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an overview
French cultural policy enters pivotal era
再考の時期にきたフランスの文化政策

*3 現代美術地域基金
(fonds régionaux d’art contemporain)
1982年創設。地域住民の同時代の芸術(絵画、彫刻、写真、装飾美術、工芸等を含む)に対する感受性を高めることを目的とする。作品の収集だけでなく、地域間での貸出活動も行う。作品の購入は地域ごとに独立した専門委員会の決定に基づく。この委員会は地方議会議員と独立的な専門家、および国の代表者で構成されている。FRACの作品購入額は、現代の芸術作品の購入のための公的支出の半分を占める。

*4 美術館購入地域基金
(fonds régionaux d’acquistion des musées)
1982年創設。FRACと同様のシステムで、地域における美術館の活動の促進を図る。

*5 地域文化遺産委員会
(comissions régionales du patrimoine historique, archéologique, et ethnologique)
各地域において文化財・記念碑を指定する諮問委員会。文化財選定過程において地域住民に発言権を与えることを目的としている。
地方分権化の実態
しかし、ラングがスタートさせた既述の一連の文化政策は、はたして企図どおりの効果をもたらしたのだろうか。また、それらは本当に、ミッテランが志向していたのとは対照的な、革新的な政策だといえるのだろうか。
キム・エリングの最近の調査によれば、この一見すると派手なフランスの文化政策は、見掛けほど革新的でもなければ、同時に中央集権的でもないようである。それどころかエリングは、フランスの文化政策における政策決定過程は、実際上はイギリスのように第三者機関が中心となったものとさほど変わらないと主張しているのである。
例えば地方分権化の実際に注目するなら、文化省は地方自治体へ完全に権限を委譲したわけではなく、現代美術地域基金(FRAC *3)や美術館購入地域基金(FRAM *4)、地域文化遺産委員会(COREPHAE *5)といった助成機関を設置することによって、分散化やパートナーシップを図った。また文化省は、地域圏文化局のネットワークを整備し、そこに人的財政的資源を投入していった。さらに重要なのは、契約政策という形式が拡大され、その中に地域圏文化局が組み込まれたことである。
これにより、文化政策に関する自治体の助成金使用の自由は、地域圏文化局と取り交わされる契約によって、実際上は制限されてしまうこととなった。つまり、この政策のおかげで地方への国家予算の分配が増大したのだが、一方でそこには、いわば家父長制度的な国家の温情主義が働く仕組みになっているのである。実際、現在に至るまで、地域圏文化局は優先的に支援すべき自治体の選定に関して、文化省から年度ごとに指導を受けているという。そしてこうした交渉事に精通していない地方当局が、文化省が「真の対話の産物」として提示する計画を素直に受け入れてしまっているというのである。
もちろん、こうした契約政策は地方自治体の意向を無視して行われたわけではない。支援対象が特定の地域に偏るということは事実上なく、82年の契約にはすべての地域がサインしており、そのうちのほとんどが契約更新に応じた。さらに、この契約は地方当局の投資活動を活発化させる役割を果たした。そして何より、こうした政策の結果、地方自治体の文化予算の総計は、文化省も含めた国家全体の文化関係予算よりも多くなっているのである。
しかしこれは、文化省が自らの懐を痛めないままに地方の政策決定に介入する権利を握っているとも解釈できるだろう。エリングによれば、地方自治体にとって文化省が文化政策のパートナーとなるということは、プログラムの「質」が保証されたことを含意するのだという。それだけ、文化省やその下部機関である地域圏文化局の価値判断は大きな力をもっているのである。
ところで、この中央と地方との不均衡に関してよりあからさまなのが、グラン・プロジェであった。国家の文化的支出は毎年増加傾向にあるものの、グラン・プロジェのための予算は81年にはそのうちの約15%を占めるにとどまっていたのに対し、86年には70%近くを占めるに至ったのである。このため、予算を他の芸術文化支援に回す余裕がなくなり、必然的に他の文化政策は規模の縮小を余儀なくされた。もちろん地方分権化政策も、このグラン・プロジェのせいで被害を受けている。例えば地方分権化に割り当てられた予算は、85年には1億2,600万フランであったのに、翌86年には6,300万フランと、約半分にまで削減された。それになにより、これらの建設計画はすべてパリにおいてなされたのであって、地方分権化という社会党の目標には反するものであったといえるだろう。
 
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