The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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平原慎太郎
平原慎太郎(ひらはら・しんたろう)
1981年北海道生まれ。ダンサー・振付家。
2004年から07年までNoismに所属。フリーランスとして、2008年からC/Ompany、2010年から近藤良平主宰「コンドルズ」に参加。2013年には自らが主宰する「OrganWorks」を立ち上げ。また、前川知大が主宰するイキウメのステージング、小林賢太郎作品への振付提供、現代美術家播磨みどりとのコラボレーションなど、演劇、現代美術等他分野のアーティストとの交流も盛んに行う。
2011年 韓国国際モダンダンスコンペティション(KIMDC)最優秀振付家賞受賞
2013年 文化庁新進気鋭芸術家海外研修派遣にてスペインで9カ月研修
2015年 小樽市文化奨励賞受賞
2016年 トヨタコレオグラフィーアワード2016「時代を担う振付家賞」「オーディエンス賞」ダブル受賞
2017年 第11回日本ダンスフォーラム賞JaDaFo Dance Award2016受賞
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『聖獣〜live with a Sun〜』
振付・構成・演出:平原慎太郎
(2017年10月12日〜15日/シアタートラム)

https://vimeo.com/254520727
聖獣
聖獣
聖獣
撮影:加藤甫
*砂丘館
昭和8(1933)年建設の旧日本銀行新潟支店長役宅として用いられた屋敷。本格的な書院造りの和室、洋間、蔵、日本庭園など。現在は芸術・文化施設として新潟市が所有。
Artist Interview
2018.3.27
dance
Shintaro Hirahara’s image of Theatrical dance  
平原慎太郎がイメージするシアトリカルなパワーダンス  
最終開催となったトヨタ コレオグラフィーアワード2016でOrganWorksによる『Reason to Believe』を発表し、次代を担う振付家賞とオーディエンス賞をダブル受賞した平原慎太郎。新潟市民芸術文化会館りゅーとぴあの付属カンパニーNoismで立ち上げメンバーとして活躍した後、コンドルズや大植真太郎たちとのC/Ompanyにメンバーとして参加。2013年には衣裳の西村友美子、作曲家の熊地勇太、広報デザイナーのLéna Pontらとともに自らが主宰するダンスカンパニーOrganWorksを立ち上げ、2014年には7名のダンサーが参加、多彩な出自をもつメンバーのダンサーたちとともに文学作品などに材を得た幅広い作品を発表。また、スペインから振付家のカルメン・ワーナーを招き、ワークショップや作品づくりを継続的に行う。練度の高い身体によるシアトリカルな表現を追求する平原が考えるこれからのダンスとは?
聞き手:乗越たかお[舞踊評論家]

OrganWorksによる最新作『聖獣』

──平原さんは15年目で幕を閉じたトヨタ コレオグラフィーアワードの最後の大賞受賞者です。昨年10月には制作費や金沢21世紀美術館での滞在制作のサポートを受けて創作した受賞者記念公演が行われ、OrganWorksの新作『聖獣』を発表されました。

 金沢21世紀美術館で2週間クリエイションをさせていただきました。OrganWorksは僕を入れてダンサーが10人いて、そのうち2人(東海林靖志と浜田純平)が北海道に住んでいます。全員揃って2週間も過ごすこと自体が初めてだったので、濃密な創作時間が持てました。改めて「地方でつくる」ということの意味を深く考える時間になった気がします。僕は2004年から3年ほど新潟のNoismにダンサーとして所属していましたが、そういうことを意識したことがなかった。今回は創作する立場から「東京とは何か」「日本で活動するとはどういうことなのか」等を考えさせられました。

──OrganWorksにはさまざまなクリエーターがメンバーとして参加されています。
 はい。舞台監督(筒井昭善)、照明(櫛田晃代)、音響(原嶋紘平)、衣裳(西村友美子)、音楽(熊地勇太)はお願いすることが多いので、話しが通りやすいですね。熊地は作品によってつくる音楽を変化させるアーティストでアートワークが多彩ですが、OrganWorksの時は意図的に映画のサントラのようなストーリーが見える曲を製作してもらっています。衣裳の西村さんには、「既製服のようなもので、近くで見てもつくり物っぽくないものにしたい」と伝えています。照明の櫛田さんとは、「陰影を付けたい、でも見えなさ過ぎるのも避けたい」といったバランスについてよく話をします。

