The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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ピリエッタ・ムラリ
ピリエッタ・ムラリ(Pirjetta Mulari)
フィンランド・ダンスインフォメーションセンター プロジェクト・マネジャー
国際問題担当
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フィンランド・ダンスインフォメーションセンター
今月の支援団体参照
Finnish Dance Information Centre
http://www.danceinfo.fi/english
Presenter Interview
2006.1.13
Breathing new life into contemporary dance   What is the source of the vitality in Finnish dance today? 
コンテンポラリーダンスに新風 フィンランドの活気の源は? 
後発でありながら未知数の魅力をたたえたフィンランドのコンテンポラリーダンス。照明や映像とのコラボレーション、スタイリッシュでありながらエネルギッシュで骨太な身体の存在感。フィンランド・ダンスインフォメーションセンターのピルエッタ・ムラリ氏にその秘密を聞いた。
(聞き手:立木子)


──この夏(2005年)、フィンランドでクオピオ・ダンス・フェスティバルの全プログラムを拝見しました。北欧諸国のコンテンポラリー・ダンスに焦点をあてた今回のプログラムのなかでも、フィンランドのダンスに勢いがあり、魅了されました。デンマークなどこの地域のほかの国々と比べて、フィンランドのダンスはそれ程長い伝統を持っているわけではありません。にもかかわらず、これだけ勢いがあるのは何か特別の理由でもあるのでしょうか。私の知る限りでは、フィンランドでは、オペラ劇場でバレエが踊られていたものの、芸術としてのバレエもモダンダンスも歴史的にほぼ前後して発展し、多様なスタイルのダンスのエネルギーが同時期していたように思いますが……。
ひとつには、20世紀初めからドイツの表現主義舞踊と深く結びついた女性の[体操]の長い伝統があります。当時、むろん、フィンランドはロシアの支配下におかれ、戦争の影響を被っていました。その後、50年代から60年代にかけて一種の産業化が起こり、すべての芸術が多かれ少なかれ影響を受けました。ただ、フィンランド人にはクラシック音楽の愛好家が多かったので、ダンスは弱小芸術でしかありませんでした。もちろん、この時期、1956年にはフィンランド国立バレエ団が設立されていますし、モダンダンスも発展しています。
現在では、シアター・アカデミーで適切なダンス教育が行われていて、これがダンスの振興に重要な役割を果たしています。ヘルシンキのシアター・アカデミーの舞踊学科では、ダンス実技、振付、舞踊教育に関わる高度の教育が行われていて、すでに20年以上の実績があります。それによりダンスや振付に関する考え方は、大きく進歩しました。90年代初めには、ダンス・シーンが非常に面白くなり、ケネス・クヴェンストローム、ヴィルッピ・パッキネン、アリア・ラーティカイネンら力のある振付家が次々に登場しました。その結果、ダンスへの助成も徐々に増加しています。
それでも、ダンス助成がまだまだ少ないのは事実です。フィンランド人は演劇が好きで、普通は、どの街でも劇団がまず助成を得ます。ただ、いまダンスの人気が高くなってきており、ダンスの学校やフェスティバルが増えてきました。ヘルシンキ・シアター・アカデミーの舞踊学科の存在が、こうした隆盛の大きな要因であろうと、私は考えています。フィンランドの振付家たちは、以前よりずっと知識があり、成長していっています。
もうひとつこのアカデミーについて言えば、映画や照明デザインを手がける専門家が教育されていることが大きい。つまり、もし望むならば、いつでも彼らと一緒に仕事ができる。フィンランドのダンスの特徴を考えていただくと、とても視覚的に豊かなことに気づくと思います。我が国のダンスでは、視覚的な側面がとても発達していますが、その理由は、振付家たちが、映画や照明のアーティストと常に共同作業をする機会が多いからです。

──ドイツや北欧諸国で心身の健康のために盛んに行われるようになった体操が、フィンランドのダンス興隆の素地を築いたというのは、面白いですね。このことは、フィンランドのように厳しい気候風土を持ち、生活のなかで人々が身体を動かすことを日常的に必要とする北国らしい特徴と考えられ、確かデンマークでも体操の伝統がモダンダンスと結びついています。ドイツのモダンダンスから影響を受けた日本のモダンダンスも、体操教育の実践とカリキュラムに組み込まれて発展をした歴史的経緯があるので、ピルエッタさんも興味をもたれるのではないですか。ヘルシンキ・シアター・アカデミーについてですが、設立されたのはいつですか。
アカデミーは1979年に設立されましたが、舞踊学科が開設されたのは1983年です。

