The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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高山明
高山明(たかやま・あきら)
*1 関口存男(1894〜1958)
ドイツ語学者。日本におけるドイツ語教授法を大きく発展させ、大学や外国語学校で講師を務めたほか、NHKラジオ・ドイツ語講座の担当でも知られた。ドイツ語の他に、英語、フランス語、ラテン語、ギリシア語など様々な言語に通じる語学の天才。また1910年代以降、新劇運動に関わり、翻訳、俳優、演出などを担う演劇人としての一面もあった。
*2 ハンス=ティース・レーマン
ドイツの演劇研究者。1944年生まれ。1981〜87年ギーセン大学、1988〜2010年フランクフルト・ゲーテ大学で教鞭を取る。1999年『ポストドラマ演劇』を著し、1960年代以降の演劇の新しい展開を理論的に考察、世界の舞台芸術に大きな影響をもたらした。

*3 ルネ・ポレシュ
ドイツの劇作家・演出家。1962年生まれ。ギーセン大学応用演劇学科で学び、90年代よりポストドラマ演劇の牽引者の一人として、ドイツ語圏の各地の劇場で作品を制作。2001年ミュールハイム劇作家賞受賞。2001〜07年ベルリン・フォルクスビューネ付属の小スペース「プラーター」芸術監督を務めた。2002年『プラーター三部作』で「テアターホイテ」誌最優秀劇作家に選ばれる。来日公演としては、フェスティバル/トーキョーでの『無防備映画都市─ルール地方三部作・第二部』(2011)および日本人俳優で自作を上演した tpt『皆に伝えよ!ソイレント・グリーンは人肉だと』(2006)がある。

*4 リミニ・プロトコル
シュテファン・ケーギ、ヘルガルド・ハウグ、ダニエル・ヴェッツェルの3人が2000年にフランクフルトで結成したユニット。特定の主題のもとで特別な知識や経験、属性をもつ一般人を舞台に上げ、現実と接続した問いを提示するドキュメンタリー演劇や、様々なメディアを用いて公共空間で展開するプロジェクトを行い、世界的に注目を集める。日本では、これまでに『ムネモパーク』(2008)、『カール・マルクス:資本論、第一巻』(2009)、『Cargo Tokyo-Yokohama』(2009)、『100% Tokyo』(2013)が上演されている。

*5 『一方通行路〜サルタヒコへの旅〜』(2006)
巣鴨地蔵通り商店街を舞台に、Port Bが制作した最初のツアー・パフォーマンス。観客は一人ひとり、商店街を約500回録音した音源から作られた音声ファイルを聞きながら歩く。商店街の中のいくつかのポイントで与えられる指示に従って進むうちに、見ると同時に見られる、街の中での視線や知覚の交錯を体験する。
*6:『東京/オリンピック』(2007)
東京の定期観光バス「はとバス」と協働し、1964年に開催された東京オリンピックに関連する訪問地をバスで巡りながら、様々な意味で「競争」を続ける都市・東京、そこに生きる"私たち"を問うたツアー・パフォーマンス。

*7 『サンシャイン62』(2008)
旧巣鴨プリズン跡地に建てられた池袋のランドマーク、サンシャイン60が見えるチェックポイントを巡る過程を通して、戦後日本の歩みとその記憶を問うツアー・パフォーマンス。観客は5人1組のチームで移動しながら、与えられた役割や指示書の指示に従って、様々なタスクの実行、あるテーマに関する議論などを行う。

*8 『完全避難マニュアル 東京版』
「東京の時間からの避難」をテーマに、大都市東京と個人との新たな関係を仮構するプロジェクト。山手線全29駅の周辺に「避難所」を設置。観客は、まず『完全避難マニュアル』のウェブサイトにアクセスし、そこで指定された駅から、宗教施設、シェアハウス、ホームレスの集落などの「避難所」を訪れ、東京の様々なコミュニティの人々と出逢い、時を過ごす。

*9 『個室都市東京』
フェスティバル/トーキョー09秋に初演された作品。池袋西口公園に24時間営業の個室ビデオ店を設置。1960年代に寺山修司が脚本を担当したテレビ・ドキュメンタリーをモデルに、公園に集う通行人や外国人、ホームレスなど様々な人々に同じ質問を投げかけたインタビュー映像がDVDに収められ、観客は陳列されたDVDを選んで鑑賞する。加えて「避難訓練」と題されたツアー・パフォーマンスでは、個室ビデオ店から雑居ビル内に設置された「出会いカフェ」に移動。観客は指名した相手と10分間対面し、相手から映像と同様の質問を受ける。
2010年に『個室都市 京都』(KYOTO EXPERIMENT)、2011年に『個室都市 ウィーン』(ウィーン芸術週間)も制作された。
*10 『完全避難マニュアル フランクフルト版』
2014年9月、ムーゾントゥルムのシーズン開幕プログラムとしてPort Bが行ったプロジェクト。15団体のアーティストとの協働で、フランクフルトおよび隣接地域に40ヵ所の「避難所」を設け、観客はウェブサイトから地図をダウンロードしたあと、電車等の公共交通機関を使ってそこを訪れる。批評サイトNachtkritikの「2014年ドイツ語圏最重要作品」にノミネートされ、一般投票の結果8位に選ばれた。
*11 『Referendum 国民投票プロジェクト』
東日本大震災と福島第一原発事故を受け、「”わたしたち”の声」とは何か、という問いへの応答を試みたプロジェクト。東京と福島の中学生へのインタビュー映像を改造した保冷車にアーカイブし、観客はそれを鑑賞するとともに、同じ設問のアンケートに回答し投票する。フェスティバル/トーキョー11での初演では、保冷車が東京、横浜、福島を巡回しながら、各地で学者、芸術家、詩人などとのトークイベントも開催された。2012年には東北、2014年には広島・長崎・埼玉を訪れ、中学生へのインタビューが加えられたほか、映像インスタレーションとして水戸、ウィーン、ベルリンでも展示が行われた。
*12 『東京ヘテロトピア』
「東京の中の異郷」にフォーカスを当て、宗教施設、モニュメント、難民収容施設跡地、エスニックレストランなど、東京とアジアの歴史や現在に関わる訪問地を、参加者が周遊するプロジェクト。各訪問地では、詩人と小説家が当地に着想を得て書いた物語をラジオで聞くことができる。フェスティバル/トーキョー13で上演された後、2015年に『東京ヘテロトピア』iPhone版アプリケーション発表、2020年まで訪問地が追加される。
『東京ヘテロトピア』をもとに、2016年には台北で現地でのリサーチに基いて『北投ヘテロトピア』を実施、現在はアテネでもプロジェクトが進行(2017年5月開幕予定)している。


