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Presenter Interview
Striving for regional development, Romania's Sibiu International Theatre Festival gathers participants from 70 countries
70カ国が集合、地域の発展を目指す ルーマニアのシビウ国際演劇祭
──それまで、ルーマニアに演劇フェスティバルはなかったのですか?
 文化省が音頭を取って行っていた演劇フェスティバルと、あとは幾つかの劇場が一緒になってやっていたフェスティバルの2つがありました。しかし劇場といっても共産主義時代はすべて国立劇場ですので、基本的には国が組織に入ってやっていたものです。いずれにしても、国内のみの演劇祭で、国際演劇祭ではありませんでした。
 私が組織したフェスティバルの方は、第1回には3カ国から8公演が参加しました。それから、1994年に第2回を開催しました。学生時代に日本の友人(通訳をしている志賀ら)との出会いがあり、演劇祭を始めた時から、ぜひ日本には参加してほしいと思っていたのですが、2回目に1団体が参加し、その後は2つ、3つと増えていきました。
 フェスティバルの参加国は、掛け算式に増えて行きました。第2回は12カ国から28公演、第3回は15カ国35公演が参加し、4回目からは、有名な劇団あるいは演出家の作品は特別な部門でやってもらいながら、演劇学校の学生たちの部門、それからダンスシアター部門などと分野を拡げていきました。
 最初の3回は、3月27日が世界演劇デーなので、それに合わせて3月末に数日間の会期で行っていました。4回目には、25カ国から80公演が参加するまでになり、会期も5月末から6月上旬に変更しました。同時に、大道芸と言いますか、オープンスペースの部門も始めました。また、フェスティバルにテーマを設けることにし、ヨーロッパの演劇祭ネットワークの一員として活動することも決意しました。
 当時、ヨーロッパあるいは世界では、フェスティバルについての否定的な経験が蓄積されていました。具体的に言いますと、政権が変わると演劇祭もその政治的な影響を大きく受けてしまうということです。それで、私たちはフェスティバルが誰からも干渉されないようにフェスティバルの著作権とでも言いますか、そういう権利を取得できないかと考え、特許庁に「シビウ国際演劇祭・キリアック」と登録しました。同時に、フェスティバルを財政的に支える基金を創設しました。この基金の名称は、「文化を通じての民主主義」といいます。これによってフェスティバルは政治的な圧力から守られています。
 それから、シビウ大学の中に演劇科をつくろうということも1997年に決めました。これは自慢になりますが、ルーマニアで唯一、シビウの演劇科卒業生は就職率100パーセントを保持しています。このことは学校のレベルの高さ、教育水準の高さを示していると言えます。要するに、卒業すればみんな演劇人になれるということです。
 フェスティバルは、スペース的にもどんどん広がり、市内のさまざまな場所に会場を設けるようになりました。特にシビウ市のもっている歴史的な遺跡や場所を会場にできるよう働きかけていきました。1998年からは、ルーマニアおよび中部・東欧で初めての演劇見本市をシビウの演劇祭の期間中に開催することになりました。
 2000年には、大学の中にルーマニアでも唯一の「演劇のマネジメント学科」を創設しました。さらに2007年にシビウに欧州文化首都を招致するためのイニシアティブ委員会も組織しました。2001年からはシビウの演劇祭に著名な演出家を招待して作品を創ることを始めました。アンドリー・ゾルダック(Andry Zholdak)、シルヴィウ・プルカレーテ(Silviu Purcarete)らを招きました。この時期は、フェスティバルの質的向上、量的拡大が図られた時期に当たります。シビウの演劇祭もこの頃になると、かなり知られるようになり、参加希望者もさらに増えていきました。
 2002年には、アンドリー・ゾルダックが演出した『白痴』で、私がディレクターを務めるラドゥ・スタンカ劇場として初めて日本公演を行いました。2004年には、これまでの活動が高く評価されてラドゥ・スタンカ劇場が国立劇場の指定を受けました。また、その年に私がEU委員会に招待され、この委員会の席で2007年にシビウを欧州文化首都に、という私たちの立場を発言させてもらいました。それまで欧州文化首都はEU加盟国が指定されていたので、ルーマニアがまだEUに加盟していなかった段階でシビウに招致したいと申し入れるのはとても難しいことでした。ご存知の通りルーマニアがEUに正式加盟したのは2007年1月1日です。しかし、私たちの提案が非常に良い内容であったことと、私たちのフェスティバルの質の高さへの評価によって、EU委員会も我々の提案を受け、積極的に検討していただき、2007年にシビウが欧州文化首都に指定されることが決まりました。

──この間、俳優としての活動はどうされていたのですか?
 ラドゥ・スタンカ劇場の俳優としての活動を行いながら、平行してフェスティバルも組織していました。2000年にラドゥ・スタンカの主要ポストが公募制になったのに伴い、私がディレクターに選出されたので、それからは、役者だけでなく、ディレクターも務めています。また、2005年からはシビウ大学の演劇科の教授もやっていて、その他の大学でも教えています。

──私も拝見しましたが、シビウが欧州文化首都に指定された2007年のプログラムについて紹介してください。
 2007年の欧州文化都市のプログラムでは、日本との関係がひとつの特別な構成要素となりました。2006年から欧州文化都市の準備委員会を発足させ、EU・ジャパンフェストの委員会とも関係を築き、このプログラムを共同で推進しようという約束をしました。
 2007年に日本から参加したのは9団体で、レニ・バッソ、Co.山田うん、劇団地点、劇団新宿梁山泊、中馬芳子、萬狂言、マイムシアター、廣田丈自、そして2年連続での参加となる音楽グループのZIPANGです。それから他にはないユニークなプログラムとして、欧州文化首都のボランティアを組織しました。ボランティアは400人に及び、その内日本からの参加者は65人に上りました。ボランティアと私たちの劇団のメンバーが協力してカフカ『掟の門』の公演とダンスパフォーマンスの2つのプロジェクトも行いました。ボランティアグループの活動は、大変高い評価を受けたので、その後も演劇祭の中で継続しています。
 2008年のフェスティバルでは、4年半ほどの粘り強い交渉の成果として、中村勘三郎の平成中村座をシビウに呼ぶこともできました。説得するまでには大変な時間と努力が必要でした。最終的には「文化」のためにお互いに協力しようという一点で合意しました。事前にシビウに来ていただいた時に、串田和美さん、勘三郎さんに工場の廃屋で行った私たちの『ファウスト』を見ていただきました。この舞台には150人が出演しています。廃屋は共産主義時代の大きな工場だったもので、総延長が87メートル、横幅が40メートルあります。天井のクレーンなど当時の設備がそのまま残っており、これも装置として利用しました。お二人はこの舞台を見て、この工場でやらせてくれるなら演劇祭に参加しようと言ってくださいました。私もその場でOKしたのですが、工場が取り壊されることになり、急遽1カ月半で別の工場を改装して対応しました。
 初日には550席の客席が満席になったほか、100人を超える立ち見客が入り、外にも200人が並ぶほどで、その後も中に入れない観客が日々増えていくといった状態が続きました。勘三郎さん、串田さんとは、今後も協力関係を続けていこうという話し合いができています。
 
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