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Performing Arts Network Japan
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Presenter Interview
Art bringing hope to Echigo-Tsumari  The ongoing journey of Fram Kitagawa
アートで越後妻有に希望を 北川フラムの大いなる旅
──日本では2004年をピークにして総人口が減少に転じ、都市部では人口が増加し、地域の過疎化は益々加速すると懸念されています。これからの地域の新しいあり方について越後妻有などの取り組みを通じて見えてきことがありますか。
 おじいちゃん、おばあちゃんが棚田をつくり続けられるよう、それを応援する仕組みとして棚田オーナー制度や越後妻有を支えてくれるファンクラブを立ち上げましたが、両方合わせて約550人が会員になっている。越後妻有を支えるには、人的にも経済的にも都市の応援団が不可欠ですが、驚いたのは、それ以上に都市の人の方が自分の関われる場所を必要としていて探しているということです。企業はそこに着目して、例えばJTBなどは都市の人に対してそういう地域を斡旋するビジネスができないか考えている。今回の越後妻有にも全面協力してくれていて、宣伝やツアーの企画をしてくれています。
 東京では最低30万円の生活費が必要なのに、越後妻有なら10万円で暮らせるとしたらそのほうがずっと豊かなんじゃないか、そういう意識をもった人が増えてきたということです。本当にすごい地殻変動が起きているんだと思います。普通は子どもがいないとコミュニティに入るきっかけがない。越後妻有では、アートに関わっていることでコミュニティに入れるわけで、決定的な違いです。アートが越後妻有に入る手形のようになっているんです。

ガウディから学んだ地域への思い

──北川さんは地域でアートプロジェクトを展開する場合、ものすごくその地域を調査されますし、そのためのアートプロジェクトを必ず展開されています。例えば、空家プロジェクトの前には建築のエキスパートによる民家調査が行われていますし、この地域を流れている信濃川のもとの流れなどを調査して大地にトレースする磯辺行久さんのプロジェクトもありました。
 調査というか、僕自身は隅々まで見て歩きます。越後妻有も第1回のときには1カ月で1万2000キロくらい車で走り回りました。でもそれが啓蒙的なことになると、面白くはならないです。
 
──北川さんと地域の関わりは、越後妻有から始まったわけではありません。それは新潟出身であるとか、学生運動時代の経験とか、生い立ちにまで遡るものだと思います。アートディレクターとしてだけみても、全国11カ所を巡回して日本に初めて本格的にガウディを紹介した「ガウディ展」(1978年)、全国の小・中学校を中心に巡回した「子どものための版画展」(1980年)、全国194カ所を巡回した「アパルトヘイト否!国際美術展」(1988年)など、当初から地域での実践をともなった企画をプロデュースされてきました。
 僕の出発点は、今よりもっと狭いところにあって、簡単に言えば、どうして日本の美術は面白くないんだろうということです。限られた人たちだけのものになっていて、市民社会に全く支持されていない。それなら、表現者になるのではなく、裏方として色々なことに関わろうと考えて今までやってきました。そういう美術の問題を明らかにできる場所というのが、具体的な人間関係がある「地域」だろうと思った。今でもそうですが、何かでオーソライズされる文化ではなく、1枚、1枚チケットを売っていく中で生まれる文化しか信じていない。地域の文化というのはそういうものだと思うし、その中でしか物事は見えてこないと思います。
 地域の文化を考えるうえで一番勉強になったのは、「ガウディ」です。バルセロナには当たり前のようにガウディがつくったものがあり、ものすごく地域の風物とマッチしている。あまり設計図が残されていないのも当然で、彼がものをつくるプロセスは、職人たちとやり合いながら、200分の1、50分の1、20分の1と模型をつくり、そして最後の1分の1が作品になるというものです。なので、僕にとってのガウディというのは、「ガウディたち」の世界であって、そこで生まれてくるものの面白さというのが原体験としてある。
 ガウディは20代の時にパリ万博のスペイン代表になります。スペインのエースだったわけです。当時は、産業革命で勃興した織物業者とカタロニアの教会という2つのスポンサーに支えられていたのですが、この2つが脆かった。サビエル・グエルを含めて織物業者たちとは初期社会主義の夢として一種のユートピアをつくろうとしました。だけど最初の恐慌で破綻する。そして、カタロニアの教会がマドリッドの中央政府に押さえられてすべては頓挫した。その時、唯一ガウディに残されていたのが、サグラダ・ファミリアだったわけです。
 サグラダ・ファミリアの建物の面白さは、壊れた物などをもってきてやったところにあります。今は違いますが、ガウディが生きていた当時は、この石にこの石は合う、みたいなつくり方をしていた。それが無骨なマチエールをつくり出した。そういうガウディの根っこになっていたのが、彼が若い頃に所属していた合唱協会とカタロニア探訪協会です。合唱協会はスペイン政府から禁じられていたカタロニア語で歌うアンダーグラウンドな組織です。探訪協会は、日本で例えると藤森照信さんらが結成した路上観察学会のようなところです。僕は、そうした根っこがあったからガウディは近代に向かわない可能性を見い出せたのだと思っています。
 つまり、「ガウディとは何か」を一生懸命勉強したことが大きく影響して、地域からしか物事は見えてこないという僕の信念になっている。地域のほかにリアリティはなくて、あとはファッションでしかないというとらえ方をしてしまう。だから、地域でやれることを探して、その地域でやっていくことが、たとえ小さくても確かなことに繋がると思っています。
 
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