The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
Contents
マリオン・ドゥ・クルーズ
data
マリオン・ドゥ・クルーズ
(Five Arts Centre代表)
ファイブ・アーツ・センターは1984年に設立されたアーティストの組織体で、ダンス、演劇、ビジュアル・アーツ、音楽、児童劇の「5つのアート」を中心に活動。若いアーティストを育成し、地域社会を刺激するアートの促進を行うなど、積極的な活動を展開している。現在では、ファイブ・アーツ・センターはマレーシアの舞台芸術界で真のリーダーとして認められるようになった。ドゥ・クルーズ氏はファイブ・アーツ・センターの創始者の一人で、現在代表メンバーとして活動中。さらに彼女は、マレーシアを代表するダンサー兼振付家の一人であり、同国のダンス界のリーダー的存在であり続けている。

Presenter Interview
2005.7.6
The activities of the Five Arts Center, toward the creation of contemporary Malaysian theater  
マレーシアの現代演劇の創作を目指すファイブ・アーツ・センターの活動  
マリオン・ドゥ・クルーズ氏のインタビューの前に、マレーシアの舞台芸術界の現状について簡単に紹介しておこう。
マレーシアは、マレー系、中華系、インド系の3大主要民族をはじめとする諸民族がともに暮らす、多民族国家である。それぞれの民族が自らのアイデンティティを強く保持しながら共存するその社会は、「マレーシア型多文化社会」とも呼ばれている。例えば、初等教育においては、国語であるマレー語を使用する学校だけではなく、中国語やタミル語を使用する学校も設置され、それぞれを母語とする生徒が入学して学んでいる。また、英語も広く使用されており、国民のほとんどが複数の言語を解する「多言語社会」でもある。
このような社会を維持するには、想像を絶する困難が伴う。1969年には民族間の暴動により、多数の死者を出す事件も発生している。数的には多数派であるが経済的には弱者の立場にあったマレー系の地位を向上させるために、マレー系をあらゆる面で優遇する「ブミプトラ政策」はこうした背景から導入されたものだ。
従って、マレーシアの演劇界もこうした特質を直接反映させたものになっているといっていい。使用言語ごとに劇団はグループ化されており、グループ相互間の交流が必ずしも活発には行われていない。また、観客についても同様で、使用言語ごとに観客層は異なっている。
民族間の抗争に発展しかねないとして、民族問題や宗教問題について公の場で発言することは禁止されており、演劇についても都市ごとに置かれた検閲局の厳しい検閲が実施されている。また、「ブミプトラ政策」のもと、国からの支援はほとんどがマレー系劇団に向けられているのが現状だ。国立劇場での公演についても、海外からの招聘公演を除けばマレー語劇がそのほとんどを占めている。民間の劇団は企業からの支援を受けるなどして活動しており、彼らが公演に使用する劇場は300席程度以下の小規模なものが主となっている。しかし、2005年には初の民間経営の大型劇場施設「クアラルンプール・パフォーミングアーツセンター(KLPac)」がクアラルンプール市内に開館することになっており、その動向が注目されている。
こうしたマレーシアにおいて、20年間にわたって演劇シーンをリードしてきたアーティスト集団、ファイブ・アーツ・センターの創設メンバーのひとりであり、マレーシアを代表する舞踊家・振付家のマリオン・ドゥ・クルーズ氏にその活動について話を聞いた。

(聞き手:滝口健 国際交流基金クアラルンプール日本文化センター)