*13 『横浜コミューン』
横浜のアジア・コミュニティへのリサーチに基づき、インドシナ難民が話す日本語と日本を主題にした映像作品を制作。更に、日雇い労働者用の簡易宿泊所が多く並ぶ横浜・寿町の住人とインドシナ難民が「先生」と「生徒」となり、『華氏451』(レイ・ブラッドベリ)の日本語訳を「教科書」として、即興的に日本語教室を上演するライブ・インスタレーションを行った、「日本/語」を問い直す作品。横浜トリエンナーレ2014参加。
*14 『秋田国語伝習所』
方言と標準語のはざまに生まれる「言葉の教育」の歴史と現在にフォーカスを当て、学校との連携、テレビ、ラジオとの協働により行われたプロジェクト。「国語伝習所」は19世紀末、日本の植民地となった台湾に設置された日本語教育施設。

*15 『大分メディアコレジオ』
16世紀、日本で初めてコレジオ(キリスト教大神学校)が大分に設置され、西洋の文化や学術が紹介された場所であるという大分の歴史に着目し、大分合同新聞やテレビ、ラジオ、ウェブサイトなどの複数のローカルメディアとの協働によって行われたプロジェクト。
*16
次の15科目の"講義"が制作された。
会計学/建築/生物/料理/英語/国際関係/ジャーナリズム/文学/メディア研究/音楽/哲学/リスク・マネジメント/研究/スポーツ科学/都市研究

*17 小林恵吾
建築家。早稲田大学准教授。早稲田大学、ハーバード大学大学院を卒業後、2005年〜12年レム・コールハース率いるOMA/AMOのロッテルダム事務所に所属し、主要プロジェクトに参加。中近東や北アフリカの大規模建築や都市計画プロジェクトを手掛けた。2014年、第14回ヴェネチア・ビエンナーレ日本館の展示デザインを担当。
Artist Interview
2017.4.25
play
Akira Takayama, expanding the “architecture of theater” as a new platform in society  
演劇的思考で都市を読み解く高山明のアプローチ  
高山明(1969年生まれ)は、ドイツでの演劇活動の後に帰国し、2002年にPort Bを結成。2006年以降、身体を張ったリサーチに基づいて演劇的発想を都市空間に展開するプロジェクトを開始。2010年に、都市の中に実在する「宗教施設」「シェアハウス」「路上生活者の集まり」「出会いカフェ」などを“避難所”として設定し、“避難民(参加者)”が巡る『完全避難マニュアル』を発表して注目を集める。以来、ジャンルを超えたアーティストを巻き込みながら人間の観点から都市を浮かび上がらせる『国民投票プロジェクト』『東京ヘテロピア』『横浜コミューン』などさまざまなプロジェクトを国内外の都市で展開。ピーター・ブルックが出発点だったという彼の演劇観から、難民をテーマにしたドイツのムーゾントゥルムとの最新プロジェクト『ヨーロピアン・シンクベルト』まで、高山明の思考の軌跡を辿るインタビュー。
聞き手:野村政之[演劇制作者、ドラマトゥルク]

