The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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フィリップ・バイザー
Photo: Kyoko Yoshida
フィリップ・バイザー氏
(Philip Bither)

ウォーカー・アート・センター
シニア・キュレーター


ウォーカー・アート・センター
http://www.walkerart.org/index.wac
ウォーカー・アート・センター
Photo: Gene Pittman
ウォーカー・アート・センター
Photo: Gene Pittman

ウォーカー・アート・センターは、17エーカー(6万9,000m²)の敷地内に、センター・ビルディングと彫刻庭園(11エーカー)を併せもつ。増改築され、2005年にオープンした現在のセンタービルディングはそれ以前の2倍の規模で、従来のギャラリースペースとオーディトリアムに加え、385席のマクグワイヤー・シアター、レストラン、新たなギャラリー・スペース、映写室等が施設に加わった。

ウォーカー・アート・センター
ヘルツォーク&ド・ムーロンの拡張工事によるシアタータワー(左)と、バーンズビル(ギャラリー・タワー、右)。グランドオープン数カ月前の2005年2月。
Photo: Gene Pittman


*1 パーマネント・コレクションには、マシュー・バーニー、ロイ・リヒテンシュタイン、ヨーコ・オノ、ナム・ジュン・パイク、アンディー・ウォホール等の作品がある。舞台芸術部は、マース・カニングハム、オーネット・コールマン、ウースター・グループ、ロバート・ウィルソン、ビル・ティー・ジョーンズ、メレデス・モンク、マボウ・マインズ、トリシャ・ブラウン他のアーティストの作品を委嘱制作(コミッション)してきた。

*2 ミネソタの州都であるセントポール市と、州最大の市であるミネアポリスを総称するニックネーム。

*3 ウォーカー・アート・センターは、トーマス・バーロウ・ウォーカー(Thomas Barlow Walker, 1840─1928)によって1879年に始められ、1927年に中西部北部一帯で最初のパブリック・アート・ギャラリーとして現在のウォーカーの建物のある地に正式に設立された。

*4 The Works Progress Administration.
大恐慌時代の米国のニューディール政策最大の連邦機関。特に米国の田舎や西部山岳地域を中心に何百万もの人々に職を与えた。フランクリン・ルーズベルト大統領勅令によって創設され、1935年4月8日に国会で可決された。以後、1943年までに約800万の雇用を調達。そのプログラムの下、多くの公共施設や道路が建設、整備され、大掛かりな美術、演劇、文学プロジェクトが行われた。現在も、全米各地にWPAによってつくられた公園、橋、学校、などが見られる。

*5 ウォーカーのプログラムに関するアドバイザー/サポートグループ。ウォーカーのスタッフがミーティング等をコーディネートした。

*6 1963年、タイロン・ガスリーによりミネソタ州ミネアポリス市に設立された全米初のリージョナル・シアターで、近年まで劇場付きの劇団(レジデント・シアター)制で運営されていた。

*7 2006年に移転して再オープンするまで、ガスリー・シアターはウォーカーと同じビルの中にあった。

*8 8年ほどの周期で編集するウォーカーのパーマネント・コレクションのカタログ。“BITS & PIECES PUT TOGETHER TO PRESENT A SEMBLANCE OF A WHOLE”というタイトルで、ウォーカーのギフトショップで販売もされている。
Presenter Interview
2008.12.24
The Minneapolis-based Walker Art Center, an international hub for cutting-edge performing arts 
国際的な前衛舞台芸術の拠点のひとつ 米ミネアポリスのウォーカー・アート・センター 
長い歴史をもつ米国ミネソタ州ミネアポリス市のウォーカー・アート・センターは全米屈指の総合アートセンター。東京ドームの1.5倍の敷地に美術館、劇場、彫刻庭園等を備え、近現代美術、舞台芸術、映像、デザイン、ニューメディアなど幅広いジャンルの事業を展開している。1960年代から時代をリードする舞台芸術のアーティスト支援を続け、レジデンシーや新作委嘱を行ってきた舞台芸術部門について、シニアキュレーターのフィリップ・バイザーに聞いた。
(聞き手:吉田恭子[日米カルチュラル・トレード・ネットワーク・ディレクター] 2008年11月10日)


