The Japan Foundation
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ジャン・ディーニュ
Profile
ジャン・ディーニュ(Jean Digne)











*1 オール・レ・ミュールは、大道芸とサーカスの普及のための情報拠点として、文化省によって設立された組織である。大道芸とサーカスの上演団体、教育機関、助成制度などに関する情報を集約して関係者に提供するとともに、雑誌を編集・発行したり、大道芸とサーカスの社会的、経済的な構造についての調査・研究を行ったりしている。

*2 サーカスは1970年代には観客の減少を止められず、歴史のあるサーカス団の倒産が相次ぐなど苦境に立たされていたが、1980年代、ジャック・ラング文化大臣の下での国立サーカス芸術センター創設をはじめ、サーカスや大道芸に対する支援は大きく強化され、ヌーヴォー・シルクとも呼ばれる現代サーカスの隆盛に道が開かれた。また、サーカスや大道芸は、それまでの演劇、バレエ、オペラなどの高級芸術が取り逃してきた新たな観客層の開拓にも成功した。1973年にこのようなフェスティバルの企画がなされることには、大きな先見の明があったのだといえる。

*3 現在は組織再編を経て、非営利協会から公共施設法人となり、名称も地方文化公社となっている。地方の文化政策と密接に連動しながら、芸術文化に接する機会を地域的、社会学的に均等化し、観客層を拡大すること、助成、専門的助言、技術支援を通じて芸術文化の創造と普及を後押しすることを目的としている。






















*4 1970年代以降、各地方に創設が進み、今日ではフランス全体で26のDRACが存在し、予算執行権や決定権限は、次第にパリ本省からDRACに移されてきている。ただ、地方の監督下におかれるものの、決して予算や決定権を国から地方自治体に委譲するわけではなく、DRACは文化省(国)の出先機関としての性格が強いため、この動きは地方分権化というよりも地方分散化と呼ばれることも多い。

*5 フランス政府が運営する、アーティストのレジデンス施設で、常時、フランス政府の奨学金を得た、さまざまなジャンルの複数の芸術家が数カ月間滞在している。

*6 「ビアリッツ、映像の大地」という、写真と旅を結びつけた写真の大規模展覧会。
Presenter Interview
2007.8.28
Looking at French policy in culture and the arts through the activities of the front-line administrator, Jean Digne 
実務家として常に第一線をリード ジャン・ディーニュ氏の歩みで辿るフランスの文化政策 
ジャン・ディーニュ氏は、1970年代からエクサン・プロヴァンス市、プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地方、フランス文化省・外務省・国民教育省、AFAA(フランス芸術活動協会、現キュルチュール・フランス)と、ローカル、ナショナル、インターナショナルなレベルにおける要職を歴任。常に実務のトップランナーとして多彩なアイデアと行動力でフランスの文化政策を支え、現在、日本で話題となっている創造都市のオーソリティでもある彼の歩みを振り返る。
(聞き手・構成:藤井慎太郎[早稲田大学准教授] インタビュー:2007年5月21日)


──ディーニュさんは、現在は大学で教鞭を執るほか、モンパルナス美術館館長と、オール・レ・ミュール(*1)理事長を務めていらっしゃいますが、ここに至るまでに、AFAAをはじめ、文化関係のさまざまな組織で働いてこられた、多彩な経験をお持ちです。ご自身の経歴についてもう少し詳しくお聞かせ下さい。
私は南仏のマルセイユで育ちました。今でも、パリに暮らしているときでさえ、ここは経由地でしかない、という気持ちがするくらい、この街には愛着があります。大学教育は南仏のエクサン・プロヴァンス大学で受けました。そこで経済学、建築、文学を学びましたが、ほとんど独学に近い形でしたね。
その後、兵役に代わる文民サービスとして、モロッコの首都ラバトのフランス大使館文化部に勤務しました。そのときの仕事の一つに、モロッコ人のアーティストと一緒に芸術キャバレーを開いたことがあります。モロッコの文化の伝統と人々の情の厚さにふれたことは、私の目を世界に向けて開かせる、大きなきっかけとなりました。
フランスで一般に人々が抱いている、外国のイメージと、それらの国に行ってみたときの現実とのズレは驚くべきものです。芸術交流を通じて、これらの国の固定概念を吹き飛ばしたい、とそのときに強く思いました。旅をして、移動によって視点を変えることの利点、他者の眼差しがもたらす豊かさは、あらためて強調したいと思います。考えてみれば、マルセイユをはじめとする地中海沿岸の都市は交易と文化交流なしには、今日のような発展もありえなかったわけですから。
さらに、フランス政府文化省の公募に応募し、奨学金を得ながら、1年間の文化政策セミナー・プログラムのようなものに参加して、フランス中を回りました。その後、エクサン・プロヴァンスの劇場の芸術監督をやらないかと勧められ、1970から76年までこれを務めました。そして1973年には「エクサン・プロヴァンス、サルティンバンコ(曲芸師)に開かれた街」という、大道芸とサーカスを中心としたフェスティバルを企画しました(*2)。1970年代は五月革命の直後で、政治的にも社会的にも、哲学的にも芸術的にも、まだ不安定な時期で、不安定であるゆえのダイナミズムにもあふれていました。やろうと思えば、何でも可能だったんです。劇場の芸術監督にはなったけれど、私たちは劇場でないところでこそ演劇をやりたかった。広場や、路上や、学校など、それまで演劇がなかったところで演劇をやりたいと思ったのです。
それからユネスコの公募に応募し、アフリカにおける文化専門職養成センターを設立するための専門家として採用され、1976年から78年まで2年間、ブラック・アフリカのトーゴに派遣され、アフリカの専門家たちと仕事をしました。
帰国後、1978年から82年まで、プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地方の地方議長から、独自性を打ち出した地方文化政策づくりに協力を依頼され、地方文化政策を担う地方文化事務所(*3)の責任者となりました。まだフランスの芸術や文化をパリが独占していた時代でしたから、文化の地方分権化の先駆けだったわけです。およそ800の地方自治体の文化政策の形成、とりわけ将来計画づくりに関わりました。前提となるような蓄積もない時代でしたからね。

