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オーブリー・メロウ
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オーブリー・メロウ(Aubrey Mellor)
オーストラリア国立演劇学院(NIDA)学長。オーストラリアを代表する舞台演出家。手がけた作品は、シェイクスピアやチェーホフなどのヨーロッパの古典作品にはじまり、オーストラリアの創作演劇のプロデュースも行う。オーストラリアが著名な俳優を輩出した世代の演技術の教師としても有名。シドニーのジェイン・ストリート・シアターとニムロッド・シアター、ブリスベーンのロイヤル・クイーンズランド・シアター・カンパニー、プレイボックス・シアター・カンパニーの芸術監督を歴任。彼はまた、オーストラリア演劇に対する貢献によりオーストラリア勲章(OAM)を受章。近年は国際共同制作を活発に行い、国内外の主要劇作家の作品・コラボレーションを手がける。
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オーストラリア国立演劇学院(NIDA)
オーストラリア国立演劇学院(The National Institute of Dramatic Art:通称NIDA)は、オーストラリア政府によって1958年に設立された演劇人養成の専門機関である。世界の演劇、映画、テレビなどのエンターテインメント界の中心を担う数々の卒業生を多数輩出してきた。ケイト・ブランシェット、ジュディ・デイヴィス、メル・ギブソンに加え、映画『ロード・オブ・ザ・リングス』に出演したヒューゴ・ウィービングやブロードウェイで『The Boy from Oz』をプロデュースしたベン・ギャノンもNIDAの出身である。
現在、NIDAには、演技、デザイン、美術、技術、演出、身体動作、発声等のコースがあり、また、子どもから大人まで参加できる一般に開かれたOpen Programも熱心に行われている。その一環として社会人を対象にした、コミュニケーションのスキルアップを図るプログラム等も実施している。
2001年に725席の劇場Parade Theaterと、映画とテレビの制作を行えるスタジオ、リハーサル・ルーム、図書館などを備えたNIDA Theatre and Studioを設立。ここを拠点に、附属アクターズ・カンパニーが作品を発表している他、授業の一環として海外から招いた演出家の指導による公演を実施。日本からは、これまで金守珍が招かれているが、2006年には坂手洋二の指導により『屋根裏』の公演が行われる予定。NIDAは、オーストラリア政府のDepartment of Communications, Information Technology and the Artsによる助成やFriends of NIDA, American Friends on NIDAからの寄付を受けて運営されている。
http://www.nida.unsw.edu.au/
An Overview
Presenter Interview
2005.6.17
An organization tuning out world-class actors Talking with the Director of The National Institute of Dramatic Art of Australia  
世界的な俳優養成機関オーストラリア国立演劇学院(NIDA)の学長に聞く  
オーブリー・メロー氏と私は、およそ30年来の友人である。私たちが出会った1970年代後半、オーブリーはその時すでに、オーストラリアのもっとも革新的な演出家の一人としてその名を知られていた。彼は1968〜69年にNIDAで学び(当時のコースは2年制)、卒業後も同校で教鞭を執る。その後、ニムロッド・シアターのディレクターとなり、同劇場を当時のシドニーでもっとも活気のある劇場に育てた。その後、ブリスベーンのクイーンズランド・シアターカンパニーおよびメルボルンのプレイボックス・シアターの芸術監督を歴任。2004年後半、世界の舞台芸術教育において最も重要な位置をなすオーストラリア国立演劇学院(NIDA)の学長に就任した。
これらの経歴は特筆すべきではあるが、彼に引きつけられる、少なくとも私をこれほどまでずっと引きつけてきた、彼の驚くべき業績には計り知れないものがある。オーブリーほどアジアの演劇、特に日本の演劇の作法やしきたり、メッセージを理解し、自身の作品に芸術的かつ美的に吸収している演出家は、世界中どこを探してもほとんど見つからないだろう。ことオーストラリア国内で言えば、唯一無二の存在である。彼の演劇に対する手法自体、伝統と形式を融合したものであり、それは古典でもなければコンテンポラリーでもない。彼の視点は、オーストラリア先住民の儀式をはじめ日本の能、イギリスの修辞的伝統、アメリカン・メソッド、インドのヤクシャガーナ(訳註:インドに伝わるヒンドゥー教を題材とした野外民俗舞踊劇)と幅広い。実際、彼の作品に影響を与えてきたものを突き詰めようとすること自体が、無意味といっていいほどだ。
2005年5月25日、東京の国際交流基金のオフィスでオーブリー・メローに会った。1週間の日本滞在の後、シドニーへ発つ直前のあわただしい時に。そんな中、彼が語っておかなければならなかったこととは……。

(インタビュー・文:ロジャー・パルバース)


“AUSTRALIA IS A PART OF ASIA. THERE IS NO GOING BACK.”
オーストラリアはアジアの一員。後戻りはできない。


私が最初に日本を訪れたのは1972年です。日本の伝統芸能と演劇作法を研究することが主な目的です。当時の活動は決してアカデミックな分野に限定していませんでした。能を実践しなければ、と思っていたので、東京で能の金春流に学びました。『船弁慶』でシテ役を演じたこともあります。
その日本滞在(その後何度も再訪していますが、まさに初来日)で私は非常に多くのことを教えられました。西洋演劇は状況や登場人物に始まり、それぞれの関係を確立します。これは私たち西洋人が一つの作品を創作する際の標準的なアプローチです。しかし、能では、これらの要素がわかるのは一番最後です。能は所作や踊りに始まり、稽古を繰り返し、うまくいけば習得できるものです。つまり、「能」とは「技能」を意味します。そして、この技能を通して登場人物に対する解釈が及ぶようになります。意味付けは最後にくるのです。