──なるほど。現実から地続きで、いつのまにか違う世界に連れて行かれる感じのする平原さんの作品らしいですね。『聖獣』のクリエイションの過程について詳しく伺いたいのですが、英語タイトルは「live with a sun」です。これは、旧約聖書に登場する海の怪物の名前であり、ホッブスの政治哲学書のタイトルにもなっている『リヴァイアサン』を捩ったものです。
 受賞記念公演なので、少し壮大な題材でやりたいと思い、神話等を調べていました。で、あれこれ考えて歩いていたときに、僕の身体にコガネムシがポンと当たったんです。虫を触ること自体が久しぶりで、すごく新鮮でした。そこから虫をテーマにしようと決めました。虫を崇めたり、虫になろうとしたり、虫を通じて「忘れられた行動」と「新しくできた行動」に迫れればと。だからタイトルも初めは『聖虫』でした。でも、女子メンバーから「受賞記念公演なのに、虫ですか」と総スカンにあった(笑)。
 で、もう少し掘り下げようと考えていたとき、現代美術のアーティストである塩田千春さんの作品とコラボレーションする企画があり、その時に作家のポール・オースターの小説を題材にしました。で、それを終え、改めて読みあさってるうちに同氏の長編小説『リヴァイアサン』に出会い、これだと思いました。で、ホッブスの著書を調べると、「個の集合体である国家」を怪物に例えて手に負えないと言っている。これはまさに虫のことじゃないかと思い、自分の中でイメージが一気に広がっていきました。それで、日本語タイトルを『聖虫』から『聖獣』に変えて、英語タイトルをリヴァイアサンの言葉遊びで「live with a sun(太陽とともに生きる)」としました。Sunは日の丸、つまり国家のことでもあり、そこで生きる自分のこともイメージしています。塩田さんに美術をお願いしたかったのですが、彼女が体調を崩してしまい、実現しませんでした。

──『聖獣』は暗闇の中から生命が湧きあがり、暴力的な虫の群舞があり、テキストも挟みながら、重厚で迫力のある作品になっていました。具体的なクリエイションはどのように進んだのですか。
 まず、熊地には最初から幾つもアイデアを投げます。具体的なシーンのイメージが欲しいタイプなので、「もうちょっとグロテスクな虫を、ストリングスで表現してほしい」「機械的な音楽で、虫の足音だけが音になっているようなシーンをやりたい」といった説明をすると、トラックが7つぐらいドーンと来て、その中から精査していきます。僕の作品はストーリー性が強いのですが、熊地の音楽に引っ張られてストーリーが浮かぶ場合もあります。既成の曲を使うこともないわけではありませんが、その場合はクラシックなど熊地にないものが多いです。あとデイヴィッド・ラング(David Lang)という現代音楽家は好きで使わせていただいてます。

──音楽が届いてから振り付けを考えるのですか。
 僕は振り付けをつくって渡すタイプなので、まず別の既成の曲で踊りをつくっておきます。そこに熊地のトラックを嵌めていって、それを彼に見せてさらに音楽を完成させていく、という往復書簡のように進めていきます。


バックグラウンド

──平原さん自身のバックグラウンドを聞かせてください。81年に小樽で生まれ、クラシックバレエ、ヒップホップ、コンテンポラリーダンスなどをやってこられました。

 12歳の時TRFをみて熱中し、VHSのビデオをすり切れるほど見て真似して踊っていました。ただ小樽にはストリートダンスの教室がなかったので、親が通っていた「いきいきリズム体操」について行ったときに、動きの基礎として先生の娘さんが教えていたバレエを学んだのが最初です。

──思春期の男子として抵抗はありませんでしたか。
 同級生からは「タイツ」ってアダ名で呼ばれてましたけど(笑)、恥ずかしいとは全く思いませんでした。そんなことよりも、うちの両親はご近所でも有名な天然キャラで、中学校の授業中に飼い犬の名前を叫びながらグラウンドを走り回っているような人たちでした。「慎ちゃん、お父さんが犬を追いかて走ってたよ」みたいなことが日常茶飯事だったので、バレエやダンスなど、どうということはないです(笑)。

