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大植真太郎
大植真太郎(おおうえ・しんたろう)
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『談ス』
談ス
Photo: MATRON
『イキ、シ、タイ』
イキ、シ、タイ
Photo: MATRON
Artist Interview
2016.4.8
dance
Physical × Physical  Shintaro Oue’s unique language of “body knowledge”  
フィジカル×フィジカル 大植真太郎の“肉体知”  
森山未來・平原慎太郎と創作した『談ス』で全国ツアーを行い、その存在が改めてクローズアップされているのがバレエからコンテンポラリーに転身した大植真太郎(1975年生まれ)だ。93年にバレエの登竜門・ローザンヌ国際バレエコンクールで入賞後、ハンブルク・バレエ団、ネザーランド・ダンス・シアター(NDT)、クルベリ・バレエ団と華々しいキャリアを重ね、以後、スウェーデンを拠点にフリーで活動。08年に柳本雅寛、平原慎太郎とともにC/Ompanyを結成し、日本での本格的な創作をスタートした。また、近年では、シディ・ラルビ・シェルカウイやインバル・ピント&アブシャロム・ポラックなど海外の有名振付家による日本での創作にも参画。さまざまなアーティストとの協働によって培われた大植流“肉体知”で立ち上げるダンスの世界について、インタビューした。
聞き手:乗越たかお[舞踊評論家]

談ス

──『談ス』では、コンテンポラリーダンスとして異例の15都市24公演の全国ツアーが実現しました。初演は2014年の青山円形劇場でしたよね。観客に囲まれたまるでリングのような円形の舞台上で、強靱な肉体をもった男3人が声(言葉)をぶつけ合い、肉体をぶつけ合い、黒板でできたステージにチョークでどんどん体内の絵が描き込まれるという、いろいろな掛け合いがダイナミックな舞台でした。今回のツアーではプロセニアム劇場での上演になりますが、演出は変えたのですか。

 観客との距離が物理的に遠くなるのと、小さい人形を使ったりするので、映像を使いました。それほど大きなモニターではありませんが、人形の部分を拡大して映し出したりしています。

──年齢が上で経験の豊富な大植さんがドーンといて、若い二人がウルサく絡んでいく三人の関係が面白い感じを出していますが、どのようにクリエーションされているのですか。
 先にテーマを決めてそこに向かって走る、というつくり方ではなく、とにかく3人で話し合います。話している方が多いかも(笑)。そこでキーワードらしきものが出てきたらとりあえず拾っておきますが、それをいったん横に置いて、それとは別に一緒に身体を動かす。それで面白い動きが出てくれば膨らませるといったことをしていると、ある時点で誰かがキーワードと動きをつなぐようなことを言い出すんです。じゃあ3人で考えようか、とまた話し合って‥‥という繰り返しですね。だからつくっている時は、昼動いて、夜話し合うという感じです。

──1日中3人が一緒にいないとつくれませんね。
 はい。だから『談ス』も含めて、今まで僕がみんなと作品をつくるときには、たいてい合宿をしています。東京だとみんな家に帰ろうとするから、できるだけ長い時間、一緒にお酒を呑みます。それで足らなければ、相手の家まで行って呑む(笑)。話しているのは、無駄話がほとんどですが、基本的に作品に関する無駄話であってプライベートな話をしているわけではありません。

──そういえば今回のツアーのパンフレットには、2ページにわたって「コンテンポラリーやアブストラクトなものとウンコの関係」など、3人の無駄話(笑)が再録されていました。そういうやり方だと、何をつくるかより、誰とつくるかが非常に重要になってくるように思います。
 ええ。だから誰とでもつくれるわけではないし、よく知っている友達とやるのも関係が壊れるような気がして怖い。作品をまとめるとき、一応、僕が最終的に決めるのですが、直前まで悶々としていて、絶対に作品に必要だと思ったら、仮に他のメンバーが嫌がっても「嫌々でいいからやってくれ」と言いますから。その「嫌々やってる感」は必ず作品に出てきますが、それも作品の一部として活きればいいと。やがて彼らが「なるほど」と体感してくれたときに、良かったと思います。人前に立ったとき作品がガラッと変わるのはよくあることですし、その判断に間違いはないと確信しているので。