──すごい経歴ですね。若くしてこのように異なる行政組織を渡り歩きながら、より大きな仕事を手がけていくというのは、若手を抜擢することもあまりなく、転職そのものがまだ相対的に少ない日本にいると、なかなか理解しにくいところがあるのですが。
そうかもしれませんね。でも、まだ、話は終わってませんよ(笑)。
次の転機は、1981年社会党のミッテラン政権が誕生したときで、ジャック・ラング文化大臣の下、中央政府で、文化の地方分権化のために働くことになりました。各地方に派遣された文化省の責任者たちの中央における窓口を務め、地方における文化政策の作成と調整にあたりました。すでに地方文化問題局(DRAC)(*4)は制度としては各地方に存在していましたが、文化財政策が中心で、現代文化に関してはまだ具体的な政策を何も備えていませんでしたから、そこに形を与える必要があったんです。
その後は外務省に移って仕事をしました。1983年から89年にかけては、イタリアのナポリのフランス学院院長を務めながら、フランスとイタリア南部のアーティストとの芸術交流にあたりました。このとき、世界各地のフランスの文化施設の責任者を集めた世界フォーラムを開催しました。アーティストのための国外レジデンス施設の整備がテーマだったのですが、ちょうどそのとき、京都でヴィラ九条山(*5)の整備計画が議論されていたんです。結果として、間接的に一役買うことになったのでしょうかね。
その後、外務副大臣からの依頼を受けて、90年から99年までは、外務省と文化省の管轄下におかれたAFAAのディレクター(事務局長)を務めました。在日フランス大使館の文化担当アタッシェであるブリジット・プルーセル、さらにその前任者のエマニュエル・ドゥ・モンガゾンも、AFAAでともに働いた間柄です。在任中には、日本とヨーロッパの音楽産業の関係強化のために、国際交流基金の招きで、日本にも1か月滞在したことがあるんですよ。在任中にはさらに、アフリカとの文化交流に力を注いだほか、フランス国内で新たな盛り上がりを見せていたサーカスや大道芸を、AFAAとしても積極的に支援するようにしました。
1999年にAFAAのディレクター職を退いた後は、充電期間をとりつつ、スペイン国境近くのビアリッツで写真フェスティバル(*6)の立ち上げに関わったり、パリ第8大学でも教鞭を執り始めたりしました。あなたに会ったのもそのときでしたね。

──まさしく、私が留学先のパリ第8大学でアート・マネージメントを学んでいた際に、ディーニュさんが芸術環境に関する授業を担当されていたのでした。
それから、シラク大統領とジョスパン首相の保革共存内閣で、2000年にジャック・ラングが国民教育大臣に任命された際に、彼の大臣官房に加わることになりました。フランスをはじめ、ヨーロッパで近年数が増えているオルタナティヴ・アート・スペースと文化行政の対応に関する調査研究ミッション(「芸術の新しい領土」)を任されていました。これらのアート・スペースは、歴史的な建築物や、使われなくなった工場や倉庫などの産業施設や、スクワットを現代の芸術文化の創造空間につくり変えたものです。
2004年からは、いくつかのプロジェクトに同時進行的に関わっています。自分の仕事の時間は大きく四等分しています。まずは昔からのフィールドである国際文化交流、次にエコール・ド・パリの絵画を集めたモンパルナス美術館の理事長職、さらにサーカスと大道芸の普及に努める組織オール・レ・ミュールの理事長職、そして大学教育です。文化の仕事を目指す若者たちの専門教育と職業定着は、昔からとても気にかけてきたことなんです。
一つの組織に属さないことで得られる自由がたいへん気に入っています。外務省でフルタイムで働かないかと誘われましたが、断ったんですよ。今回、在日フランス大使館から、日本の都市文化政策を調査してほしいと依頼があったように、外務省とは専門家として助言を求められる都度、プロジェクト・ベースで仕事をしています。最近も、同じようなミッションのためにサンクト・ペテルブルクやマラケシュに行ってきました。いくつかの組織に属していくつものプロジェクトを同時進行で抱えていることで、物事に対する視点も変わってきますしね。
 
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