──バレエを習うのは楽しかったですか。
 楽しかったけど、上手だったかというとまた別ですね。ダンスを始める人には2種類あると思っていて。「身体的に始める人」と「ビジョンで始める人」で、ダンスがうまくなっていくのは前者だと思っています。「この動きをするには、ここを動かせば良い」と、意識と身体をリンクさせていくことから始めますから。でも僕は後者で、要するに、テレビに映っている人間を真似したくてやっている。「格好いい動きをオレはできている」というビジョンを持てれば満足だったので、すぐ動けた気になってしまう。しかし身体の動きと身体把握感覚がリンクしていないので、実際には全然動けていない。でも楽しくてしょうがない(笑)。バレエで苦しい思いをしたことがないかわりに、全然上手くなりませんでした。

──それはプロのダンサーとしては致命的な感じがしますが(笑)。 しかし一般的に言えば、子どもの頃に「踊ることが楽しくてしょうがないという経験」を持てるのは素晴らしいことですね。平原さんは「踊る魂」を持っていた、という点で、それは一種の才能といえるかもしれません。
 高校1年のとき、ものすごくショックなことがありまして。冬休みに「札幌芸術の森」のバレエセミナーに参加したのですが、初日に、講師のヤン・ヌイッツ(ローザンヌ国際バレエコンクールの芸術顧問など歴任)から、「きみは筋肉の使い方が間違っていて、骨格も良くないから、バレエはやめなさい」と言われた。その場が凍り付く感じでした。
 いま思えば、向いてないことに時間を浪費するより、他の向いていることを探しなさいという彼の良心だったと思います。僕も自分なりにバレエが上手くならないことに疑問は持ってましたけど、やっぱりものすごくショックで、落ち込みました。うなだれながら次の日のコンテンポラリーダンスのクラスに行ったのですが、初めて即興をやったら、講師の島崎徹さんに「君はセンスがある」と言われた(笑)。

──まさかの真逆の評価(笑)。
 コンテンポラリーダンスが楽しくなり、僕が唯一師匠と呼べる坂井靭彦(ゆきひこ)さんにもっと勉強したいと相談したら、ヨーロッパに来いと呼んでいただきました。坂井さんはブリュッセル在住で、ジル・ロマンらと同じ時期にモーリス・ベジャールのバレエ団にいた人です。彼から「自分で自分の面倒をみる能力を身につけろ。面白いものを見聞きして英語を学べ。どのダンスカンパニーにも何人かは日本人がいるから、彼らと仲良くなって仕事を取れ」とアドバイスされて。それからバックパッカー状態で過ごしました。2001年、20歳の頃のことですが、その教えは今に役立っていると思います。

──その頃はベルギーが経済的にも文化的にも盛り上がっていた時期ですね。
 ヨーロッパはあの頃が一番良かったと思います。振付家たちのあり方、ダンサーの意識など、こんな世界があるんだと彼らの黄金期を肌で感じました。ちょうどその頃、金森穣さんがNDTにゲストで振り付けにきていたので、コンタクトを取って、彼のアパートで話したこともあります。

──金森穣がNoism設立(2004年)する数年前の話ですね。
 はい。日本に帰る直前に金森さんから「基礎をやれ。基礎をやればチャンスはある」と言われ、もう一度バレエをやるために東京に出てきました。それで出会ったのが、早川恵美子・博子先生です。二人は舞踊理論をわかりやすく言語化できる方でした。おかげで自分の身体を把握するレベルが段々上がり、遅まきながら身体と感覚のズレがわかってきた。それが21〜22歳の頃で、やっと踊りが始まりました。

──金森穣は2002年に拠点を日本に移し、2003年から「no・mad・ic・project」をスタート。2004年には新潟市民芸術文化会館・りゅーとぴあの付属カンパニーとなるNoismを立ち上げました。平原さんはその両方に参加されています。
 オーディションを受けて、補欠で受かりました。とにかく金森さんのように動ける人、黄金期のヨーロッパの感覚を体現していた人と仕事をしたい、勉強したいという思いが爆発していました。Noismはフィジカルな部分だけじゃなくて、ダンスという芸術に対する思想を共有する場でした。ただ僕らメンバーはまだ20代で、日本初のレジデンスカンパニーという意義や素晴らしい環境について、真の意味では理解できていませんでしたね。
 メンバーの中で僕は圧倒的に年下でした。2年目に山田勇気と宮河愛一郎が、3年目に石川勇太が入団しました。山田はまだ踊り始めて間もなかったり、宮河もミュージカルから来たので余裕はない感じでしたが、話を聞いてくれる青木尚哉さんもいて、メンバーとしては充実していました。

