The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
Contents
Presenter Interview
Another aspect of Japanese theater communicated through posters
ポスターが伝えるもうひとつの日本演劇
土方巽『バラ色ダンス』
(1965年/デザイン:横尾忠則)
バラ色ダンス
演劇センター68/71
『恋々加留多鼡小僧次郎吉』

(1971年/デザイン:平野甲賀)
恋々加留多鼡小僧次郎吉
演劇実験室◎天井棧敷
30時間市街劇『ノック』上演地図

東京都杉並区阿佐ヶ谷を舞台に行われた市街劇。各所で同時多発的に演劇が行われ、観客はこの地図をたよりに会場を巡った
(1975年/作製:榎本了壱)
ノック
アングラ演劇のポスターは若いデザイナーたちの叛乱だった

──アングラ演劇のポスターは日本の現代演劇の大きな成果と言えるものです。グラフィックデザインには、横尾忠則をはじめとして、粟津潔、赤瀬川原平、宇野亜喜良、金子國義、篠原勝之、及部克人、平野甲賀、井上洋介、及川正通、榎本了壱、花輪和一、林静一、合田佐和子、戸田ツトム、辰巳四郎など、錚々たるアーティストが関わっています。ポスターは告知のための媒体ではなく、革新的なグラフィック表現の場であり、これから始まる演劇のメッセージそのものでした。
 こうしたアングラ演劇のポスターの端緒となったのが、土方巽の暗黒舞踏派ガルメラ商会による『バラ色ダンス─A LA MAISON DE M.CIVECAWA』(1965年)で、蛍光色を多用したサイケデリックなポスターです。最初、土方さんは田中一光さんにお願いしたら、面白い人がいると横尾さんを紹介された。このポスターを見た唐十郎さんが、横尾さんに状況劇場のポスターをお願いして生まれたのが『腰巻お仙─忘却編』です。これが衝撃だった。この頃の横尾さんのポスターをよく見ると、小さく「遅くなったことを許してください」というお詫び文が印刷されていますが、公演初日に届いたものがあるほど出来上がるのが遅かったそうです。
 当時のアングラ演劇のポスターは、アメリカのヒッピー文化の影響を強く受けています。68年に新宿・花園神社の横にポスター専門店が出来て、アメリカのサイケデリック運動を牽引したグラフィック・デザイナーのピーター・マックスのポスターなどを紹介するようになったのも大きかった。68年と言えば世界中の大学で紛争が巻き起こり、日本でも全共闘が大学をバリケード封鎖して機動隊と激しい攻防を行った歴史に残る年です。そういう学生運動と繋がったところにアングラ演劇の運動もあるわけですが、グラフィック・デザインの世界にもその波は押し寄せていた。ポスターは告知媒体ではなく自分たちを表現する媒体だ、自分たちのメッセージをどんどん入れようという風潮になっていた。
 そして決定打になったのがアングラ演劇と組んだ横尾さんの『腰巻お仙』です。ポスターでこれだけやれるんだ、何をやってもいいんだと触発された若いグラフィック・デザイナーたちが、引力が引き合うように、当時さまざまな才能が活躍していたアングラ演劇の劇団とドッキングして、挑発的なポスターを競い合うようにつくっていきました。その中で68/71黒色テントはこうした表現するポスターを「壁面劇場」であると宣言し、天井棧敷も市街劇の中で“タイムポスター”というポスターを貼り続ける演劇を発表するなど、ポスターが演劇そのものになっていくわけです。
 天井棧敷のポスターは横尾さん、粟津さん、宇野さん、及川さん、辰巳さん、状況劇場は横尾さん、篠原さん、赤瀬川さん、合田さん、金子さんなどがデザインしていますが、粟津さんを除くと、後はみんな30歳代前半、1935年〜36年生まれの若さでした。ちなみにこの前の世代が、日宣美を設立してデザイン革命を起こした戦後第1世代の田中さん、亀倉さん、木村恒久さん、福田繁雄さん、永井一正さんたち。日宣美の公募展は若いアーティストの登竜門になっていたのですが、権威主義だとして学生運動の攻撃対象となり、1970年に解散に追い込まれています。