──高山さんの演劇活動の出発点はドイツです。まず、演劇やドイツとの出合いからお話いただけますか。
 実は、僕は、叔母がバレーボールのオリンピック選手だったりして、スポーツ選手になるのが当たり前のような環境で育ちました。ですから、小学校では野球、中学からは当然のようにバレーボールをやっていました。背が小さかったのでポジションはセッターで、高校の時にはアメリカにスポーツ留学もしました。でも、2メートルぐらいある選手を相手にしながら可能性を探っている間に、「何やってるんだ俺」って気持ちになり、悩んだ末にバレーボールの道を諦めました。スポーツを止めたということが、僕にとっては本当に大きな転機だった。
 どうしていいかわからなくて、高校留年していた時に友人が通っていた「鶏鳴学園」という塾に通うようになりました。牧野紀之という哲学者の弟子の方が開いていた国語塾だったのですが、そこでヘーゲルとかマルクスとかをわからないままに読むようになり、関口存男(*1)という大ドイツ語学者の存在を知りました。関口さんは、築地小劇場の運動にも関わっていた方で、翻訳者として戯曲をかなり翻訳されていたんですね。
 大学生になり、一時はアメフトをやったりもしたのですが、体育会系の体質が本当に苦手で。大好きだった映画や、野田秀樹さん、鴻上尚史さんたちの80年代小劇場演劇を人並みに見歩いたりしながら、塾で学んだことの影響でドイツ語の勉強に懸命に取り組むようになりました。関口さんに憧れて築地小劇場のことを調べたりする内に、ドイツ語をものにしたいという思いが強くなり、早稲田大学を辞めて、フライブルク大学に行きました。
 でも関口さんという人は、中学で『罪と罰』を原語で暗記してしまったというほどの語学の天才です。結局、ドイツには行ったものの、3カ月ぐらいでこの道の厳しさを思い知らされました。そんな時に、シュツットガルトで観たのがピーター・ブルックの『妻を帽子とまちがえた男』です。この作品にものすごく感動した。それがきっかけで、演劇をやりはじめました。

──その時にピーター・ブルックのどういったところに感動したのでしょうか。
 元々スポーツをやっていたから、自分の身体がどうなっているかということに対して人より敏感なところがある気がします。スポーツをやっている時の集中力や高揚感…試合中、冷めているけど集中力が異様に高まっているとき、ごくたまに、プレーしている自分をちょっと離れて見ているような離人感に見舞われることがある。こういう感覚は厳しい練習の末にあるものなので、スポーツを止めたらそういう身体感覚を感じることはもう一生ないだろうなと寂しい気持ちでいたのですが、ブルックの舞台を観ていたら、ちょっとそれに近い…でもまったく違う感覚があった。何だろう、この感覚は?と思いました。没入もしていないし、我も忘れてないけど、凄く集中していて、全てのものがそこにあるのを感じる。素晴らしい経験でした。

──ブルックの作品と出合ってから、どういうふうに演劇の道に入っていったのですか。
 その晩そのままパリに行くことにしていたのですが、本当に偶然、ブルックのカンパニーも同じ夜行列車だったんです。パリの駅で話しかけて、笈田ヨシさん(ブルックのカンパニーの日本人メンバー)と知り合いになりました。その後、自作の戯曲を送ったりしていたら、ある時、笈田さんが「シャウビューネでワークショップがあるから覗いてみたら」と誘ってくださった。その様子を見たら、なんか自分でもできそうだなと大きな勘違いをして、フライブルクの学生劇団でたまたま演出をやらせてもらいました。これが大失敗で、本番、お客さんが入ってから初めていかにダメかに気付くという、本当に穴があったら入りたかった。拷問のようでした。

──演出家としての経験もなく、外国の言葉の演劇を演出するというのは確かに無謀です。
 ええ、辛かったです。その後もいろいろな機会を得て演出しましたが、役者は皆ドイツ人だったので説得するのが大変で、結局、稽古する前に予め自分で世界をつくって、「こうやれ」と命令するようになった。そうでもしないと対応できないからですが、毎回胃潰瘍になりました。
 それからもっと舞台を観て勉強しなくちゃと思い、大学も行かないで1年間で400本ぐらい観ました。でも、技術を仕入れても仕方がないと気付き、『妻を帽子とまちがえた男』と較べて何がよくて何がよくないのかを分析するようになった。それが演技や空間について根本的に考える勉強になりました。
 ドイツの公立劇場で演出助手もやりましたが、その頃には「演劇ってそもそも面白いのか」と考えるようにもなっていました。

──当時の高山さんは、演劇という表現についてどのように考えていたのですか。
 その頃、幾つか重要な体験がありました。ひとつは、ヴァルター・ベンヤミンの『ベルリンの幼年時代』(幼年期の私的な記憶を社会の記憶と結びつけた自伝)です。まるで都市で迷子になっているようで、自分はこれを作品化すればいいんだと思いました。この本との出合いは非常に大きかった。
 もうひとつは、私的な体験です。実は、一時期、追い詰められて不眠症になり、被害妄想が膨らんで外出もできなくなっていました。時間感覚がなくなり、幻聴や幻覚で混乱していたときに、パリのホテルで一種の神秘体験をしました。明け方だったのですが、窓を開けたら、日が昇っていくのと同時に、窓枠は窓枠に、屋根は屋根に…すべてがあるべきところに収まっていった。自分も世界の中心じゃなくて、世界の一部としてここにあるというのがよくわかったんです。時間としては15分とか20分ぐらい。それは少し、ブルックの舞台を観た時の感覚と似ていました。ある種の神秘体験だったのだと思います。神は全然いないのですが。
 自分は必死に妄想を膨らませて、自分の世界を“舞台”とか“作品”という形でつくろうとしていたけれど、何かを“つくる”というより、覆いを取り外してあげて、物が物として存在するようにしてあげればいいんだと気づかされた。自分にとってその発見はものすごく大きなことでした。

──自分が何かを表現するのではなくて、あるべきものがあるように…。
 そうです。その発見をきっかけに精神状態も回復し、『教育の家 第20号』という戯曲を書きました。自分がドイツで必死に演劇に取り組んだ5年間の成果をまとめたメタ演劇みたいな戯曲で、演劇論でした。

