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グラン・アルシュ
ルーブル美術館


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*1 地域圏
(région)
1964年に設置された広域行政機関で、県(département)の上位となる地域区分。しかし従来は中央政府機関が統括する企画の効率的計画と実行のための役割しか与えられていなかった。

*2 地域圏文化局
(directions régionales des affaires culturelles)
1970年代における地方分権化の一環として全国的に整備された。単に文化予算分配の仲介を行うだけでなく、文化省の方針に基づき、地域関係機関のために勧告や評価活動を行う。
An Ovewview.
2005.2.16
French cultural policy enters pivotal era.────Kuniyuki Tomooka (Lecturer of Takasaki City University of Economics)  
再考の時期にきたフランスの文化政策────友岡邦之(社会学・文化政策研究/高崎経済大学講師)  

フランスでは芸術援助に関して国家が主導的な役割を演じている。また1981年の社会党政権誕生以降、フランスの文化予算がそれ以前の倍近くにまで増額され、国家予算の1%近くを占めるに至ったこと、大衆文化を含めた多様な創造活動が支援対象となっていること、そして国家が主導的とはいえ、社会党政権下で地方分権化が進められたことなども、よく知られている。
しかし近年、80年代以降のフランスの文化政策に関するこのような“常識”的見解に疑問を呈する研究が登場してきている。以下ではこの近年の知見を踏まえながら、国家と地方自治体による文化支援のあり方を、特に「文化の民主化」という問題に注目しながら考えてみたい。