──Noism3年目の2007年に、平原さんはフリーになります。離れる決意をした要因はなんですか。
 自分の中から湧き出る事で作品を創りたい、という思いが強くなったからです。夏休みにローザスに参加していた社本多加(しゃもとたか)さんのソロを見たら、自分の表現を自分自身で責任を持って体現する姿勢に我慢できなくなりました。ダンスという自分の人生を金森さんに依存するのはここまでにしようと思いました。

──作品を創りたいという思いはいつ頃からもっていたのですか。
 それは最初にバレエを始めた時から思っていました。ストリートダンスは自分で振りをつくるのが当たり前ですから。島崎徹さんのクラスもクリエイションについて教わっていましたし。


C/Ompanyと言葉

──2007年にフリーになってから旺盛な創作活動を行い、2008年に大植真太郎が立ち上げたC/Ompanyに柳本雅寛とともに参加します。

 大植はNoismにゲストで来ていたので顔見知りではあったのですが、電話で「アーキタンツでパフォーマンスをするけど、やらへんか?」と誘われ、行ってみたら柳本雅寛がいたという感じでした。二人はヨーロッパをベースにした、バレエがバリバリできる関西人で、僕とは共通点がひとつもない(笑)。ただちょうど3人ともコンタクト・インプロビゼーションを本格的に掘り下げようとしていた時期で、様々な発見がありました。それを観た方からサイトウ・キネン・フェスティバル松本のオペラにダンサーとして出演依頼をいただいた。それでそのリハーサルの空いている時間に、3人でちょっと身体を合わせてつくったのが『イキ、シ、タイ』(2009)です。それをさいたま芸術劇場で上演するときにC/Ompanyという名前をつけました。

──『イキ、シ、タイ』は、パワー系のインプロビゼーションで、後の『談ス』(大植、平原、森山未來)などにもつながりますが、このときすでに喋りながら踊っていました。平原さんのソロ『群像/escultorico』(2012)では、舞台上でいきなり世間話をはじめたかと思ったら、それが戦前のパリの話に変わり、ダンスになっていった。文学をベースにした作品も多くて、中原中也を題材にした『昼夜の歌』(2011)、シャルル・ペローや坂口安吾による『Drag&Paste』(2013)、シェイクスピアによる『机の器の机』(2014)などがあります。ダンスで言葉を使うときには「意味のあるものを使う」「喋っている身体を見せる」「言葉を音として使う」などが考えられますが、平原さんはどういう意図で使うことが多いのでしょう。
 僕の出自がヒップホップだからだと思います。ヒップホップの4大要素(MC 、DJ 、ブレイクダンス、グラフィティ)に言葉が入っているので、僕としては自然にやっている感じです。2002年に初めて自作したダンス作品でも言葉を使っていました。ラップは曲がかかる前に前置きをする、落語の枕に似たところがあります。だから、僕も作品でも冒頭で言葉を使うパターンがすごく多いです。

──たとえば演劇では岡田利規の作品で冒頭に「これから○○という作品を始めまーす」と観客席に向かって話しますが、それと似ていますか。
 岡田さんの作品は観ていますが、どうでしょう。演劇の言葉は観客に「投げるような使い方」をして、咀嚼させ、時間と共に考えさせる。しかしラップや落語の枕は、観客を掴んで離さず自分の望むところへ引っ張っていく感じで捉えています。僕の言葉はそちらに近いと思ってます。『群像』は、話し手として舞台上に普通に存在しているところから徐々に抽象の世界に引きずり込んでいく事で、隣で起こりうる距離感に題材がある事になり怖いかなと思ってそうしました。

──岡田さんは演出家ですが、落語は演者です。平原さんは、演者としての発想に近いように思います。
 確かにそうですね。作品をつくる時、演者に喋らせる演出が難しいのですが、両者は方法論として別なのかもしれません。


