本を戦争に導いたとされた東條英機元首相などA級戦犯28名。切り口や登場人物は無数に考えられそうな題材ですが、どうして日本側の弁護団5人の芝居にしたのですか。
 劇団にした最初の公演だったので、劇団員5人の芝居にしようとまず決めました。史実を題材にした作品が多いので誤解されがちですが、私、歴史は全くダメで、東京裁判に関しても当時は東條英機ぐらいしか知りませんでした。それで調べ始めたら日本側に弁護団がいたことがわかった。裁判だから弁護団がいるのは当たり前ですが、私は勝手に「いない」と思っていたんです。日本は敗戦国だから、アメリカを筆頭にした戦勝国、連合国側がいいように裁いたと思い込んでいたんです。
 そのことへの驚きが“引っ掛かり”になり、さらに調べたら陸軍の顧問弁護士が弁護団の代表だったり、弁護士免許を持たずとも参加できたり、実際に広田弘毅元総理大臣の息子が補佐に入っていたりと、興味深い事実に次々とぶつかり、主任弁護人4人と通訳1人を登場人物にしました。

──舞台を法廷内にし、姿も見えず、声も聞こえない裁判官、判事、検察官を相手に、弁護団のみの弁論で展開するという発想はどこからきたのでしょう。
 東京裁判は休廷が非常に多かったので、最初は法廷の前室を舞台にしたいと考えました。足が不自由で車椅子のため法廷に出られない弁護人がいて、休廷の度に前室に戻ってくる他の弁護人とやり取りをするという設定にしようかと。でも、お客様からのオーダーは「東京裁判が観たい」でしたから、やはり裁判の場面を描かないとダメだと思い直しました。それと英語を話せる俳優がいなかったので、「それなら相手が喋ったことにして進行すればいい」と、今のような、裁判官や検察官の台詞の一部を、通訳が訳して日本側弁護団に話す形にして対話を進めることにしました。

──2015年(第二次世界大戦終戦70周年)に青年座からの依頼で書下ろした最新作『外交官』は、『東京裁判』の前日譚とも言うべき戯曲です。後に東京裁判で裁かれるA級戦犯となった外交官たちが、「何故戦争が起こり、日本が敗けるまでに何があったのか」を回想していく作品です。こちらは、重光葵外務大臣という主人公が設定されていますが、どのような創作過程だったのでしょう。
 終戦から70年の年に、大戦にどの角度から向き合うか青年座といろいろ話し合い、諸外国と渡り合う最前線に立つ外交官に焦点を当てることになりました。スタートラインは「日本が敗戦した」という、その厳然とした事実を知らせること。当時の記録、日本の政治家たちの言動などを資料に当たるなかで、「国が敗れても戦勝国の言いなりにはならない!」と、非常に強い意志を示したのが外務大臣だった重光さんだと知り、彼を主人公に決めました。他の登場人物には、重光さんと立場や意見を異にした人、彼より地位の低い部下などを配しました。

──それは何故ですか。
 男性は、同期や友人などが近くにいると甘えたり、泣きついたりしがちじゃないですか。重光さんの強固な意志と行動を表現するためには、彼が周囲をグイグイ引っ張る姿、対立する人物と闘う姿を見せたほうが良い。そういう関係性をつくることができる人物を選んで、劇中の登場人物として配していきました。
 前にも言いましたが、私は登場人物とその関係性、そこで交わされる会話から戯曲を立ち上げることが多いです。こういう言葉の闘い(会話)が演劇だと思っています。書きながら「何か見えたかな?」「コレかも知れないゾ」と、登場人物たちの会話に導かれていく。会話が転がればそれに乗っていくし、詰まれば会話の相手を交代させる。『外交官』は2時間30分ほどの作品ですが、全体の5分の4くらい書き進むまで、私にも着地点ははっきり見えませんでした。