──『談ス』の二人との出会いは? どういうところを見初めて一緒に作品をつくりたいと思ったのですか。
 平原君と初めて会ったのは、彼がまだNoismのメンバーだった頃です。とにかくビックリさせてくれる。たとえばバク転ができる人は、やる前に飛んでいる自分の姿がイメージできているんですが、彼はできないくせに強烈にイメージできてしまう! だからやるんですが、もちろんできない。でも繰り返すうちに“バク転的な何か”を生み出してしまう(笑)。バレエの基礎が全然できてないのに膝が伸びていないことを気にしてる(笑)。でも“できる想像力”が半端じゃないので、できるつもりで思い切り動く。そのズレが面白いし、舞台で僕を驚かせてくれるんです。でも本当はすごく繊細な一面もありますから、話し合っていると一言多いんですが、言い過ぎてしまったことを反省しながらまた言っちゃうみたいな(笑)。

──森山さんも、主張するタイプですよね。大植さんと森山さんは、ベルギーのシディ・ラルビ・シェルカウイが日本で制作した『テ ヅカ TeZukA』(2012)『プルートゥ PLUTO』(2015)といった作品で共演されています。
 2013年、1週間くらい東京でやっていたC/Ompanyのリハーサルに未來君が遊びに来ました。彼は文化庁文化交流使としてイスラエルに1年間滞在することが決まっていて、平原君も文化庁新進芸術家海外留学制度研修員でスペインに9カ月間行くことになっていた。じゃあ今度はヨーロッパで会おう! というノリで、ストックホルムの僕の家で合宿稽古をしました。ただスタジオが取れなくて、スウェーデンの寒空の下、公園とかでやっていました。
 未來君は論理的で、歯に衣着せぬ物言いで会話できるのがいい。彼がいる芸能界は周りから様々な色づけをされてしまう世界だと思いますが、そういうのをちゃんと払い落としていて、染まっていない。彼が色々試したいと思っている時期に、ちょうど僕と出会い『談ス』が生まれたのだと思います。

──『談ス』はコンタクトという手法でつくられたもので、男3人が筋力をガンガンに使って濃密なコンタクトをしています。笑いもあって楽しく観ていると、やがて深海の底のような深い重圧感のある舞台空間が訪れる。こういうコンタクトは大植さんのスタイルなのでしょうか。
 そうですね。僕は人がいないと何もできないんで。ソロ作品は、ことごとく失敗していますから(笑)。人との関わりで“自分の中の器”に溜まってくる物が大切なんです。だから音楽のように外部から来る物からインスパイアされることはない、というか拒否感がある(笑)。C/Ompanyでも『談ス』でも、音楽はほとんど使いません。

──『談ス』のような濃密なパワー系のコンタクトは、ヨーロッパやイスラエル、韓国などでもみられますが、日本だと少ないですね。
 僕は何事も環境が大事だと言っていますが、日本だと踊りたいと思っても相方がいないんです。だから結局「ダンスは自分を表現するものだ」となりがちなのではないでしょうか。バレエでも現代舞踊でもソロに重きがおかれていて、それは過剰なコンクールの弊害じゃないかと思います。そういう部分が必要なのはわかりますし、皆がみなそうだとは言いませんが、少なくとも僕が日本でバレエをやっていたときは、「自分がどれだけできるか」しか考えていませんでした。