──その後、1997年に帰国されます。
 生活をしなければならなかったので、工場に勤めました。朝からラジオ体操をするような世界です。最初は辛くて仕方なかったですが、段々慣れて演劇をしてないことに疑問も持たなくなっていきました。3年ほどたったある日、「自分は色んな方法を手に入れて、良い舞台をつくろうと頑張ってきたけど、もともとはブルックの舞台を観たことがきっかけだった。そうか、俺は観客だったんだ」と再認識したんです。バカみたいに単純なことですが、それは僕にとってもの凄い発見でした。
 それでその日のうちに会社を辞めました。身につけた知識もテクニックも全部捨てて、「観客の身体」を軸にすれば、ひょっとすると面白い演劇がつくれるようになるかもしれないと思ったんです。そこからもう一度、パリでの経験や、ベンヤミンの『ベルリンの幼年時代』について振り返ると、「自分は観客として世界を受容していた」ことがはっきりわかりました。そのことで自分の立ち位置がはっきりとわかり、演劇と向き合うための軸がようやく1本通り、自分の作品を創り始める準備ができました。

──そうして2002年に立ち上げたのがPort Bです。どのようなメンバーだったのですか。
 『教育の家 第20号』を素材にしたワークショップからはじめました。最初は30〜40人ぐらいの参加者がいましたが、本番もやらないでひたすら稽古をしていたので徐々に減り、残ったのが歌手、映像作家、音楽家、ダンサーの4人でした。僕は受け手として居ることが重要だと考えたので、俳優がひとつの器になったように受身でいることを求めていました。すると不思議にそこから出てくるものがあるんです。
 こういう“受容者”について考えるときに影響を受けたのが、ブレヒトの教育劇の理論的な部分です。ブレヒトの教育劇というのは、ブレヒトたちが工場や学校に出向き、労働者が役を入れ替えて出演したり、観客が役者になったりしながら演劇をつくるというものです。その過程で「どのように世界を受容すればいいのか」をみんなで学んでいく。ブレヒトは、教育劇の中でその受容が創造的な形になるようなある種のモデルづくりをやったのではないか。
 ならば、Port Bで受容者を中心にした、受容者というものを視覚化した舞台をつくれないか、と考えました。舞台上にいるのは、歌手とかダンサーとか。そして、当時からレディーメイド的な発想があったので、本物の大学教授とか本物のお坊さんとか、そういう人たちにも出演してもらいました。 

──そうして2003年10月にシアターΧ・ブレヒト演劇祭で発表したのがPort Bの『ブレヒト演劇祭における約1時間20分』です。作品の反応はいかがでしたか。
 全く受けませんでした。帰国して3年勤めて、それから2年試行錯誤を繰り返し、貯めたお金も全部つぎ込んでつくったPort Bとして初めての公演でしたから、さすがに落ち込みました。でも何人か擁護してくれた人の中に『ポストドラマ演劇』の著者ハンス=ティース・レーマン(*2)がいた。ビデオで見てもらって、「完璧だ。後は忍耐だけだからこのまま行け」と、背中を押してくれました。あの言葉がなかったら、立ち直れなかったかもしれません。
 その後、ベルリン演劇祭の国際フォーラムに招かれ、この作品を紹介したら、遠い日本でこんなことを考えている人間がいることにみんな驚いてくれた。それで、ルネ・ポレシュ(*3)やリミニ・プロトコル(*4)を紹介してもらいました。ポレシュは既に名前が知られていましたが、リミニはまだ演劇祭に出てきたばかりの頃です。お互い励まし合いました。いまだに仲良くしています。

──『ブレヒト演劇祭における約1時間20分』の後、『Museum Zero Hour』(2004)、『ホラティ人』(2005)を発表された後、高山さんは劇場での舞台作品の創作をほぼ停止します。以来、街なかでの「ツアー・パフォーマンス」や都市を現場にしたプロジェクトに舵を切りました。なぜですか?
 自分の身体感覚だけで何かをつくろうとしたときに、もしかしたら俳優は必要ないのかもしれないと思ったからです。舞台も必要なくて、街に出て、身体が何かを感じたり、見たり、聞いたりするそのこと自体が演劇になるのではと考えました。例えば、自分が街を歩いている時の感覚を、どうすれば他の人とシェアできるのかとか。そういう問題意識でつくったのが『一方通行路〜サルタヒコへの旅』(*5)という、道の演劇でした。この作品で初めて「ツアー・パフォーマンス」という言葉を使いました。

──最近ではツアー・パフォーマンスがある種の方法論として認知され、高山さんの演劇論とは関係なく、観客参加型のプロジェクト、あるいは劇場ではなく都市空間で展開するプロジェクトの一般名称として用いられるようになっています。
 僕はツアー・パフォーマンスによって、演劇のなかにある「見る・見られる」という見世物の構造や関係性が街の中でも複雑に入り組んだ形で起きている、という視点の転換をしたかった。誤解があると思うのは、「演劇の構造が嫌だった」とか、「演劇じゃなくなった」と思われていること。僕は、演劇的な構造を否定したことはなくて、観客として思考しているだけです。