──同じシチュエーションでも、2人の人物が交わす会話には、無数のバリエーションが存在すると思いますが…。
 物語の序盤、中盤、終盤で、どの情報を誰が持ってきて、転がしていくためのなんとなくの方向性と照らし合わせていくと、「会話」の正解は1つか2つくらいに絞られると思っています。あとは場面ごとに登場人物が、居心地が良いか、悪いかなどの状態を無意識のうちに判断しているかもしれません。

──野木さんの作品の魅力は、登場人物たちの非常に研ぎ澄まされた言葉にあると思いますが、それがこうした創作過程から生まれてくると思うと不思議な気がします。
 そういう文体を意識しているわけではなくて、私にとっては必要な台詞というだけ。ただ会話に限らず、無駄なものは戯曲の中にないほうがいいとは思っています。だから、物語の展開に関しても「一番シンプルに次にバトンを渡せるのは誰か、どの関係性か」というふうに常に考えています。

──「人間のこういう部分を描きたい」というような願望、理想はありませんか。
 理想というほど大げさなものではありませんが、どんな過酷な状況にあっても「負けるもんか! 死んでたまるか!」という人間を描いているような気がします。きっかけは忘れましたが、私、「舞台上で人が死ぬ場面はダサい」と気づいたんです。だから作品をダサくしないためにも、登場人物に簡単に死んでもらっては困る。その結果、「死んでたまるか!」的なキャラクターを描くことになったんじゃないかと。それと、登場人物を描くためには私がその人を好きになる必要があるのですが、尊敬や愛情を持てないものを好きにはなれない。そのことも、キャラクターの在りように影響していると思います。

──そうした創作において影響を受けた作家や恩師はいますか。
 戯曲は大学入学後に本格的に読み始めて、日本の劇作家では野田秀樹さんの作品を多く読みました。後は『アマデウス』『十二人の怒れる男』など海外の戯曲もそれなりに読みましたが、この作家、この作品と挙げられるほど大きく影響された存在はなかったかもしれません。

──海外戯曲の整然とした翻訳文体は野木さんの戯曲に通じるものがあるような気がします。
 翻訳文体ということで言えば、映画字幕翻訳家の戸田奈津子さんの影響は受けていると思います。字幕を追わないと映画を見た気がしなくて、中でも戸田さんの字幕の言葉は、私にとって聴覚と視覚がピタリと合う感じで抜群に心地良かった。小説などでもガッチガチの翻訳文体が大好きで、新訳で読みやすくなっていたりするとかえってイラつくんです。そうか、私の「会話」のルーツには戸田さんの字幕があったんですね(笑)。

──プロセニアム劇場ではない空間での上演が多いのも、野木さんのこだわりですよね。
 やはり小さくて凝縮感のある空間が好きです。古びて、コンクリートや金属がむき出しの、直線的で硬質な空間に惹かれます。自分の戯曲との相性が良いのはもちろんですが、学生時代からずっと金銭的に厳しい状態で芝居をつくってきているので、そもそも凝った舞台装置が立てられない。だったら空間そのものが饒舌な場所を選べば良いんじゃないかと。その結果、作品と劇空間が切っても切れないほど緊密に結びつくことも少なくありません。『東京裁判』はpit北/区域(2015年末閉館)がなければ今の形にはならなかったと思います。グリコ森永事件を題材にした『怪人21面相』(2006年)も、渋谷のspaceEDGEを見つけた瞬間「出来た!」と思いました。

──どちらもコンクリート打ちっぱなしの壁で、2階があるなど天井の高い、やや変形したフリースペースです。そういう空間だと逆に俳優の生身感が際立ちます。
 そう思います。「舞台は役者のもの」というと少し違うかもしれませんが、上演中は役者だけを見て欲しいという思いが私にはあります。役者を引き立たせ、観客をそこに集中させるためにも、劇空間に生身以外の柔らかいものがないほうが良い。そういう空間・場所を、無意識に選んでいるのだと思います。
 
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