──欧米の場合、まず男女で踊るグループダンス(日本で言うフォークダンス)があり、社交ダンスというコミュニケーションとしてのダンスが浸透している。ディスコなどでも異性を魅了する為のダンスの伝統があります。日本のダンスのベースを考えると、バレエはもちろんですが舞踏もあまり触らない。盆踊りも輪にはなるけど他人には触れず、現代になってもパラパラはこれまた一人で踊ります。「ダンスによって濃厚に相手の身体に触れる」という意識が初めから希薄なのかもしれません。
 そうですね。まあイスラエルでもバッドシェバ舞踊団のオハッド・ナハリンのように相手に触れない美学の人もいて、そういうのも好きではありますが‥‥。
 僕がコンタクトを始めたのは、オランダのアヌーク・ファン・ダイクという振付家の作品に出たときのことがきっかけです。デュエットの相手の女性ダンサーがタンゴの経験者で、彼女が僕のことを見事に捌いてみせたのが悔しくて(笑)。これではダンスが「対話」にならない、と思って色々調べてコンタクトに出会った。
 ただコンタクトはあくまで手段だし、常に何のためにやってるの?と思うところがあります。ワークショップのときに僕はよく「大事なのは、セックスそのものじゃなくて、電車に乗って離れるときだよ。そこでもう一度会いたいと思ったら、電車を乗り換えて戻ってくる。その時がコンタクトじゃないの?」と言ったりする。でも、だいたいは「そんな話はいいからテクニックを教えてくれ」という反応が返ってきますけど(笑)。
 だから「相手のことは肉塊だと思え、恥ずかしいという感情を捨てろ、肉塊同士が触り合っても恥ずかしいことはない!」と言うと、何となくはやってくれますけど。最近はむしろ、極力くっつかないように、コンタクトをなるべくしたくない身体でコンタクトをする、といったことを考えています。しんどいですが‥‥。
 
──あるインタビューで大植さんが「もう踊りたくない」とおっしゃっていたのはそういうことですか。
 踊りをやめるということではなくて、僕の中には「なぜ踊るのか?」「何がダンスなのか?」という問いがずっとあります。踊る必要があるのか、他に方法はないのか。最終的に踊ることしかできなくても、初めからダンスに限定したくない。ダンスから発想したくない。そこに至るまでは徹底的に話し合いたい。常に自分を疑い続けるのは、ダンスを嫌っているんじゃなくて、常に「変わりたい」という衝動があるからなんです。


ダンスを始めたころ

──ダンスを始められたきっかけを伺えますか。

 11歳の頃、母が美容のために始めたバレエについていき、勧誘されて弟と二人で始めました。バレエ界で男の子は貴重ですから。男子は4人しかいなくて、正直、あまり楽しくなかったです(笑)。もらったタイツが女性用の黒で、下に来ている白い下着が透けて見えるのが嫌で。他にもサッカーや水泳やピアノなど習い事は色々しましたが、結局、続いたのはなぜかバレエだけでした。
 両親は一介の学校の教師なので、特に裕福でもなく、弟はバレエを途中で辞めましたが、経済的な面から僕に譲ってくれたのだと思います。僕自身はコンクールに出場しているうちに手応えを感じていたのですが、当時の日本の男性バレエダンサーにあまり良い印象を持っていなかった。ウェストポーチを付けて、あちこちの公演に客演して回っているようなイメージだったんです。それで17歳のときにローザンヌ国際バレエ・コンクールを受けました。
 そのときは準決勝止まりで悔しくて、海外のダンス学校に行くことを決めました。ドイツとオランダの国立バレエ学校を見学するツアーがあり、ハンブルク・バレエ団(芸術監督ジョン・ノイマイヤー)の学校は寮があったので、決めました。その頃はノイマイヤー作品を観たこともなかった(笑)。そして翌年、もう一度、ローザンヌに挑戦しました。