──ファイブ・アーツ・センターは、カンパニーというよりむしろ、「アーティストの共同体」と言えると思います。マレーシアにおいて非常にユニークな組織であるファイブ・アーツ・センターは、どのような経緯で設立されたのでしょう。また、設立の意図は何でしょう?
創立当時はまだ、「自国の劇作家」が確立されていない時代でした。シェイクスピアやチェーホフ、テネシー・ウィリアムズほか、主にアメリカやイギリスの英語劇を上演しているカンパニーはありましたが、非常に格式高いものと考えられていました。マレーシアの民話を英語で上演しようという意識や要望はほとんどありませんでした。70年代にK・ダスやロイド・フェルナンドらが戯曲を発表していましたが、上演していたのは主に大学のグループで、プロフェッショナルの劇場が自国の作家として彼らに目を向けることはほとんどありませんでした。
そんななかファイブ・アーツ・センターが設立され、自国で育った演劇やマレーシア独自の創造性に機会と場所を提供することを目指しました。そして現在に至るまでこれがファイブ・アーツ・センターの意図するところであり続けているのです。
当初ファイブ・アーツ・センターのメンバーは、ディレクター兼劇作家のチン・サン・スーイ、ディレクターのクリシェン・ジット、劇作家のKS・マニアム、ビジュアル・アーティストのピヤダサ、そしてダンサー兼振付家である私の5人。当時はまだ非常に繋がりのゆるい組織体でした。舞台デザインを担当していたピヤダサが程なくして辞めます。1995年にはKS・マニアムが去りますが、初期における彼の功績は非常に大きい。上演した作品のほとんどが彼とチン・サン・スーイの作品でしたから。実際、1984年のファイブ・アーツ・センター最初の上演は、マニアムの『法典(The Cord)』という作品でした。英語で上演し、公演期間は1週間。いわゆる英語劇の観客にとっては、このような長期で、しかもかなりの宣伝をした公演は非常に珍しいものでした。現在でもそうですが、当時は観客が言語グループによってはっきり分かれていました。英語劇、マレー語劇、中国語劇それぞれに観客層があります。私たちは英語上演を追求していますが、「英語劇の劇場」と呼ぶことは決してありません。実際、私たちの劇場は、20年以上にわたってマレー語や2カ国語、3カ国語でも活動してきています。これまで80以上の作品を上演してきましたが、ほぼ例外なくマレーシア人によって創り出されたものです。

──現在、ファイブ・アーツ・センターはさまざまな世代の13人のメンバーを抱えています。カンパニーにはどのような成長の過程があったのでしょう。
最初の10年は、さまざまな人がファイブ・アーツ・センターに関わっていました。彼らはメンバーではありませんが、少なくとも「中心的な」人たちと言えるでしょう。1994年に、クリシェンにあるアイデアが浮かびます。それは、「創立から10年経った今、これまで僕らと仕事をした人たちに呼びかけ、メンバーになる意志があるかどうか尋ねてみよう。僕らはそろそろ、しっかり組織化したほうがいいはず」と言うのです。そのころ私たちはチン・サン・スーイ、クリシェン、私のわずか3人になっていて、私の自宅を拠点に活動していました。小さなスタジオも借りていましたが、賃料は自分たちの給料から出し合いました。すべてがその場しのぎという感じでしたが、その間さまざまな出来事もありました。私たちは10周年の記念にあらゆるジャンルにおよぶシリーズ的なものを始めようと考えました。こうして、メンバーを集め、アーティスト共同体というアイデアを発展させていったのです。もちろん公的には劇場監督を置いていますが、カンパニーのビジョンを決める固有の芸術監督というのは存在しません。
1994年ごろまでに、ファイブ・アーツ・センターが取り組むべき5分野を決定しました。演劇一般、ダンス、音楽、児童劇とビジュアル・アーツです。運営側の人材も確保しました。現在もファイブ・アーツ・センターのメンバー勧誘は続いています。
幸運にも私たちは、若い世代を惹きつけることに成功しています。興味深いのは、今ではフルタイムで芸術活動をしたいと真剣に考える若者がたくさんいること。これは以前のマレーシアでは考えられないことでしたが、非常に健全でエキサイティングなことだと思います。ファイブ・アーツ・センターは現在アクシェン(Akshen)という、若いアーティスト集団を抱えています。彼らは元々、大学生の集まりですが、ファイブ・アーツ・センターは彼らにリハーサル・スペースを提供する代わりに、劇場フロントの仕事を手伝ってもらう、という戦略的な提携を持ちかけました。そうすれば、彼らも作品やアイデアを発展させることができる。アクシェンのメンバーの1人に、近年人種的対立が起こった地域で、人種問題に立ち向かうためのコミュニティ・プロジェクトを立ち上げた人がいます。さらに最近、演出家ためのワークショップを始めました。現在こうした若いメンバーが、ファイブ・アーツ・センターの作品やビジョンにおいて、重要な位置を占めるようになっています。
この若い訓練生たちの関心事は私たちのそれとはまったく異なりますが、彼らは極めて明晰かつ献身的です。私は彼らにカンパニーを譲り渡していこうと考えています。信じて託せば、きっと受けとめてくれるでしょう。たとえカンパニーの方向性が変わってしまっても、それはそれで構わないと思っています。
 
| 1 | 2 | 3 |
NEXT
TOP