──ウォーカー・アート・センター(以下ウォーカー)は、全米五指の一つに数えられる総合アートセンターです。特にその舞台芸術プログラムは近現代美術のコレクションや展示とともに国際的に知られています(*1)。まず、センターの歴史と今日に至るまでどのようなビジョンに基づいて発展してきたのかを聞かせてください。最初はアート・ギャラリーとして始まったとのことですが。
 ウォーカー・アート・センターは、工業化の進むツイン・シティーズ(*2)の名士であったT.B.ウォーカー氏のアートコレクションのギャラリーとして始まりました(*3)。ウォーカー氏は木材業を営んでいましたが、アートに非常に興味をもっていて、世界中を旅し、古今東西の民芸品から伝統的な絵画まで珍しいアートを収集していて、それを一般に公開したいと思ったのです。最初のウォーカー・アート・センターは彼の自宅の中にありました。ちなみに、ウォーカー氏の自宅のあった土地には、現在、2005年に増築されたギャラリー・スペースが建っています。
 ウォーカーが、現代アートにフォーカスするようになったのは1940年代に入ってからです。大恐慌に対処するためにルーズベルト大統領が設立したWPA(*4)のプロジェクトの一環で、ウォーカーは、アーティストに仕事を与えるとともに、広く一般の人々とアートを結び付ける役割を担うことになります。WPAのプログラムのおかげで、ウォーカーはエリートのための美術館ではなく、中西部の一般の人々と芸術を結び付けるための“場”となる大切な基盤が築かれました。現在のウォーカーの教育やアウトリーチ・プログラム、現代アートを広く一般の人々と結び付ける姿勢の基礎は、この時代にまで遡るものだと思います。
 1940年代と50年代を通して、ウォーカーは基本的にはコレクションを一般公開するための美術館でしたが、50年代に、センター・アーツ・カウンシル(以下CAC)(*5)というボランティアの委員会が設立され、ダンス、ジャズ、レクチャー、映画など、数々のプログラムを提案し、制作をサポートするようになります。この段階ではまだ、パフォーミングアーツを含むこれらの演目は、ウォーカーの正式なプログラムとして行われたわけではありませんが、それでもウォーカーの旗印の下で上演されるようになり、素晴らしいアーティストが招かれ、時代のリーダーたちの講演なども行われました。それが徐々に正式なプログラムとして行われるようになっていきます。
 60年代に入り、ウォーカーはガスリー・シアターでのイベントの担当スタッフとしてジョン・ルドウィグを雇用し、彼がCACの正式な初代コーディネーターを務めました。その後、スザンヌ・ウェイルという女性が雇用され、彼女の下で特に舞台芸術プログラムは大きく発展します。ウェイル氏を起用し、彼女にできる限り実験的でエキサイティングなプログラムを企画するよう奨励したのは60年代初頭からウォーカーのディレクターを務めたマーティン・フリードマン氏で、ウォーカーの転機となった人物です。ジャンルを超えてさまざまなアートを企画することをモットーとしたフリードマン氏の下で、ウォーカーは国際的に知られる存在になっていきます。ウェイル氏はフリードマン氏の期待に応え、ガスリー・シアター(*6)で当時最も人気のあったロックバンドのコンサートを幾度も行いました。ガスリー・シアターも、元々ウォーカーがその誕生に大きく関わっています。ウォーカーのボードメンバーがタイロン・ガスリーにアプローチし、初期資金を提供し、ウォーカーの所有地(*7)に劇場を誘致したのです。それで、ガスリーが劇場を使用していない時はウォーカーが舞台芸術の企画で使用することができました。
 60年代を通して、ザ・フー、レッド・ツェッペリンやフランク・ザッパをはじめとするロックバンドや、多くのフォークシンガーのコンサートが上演されました。当時、ロック系のミュージック業界は今と比べてはるかに未発達で、フリードマン氏もウェイル氏も、1960年代は、ロックンロールの音楽にこそ時代のエネルギーが集中しているのを感じたのだと思います。彼らは、60年代の音楽とロックをつくっていた実験好きでオープン・マインドな世代を、ビジュアルアーツ界の革新的な流れに結び付けたかったのでしょう。
 ポップミュージック以外では、チャールズ・ミンガス、マイルス・デイビス、オーネット・コールマンらジャズ界の大御所たち、フィリップ・グラスや、スティーヴ・ライヒをはじめとした現代音楽の草分けのアーティストのコンサートを企画しました。ダンスでは、マース・カニングハムやトリシャ・ブラウンらのレジデンシー・プロジェクトを行ったり、演劇ではマボウ・マインズ、リチャード・フォアマン、ロバート・ウィルソンらを呼んだり、新作の委嘱制作(コミッション)を行ったりしました。
 このようなプログラムが70年代から80年代を通して展開しましたが、パフォーミングアーツにとって組織的に重要なのは、1970年に、舞台芸術部門が正式に発足したことでした。それまでは、コンサートや公演はビジュアル・アーツ・センターの補足的プログラムと見られてきましたが、これを転機に正式な部門となり、ウォーカーは本格的に総合(マルチ)アーツ・センターとして発展していくことになります。
 70年代から80年代の舞台芸術プログラムは、ウォーカーの建物の外で行われることがほとんどでした。2005年の改装前のウォーカーには、劇場施設がなかったので、ウェイル氏や彼女に続く舞台芸術部のディレクターたちは、ツイン・シティーズの他の劇場と提携したり、街中のスペースを利用したり、アーティストたちに頻繁にサイト・スペシフィックな作品を奨励したりしました。ウォーカーの舞台芸術プログラムが国際的に知られるようになったのは、この頃から国際的に活躍していたアーティストたちが、ウォーカーのレジデンシーやコミッションで作品をつくった後、海外で活動する時に、その経験を業界に広めてくれたからです。60年代からウォーカーでは革新的な海外アーティストとその作品に対して広く門戸を開けていましたが、それでも、主に焦点を当てていたのはやはり米国内のアーティストたちでした。