──93年ですね。ハンブルク・バレエ学校からの出場だったんですね。そこでノイマイヤー振付の『春の祭典』を踊り、見事キャッシュ・プライズを獲得しました。『春の祭典』はとても激しい踊りで、そのときの映像がネットにもアップされていますが、終わった後、楽屋口の通路に倒れ込んでいました。
 あれはカメラを意識してやったんですけど(笑)、ただしんどい作品だというのは本当で、それはわかってほしかった。94年6月に学校を卒業し、正式にハンブルク・バレエ団に入団しました。ここには97年まで在籍していました。
 ハンブルク・バレエ学校の授業は楽しくて、マーサ・グレアムのメソッドからカスタネットの演奏まで、幅広く学び、世界が広がりました。また日本にいた頃は、バレエというのは一枚岩だと思っていたのが、学校ではアメリカ人、ロシア人、フランス人と教える先生によって様々で、いろいろなバレエがあることを知った。ここで固定観念が壊れたことは、僕にとってはとても大きかった。何をやるにも、かならず他にも方法があるはずだと考えるようになりました。
 3年目に足を怪我してしまい、長めの休みが取れたのですが、初めてピナ・バウシュを観て(『コンタクトホーフ』)、本当に面白かった。それでこっそりピナのオーディションを受けたりしてました。ちょっとハンブルク・バレエ団との関係がうまくいっていない時期で、なぜかピナのオーディションを受けたことがバレてしまい、さらに居心地が悪くなった(笑)。
 そんなときNDT(芸術監督イリ・キリアン)にいた友人が「プライベートでも受けられるオーディションがある」と教えてくれました。「振付もできるとアピールした方がいい」と言われたので、1日ぐらいで短いシークエンスをつくったのをキリアンたち首脳陣が観に来ていて、あっさり入団になりました。

──1990年代は、コンテンポラリーダンスでも力のある人が精力的に活動していた時期ですね。
 NDTは本当に楽しかった。一棟借り上げの寮みたいなところにみんなで住んでいて、14人のメンバーがよく一緒に行動していました。ただ年齢的に僕はギリギリで、オーディションが誕生日の5日前だったからそれを越えていたら多分入れなかったと思います。ダンサーは18歳くらいからいるのに、僕は22歳でそろそろやめる時期ですから。一番の新入りが一番年上だった(笑)。
 
──その頃、大植さんのダンサーとしての強みはどんなところだったと思いますか。
 なんでしょう…よく踊れる、ということですかね(笑)。ただそれ以上にNDTの「身長や体格は関係ない」という環境が大きかったと思います。体型のばらつきが本当にスゴかった。オハッド・ナハリンが振付に来たり、刺激のある環境でした。いろいろな作品も観られましたし、あの時に作品をつくってみようという気持ちが本当に生まれたと思います。

──実際に作品をつくったのですか。
 つくりました。でも今観ると酷いです(笑)。踊りだけど、無意識に踊りじゃなくしたいみたいな感じで。昔から振付家と仕事をすると「俺だったらこうじゃない」と思うことが多々あった。でも、その時には自分の中にどうしたらいいかの手法がなかった。振り付けるというのはどういうことなのか、何をもって振付と呼ぶのか。でもこれはしたくない、あれはしたくないという思い入れだけがありました。振付家の存在というのはすごく絶対的で、そういうのが嫌で、そういうつくり方をしているカンパニーというものが自分には合わないんじゃないかと無意識に思っていました。

──NDTには何年いたのですか。
 どんなに居心地が良くても、初めからNDTは2年間でやめると決めていました。引き留められましたが、フリーでやってみたかったんです。でも8カ月くらいは全く仕事がなくて、本当に泣きました。オランダで働いたのは2年間だけなので、失業保険も出ない。仕事もないし、あったとしても楽しくない。今にして思えば、仕事を自分で選べるのがフリーでやる意義なのに、考えが甘かった。こりゃダメだと挫折感を抱えて、99年5月に一度、長めの夏休みをとって日本に帰りました。1年半くらいはフリーを続けて、マッツ・エックから演劇の仕事を回してもらったり、本を読んだりプールに行ったり、少しダンスから離れていた時期でした。