マルローとラングの隔たり

フランスにおける国家による文化政策の歴史を紐解くなら、その起源は絶対主義の時代にまで遡ることができる。しかし文化政策を芸術家の創造活動の支援(と規制)だけでなく、文化活動への市民のアクセスの促進という施策も加えたものとして理解するなら、フランスにおける文化政策の歴史的発展過程において決定的に重要なのは、59年の文化省の設立とアンドレ・マルローの文化大臣就任、そして81年の社会党政権誕生とジャック・ラングの文化大臣就任という、2つの契機である。このうち後者こそが現在のフランス文化政策の基礎的枠組を整備したといえるのだが、それがどんな特徴を有しているかは、前者(マルローの文化政策)と比較してみるとよくわかる。
すなわち、マルローが文化省の初代大臣として熱心に取り組んだのは、「文化の民主化」と呼ばれる施策だった。この場合の「文化の民主化」とは、洗練されたフランスの芸術文化をフランス国民が等しく享受できるようになることを意味している。そしてそのための手段として、マルローは全国に文化会館(通称「文化の家」)を建設することを目指した。この「文化の家」とはいわば複合型文化センターというべきもので、演劇、音楽、映画、テレビ、展覧会、講演のすべてを実施するための施設だった。
しかし、彼が69年に職を退くまでの10年間に建設された文化の家はわずか7つにすぎず、今日でもその数は15にすぎない。この失敗は、莫大な建設コストのためでもあるが、なによりも国民の支持を得ることができなかったためだと考えられている。というのも、マルローの「文化の民主化」というプランは、あまりに甘い認識に基づくものだったからである。彼は文化施設を提供しさえすれば文化の民主化は達成されると考えており、階級や家族、および教育などの社会学的要因を考慮することがなかった。また彼は、パリにおける最良の芸術作品をフランス中に普及させることをもって「文化の民主化」と考えており、現実にフランスに存在する地域文化の活性化といったテーマは全く考慮されていなかったのである。
それに対し、81年に左翼政権下で文化大臣に就任したジャック・ラングは、マルローとは異なる解釈に基づいて「文化の民主化」を推し進めた。すなわち彼は、「文化」という概念をきわめて広義にとり、支援対象の枠を地方文化のみならず大衆文化や文化産業と呼ばれるものにまで大幅に広げたのである。つまり、「文化の民主化」を伝統的な高級芸術の普及としてではなく、人々のライフスタイルに根ざした多様な文化の保護と支援だと解釈したのだった。しかも彼はこれを、既存の高級芸術の支援を犠牲にするのではなく、国の文化予算を大幅に増額(前年度予算の約2倍)することで実現したのだった。
この多様な文化を支援するという政策方針にとって重要なのは、まず、地域における文化活動の活性化である。左翼政権は、フランス国家を特徴づけている中央集権体制を是正するために82年および83年に「地方分権法」を施行し、地域圏議会を公選化して独自の権限をもつ行政執行母体とし、幾つかの国家の権限を委譲した(*1)。当然ながらこうした傾向は文化政策にも影響を及ぼし、全国に地域圏文化局(DRAC *2)のネットワークが整備されていった。この地域圏文化局は現在全国で27カ所存在し、国の文化政策に基づく資金援助の90%はこの地域圏文化局のレベルで決定されているという。また現在、地方自治体は文化省の予算の2.5倍に上る資金を文化活動に充てている。
また、ラングの政策方針にとってそれ以上に重要なのは、大衆文化の支援であった。実際、ラングによる文化政策において最も際立っていたのは、この大衆消費文化やアマチュアの文化活動の支援であった。ラングの下で文化省は、芸術と民衆、芸術におけるさまざまな立場、アマとプロ、地域的・民族的格差などの障壁を崩す作業に取り組んでいったわけだが、その中でも「高級文化」と「低級文化」との間のヒエラルキーの解体に対する取り組みには特別に熱心であった。
文化省は、まず、従来の文化政策が表現の形式によって支援対象を選別してきたことを問題にし、これまで無視されてきた数多くの「民衆的芸術」、例えば人形劇、オペレッタ、サーカス、料理などを支援対象に組み込み始めた。とりわけフランス文化省が関心を向けたのは、若者文化、特にポピュラー音楽、それもポップスやロックであった。例えば82年2月には、ラングはポップスのための指針を多く含んだ新しい音楽政策を発表している。それらのうちには、練習場所を探している若者への援助、またそうした場所や設備を提供してくれる地域団体への援助などが含まれている。そしてさらに目を引いたのは、ロック・コンサート専用ホールの建設である。84年1月にはパリのラ・ヴィレットにその第1号であるル・ゼニットがオープンし、また少しずつではあるが、同様のホールが地方にも建設されることが計画された。
このように娯楽産業の枝葉にすぎないとみなされていたポップスやロックをも支援対象に含むことにした国家の姿勢は、80年代前半のフランスにおいてもきわめて目を引く出来事だった。さらに、89年5月には文化省ロック音楽専門官のポストがつくられ、初代専門官には当時25歳であった音楽雑誌編集者のブルーノ・リオンが就任した。ロック担当官に割り当てられた年間予算は設立時で4,300万フラン(当時約11億2,000万円)であった。このようなポピュラー音楽を支援する傾向は現在に至るまで続いており、98年度、99年度の重点施策の対象にもなっている。
また、文化省は漫画に対する支援も行っている。82年4月には、ラングはプロの漫画家たちとの協議会を開き、続く83年1月の記者会見で、漫画がこれまで若者にとって有害で文学的な価値の低いものとみなされ軽蔑されてきたことを指摘し、それに正当な位置を与えることを主張した。また地方都市アングレームでは毎年「国際漫画フェスティバル」が開催されているのだが、85年にミッテラン大統領が来訪したことをきっかけに、翌年「国立漫画センター」設立の構想がもちあがり、同センターは91年1月に開館。さらに、このような文化産業の領域に関して、写真芸術国民センター、およびアルル写真芸術学校、広告美術館等が創設された。
このように、左翼政権成立以後の文化政策においては、支援対象の多様化という顕著な特徴が見受けられる。しかし同時にフランス社会党は、そのような政策方針とは相異なる、ある意味で保守的ともいえる文化政策をも実施している。それは、ミッテラン大統領による大規模施設の建築プロジェクト「グラン・プロジェ」である。フランスでは大統領が記念碑的施設を建設するのはポンピドゥー以来の慣例となっているものの、ミッテランのこの事業は、単独の大統領がいくつものプロジェクトを立ち上げた点で非常に話題を呼ぶものであった。
このグラン・プロジェのうち文化関係施設は文化省の予算で建設されたものの、ミッテランの直接的な指導の下に実施された。そのため、このプロジェクトは他の文化省の施策とは独立した形で進められることになった。大統領の指導は概括的なプランの提示にとどまらず、具体的かつ詳細な点に関する指示にまでわたったといわれている。
ミッテラン政権下でスタートしたグラン・プロジェに含まれる建設計画は次のとおりである。
1. グラン・ルーブル(ルーブル美術館の大改造計画。ピラミッドはその一部)
2. 国立図書館
3. バスチーユの新オペラ座
4. グランド・アルシュ(凱旋門型の国際通信センター)
グラン・プロジェは文化省の政策領域というより大統領管轄の領域であったために、内閣の変動(86〜88年の保守内閣の成立)の影響を受けずにすみ、重大な修正を被ることなく継続された。80年代のフランスにおいて実施された文化政策の主導者は、ジャック・ラングとフランソワ・ミッテランだったといってよいが、以上からわかるように、この2人によって別個に担われた2種類の文化政策は、少なくとも表層的なレベルではかなり趣を異にしていた。ラングが時代に適合するように文化政策の方針を変えようとしていたのに対し、ミッテランは古典的な文化政策の手法ともいえる、国民的モニュメントの構築を志向していたのである。
 
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