創作と砂丘館

──2011年に柿崎麻莉子に振り付けた『≫(グングン)』(2011)で「韓国国際ダンスフェスティバル(KDMC)」最優秀振付家賞を受賞しました。平原さんはほとんどの作品でご自身も出演されていますが、これは柿崎のソロでした。

 トヨタを含め、国内のコンペティションはほとんど予選で落ちてしまって、それなりのことをやっているのにブレイクスルーしなくて苛々し、「もうオレを理解できるのは海外しかいない、柿崎よ、行ってお前の身体を見せつけてこい!」みたいな感じでした(笑)。

──柿崎は器械体操出身で、大学に入ってからダンスを始めた。後にイスラエルのバットシェバ舞踊団の若手カンパニーに入るほどですが、彼女は平原作品に出たおかげでダンスに開眼したと言っています。実は同様の声を他のダンサーからも耳にしています。なぜそう感じる若いダンサーが多いのでしょう。
 よくわかりませんが、最初にお話ししたように僕はイメージから入るタイプだったので、踊りを楽しんだり、感覚的になることの大切さやコツを話せるということはあるかもしれません。身体をコントロールする方法ばかりを教えられて、窮屈そうにしているダンサーがいると僕にはフッとわかるんです。作品の面白さをちゃんと考えて、彼女たちの強い身体とインテリジェンスが合わされば、いくらでも違う世界が開けるのにもったいない!と思うと、つい放っておけなくなります。

──ただ、そういうことは話してわかるものではありません。
 なので、場数を踏ませます。僕は10年ぐらい新潟の砂丘館(*)で公演を続けているのですが、若いダンサーを一緒に連れて行ったりしています。

──砂丘館での公演についてもう少し詳しく教えてください。
 Noismのメンバーだった頃、サポーターだった越野泉さんの画廊でソロをやらせていただいたことがあり、それをきっかけに新潟の文化人と呼ばれる方々と知り合いました。その中のひとりが、砂丘館の大倉宏館長です。それから応援していただいて、2007年頃から砂丘館でダンスをするようになりました。狭い空間で、ごまかしが一切きかない。初めはソロでしたが、お客さんが3人だけのこともありました。つまらなそうにパラパラと拍手されたりも。きちんと拍手して貰えるようになるまで、数年かかりました。
 砂丘館でやるときには、東京からアイデアを持っていかないで、館に一日中居て、建物がもっているクセとか、空気とか、その時の湿度などそこからインスピレーションを立ち上げるようにしています。見る人との共通項が空間なので、そのことは忘れずにいます。砂丘館での10年間で空間を把握する事については本当に修業させてもらいました。
 2017年には24時間パフォーマンスもやりました。もちろん砂丘館には閉館時間がありますが、館長が市と掛け合ってくれた。OrganWoksの10人で、僕の作品とインプロビゼーションを30分間ずつ交互に繰り返して24時間、計48セッションやりました。観客は出入り自由。ゼロ距離で踊るのは怖さもありますが、もう最高でした。


コンドルズとカルメン・ワーナー

──2010年にはコンドルズに参加します。Noismとコンドルズは真逆のスタイルだと思われていたので、平原さんが参加することになって驚きました。

 近藤さんのダンスはNoismのゲストのときやソロでは見ていましたが、コンドルズの公演を観たことはありませんでした。近藤さんの身体感覚は独特で昔から好きでしたし、踊りにストイックなところもよくて、アーティストとしての何かがある。良平さんに誘われたからにはやりたいと思いました。あとは小林顕作の舞台上での立ち振る舞いが常軌を逸していて、間の取り方やバランス感覚が並外れている。面白いことも好きでしたし、この二人に魅せられてコンドルズに参加しました。

──キャラクターを主体に組み立てていくコンドルズのスタイルは、平原さんの作品の参考になりましたか。
 僕は作品にコンセプトがほしいと思うタイプなので、コンドルズとはスタイルが違うかもしれません。ただ、それぞれ仕事をもった社会人が集まってグループとして活動しているというコンドルズのあり方はとても勉強になっています。