──その後、2003年にスウェーデンのクルベリ・バレエ団(創設者はマッツ・エックの母親)に入団します。
 子どもが生まれて安定した環境が必要になったんです。クルベリ・バレエ団は、マッツ・エックが芸術監督を辞めてから、ほとんど専属の振付家がいない状態が続いていました。そこへNDT出身のヨハン・インガーがやってきた。僕は彼と気が合わなくて、主張し合ってはよくぶつかっていました。すると出演機会がどんどん減ってくる。まあ勉強になりました(笑)。
 スウェーデンのカンパニーでは5時までみっちり働くことは少ないので、空いた時間で若い男のダンサーとコンタクトをメインにいろいろ試していました。そこでつくった『del a』という小品が、たまたま「ハノーヴァー・インターナショナル・コンペティション」で優勝したのをきっかけに、仕事の声がかかるようになりました。それが05年で、翌年にクルベリ・バレエ団を辞めました。「音楽から自由になりたい」と思って無音の作品をつくっているうちに「呼吸」を発見したり、僕のダンスが一番変わったのは、この頃かもしれません。

──退団に先立つ03年、大植さんはトヨタ・コレオグラフィー・アワードの決勝に『Living Room』で出場しています。大植さんと男性ダンサーのデュオで、新聞を広げてコーヒーを入れたり、コミカルですがどちらかというと演劇的な作品でした。このときは、黒田育世、白井剛、山崎広太と実力派が揃っていました。
 あの時優勝した黒田育世さんの『SIDE B』は確かに面白かった。審査委員長だった天児牛大さんが「振付とは」ということについてコメントされて、なるほどと思ったけど、僕のやりたいことと違うというのも明確になりました。さっきも言いましたが、僕は基本的に誰かとの関係性の中で踊りたいので、純粋なソロはつくれないんです。それでもソロをつくるのなら、何かモノとの関係性でつくるしかない。袋があったら、それを被ってなにかできないかを考えて、面白かったらそれでいいというだけなんです。
 実はトヨタとクルベリのクリエーションのタイミングが重なり、作業が止まるから出るなと言われていたのを押し切って出場した。そこで段々居づらくなったのも退団した理由のひとつです。
 
──06年にはNoismに招聘されて振付を行い、08年に柳本雅寛、平原慎太郎とともに「C/Ompany」を立ち上げました。
 C/Ompanyは彩の国さいたま芸術劇場(以下、さい芸)の佐藤まいみプロデューサーとの出会いがきっかけになりました。さい芸は、07年にインバル・ピント&アブシャロム・ポラック・カンパニーに『銀河鉄道の夜』をモチーフにした『ヒュドラ』を委嘱し、日本から僕と森山開次が参加しました。
 その縁で、08年にまいみさんからサイトウ・キネン・フェスティバル松本のオペラ『利口な女狐の物語』に出演依頼をいただいた。その時、「あなたが日本で思うような仕事ができないのは、ダンサーとして日本の作品に出てないからよ」と指摘されたんです。自分の才能を広げるための環境を整える努力をしろ、というアドバイスでした。なるほどと思い、柳本と平原に声をかけて「C/Ompany」を立ち上げました。その第1作がさい芸の「dancetoday2009」という企画で発表した『イキ、シ、タイ』です。
 C/Ompanyは3人でつくるので振付家というクレジットはありません。柳本君は、ドイツやオランダでキャリアを積んでいる友人で、平原君のようにぶっ飛んだ発想ではないけれど、アイデアはもちろんしっかりした技術を持っています。


現在とこれから

──『ヒュドラ』もそうですし、シディ・ラルビ・シェルカウイとの仕事など、大植さんは、「海外の有名振付家が日本でクリエイションをするときに、日本のアーティストとの間の橋渡しをする兄貴的な存在」のようにも映ります。

 そんなにたいしたことはしてませんよ(笑)。スウェーデンにいる工藤聡さんがラルビとずっと一緒にやっていて、その縁で『テ ヅカ』のオーディションに呼んでもらいました。実はクルベリを僕が辞める頃にラルビがクリエイションに来ていて、すれ違ったことがある。僕の作品の映像を送ったこともあります。『PLUTO』のときには言葉の問題があったので橋渡し的な役割もしました。
 ラルビには何度か人生相談をしているのですが、「5年後に何をしているかのビジョンを持て」「ユニットはやめろ」とか、なかなか実現の難しいアドバイスが多い。ただ「流れのあるところに行け」というのは守っていて、それでいま日本にいます(笑)。