──高山さんの興味は、どういう世界を“プレゼンテーション”するかよりも、どう世界を“受容”するか、受容者としての観客の感受性や思考の方にあるということですね。
 そうです。ギリシア時代にまで遡ると、「テアトロン」という言葉は客席で起きていること、観客の行為のことを指している。日常生活で色んなことを考えて、劇場に集まって、客席に座って、舞台を観ながら自分の頭の中を組み替えていく。ギリシアに行ってとても感動的だったのは、舞台は本当に小さく、大きい客席があって、何より舞台の向こうに街が見えることでした。客席がテアトロンと呼ばれて、舞台を媒介にして見ることや聞くこと、考えることや議論することが演劇だというのが体現されている。舞台が幾ら小さくなろうと、たとえiPhoneに替わって無くなっても、何かをきっかけにして人々がその向こう側のこと、つまり町や社会や生活のことを考えられれば演劇として成り立つのだと思いました。

──“劇場”とは“舞台”のことだという考えに疑問を投げ掛けたい。
 はい。その罠にはだいぶ長い間僕も引っ掛かっていたので、よくわかるんです。美術作品は、その時にわからなくても美術館に保存されてさえいれば100年後にナゾが解けるかもしれない。演劇はそうじゃない。その時に自分が感じたこと、あるいは考えたことのほうが、むしろ舞台での作品よりも重要です。だから、そのための装置として演劇を考えようと…そうしたら道に出ちゃった(笑)、って感じです。

──その後、『東京/オリンピック』(*6)、『サンシャイン62』(*7)とツアー・パフォーマンスを発表されます。これらの作品の狙いはどこにあったのでしょうか。
 『一方通行路』は観客がそれぞれソロだったのですが、これが集団だったらどうなるか? を考えたかった。客席は集団ですよね。周りにお客さんがいると、ひとりで観ているよりはるかに強い体験になる時もあればノイズになることもある。じゃあ、そういう“私たち”というものは、どういうふうにひとつになり、あるいは分解されるんだろう。演劇としてやる限りはそこに挑戦すべきだと思いました。それで観光バスと協働して、バスツアーの間にグループがどのように集団化したり、解体されたりするのかを探ったのが『東京/オリンピック』です。

──2010年秋にフェスティバル/トーキョー(F/T)で上演された『完全避難マニュアル 東京版』(*8)は、高山さんのこれまでの活動における一つの重要なターニング・ポイントになったのではないかと思います。ひとつは、「避難」あるいは「難民」というテーマです。翌年、東日本大震災と福島第一原発の事故があり、近年のヨーロッパでの難民問題にも繋がるという意味では、ある種予言的とも言える視点の提示になっています。もうひとつは、プロジェクトとしての構造です。この作品ではインターネットにアクセスして観客が参加し、指定された避難所に山手線を使って移動します。ですから、観客は誰ひとり同じ体験をすることはできません。そもそもこの作品はどういう経緯で生まれたのでしょう。
 2009年の『個室都市東京』(*9)を発表した時に、「避難訓練」と称したツアーをつくりました。実はその時既に、これを山手線全部に拡げるというアイディアを持っていました。山手線は1時間に一周する時計みたいなもので、東京のインフラの中心です。その山手線の29駅全部に「避難所」をつくれば、作品として成立するだろうと考えました。そうすると当然、広がりすぎて僕らのコントロールは全く及ばない。であるならば、アーキテクチャ(構造)をつくろうと。演劇の作家、演出家を「アーキテクト(設計者)」と考えるような試みはなかったので面白そうだったし、そういうアーキテクチャをつくるのは都市でやるプロジェクトとして有効だという直観がありました。

──通常の演劇だったら、開演と終演を管理して内側の時間を操作するわけですが、この作品の場合は、入口はインターネットで観客の動機の持ち方も動きもある程度本人任せですよね。
 演劇では通常1、2時間、長くても数時間をデザインしますが、建築家はもっと長い時間を費やした時に生まれる身体感覚の変容を考える。住んでどうかとか、使うことで体のつくりが変わるかどうかとか。それで、建築物に入ってきた人のような、使用する人の都合や身体感覚などに合わせられるような時空間づくりをやってみたいと思いました。
 あの頃、磯崎新さんやレム・コールハースと行った建築家の本を集中的に読んでいて、凄く演劇的にものを考えているなと感じました。演劇的な思考が演劇の中よりもはるかに活性化しているようで、演劇は遅れをとってしまっている、という危機感を覚えました。しかも彼らは、良くも悪くも現実の都市に介入し、多くの人に影響を与える数々のプロジェクトをやってしまっているわけです。劇場も演劇も、世の中からあまり相手にされなくなってしまったにも関わらず、既存のあり方に安住しすぎている。ここに胡座をかいているわけにはいかない、と必死に考えました。
 別の領域とどう演劇を接続すればいいのか。その時に、演劇の中にそれらを放り込んで演劇的にアレンジするのではなく、他ジャンルによって演劇のあり方を掻き回してもらうほうが重要だと考えていました。だから「外」に行き続けているのですが、それは今でも変わりません。

──この作品は、2014年にフランクフルトで『完全避難マニュアル フランクフルト版』(*10)として展開されました。
 東京版を上演した時に、今ムーゾントゥルムの芸術監督になったマティアス・ペースが観てくれました。当時彼は、シュテファニー・カープが芸術監督をしていたウィーン芸術週間のチーフドラマトゥルクでした。その後、マティアスがムーゾントゥルムの芸術監督になる時のコンペの提案の中に、『完全避難マニュアル』を入れていたことを知りました。

