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Kabuki's New Wave
歌舞伎の新潮流
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こうした歌舞伎の新しい動きの中心にいるキーパーソンは、中村勘三郎である。勘三郎は、1955年生まれ。父方の叔父に初代中村吉右衛門、母方の祖父に六代目尾上菊五郎という明治から昭和前期を代表する二大名優の血筋を引く。子役時代から頭角を現し、立役、女方両方を手がけ、幅広い役柄をこなし、舞踊においても地力を備え、加えて、観客を引きつける愛嬌を持つ。人気実力ともに現代を代表する歌舞伎俳優である。

古典の重要性を認識しつつも、それにあきたらないだけの覇気を彼は備えている。今回の大きな新しい波が起きたのは、偶然ではない。1994年、勘三郎(当時・勘九郎)の強力なリーダーシップによって、渋谷のデパートに併設された現代劇場「Bunkamuraシアターコクーン」で始めた「コクーン歌舞伎」は、歌舞伎が歌舞伎座や国立劇場のような歌舞伎専門劇場によって上演されるというイメージを一新した。歌舞伎劇場には、舞台の下手から客席を貫くように「花道」という通路が延びている。また、道具の転換には、本舞台にしつらえられた「盆」という回り舞台が大きな役割を果たしている。花道も盆も常設されていない客席700余りの中劇場でどのような歌舞伎が上演されるのか注目を集めた。

現代演劇の上演を前提とした劇場での歌舞伎上演に前例がないわけではない。
例えば、1927年に開設された三越劇場は、1946年から50年にかけて、六代目中村歌右衛門、十七代目中村勘三郎、初代松本白鸚らが、30本の歌舞伎を上演し「三越歌舞伎」の名称を生んだ。また、近年では、パルコ劇場で1988年に、市川猿之助門下の若手俳優たちが「21世紀歌舞伎組」を結成し、「息吹山のヤマトタケル」をはじめ古典を上演した例がある。しかし、こうした上演は、当時の若手の勉強会の色彩が強い。

「コクーン歌舞伎」を始めるにあたって、勘三郎がパートナーに選んだのは、当時、シアターコクーンの芸術監督であった演出家串田和美である。串田は、1825年に初演された四世鶴屋南北の戯曲『東海道四谷怪談(とうかいどうよつやかいだん)』を徹底して検討し、現代の観客にも了解可能な、欲望と因果がからみあう物語としてテキストレジを行った。

「コクーン歌舞伎」のもうひとつの狙いは、江戸の歌舞伎小屋の再現であった。歌舞伎座の間口は18間(32,73m)あり、異様なほど幅広い舞台面となっている。シアターコクーンは、むしろ江戸時代の芝居小屋が保存されている四国・香川県にある金丸座(1836年開場)のようなコンパクトな空間で、歌舞伎を上演したときに、いかなる効果が生まれるかという実験でもあった。また、シアターコクーンの現代的なロビーには、物売りの屋台を並べ、すでに鬘や衣裳をつけ、江戸時代の人物に扮した出演者たちが、開演前から観客に混じってロビーを歩き回った。演劇鑑賞ではなく、芝居見物の名前にふさわしい祝祭感を、歌舞伎に取り戻そうとしたのである。ちなみに、現在まで「コクーン歌舞伎」で上演された演目は、『夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)』『盟三五大切(かみかけてさんごのたいせつ)』『三人吉三廓初買(さんにんきちさくるわのはつかい)『桜姫(さくらひめ)』である。

この江戸の歌舞伎小屋の再現をさらに推し進めたのが、2002年に始まった仮設の歌舞伎小屋「平成中村座」の試みである。勘三郎は、江戸時代に幕府公認の芝居小屋「中村座」のあった東京・浅草(江戸猿若町)にほど近い隅田川河畔に仮設劇場を建設し、そこで「コクーン歌舞伎」でつちかった古典に再解釈をほどこした作品を上演しようとした。

その初めての作品に選ばれたのは、今年8月、歌舞伎座で再演された『法界坊』である。正式の狂言名は、上演場所である隅田川の名前の付いた『隅田川續俤(すみだがわごにちのおもかげ)』であり、新しい劇場とその場のトポスを重く見る勘三郎=串田の意図がよくあらわれている。仮設ではあるけれどもコンパクトな平成中村座は、プロセニアムアーチによって区切られた現代劇場とは異なり、舞台と客席の一体感がある。観客が靴を脱いで、劇場空間に参入する形式も、桟敷席が中心にあった江戸の劇場に対する郷愁を呼び覚ました。

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平成中村座の公演の中でも画期的だったのが、2004年7月、ニューヨーク・リンカーンセンターのフェスティバルに参加した『夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)』だろう。メトロポリタンオペラハウスの正面に向かって左手の小さな公園に、この仮設劇場が忽然と姿を現した。メトロポリタンオペラハウスは、亡父十七代目勘三郎が記念すべき戦後初の歌舞伎公演を行った劇場である。勘三郎は、ニューヨーク公演を行うにあたって、オペラハウスの権威ではなく、仮設劇場の野性を選んだ。幕切れ、仮設劇場奥が外部に向かって開かれる。義父をやむなく殺してしまった團七(勘九郎、現・勘三郎)が追っ手を逃れて走り去る。さらにそれを追って、ニューヨーク市警が劇場に乱入して、ホールドアップを命ずる。江戸のフィクションが、現代ニューヨークの現実と一気に接続されたのである。

それは歌舞伎を、芸術的に洗練されてはいるけれども、東アジアの一伝統芸能として、ニューヨークの観客に観られることへの拒絶であった。フェスティバル参加作品にとどまることなく、ブロードウェイ、オフ・ブロードウェイで上演されている舞台と同等に、現代演劇のひとつとして、歌舞伎を評価してもらいたいと彼は望んだのではなかったか。

こうした勘三郎の願いに応えるように、7月20日付のニューヨークタイムズに、罪や魂の怖れに言及し、ドストエフスキーの小説を参照したベン・ブラントレーの劇評が掲載された。歌舞伎の常識にこだわることなく、ドラマの実質をとらえたこの批評は、演技評に偏り、旧来の演出との比較に終始しがちな日本の歌舞伎批評に対するアンチテーゼとしても読むことができる。殺人と暴力が人間の人生を狂わせていく現実は、江戸と現代、日本とアメリカといった時空を超えている。古典を再解釈することによって、歌舞伎独自の演出、様式とリアルを往復する歌舞伎俳優の演技術が、西欧演劇にインパクトを与える可能性を示唆していたのである。
 
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