──日本では一般人つまりシロウトの身体とか、あるいは新体操のような「極限まで鍛えながら、行く当てのない身体」などがありますが、今後そういうものと関わる気持ちはありますか。
 一般人とのダンスは何度かやりましたが、僕はあまりダンスにする必要性を感じなかった。僕は身体が利く人が好きで、ダンスで“頑張っている姿”を見せられるのが苦手なんです。“頑張っているように見せる”のは良いんですが‥‥。

──これまで話しをうかがっていると、けっこう錚々たるアーティストと仕事をしているのに「○○が嫌い」という話が多いですね(笑)。
 確かにそうですよね。何ごとも僕のやることには反骨精神がベースにあるような気がします。楽しいかどうかが重要なので、好きな人としか仕事をしませんが、そういう相手だったら意見もどんどんぶつけられる。でも嫌だと言っても仕方なくて、自分の作品の中で表現できなければしょうがない。振付家とダンサーというヒエラルキーから自由になって、皆で作品をつくるというスタイルに目覚めたとき、コンタクトという有効な方法に出会って自分なりの表現ができるようになったんじゃないかと思っています。

──アーティストとの仕事から大植さんが受け取ったものはありますか。
 やってきたことはよかったと思っていますが、振付家から本当に驚愕するような何かを得たということはないかもしれません。逆に、ものすごく評判の悪かった作品に出たときの経験の方が僕を変えてくれたと思います。NDTが若者向けにつくった作品で、公演終了後にDJがいて観客も舞台上で踊るというものでしたが、金ばかりかけた駄作と言われました。実際、作品としては僕からみても酷かった(笑)。でも、コンタクトにはここで出会ったし、何より「そういう酷い作品の中で、自分はどう立つのか」ということは、素晴らしい体験だった。面白い作品に出ても、それは作品が褒められて終わりですから。

──大植さんが作品づくりの基軸としているのはどういうことでしょう。
 目の前にいる人を、ドラマや物語で色づけをしたくないということです。平原慎太郎でも森山未來でも、共に動いていく中で色がついていく。でも次のシーンでは全部捨ててしまう。優れた身体を持ち、それを否定ながら、無駄遣いし続けられる人がいい。
 観客に対しても、引き込み楽しませる部分と、冷めさせたり、引かせることも必要だと思っています。傲慢な意味ではなく、客席も自分の舞台の一部だと考えていて、舞台上だけで完結するのではなく、客席の空気も取りこんで成り立っていくものをつくりたい。だから観客に「面白かった」と言われるのは、伝わっているなと思う反面、そこまでしか伝わってなかったかと反省したりもする。
 ただ客足は減らしたくない(笑)。それは日本で活動を始めてから強く考えるようになりました。これまでは「自分の好きなことだけやらせてよ」というやり方でしたが、観客が足を運んでくれるようなものをやりたいと思うようになりました。それがラルビのいう「ビジョン」かどうかはわかりませんが。
 僕自身、いろいろな矛盾を抱えながらやっていて、それでいいというか、それが大切なのだと思っています。絶えず相反するものを抱えながら、今の真実を踊っていく。

──次作で考えているプランはありますか。
 『ボレロ』をやりたいと思っています。生演奏と10人のダンサーで三部構成にして‥‥。アイデアはあるのですが、実現するにはもう少しかかりそうです。

──これまでずっと音楽を拒否してきた大植さんが『ボレロ』というのは面白いですね。
 そうですね(笑)。前にイスラエルのダンサーに「人がいないと踊れない。音楽には拒否感がある」という話をしていたら「音楽も人だと思えばいいんじゃない?」と言われたことがあって、対峙の仕方を考えてみようかと思っています。まあ、矛盾を抱えて踊るのが好きなので(笑)。
 
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