──『完全避難マニュアル 東京版』のコンセプトには「東京的な時間からの避難」というのがありましたが、フランクフルトでの「避難」というのはどういうものだったのですか。
 東京とは現れ方が全然違うのですが、フランクフルトにも「フランクフルト的な時間」から逃れたいと思っている人はいます。ホームレスや、あるいは移民・難民の人も多い。現れ方は違っても「避難」というキーコンセプトは通用したと思います。
 ただヨーロッパの場合、「なるほどこういう社会問題があって、この作家はこういうふうにアプローチしたのね」と頭の中で処理して終わり、という観客が多い。実際やってみると違うのに、体験してみることはしない。僕のプロジェクトは、そういうところから一歩引きずり出すものなので、この点が難しいと思いました。日本だと、演劇はサブカルチャーなのでみんな気軽にやってくれる。

──『完全避難マニュアル 東京版』の数ヶ月後、東日本大震災と福島第一原発の事故がありました。翌年のF/Tで高山さんは『国民投票プロジェクト』(*11)を発表します。震災直後、高山さんはよく“アクティビストかアーティストか?”みたいな問いを話題にされていたと思います。
 震災後は、人並みに本当に無力だと絶望したので、アクティビストになったほうが世のためになるのではないかと思って、実際そういう動きをしました。でもそれは自分にとって違和感があった。レーマンさんが論文「アンティゴネ論」で「政治の境界は時間である」と言っています。「政治は生きているものをコントロールすることはできるけれど、死者やこれから生まれくる者たちをコントロールすることはできない」と。この言葉にハッとしました。
 アクティビスト的なアプローチでは、死者やこれから生まれてくる人たちを、“私たち”から排除してしまいかねない。もしくは、まったく逆に、政治の圏域から自由であるはずの人たちを、“今”の政治の中に無理矢理取り込んでしまうことになると思いました。僕はアクティビストになることを止め、演劇をやるからには現実の政治と切断があったほうがよい、むしろ“今”からこぼれ落ちてしまう声にこそ耳を傾けたいと思うようになりました。そのほうが演劇の本質にかなっているし、演劇が政治的な力を持ちうるとしたら、政治の力が及ばない場や迂回路をいかに切り開いてみせることができるかにかかっていると考えています。アクティビスト的に今を変革するあり方を否定するわけではありませんが、僕自身はアーティストとしてやっていくことを決断しました。

──今の話を伺って、その後『東京ヘテロトピア』(*12)や『横浜コミューン』(*13)で難民や移民の人たちにフォーカスが向いた理由がよくわかりました。「日本人」という政治の対象から漏れてしまっている人たちを、“私たち”の中に引き込む、あるいは、その人たちの所に赴く、ということですね。
 その人たちの声は日本人の声としては認識されないので大変な状況ですが、本当は彼らも含めて“私たち”が成り立っている。許可が下りない、申請しても難民になれないという宙ぶらりんの人が沢山います。彼らは人としてもヘテロトピアなんだと思います。
 ユートピアは「無い世界」、対するヘテロトピアは「現実にあるけど絶対的に異なる場所」と言われています。「絶対的に異なる」というのが問題なのですが、ミシェル・フーコーはヘテロトピア論の中で鏡の比喩を使って説明しています。鏡というのは何かを映すものだけど、鏡に映るものは実在していない、だから鏡に映る向こうの世界はユートピアだ、と。でもユートピアには自分が映っていて背景も映っている。背景というのは本来自分では見えないわけでしょ。その背景を映してくれる異物として鏡は実在していて、それがヘテロトピアだとフーコーは言います。
 『東京ヘテロトピア』や『横浜コミューン』では、ヘテロトピアという視点から、本当は“私たち”に含まれているんだけど、法律上は外部にいるような人たちにフォーカスを当てることで「実は私たちのあり方ってこんなものだよ」というのが背景を含めて見えてしまうような装置を作りたいと考えました。「東京や横浜というのはこういう街ですよ」というのを都市レベルでやると、逆に見えるのは、僕ら自身の背中だったりすると思うんです。

──一方、高山さんが「メディア・パフォーマンス」と呼んでいるプロジェクト、『秋田国語伝習所』(*14)や『大分メディアコレジオ』(*15)などでは、東京や横浜という大都市ではなく、地方都市で、その地方の新聞やテレビ、メディアにフォーカスを当てています。これはどういった考えからでしょう。
 メディア・パフォーマンスは最初から地方都市用で考えました。今ある劇場に代わって一時的で仮設の共同体が出来上がる器は何かといったら、メディアではないかと考えた。これだけ膨らんだ都市を1個の広場に集約するのは不可能です。ギリシャ時代の劇場のようにみんなが1カ所に集まって同じものを見たり、聞いたり、議論したりすることができないので、テレビとか新聞とかラジオとかを利用して都市にあるレイヤーをつくろうと考えました。
 『大分メディアコレジオ』で協力してもらった大分合同新聞は県内シェア8割。まだそういうメディアがある地方都市で、メディアの力と結託したら共通のプラットフォーム、コミュニティみたいなものが立ち上がるのではないかと思いました。僕らがリサーチするものを決め、大分の面白いものを見つけて協働で掘りおこしていくというメディア・パフォーマンスを展開しました。