──平原さんはスペインの振付家、カルメン・ワーナーとも継続的に仕事をされています。
 2003年に柳瀬真澄さん主演、カルメン振付・演出の『L'ombre 〜カミーユ・クローデル 頌〜』が青山円形劇場で上演されました。そこで男性ダンサーとして青木尚哉、森山開次、島地保武、今津雅晴、そして最年少で僕が呼ばれました。初めてダンスシアターに肌で触れた作品ですが、当時は全く意味がわからなかった。その後、Noismに入ってダンスへの理解が深まってから彼女の作品をもう一度見返すと、面白くて。退団後に再びカルメンの作品に誘われてからは、急速に親しくなりました。2010年からは自身の企画で毎年招聘し、公演やワークショップをしています。
 こうしたワークショップによって日本中で質の高いダンサーが増えてほしいと思っていて、そこに至るための過程を提示していきたい。今はつくり手がちょっと過多という気がして、育てる人、伝える人ももっと増えて、交流していくと状況が面白くなると思います。

──平原さんは2013年に海外研修でスペインに行っていますが、その時の受入先もカルメンのカンパニーですね。
 はい。国の助成を受けてスペインに9カ月滞在しましたが、心底行って良かった。技術的なことももちろんですが、アーティストにとって創作は日常生活に溶け込んでいるものだと実感できました。金森さんの話にも繋がりますが、アーティストとして自分をキープしつつ、それをいかに日常化していくかの大切さが身に染みました


カンパニーを育てる

──すでにC/Ompanyやコンドルズに属しながら自由にやっていたのに、2013年に自身のカンパニーOrganWorksを結成します。なぜ改めてカンパニーというある意味で「面倒臭いこと」をしようと思ったのですか。

 僕は前川知大さんのイキウメでステージングを頼まれることがあるのですが、「何て良い劇団なんだ。職人を揃えやがって!」ととても悔しかった。プロジェクト単位の創作をいくらやっても積み重なっていかないという実感を抱いていた矢先でした。同じメンバーで同じ時間を共有し、公演に向けて同じ課題をクリアしていくことで、向上していく。理に適っているし、そうあるべきだと思いました。そうして積み重ねることで、「自分たちはこう」「あなた方の姿勢はこう」と、他のカンパニーを肯定できるようにもなる部分もあります。

──カンパニーとしてどのような活動をしていますか。
 カンパニーの活動として、関東圏に住んでいるメンバーは週1回、必ず集まって6時間は一緒に過ごすようにしています。北海道のメンバーも余裕がある時は来ます。もちろん身体的なトレーニングもやりますが、「テーマは虫で、こういう動きをやってみて」と、アイデアを即座に試せるのが大きい。またメンバーを固定することによって、僕の中で出演者に対する不安もなくなる。「これは◯◯の動きだな」とか、イメージする段階でダンサーの顔が見える。「彼に3分ぐらいこの動きをさせて、そこに彼女が登場する」というステージ上の構成まで具体的に見えます。
 ボーカルだけが名前を覚えられるバンドじゃなくて、ベースやドラムの名前も知られるバンドのように、ダンサー全員の名前を覚えてもらえるようなカンパニーになりたいと思っています。そして社会とつながりたい。僕たちはこれまで幸運に恵まれてギリギリやれてきただけで、社会やダンスについて深く掘り下げる余裕もなかった。金森さんのように思考できるようになるには、立場と責任が必要なんです。だから、自前の劇場を持つとか、公立劇場の芸術監督になるとか、諦めてないですね。
 
──今後についてどのようなイメージをもっていますか。
 Noism2で振り付けして、やっぱりダンスは踊れなくちゃという思いが強くなっています。踊りを知らない方に踊りを手渡すことも大事ですが、踊れる人を次の次元に押し上げるのが僕の思っている振付家像の側面でもありますので。だから僕自身もっと身体のことを理解しなくちゃいけないし、彼らの卓越した身体を生かせる演出や振付を彼らの興味を逸らさないで提示し続けたい。そのためには舞台美術などを整理して人間の身体の一部として扱えるようになりたいと思っています。そこから身体にかかる負荷や生じる人間関係、行動の必然性を見出し、それが作品になっていけばと思っています。あとはもう、常軌を逸していると思われるぐらいつくり続けたい。ピカソやダリみたいに多作な作家でいたいです!(笑)
 
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