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Kabuki's New Wave
歌舞伎の新潮流
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こうした歌舞伎の新しい波を総合すると、演出権の確立が焦点にあることがわかる。本来、歌舞伎には演出家という職責はない。座頭(ざがしら)と呼ばれる主演俳優が、それぞれの演目にあるいくつかの演出例「型」を選択し、他の俳優、スタッフに全体の方向性を指示してきたのである。しかし、これは西欧演劇においても、演出家の職掌が徐々に確立してきたのは、19世紀終わりから20世紀にかけてであり、近代劇以前には主演俳優(アクター・マネジャー)による指示によって舞台が作られてきたことを考えると、とりわけ奇異なことではない。現行の歌舞伎が、ほぼその体裁をととのえたのは、江戸時代の元禄年間(17世紀末から18世紀初頭)であり、こうした成立の時期を考え合わせると、演出権を曖昧にした舞台作りを、一方的に責めることはできないだろう。

振り返ると、明治以降、新作が続々と登場したのは、これが初めてのことではない。例えば、歌舞伎俳優として初めてヨーロッパを旅行し、西欧近代劇の影響を受けた二代目市川左團次がいる。彼は当時の知識人小山内薫とともに自由劇場を立ち上げ、1909年、ヘンリック・イプセン作『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』を上演し、歌舞伎劇に慣れた当時の観客を驚かせた。彼の業績はそれにとどまらず、劇作家、岡本綺堂、真山青果らと「新歌舞伎」といわれる新作の上演を精力的に行った。『鳥辺山心中』(綺堂)『元禄忠臣蔵』(青果)は、その代表的な作品である。

新作を生み出す力を失った芸術ジャンルは、古典の継承、伝統の保存の名の下に、衰弱をたどる運命を持つ。戦中から戦後にかけて活躍した宇野信夫、三島由紀夫ら少数の例外を除けば、歌舞伎が何度も繰り返し上演される新作を生み出したのは、綺堂、青果の時代が最後であると考えられてきた。

もっとも、第二次大戦後においても、こうした衰弱にあらがう動きがなかったわけではない。歌舞伎界の外側から、演出の概念を強く持ち込んだ人物が武智鐵二である。1949年から52年にかけて歌舞伎の再検討を行う「武智歌舞伎」を六代目坂東簑助(のちの八代目三津五郎)を重要な共同演出家として実践した。現在、歌舞伎界の長老格にいる五代目中村富十郎、三代目中村鴈治郎は、武智歌舞伎に学んだ俳優である。

さらに、1966年に東京三宅坂に開場した国立劇場の果たした役割も忘れてはいけない。発足するにあたり、「国立劇場における歌舞伎公演はどんな方針で行われるか」と題して、第1回公演パンフレットのなかで理念が示された。そのなかで、「原典の尊重」「通し狂言での上演」「復活狂言の上演」などをあげているが、「俳優の仕勝手を排し、演出の統一を図りたい」と明言している部分は注目に値する。しかし、演出家と座頭の職分の区分けには問題が多く、歌舞伎研究家の服部幸雄の指摘によれば、1971年頃から、国立劇場は「演出」を明示することをほぼあきらめたかに思える。

近年、もっとも歌舞伎界の革新に力を尽くしたのは、三代目市川猿之助である。これまで異端とされていた宙乗り、早変わりなどのケレンを押しだした。補綴や演出を受け持つ奈河彰輔との共同作業によって、埋もれていた狂言を復活し、哲学者梅原猛に新作を依頼し、『ヤマトタケル』(1988年)など古代を舞台にした新作を次々と生んだ。中国との京劇との交流にも積極的な姿勢を示し、また、1984年には、パリ、シャトレ劇場の依頼によって、リムスキー=コルサコフ作曲のオペラ『コックドール』の演出を担当している。ただし、猿之助においては、外部の演出家の尊重というよりは、従来の座頭俳優による演出の色彩が強い。

今回の新しい波は、歌舞伎が再び新作を作りだし、また、古典の再解釈を積極的に行い、こういう言い方が許されれば、現代演劇の中心に、歌舞伎が復活するかを賭けた戦いであると捉え直すこともできる。

しかし、現代演劇においてすぐれた作品を生み出してきた蜷川幸雄、串田和美、野田秀樹においても、座頭役者勘三郎の協力なしに、歌舞伎が蓄積してきた演出技法や俳優の身体性を引き出すのは困難だっただろう。2005年5月から8月に起こった今回の新しい波が注目に値するのは、継続的にこの革新を担ってきた中村勘三郎ばかりではなく、歌舞伎の本流を歩んできた尾上菊五郎を中心とする菊五郎劇団が、その流れに参加したところにある。次代の歌舞伎を担う菊五郎の長子菊之助の意見を入れ、「歌舞伎の演出はやらない」とかねてから公言してきた現代演劇の巨匠蜷川幸雄を歌舞伎座に登場させたのは、こと歌舞伎界にとどまらず、シェイクスピア上演史にとっても重要な事件となった。今回の歌舞伎の新しい波は、単なる歌舞伎界の世代交代によるものではない。歌舞伎界の現状に対する危機感を持ち外部の演出家を招いてともに革新に取り組む俳優と、古典の規矩にとどまり続ける俳優を、二分させる結果となったのである。

また、世界演劇のなかの歌舞伎という視点から見れば、逼塞状況にある西欧演劇のなかで、アジアの思想、技法が大きな刺激を与える機会が、今まさに訪れたと考えることもできる。古くはアルトナン・アルトー、現代ではアリアーヌ・ムニューシュキンはじめ、西欧外部に属する演劇のイディオムを積極的に取り入れようとした演出家は少なくない。ならば、西欧的な演劇教育を受けた日本の演出家が、現代的な解釈を歌舞伎に古典にほどこし、あるいは新作を創造し、独自の身体性を持つ歌舞伎俳優によって演じられる作品を持って、世界の演劇市場に乗り出す日は遠くない。2001年『野田版 研辰の討たれ』の初演、2004年『夏祭浪花鑑』のニューヨーク公演、2005年『NINAGAWA 十二夜』初演は、その先駆的な試みとして私たちの記憶に刻まれるだろう。
 
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