──今年、神奈川芸術劇場(KAAT)でワーグナーをテーマにした久々の劇場作品を発表されます。10年に渡って都市でのプロジェクトを展開してきた高山さんが、劇場作品に挑むと聞いて驚きました。今あえて“劇場に帰る”の狙いを聞かせてください。
 今、自然発生的に出来るコミュニティは同質なものにしかならないのではないか。「トランプ反対!」と言って人が集まっている構造さえ、同質的なものかもしれない。劇場という場もそのままにしておいたら、どうしても同質の集団になっていきます。僕はそこに自覚的でありたい。自然発生的にコミュニティがつくれるフリをするのではなく、演劇のような小さい世界だからこそ、人工的に雑多な人たちが集まる場をつくれる可能性があるのではないか。劇場にもう一度帰る意図はそこにあります。
 『横浜コミューン』の時に、寿町の住人とインドシナ難民の人をスカウトして、出会う場をつくりました。僕は、それが横浜という街のポテンシャルだと肯定的に捉えました。劇場はある種のコミュニティをつくる場…雑多な人たちが集まるコミュニティのモデルになりえます。それを意識しながら、今劇場の中で権力をどう使うのか、と問うています。つまり、誰を排除して誰を入れるのかを人工的にコントロールし、その残酷さや暴力性を引き受けて、劇場に仮設コミュニティを作りたいと思っています。

──確かに自然にまかせておくと、コミュニティを可視化してみたら同人誌サークルみたいになっていたという状況はあると思います。
 これは、「劇場という場は社会とコネクトしているべきか、ディスコネクトしているべきか」という劇場に関する根本的な議論だと思います。では、僕はどうなのかというと、今まではコネクトする側でやりたかったし、社会と直接的に接続している作家として見られてきたけど、接続を1回切ってしまって、もう1回劇場に帰ることにした。その劇場では、「社会から1回切れた場所」として、そこに「擬似的なコミュニティを人工的につくる」という方向を試みる。こうした活動をモデルにして、「このコミュニティをどう思いますか?」と逆に社会に問いかけたほうが有効なのではないかというのが、今の僕の考え方です。
 仮設、一時的、そして疑似というダメなものの3点セットみたいな、演劇、劇場のあり方を一旦全部引き受けようと思っています。そういう僕がつくる装置に来て、外側の都市へ、地域へと広げてくれるのは観客なわけです。1回そこの世界を通って受容した人が、再度現実世界に入った時にどのような違う振る舞いをするのか、というところに希望があるかもしれません。劇場はこれから公民館のようになっていくと思います。公民館はすでに劇場以上に劇場の機能を果たしているところがあって、それを僕らは真摯に受け止めなくちゃいけない。人が集まったり、状況を演じたりするようなアーキテクチャをどのようにつくるか考える必要があるからです。

──なぜワーグナーを選んだのですか。また、どういうふうに使うのでしょうか。
 ワーグナーは100%舞台上の時間にすべての人を従わせる近代の劇場モデルを作りました。でも今はそういう時代じゃない。それで、当のワーグナーを使って別の時間を体験できるような場をつくろうと考えています。
 『ニュルンベルクのマイスタージンガー』は歌合戦のオペラですが、今、街なかで一番歌合戦をやっているのは誰でしょうか。ラッパー、複数で行う即興ラップのサイファーです。でも彼らは劇場なんかに寄りつかない。そういう人と少しずつ関係を築いて、彼らが面白く遊べるような場に劇場を変えて、疑似コミュニティをつくる。そういう場やサイファーのイベント、そこに仮設されているコミュニティなど全部ひっくるめてワーグナーの『ニュルンベルクのマイスタージンガー』だという見せ方ができたらいいなと思っています。

──ムーゾントゥルムとの3年プロジェクト『ヨーロピアン・シンクベルト パート1:マクドナルド放送大学』について伺います。マティアスが「ドイツ人でもシリア人でもない日本人のアーティストと難民問題を考える」プロジェクトとして、高山さんにオファーをした第1弾です。コンセプトや内容をご説明いただけますでしょうか。
 セドリック・プライスというイギリスの建築家の実現しなかった都市計画プラン「ポタリーズ・シンクベルト(思考帯)」を下敷きにしています。彼の構想は、陶器で有名だった小さい街と、陶器を消費していた大きい街を結ぶ線路の周りに大学をつくり、この線路自体を大学にするというものでした。それをヨーロッパ全体に拡大し、つまりフランクフルトからバルカンルートを通ってアテネまでの「ベルト」を、「大学」=「シンクベルト(思考帯)」に変えてしまおう、というプランです。
 じゃあどうやってバルカンルートを大学に変えるのか。このルート上にはたくさんのマクドナルドがあります。フランクフルト〜ウィーン〜ブダペスト〜ベオグラード〜アテネのラインに点々とあるマックを、公民館や大学みたいなものとして機能させて、「ヨーロッパ的な知って何?」みたいなことを考える場にしようと。例えばフランクフルトにもマクドナルドが沢山あるので、マックを大学に見立ててそこで授業(*16)をやる。しかも“教授”は中東やアフリカなどから来た難民15名。加えて、ムーゾントゥルムの劇場では、建築家の小林恵吾さん(*17)と組んで、ホワイエに「ヨーロピアン・シンクベルト」の全体プランをインスタレーションとして展示し、劇場のカフェを「マクドナルド放送大学」のモデルとして、あり得たかもしれないマクドナルドに変える。ここでは、食べ物と同じように“講義”を注文して買うことができます。
 ドイツ人はマックを蔑視している人が多いですが、僕ら外国人や難民の人たちからしたら、Wi-Fiは使えるし、安いし、ダラダラ長居できるからありがたい公共スペースなんです。

