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コンスタンティン・キリアック
コンスタンティン・キリアック氏
(Constantin Chiriac)

シビウ国際演劇祭 ディレクター

シビウ国際演劇祭
http://www.sibfest.ro/
シビウ国際演劇祭

→「プレゼンタートピックス」参照
Presenter Interview
2009.3.31
Striving for regional development, Romania's Sibiu International Theatre Festival gathers participants from 70 countries  
70カ国が集合、地域の発展を目指す ルーマニアのシビウ国際演劇祭 
トランシルヴァニア地方の都市、ルーマニアの中央に位置するシビウ県シビウ市。中世の町並みが残る人口約17万人の地方都市でシビウ国際演劇祭がスタートしたのは1993年のこと。今では、世界から70カ国の舞台芸術が参加し、街中で公演が行われるなど、エディンバラ、アヴィニオンに次ぐ規模に成長。2007年にはその実績によりシビウが欧州文化首都に指定されるなど、地域の発展に大きく貢献してきた。1989年のルーマニア革命で炎上した劇場の復興に尽力し、フェスティバルを立ち上げ、シビウを文化都市として再生させてきた立役者のコンスタンティン・キリアック氏に聞いた。
(聞き手:扇田昭彦/通訳・構成:志賀重仁)


──シビウ国際演劇祭は、1993年から始まって、今のヨーロッパの演劇祭としては、エディンバラ、アヴィニオンに次いで3番目の大きさだと言われています。2年前に私も実際に観まして、非常にスケールが大きいこと、それと非常にユニークなフェスティバルだととても感動しました。この演劇祭はキリアックさんが中心になって立ち上げられたわけですが、その経緯から紹介していただけますか?
 ちょっと長くなりますが、フェスティバルがどのように始まったかの前段からお話させていただければと思います。
 私は基本的に役者なのですが、共産主義、チャウシェスク時代に私たちは国外へ旅をする可能性を奪われており、パスポートも与えられていませんでした。そしてテレビ・ラジオについても、放送時間が大変短く、ほとんどの時間帯で公式訪問などチャウシェスクの動静の宣伝だけが行われていたのが実態でした。
 同時にチャウシェスクは、文化関係者を大変憎んでいました。彼が進めようとしていたのは、「ルーマニアの歌声」という全国規模の大文化祭典で、彼の個人崇拝を推進するような内容だけが奨励されるものでした。このアイデアが生まれたきっかけは、大変親しくしていた北朝鮮の金日成を訪問した時です。これが大きな理由で、演劇の活動に対しても検閲が大変厳しく行われていました。
 そして、プロの演劇人たちに対しては、最低限の食べるお金は出しても、いわゆる舞台をつくる費用などの援助はほとんどなかったため、財政的に非常に苦しい立場に置かれていました。自分たちのチケット収入で演劇活動をしていくことを強いられていたわけです。それが理由で、年にだいたい400本ぐらいのステージをこなさないとプロの役者は生きていけないという状態に置かれていました。1日に1本やっているような状態です。大変厳しい時代でした。
 一方で、演劇というのは自由の空間でもありました。どういう意味かと言いますと、例えばシェイクスピアの『リチャード三世』をやったとすると、観客は我々のやる『リチャード三世』を見て、これはチャウシェスクのことを言っているのだとみんな判るわけです。ですから、演劇の言葉を通じて、ある意味で第二の自由な言語の世界が築かれていたと言えます。その意味で私たちは、独裁に反対する活動で大きな責任を負っていたとも言えます。ですから、演劇人は、国民、大衆から大変尊敬されていました。
 同時に、これは非常に皮肉なことなのですが、誰も国外に自由に出て行けないということで、私たちは多くの勉強する時間ができたのです。一生懸命本を読み、そして多くの人が外国語を勉強しました。それが理由で、私たちの観客の文化的レベルが非常に高まったということができます。ですから、独裁には非常に悪い側面もたくさんあったのですが、それに反して良い面も、逆説的ですが進行していたところがありました。
 私のような役者、あるいは他の演劇人たちは、先程言ったように多くの舞台をこなさなければならなかったので、自分を心身ともに鍛えなければ生き残っていけなかった。つまり、この時代は、演劇の基礎、役者としての基礎を徹底して鍛えられた時代でもあったのです。
 そして1989年の革命が起こり、シビウの劇場は炎上しました。歴史的に4度目の炎上でした。1788年に創設された中部・東欧圏でも一番古い劇場のひとつがシビウにあることからもわかるように、シビウは大変古い時代から演劇活動が盛んな街でした。劇場には、バラの木で飾られたバルコニー席があり、ドイツ語の演劇誌も発行していました。
 チャウシェスク政権の崩壊直後、私たちは、ドイツの演劇人たちにシビウの劇場の再建に力を貸してほしいという内容のアピールを出しました。その反響は大変なもので、私はすぐにベルリンに招待されました。招待されて行った劇場の壁一面には、観客に見せるために私の送った手紙が拡大して張ってありました。こうしてシビウの劇場との連帯が組織されていったのです。ドイツのテレビ局でも放映されましたし、当時のコール首相の官邸にも招かれて話し合いをもちました。これがある意味で世界に向けての第一歩、私の外国への第一歩だったのです。
 私は共産主義時代には、一人芝居のショー活動を集中してやっていました。個人的には、英語、フランス語を話せますので、崩壊後、特にラテン語圏で一人芝居を持って回る機会が開けていきました。1993年、ベルギーのアントワープが欧州文化首都に指定されまして、ここに招待されました。同じ年、ユーゴの内戦が勃発し、アントワープでの行事の最中に、サラエボのフェスティバル・ディレクターから電話が入りました。セルビアによる爆撃が始まった、ぜひ支援をしてくれというアピールでした。アントワープに集まっていた芸術家たちは、即座に反応し、イニシアティブ委員会なるものを組織して、1カ月間だけですがサラエボをもう1つの欧州文化首都に指名することにしました。EU・ジャパンフェストの事務所に行くと、その時の、私たちがイニシアティブを取ったサラエボ欧州文化首都のポスターが残っています。この時に私は、自分たちでもフェスティバルをやろうと決意しました。そして同時にシビウをいつか欧州文化首都にしようという考えをもちました。
 そして1993年に初めてフェスティバルを組織したのですが、第1回は「学生」という限定がついた学生演劇フェスティバルでした。当時の私は、フェスティバルの組織というものがどれほど大変なものなのか全く知識がなかったので、とにかく闇雲に始めたのです。情熱だけはありましたが、それ以外は何もない(笑)。情熱と自分の回りにいた友人たちだけが財産でした。
 
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