──考えてみると、ポスターハリス・カンパニーが掲げている「宣伝美術からの演劇の活性化」というのは、かつてのポスターが演劇そのものだという精神の復権を目指したものなんですね。寺山さん流に言えば、ポスターで市街劇をやっているようなものだということがよくわかりました。ところで、当時、そういう若いデザイナーを支えた印刷会社として「サイトウプロセス」の名前がよく登場しますよね。
 サイトウプロセスはシルクスクリーンの刷り師がいる小さな町工場で、デザイナーたちが日宣美に応募するためのポスターを10枚単位で刷りに行っていた。そこがインディペンデントのアーティストたちをサポートしたんです。サイトウプロセスはもう解散していますが、その時に保存していたポスターをすべて武蔵野美術大学に寄贈したので美術資料図書館のコレクションが素晴らしいんですね。
 シルクスクリーンというのは要するに版画なので、別に印刷会社に持って行かなくても自分の家でも刷れる。状況劇場や天井棧敷のポスターはサイトウプロセスなどの印刷屋で刷っていますが、自由劇場の串田光弘さんのものは自宅で自作したものです。だからサイズがA全だし、干して乾かす時に使った洗濯バサミの跡が残っています。シルクスクリーンは職人的な刷り師の世界であると同時に、自分たちの手づくりで印刷費をかけないで自由にできる表現だったから、若いデザイナーたちの表現手段として、武器として普及していきました。

──80年代になると、社会を挑発するアングラ演劇から若者に人気の小劇場演劇へと時代が移り変わっていきます。80年代に一世を風靡したつかこうへいのポスターをデザインしたのはイラストレーターの和田誠さんでした。
 和田さんも1936年生まれですでに活躍されていたのですが、和田さんの絵はアングラ演劇には向かなくて、演劇の世界ではつかさんと共に登場してくるわけです。サイズもB全ではなくて小さくなり、壁面劇場のような運動ではなくなっていった。その後も劇団と組んだイラストレーターはいますが、例えば川崎ゆきおさん、ひさうちみちおさん、丸尾末広さん、高野文子さん、長谷川義史さんとか。でも60年代のアングラ演劇のポスターをやったグラフィックデザイナーたちが彼らと決定的に違うのは、その多くが舞台美術もやっていたということ。おそらく「美術をお願い」と頼まれて、そのなかでポスターもつくったのだと思います、だからこそポスターも演劇だった。でも、80年代以降は、ポスターはポスターとして発注され、その上、ポスターをデザインするデザイナーとイラストレーターは別というように分業化されていった。これでポスター表現は大きく変わった。
 加えて、最近では、演劇のポスター、チラシが単純に経済的な効果で図られる存在になってしまっています。チケットを売るためだけのツールとして考えると、ポスター100枚刷ったらチケットが何枚売れるか、なんて計算になり、費用対効果が悪いからつくらなくていいとか。費用が掛かるからポスターとチラシのデザインは同じでいいとか。そういう存在になってしまった。
 近年、芝居をつくる主体が劇団ではなく、ユニットやプロデュースという集団性のないものに変わってしまったことも原因のひとつで、劇団の旗印として登場したジャパン・アヴァンギャルドのようなポスターが必要ではなくなった。でも、チラシやポスターの表現は、関わっている人たちにやる気を起こさせたり、出会った人にメッセージを伝えたり、その出来映えによって作品を牽引する力や可能性をもっている。アーティストの表現の場としての可能性をもっている。それを安易に捨ててしまうのは本当に悲しい。

──そういう傾向が顕著になったのはいつからですか。
 ひとつは90年代を代表する人気劇団の大人計画がポスターをつくらなかった影響は大きいと思います。それから、小劇場を対象にしたチラシの折り込み代行が始まり、印刷経費も安くなったことから、劇団が自分たちで何も考えないで大量のチラシを刷って人任せで配布するようになったこともチラシ、ポスターという存在の衰退に繋がった。デザイナーも紙の印刷にこだわらなくなっていて、出力用データを渡すだけでプリントをチェックしないとか。自分が表現したかった色が出ているかどうか気にしなくて本当にいいのかと、彼らに問いただしたい気分です。
 確かにIT技術が進んでいるのだから、そういう選択もあっていいけど、すべてがそういう傾向に流れるのはどうかと思う。インターネットがいいとなるとみんなそっちに流れるけど、紙の表現もインターネットも両方が共存する社会を目指さないと表現は衰退します。
 
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