──国境を越えて、マクドナルドを繋いでいく…とすると、マクドナルドとも協働するわけですか?
 僕も最初は期待していなかったのですが、いろんな好運が重なってマクドナルドから許可が得られたんです。なので、逆にマクドナルドに対して提案していくようなプロジェクトにできればと思っています。マクドナルドが情報基地になって、公民館になって、授業の場にもなる。ハンバーガーもいいけど、授業を売ったらどうですか?と。際どいプロジェクトなのでドイツでは間違いなく批判されると思いますが。

──劇場の自己否定みたいになりますよね。
 劇場を否定する面もあるので、ちょっと複雑です。劇場を守っている人の苦労もわかりますから。でも「時代はそこまで来てるんじゃないの?」という問いを敢えて投げ掛けたい。普通の劇場長だったらまずOKしないプロジェクトだと思いますが、マティアスは「絶対に、何としてもやるべきだ」と頑張ってくれました。

──オープニングをあけてみての感触はいかがですか。
 戦略的に重要だったのは、小林さんとムーゾントゥルムの劇場内につくったインスタレーションだったのですが、これがうまくいった。ここが機能すると、本当のマクドナルドに行ってみようかという人が出てくるはずなんです。ヨーロッパで劇場に通う人は中流より上くらいのインテリ階層で、マクドナルドに通う層の人では全くない。そういう演劇が既につくってしまっているゾーニングのようなものに揺さぶりをかけたかった。それが本当にできるかどうかはこれからですが、ドイツ建築博物館のキュレーターやシュテーデル芸術大学建築学科のディレクターは驚いていたので、インスタレーションで提示した建築コンセプトの読み替え、そこでまず揺さぶりをかけることには成功したと考えています。

──今回、難民の人たちと一緒に講義テキストを作成していますが、これが非常に濃いものになっていると感じました。高山さんから提示された授業のテーマに、“教授”たちも刺激を受けて取り組んだのだと思います。この作業は作品に何を与えていると思いますか。
 この講義が作品の核で、 マクドナルドはそれを支えるためのプラットフォームです。授業というフレームで彼らの知や経験を共有し、深めながらテキストをつくることができたので、おそろしく勉強になりました。彼らのモチベーションも凄く高かった。また、彼らにとっても自分の体験や知を講義としてまとめ直すのは貴重な機会だったようですし、フランクフルトで生きていく上で必要なドイツ語や英語を学ぶ場にもなっていたと思います。非常に面白いコラボレーションができました。
 それから野村さんには丁寧に付き合っていただき本当にありがたかったです。

──様々な国から来た“教授”たち同士にも、とてもいい関係ができたのではないですか。
 それも素晴らしい成果でした。実はそちらのほうが大事で、彼らとの関係をどうやれば更に発展させられるかを考えていきたいと思っています。ドイツにはフォルクスホーホシューレと呼ばれる市民の大学があるのですが、『ヨーロピアン・シンクベルト』のパート2では、劇場をフォルクスホーホシューレに変える作業をしたいと考えています。
 これから、“教授”たちと一緒に聴講式でない授業、例えばガーナから来たフセインは一流のマラソンランナーだったので、彼が市民ランナーにワークショップをやるとか、リタはシリアの料理教室とか、アワールはマクドナルドを使って町でサバイブする方法を伝えるツアーとか、いろいろおもしろい授業ができると思います。

──この3年プロジェクトは彼らとともに歩むのですね。
 そうです。今はまだフィクションだし、アート作品ですが、「嘘から出た実」のようになったらいいなと思っています。演劇やアートというフレームがなくても、単純にその授業がいいからワークショップを受けに来る人がいるかもしれない。難民の人たちは僕らのおよびもつかない経験や知恵を持っているわけだからリアルに先生になれる可能性があります。そういう逆転が、演劇の中だけではなくて実際の世界、社会の中でもできたらいいなと思います。

──つまりこのプロジェクトでは、芸術的なモデルとして問題提起すると同時に、現実の練習や実験の場となる場をつくりたいと考えているわけですね。
 今回『マクドナルド放送大学』というフィクションとしてモデルをつくりましたが、現実を引っ掻き回して、こちらも引っ掻き回されて、そこから生まれたものがひとつのリアルな機能になっていくということに挑戦したいと思っています。たとえそこまでいかなかったとしても、「習う・教えるってなんだろう」「マックで食べるってなんだろう」と、少なくとも日常的な振る舞いがひっくり返されます。
 一方で演劇作品としての展開も考えています。最後アテネまで行ったら船をつくり、エーゲ海に浮かべて、「マクドナルド エーゲ海店」をオープンしたい。その船で、エーゲ海からドナウ川に入り、ベオグラード、ブダペスト、ウィーン、そして運河を渡ってフランクフルトまで帰って来る。これが最終的なビジョンです。今国境は閉鎖されましたが、川で繋がっている。むしろそれがヨーロッパをつくってきた。重要な都市はすべて川沿いですから。
 マクドナルド船が、難民の教授たちを引き連れてもう1度フランクフルトに、今マイン川沿いにあるヨーロッパ中央銀行の波止場まで帰って来たら、難民やヨーロッパに対する見方は変わりますよね。

──今後の展開がますます楽しみになりました。どうもありがとうございました。
 
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