──私がフィンランドのダンス状況の変化を観察する機会を得たのは、90年代末になってから。アカデミーの誕生がなければフィンランドのダンスにそのような発展はなかったのですね。
フィンランドでは、演劇や音楽への公的評価と支援が先行してきましたが、舞踊学科は、フィンランドの芸術においてダンスにそれに見合った地位を与える一助となりました。同時に、その頃までばらばらのまま独自に活動していたダンス関係者に、継続的な方向性を与え、また、テクニック的にも、ダンサーたちに正式な訓練を受けて向上する機会を与えることで、重要な貢献をしています。また特に、舞踊学科のカリキュラムが、実践的、公演志向であることにも、注目していただきたいと思います。
教授陣には、舞踊史や舞踊理論の担当にペーター・カイクなどの学者を配する一方で、ダンス・テクニックや振付を教えるクラスでは、マルヨ・クーセラなど第一線で活動してきた舞踊家やヨルマ・ウオッティネン、トンミ・キッティなど現在活躍中の振付家たちが教鞭をとっています。

──フィンランドの現代舞踊史を振り返ると、まずドイツのモダンダンスの影響があり、その後60年代には、アメリカのモダンダンスやポスト・モダンダンスの影響を受けてきたわけですよね。
60年代には、リィタ・ヴァイニオがニューヨークへ行き、帰国して自身のモダンダンス・カンパニーを設立しました。そのカンパニーから、新しい世代のダンサーや振付家が輩出しました。リィタは、まだ仕事を続けていますよ。
それに、レイヨ・ケラがマース・カニングハムの下で訓練を受けたなんて想像できますか。彼は、まるで舞踏ですよ。60年代、70年代の発展について言うなら、1972年に設立されたラーティコ・ダンス・シアターについてふれなければなりません。
初めてラーティコの舞台を見た時、私はとても幼く、地方の小さな町に住んでいました。ラーティコは、そういう地方の都市にも巡業してきました。
ところで、フィンランドのダンスに大きな影響を与えたマルヨ・クーセラも、体操の伝統から育ってきた人です。彼女は素晴らしい体操家でした。かっては、体操の伝統はとても強かった。今では、一般にはエアロビクスが盛んですから、段々弱まってきたとはいえ、いまだに強いと言えます。80年代には、たくさんの観衆を集めたエアロビクスのフェスティバルも開かれていました。そういうふうにフィンランド人はダンスと関わってきました。そのほかでは、社交ダンスがあります。また、民族舞踊の強力な運動があって、今でも民族舞踊は活発です。フィンランド人は、夏が大好きで、健康志向が強いですからね。
90年代の初めには、フィンランド国立バレエ団のテロ・サーリネンがバレエ団を退団して、日本に行きましたが、そういう海外に渡る舞踊家もかなりいます。新しい考えを吸収して帰国し、フィンランドのアーティストと共同作業を行う例が随分ありました。

──ところで、独立運動との関係はいかがでしたか。演劇運動は、1917年の独立へ向けた国民的なアイデンティティ摸索の運動に組み込まれていたようですが、ダンスも同様にこうした時代状況に触発されたのでしょうか。
女性の体操においては、フィンランドの音楽を用いるとか、体操クラブとか、外国に対する政治的な運動と結びついていたかもしれません。しかし、そうした意味では、演劇活動の方によりはっきりとしたインパクトが現れていたと思います。それに、音楽にも運動がありました。芸術がこうした流れにいかに組み込まれていったかには、興味深いものがあります。
20世紀の初めには、我が国の政府は、フィンランドにアイデンティティを与える手段として芸術をとらえていました。たとえば、シベリウスの例に見られるように、芸術家たちにフィンランド的な表現を求める国家的意思がありました。シベリウスは重要です。ご存知のように、彼は『フィンランディア』を作曲しましたが、この曲を“国歌”と信じている人は多いのです。実際は、違いますよ。それに、視覚芸術においても、フィンランドらしい風景を描いたり、国民的伝説である“カレワラ”の絵を描いたり、とても愛国的でした。

──フィンランドの歴史のなかで、ダンスと宗教の関係はいかがですか。ヨーロッパでは、ダンスの表現がキリスト教の宗教的教理における禁欲主義の下で禁止された時代などがありましたが……。
ダンスを禁じて、踊ることを許さない運動があったと理解しています。ちょうど、アルコールと同じように、フィンランドの歴史においてダンスが禁じられた事例がありました。それに対抗して、自由を求める地下活動がありました。

──どのような新しい考えのもとで、芸術としてのダンスが促進されていったのですか。
70年代初頭に開設されたラーティコ・ダンス・シアターは、怒りをあらわにした作品をいくつか創っています。ラーティコは、それによって70年代にダンス・シアターの伝統を創りました。また、80年代のヨルマ・ウオッティネンについてもふれておかなければいけません。彼は、見応えのあるソロ作品をいくつか創っており、視覚芸術とのコラボレーションを含む“開かれたダンス”という分野を切り拓きました。このようにして、90年代、とりわけ2005年までの10年間を振り返ると、コンテンポラリー・ダンスのシーンで活躍する振付家が、ますます増えてきているのです。
 
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