私たち西洋人はたえず、異質なもの、個性的なものを目指しています。しかし、それらは多くの場合、恐ろしく無駄な労力を費やしていると私は感じます。俳優はまず、技能とテクニックを習得する必要があるでしょう。例えば、72年に、例の能の稽古をしていたときのこと。私は扇を使って円を描くような所作をしていました。そうしたら、私の師匠(本田先生)が激怒したのです。「あなたはこの扇で何をしているのかわかっているのですか」と彼は言いました。私には何のことだかわからなかったのですが、「あなたは恋人にさようならを言っています。これは果てのない切望を示しているのです」と言われたのです。私は思いました、「そう、そうだ、果てのない切望。勿論、私にも果てなき切望なら表現できますよ」と(笑)。しかし、本田先生の説明と指導のおかげでそのことがすべて腑に落ちました。ただそれだけでは、体感して解釈するのに十分ではありません。扇の扱い方一つとっても、まずはその仕組みを理解しなければなりません。そこから人物が浮かんでくる。これが、当時の日本滞在で学んだ貴重な体験です。

「柱」も違う、つまり西洋と日本の劇場ではそのあり方が異なるのです。能舞台の柱のアプローチであろうが、西洋演劇の柱であろうが、その仕方によってさまざまな真価が生まれ、必要に応じてさまざまな効果を取り入れることができます。例えば、はじめに一束の衣裳を俳優に与える、または一足の靴でもいい。すると彼らはそこから人物像を開拓できるかもしれません。「待って、靴はまだいらない」と言う俳優もいるかもしれません。それもありです。また別の俳優にとっては、その靴が逆に、彼らに閃きを与えるものになるかもしれないのです。

私はアジアで多くの時間を過ごしました。1979年に中国で京劇の研究をし、その前は台湾、香港、インドにも行きました。すべての旅で、各国の伝統演劇を通して、本質を追求するための新たな方法を学びました。物を見る眼を学生たちに伝えるための方法です。

1970年代にNIDAで教えていたころ、何度か学生らと能を上演しました(ちなみにそのころはメル・ギブソン、ジュディ・デイヴィス、コリン・フリールズもいました)。演技だけでなく、観客の作法、例えば「見得」などの異質な歌舞伎の所作にいかに反応するかなどを訓練しました。歌舞伎を観る日本の観客は、舞台上の一連の段取りを心得ていて、ひと通り演じた後に見得を切る所作があることを知っているわけです。観客はいわば、俳優の技能や虚勢の演技を鋭く観察し、その熟達ぶりに拍手するのです。西洋演劇の観客はこういった要素を意識していませんから、観客の反応というのは、日本で見られるものとは異なった方法で形成されます。日本の伝統演劇のテクニックだけでなく、どのようにすればよい観客になり得るかを学ぶことによって、舞台と観客との間に流れているものを認識することができる、そう思うのです。まるで運動選手だ、と言っていた学生もいました。まさにハードルを跳んでいるような感覚でしょう。舞台での一つ一つの所作は、ゴールへ向かう次のステップを示す一段一段のハードルのようなものです。私は日本で学んだことのすべてをNIDAで試しました。あえて言えば、NIDAの若い俳優たちはそのことでかなりインスパイアされたのではないかと思っています。実際、彼らに混乱した様子はなく、むしろ集中力を養うのに役立ちました。

現在の私の演出家の見識としては日本演劇、少なくとも様式化された伝統演劇には、二極の側面があるように思います。歌舞伎に見る様式としての誇張、つまり観客を惹きつけるショーマンシップがある。それと同時に、外見に依存せず、内面の激しさや感情、集中力を内側から引き出すものもある。ちょうど今回の訪問でも、そのことを再認識しました。これらの二つの流儀がどうして共存し得るのでしょう。とにかく、非常にうまい。いかに感情を引き出し、それを表現しながら演じるかという、真の意味での演劇的様式──これこそが西洋の俳優たちの芸術性に、多大な洞察を与えるものと私は考えます。

1972年の初来日で体験したことは、現在の私のディレクターとしてのキャリアにおいて非常に重要ですので、もう少しお話しさせてください。当時まだ初期の舞踏、そして、唐十郎の紅テント(状況劇場)から佐藤信らの黒テントまであらゆる前衛演劇を観ました。その後80年代に入ってたびたび来日するうち、新しい戯曲作法というものをかなり意識し始めました。困ったのは、日本の現代戯曲の英訳がほとんどなかったことですが。私たちと同時代の日本の演劇は、作家主導だと思います。唐十郎、寺山修司らのように、日本では多くの劇作家が、戯曲を書き、そして自分のカンパニーで演出もします。オーストラリアでこういうことはありません。事実、西洋演劇にはほとんど例がないでしょう。ポーランドのタデウシュ・カントルかイエジ・グロトフスキーなら、少しは共通点がみられるかもしれませんが。

とにかく、私が日本滞在で発見したのは、日本の演劇はその特徴として、ものすごくバラエティーに富んだものであるということです。ですから日本で生まれる演劇は、アメリカやイギリスのそれよりもはるかにおもしろい、と私は現在にいたるまで思い続けているのです。

ここで私自身のルーツ、つまりオーストラリアの話に戻ります。すべてはクイーンズランドでの幼少期に始まりました。両親はボードビルにいて、私も幼いころから演劇に強い関心を持っていました。NIDAに入る前に学生演劇で演出をしたこともありました。
 
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