The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
Contents
サミュエル・ミラー
サミュエル・ミラー氏(Samuel A. Miller)
Presenter Interview
2010.3.19
The world of Samuel Miller, a leader in arts management in the U.S. 
米アート・マネージメント界の雄 サミュエル・ミラーのすべて 
サミュエル・ミラーは、プレゼンター、プロデューサー、芸術助成財団のヘッド、また芸術NPOの分野におけるコンサルタントとして比類のないキャリアを歩んできた人物だ。2004年から2009年までレバレッジング・インベストメント・イン・クリエイティビティー(LINC/「創造に対するテコ入れ支援」という意味)の運営代表。これに先立つ10年は、ニュー・イングランド芸術財団(New England Foundation for the Arts NEFA)のエグゼクティブ・ディレクターを務める。この間に、ニュー・イングランド地方にとどまらず全米に強い影響を与えた「ナショナル・ダンス・プロジェクト」や、国際事業「カンボジア・アーティスト・プロジェクト」などを世に送り出しているほか、「クリエイティブ・エコノミー」(NPOの芸術活動がニュー・イングランド地方の経済にいかに貢献しているかをデータで示し、NPOの芸術活動の重要さを証明したプロジェクト)、「エクスペディションズ」(情報の流通や助成金制度を通じてニュー・イングランド地方のプレゼンターの恊働によるツアー企画を推進したプロジェクト)など、新規事業を次々に立ち上げる。また、1986年から1995年までは、全米屈指の夏のフェスティバル「ジェイコブス・ピロー・ダンス・フェスティバル」の運営ディレクター、のちにエグゼクティブ・ディレクターとしても活躍。昨年LINCの運営代表を退いて同団体の理事会プレジデントとなったのをきっかけに、現在はフリーランスのプロデューサー兼コンサルタントとなったミラー氏に、過去・現在・未来の活動について聞いた。
(聞き手:塩谷陽子[ジャパン・ソサエティー芸術監督])


──多大な業績を残していらっしゃって、しかもそこにはすべてを貫く複数の糸があるように見えます。ということで、まずは無難に、「あなたの職歴はどうやって始まったのでしょう?」という質問から始めたいと思います。
 では、手短かに(笑)。ロードアイランド州のプロヴィデンスというところで育ちました。両親はトリニティー・レパートリー・カンパニーという劇場・劇団の資金調達に関わっていました。私も演劇を学び、ステージ・マネージャーとして働き始めました。その後、振付家で、以前はダンサーだった私の弟のアダムのおかげで、ダンス界に転身しました。フィラデルフィアにあるペンシルベニア・バレエ団に就職し、その後コネチカット州のピロボラス・ダンス・シアターで働き、さらにマサチューセッツ州のジェイコブス・ピローに約10年いました。それからニュー・イングランド芸術財団(NEFA)に移り、そこでもダンスのプロジェクトに関わりました。2004年からはレバレッジング・インベストメント・イン・クリエイティビティー(LINC)のプレジデント兼CEOを務めましたが、昨年代表を退いて、同LINC理事会のプレジデントになると同時に、7月に自身の会社を立ち上げてコンサルタントやプロデューサー業を手がけています。
 「貫く糸」ということに関して言えば、ダンスが私の興味の核で、ダンスとの付き合いはかれこれ30年近くになります。また「国際事業」ということも糸のひとつです。そうそう、最初に国を越える仕事をしたのは、1984年にピロボラスを日本に連れて行くことでした。この2つを合わせた経歴は25年になります。その中で大きな波となったのがジェイコブス・ピローでの10年と、NEFAでの10年でしょうね。私が関わってきた「ダンス」はコンテンポラリー・ダンスが中心で、「国際事業」というのは主にアジアに関わることです。

