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Presenter Interview
Interview with Marie-Helene Falcon, Director of TransAmeriques, the leading performing arts festival in Canada's Quebec Province
カナダ・ケベック州の舞台芸術を牽引するフェス トランス・アメリークのM・H・ファルコンに聞く
──以前も今も、アメリーク(amerique フランス語のアメリカ)という言葉がフェスティバルの名称に入っていますが、どちらも複数形になっていますね。南北アメリカという意味に加え、さらに含みを持たせた複数形のアメリカという点を切り口にするというのは、ユニークですね。
 アメリカという単語はよく耳にしますが、必ずしも、アメリカ合衆国を指すだけではありません。実際はもっともっと広義なものだと思っています。もちろん、南米、北米にあるのは、アメリカだけではありませんし。私たちのようにケベックに住んでフランス語を話すアメリカもあれば、英語を話すアメリカもあり、スペイン語やポルトガル語を話すアメリカもあります。
 何よりもまず、私たちは国際フェスティバルです。ケベックで開催するフェスティバルであるので、ケベックのアーティストは大きな位置を占めており、今回は国内全域からマリ・ブラサール、ブノワ・ラシャンブル、ルイーズ・ルキャヴァリエ、ダニエル・デノワイエなどが参加しています。マリアノ・ペンソッティ(アルゼンチン)とエンリケ・ディアス(ブラジル)という、南米の才能のある演出家もフェスティバルにとって重要な位置を占めています。常に活発なプログラムであるヨーロッパからは、ベルギーのミシェル・ノワレとガリン・ストエフ、ドイツからライムント・ホーゲ、さらにルーマニアとトルコのアーティストを招聘しています。
 ケベックのアーティストについては、今年のブノワ・ラシャンブルにしてもマリ・シュイナールにしても、昨年のロベール・ルパージュやドゥニ・マルローにしても、今ではヨーロッパとケベックのどちらでより活動しているといえばいいのか難しい、といった重要な事実がありますからね。
 日本のアーティストも、今度、ぜひ近い将来招聘したいと思っています。今年3月に東京芸術見本市と東京国際芸術祭に参加するために久しぶりに東京を訪ねて、あらためてそう思いました。

──あなたのフェスティバルでは、アヴィニヨン演劇祭のように、「オフ」のフリンジ企画がおもしろいですね。でも、アヴィニヨンと違い、ダニエル・ダニス、オ・ヴェルティゴ、ジョゼ・ナヴァス、デイヴ・サン=ピエールと、「オフ」とはいっても相当に有名なアーティストがそろっていて、小さくてもおもしろい作品を多く見られてよかったです。
 このフェスティバルには、モントリオールの外からも、フェスティバルや劇場で働くプロフェッショナルが相当数、参加しています。現在の数以上のアーティストを正式プログラムに入れられないのは残念なのですが。オフは今のところ恵まれていて、現在も他の国から招聘されたり、上演につながる出会いが生まれているようですので喜ばしいことです。これは、みんなの利益になることですからよい傾向だと思います。

──アメリーク演劇祭のディレクターになるまでの、マリ=エレーヌさんの経歴についても話していただけますか?
 はじめはケベック州立大学モントリオール校で、哲学と演劇を勉強しました。その後、学生演劇祭、後には女性演劇祭の運営に関わったり、ケベック若手演劇協会(AQJT)に参加したりしていました。ケベック若手演劇協会には、社会的な活動をする若手の劇団が多く集まり、そのなかの多くにカナダからのケベック分離独立を強く主張する演劇人たちもいて、かなり政治的な演劇をしていました。そういう時代だったんです。1960年代から、「静かな革命」と呼ばれる社会の一大改革が起きて、フランス語を話すケベック社会の独自性に対する意識が非常に高まった時期でした。また、自分たちの芸術と社会はこれからつくっていくものだという意識がありましたから、過去にとらわれず、他人の評価を気にせず、いろいろな実験を繰り広げることができた、幸せな時期でもありました。
 話はややそれますが、1976年に分離独立派のケベック州議会党が政権につき、1980年にケベックの独立に向けた交渉開始の是非を問う住民投票がおこなわれました。その結果、独立反対が多数となって、多くの芸術家たちは大きく落胆したわけですが、彼らのエネルギーがそのとき芸術的想像力に昇華していったのだといえるかもしれません。

──なるほど、1980年代以降のケベックのアーティストの世界的な成功の陰には、そのような政治的な背景もあるわけですね。その1980年代前半から半ばにかけては、モントリオールのアメリーク演劇祭とヌーヴェル・ダンス・フェスティバル、ケベック・シティのカルフール演劇祭(当初はラ・キャンゼーヌと呼ばれていた)がほぼ同時期に相次いで創設されました。舞台芸術見本市のCINARSの創設も同時期でしたね。ヨーロッパのほうでも、リモージュのフランス語圏演劇祭がやはり同じ頃に創設されて、ロベール・ルパージュの作品を本格的に紹介するなど、ケベックと海外をつなぐ回路が急速にでき上がっていった時期でした。
 移民社会であるにもかかわらず。ケベック社会は伝統的にはずっと内向きだったといえます。1967年のモントリオール万博、1976年のモントリオール五輪は、ケベック社会に外の世界とのつながりを感じさせる大きな契機でしたが、それでも世界との日常的な接点はほとんど存在しないといってよい状態でした。「静かな革命」が起こって、ケベック人の意識が変わって、徐々に外に向けて世界が開かれていったわけです。
 今ではケベックのアーティストは世界の至るところで仕事をしています。フェスティバルは、ケベックを外に向かって開き、文化の国際交流の基礎をつくる上で、とても大きな役割を演じたと思います。ケベックの観客にとっても芸術家にとっても、これまで見たことがなかったような作品を目にする機会になったわけですし、国外に目を向けようとしていた芸術家を後押しして、外国のプロデューサーや芸術家と引き会わせ、国境を越えたネットワークを築く上で、大きな結節点になったと思います。
 
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