──ウォーカーが舞台芸術のプログラムを始めたのは、難解と思われがちな現代美術だけでは人々を惹き付けるのが難しかったからですか?
 観客開拓のための戦略として始めたというより、理念的に、現代芸術の表現の多様性を認識してのことだと思います。「重要な芸術表現をしているアーティストたちがたまたま、美術ではなく音や動きを使った表現をしているのだから、彼らも、彫刻家や画家と同様に、ウォーカーが支援するべきだ」という認識です。もちろん、結果としてはウォーカーを訪れる人が増えたので、それは素晴らしいことですが、出発点は現代芸術表現はギャラリースペースに納まりきらない多様なものだという理念です。
 また、背景として、60年代から70年代を通して米国では、現代舞台芸術家の活躍の場所が非常に限られていたことがあります。当時から著名なアーティストであったジョン・ケージやマース・カニングハムやフィリップ・グラスでさえ、例えば、ニューヨークでも、公演や演奏をする場所があまりなかった。ロングランを行うようないわゆる普通の劇場施設は、マーサ・グラハムやアルビン・エイリーの公演は上演したかもしれませんが、まだ“アバンギャルド”に対して門戸を開いていなかった。そこで、実験的作品をつくるアーティストたちはギャラリーやアーツセンターに活躍の場所を見出す必要があったのです。実際、当時の最も興味深いアート作品は、例えばニューヨークのソーホーのギャラリー・スペース、ロフトや倉庫のスペースで演じられていました。そのような状況下、革新的なアーティストの後ろ盾としてウォーカーのような大規模な組織の名前があることにはとても意味があったのです。中には社会的良識を揺るがすような挑発的なアート作品もあったので、大きな組織の太鼓判があると、容認されやすくなり、例えば米国内のツアーが行いやすくなったりしました。
 2005年にウォーカーはセンタービルを増改築して新規オープンしましたが、その時に編集した総合カタログ(*8)で、美術作品に加えて初めて舞台芸術を含む他ジャンルの作品と、そのジャンルの歴史を掲載しました。これで、パフォーミングアーツが正式にウォーカーという組織の歴史に刻まれることになり、とても誇りに思っています。
 
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