──アジアとの関わりについてお聞かせください。
 米国でのモダンやコンテンポラリーのダンスを眺めると、アジアからの影響が鍵になっています。私がジェイコブス・ピローにいた当時は、米国人が訪れたりあるいは観に行ったりする行為の多くは、米国とヨーロッパとの往来の中で起こっており、それに比べれば米国とアジアとの行き来や交流はずっと少なかった。けれど、米国のアーティストに非常に強い影響を及ぼしたアジアのものがいくつもあると感じていますし、私自身が魅力的だと思う若手のアーティストはアジア出身だというケースが多い。アーティストの想像力というのは、新しい情報に遭遇することで育まれるものです。だからこそ米国とアジアの交流が重要ではないかと考えています。
 私がジェイコブス・ピローに在籍していた当時、ロサンゼルスの日米文化コミュニティーセンター(JACCC)でディレクターを務めていたのがジェリー・ヨシトミさんでした。彼が行っていた「日米舞台芸術コラボレーション・プロジェクト」に深く関わることになり、それがきっかけで「交流」ということに傾倒し始めました。ジェリーが私に教えてくれたことのひとつは、「長年続ける」ということ。手をつけてはすぐやめて、などというのはダメだと。知識を蓄積して関係性を育むという観点から「長期事業」がいかに大切かということを学びました。
 90年代の初頭には、さらに2つの事業に関わることになりました。ひとつがアジアン・カルチュルラル・カウンシル(ACC)のジョージ・コーチ(東京)およびラルフ・サミュエルソン(NY)、そしてセゾン文化財団と一緒に立ち上げた「トライアングル・プロジェクト」です。これは、米国と日本とインドネシアの3国交流プロジェクトで、15年間続きました。もうひとつが、同じ時期、1990年にカンボジアのアーティストらと協力して立ち上げたプロジェクトです。ACC、アジア・ソサエティーならびにいくつかのカンボジア側の協力者を得て、ロックフェラー財団からの助成金で20年間続けてきました。これらの米・日・アジア間の活動が、90年代の後半から2000年代の前半にかけて、私にとっての中核事業になりました。米国はもちろん、日本、インドネシア、シンガポールといった地域から仲間を取り込んでネットワークしようと一生懸命でしたよ。

──NEFAでのことを聞かせてください。ミラーさんが在籍されていた10年間に多くの重要なプログラムが生み出され、それによってNEFAの存在感が非常に増しました。NEFAに就職された背景と、NEFAでご自身が課題にされたことについてお話いただけますか。
 前の職場のジェイコブス・ピローはニュー・イングランド地方にありましたから、NEFAのことは知っていましたし、良い組織だと思っていました。ホリー・シドフォードがディレクターを務めていた時で、私のようなニュー・イングランド地方のプレゼンターにとっては非常に重要な財源になっていました。ホリーがライラ・ワレス・リーダース・ダイジェスト財団に移籍して、私がNEFAに移ることにした時、私にはNEFAがやらなければならないことについての明確な問題意識がありました。というのも、次のようなことがあったからです。
 ジェイコブス・ピローにいた最後の2年間、私はマスモカ(マサチューセッツ現代美術館)開発事業に関わるようになっていました。マスモカの当初のアイディアは、後にグッゲンハイム美術館の館長になったトーマス・クレンズが描いたものでした。それは、「主流のアートを見せるための純然たる美術館」という位置づけだったのですが、トムの後をジョセフ・トンプソンが引き継ぎ、私は彼を手伝うことになりました。そこで私は「舞台芸術とのパートナーシップ」という提案を加えました。これがマスモカのあり方を少しばかり揺るがすことになりまして(笑)。つまり、「モノのための場所」ではなく「モノをつくって、モノを見せる“人”のための場所」になった。マスモカが展覧会のためだけの場所ではなく、公演をプロデュースし上演する場所になったことで、ジェイコブス・ピロー、バーモントのフリン劇場、ミネアポリスのウォーカー・アート・センター、ロサンゼルスのJACCCやニューヨークのBAMなどと互いにパートナーシップを組むことになったのです。
 その時に気づいたことがありました。「ある組織を単体で運営することと、その組織が必要とする他組織と連携して共同事業をすることを同時に行うのは、非常に困難だ」ということです。それでNEFAに移ることにしました。なぜなら「舞台芸術業界の交流を促して、パートナーシップの構築と運営をサポートする」というのがNEFAの事業の主眼だからです。プレゼンター、アーティスト、そしてキュレーターといった人々は、ネットワークの中で支えられるべきものだから、それをやりたいと思いました。それと、ネットワークを構築するのに長い歳月を擁する困難な国際事業というものにますます興味が湧いてきたのも移った理由のひとつです。
 NEFAに移ったのは90年代の半ば。全米芸術基金(NEA)がいわゆる「文化戦争」のただ中で崩壊しかかっており、個人のアーティストへの直接助成が大幅に削減された頃です。タフな時代でした。ツアーのための事業やフェローシップ・プログラムも解体の憂き目にあって、ダンスは危うい状況に陥っていました。
 
| 1 | 2 | 3 | 4 |
NEXT
TOP