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ウド・バルツァー=レーアー
ウド・バルツァー=レーアー氏
(ミュールハイム劇作家フェスティバル ディレクター)
シュテファニー・シュタイベンルク
シュテファニー・シュタイベンルク氏
(ミュールハイム劇作家フェスティバル 広報担当)



テアーター・アン・デア・ルアー
テアーター・アン・デア・ルアー
Presenter Interview
2010.12.25
Nurturing contemporary playwrights for 35 years   
The Mülheim Theatertage festival 
35年にわたり現代劇作家を育成 ミュールハイム劇作家フェスティバル 
ミュールハイム劇作家フェスティバルはドイツのノルトライン=ヴェストファーレン州ミュールハイム市で行われている演劇祭だ。1976年にスタートし、今年で35回目を迎えるこのフェスティバルでは、前年にドイツ語圏で初演されたドイツ語の新作戯曲作品から選考した7〜8作品を上演し、最優秀作家として「ミュールハイム劇作家賞」を決定。受賞者には1977年に『ハムレットマシーン』を発表したハイナー・ミュラー(1979年受賞)、カンヌ国際映画祭グランプリに輝いた『ピアニスト』の原作者でノーベル文学賞の受賞者エルフリーデ・イェリネク(2002年・2004年・09年)、ドキュメンタリー演劇の旗手リミニ・プロトコルのヘルガルト・ハウク&ダニエル・ヴェッツェル(2007年)などドイツ語圏を代表する先鋭的な作家がずらりと顔を揃えている。1992年からフェスティバル・ディレクターを務めるウド・バルツァー=レーアー氏と広報を担当するシュテファニー・シュタイベンルク女史にフェスティバルの取り組みについて聞いた。
(聞き手:山下秋子 2010年11月4日 ミュールハイムにて)


──ミュールハイム劇作家フェスティバルは、ドイツでも歴史のある演劇祭ですが、日本では残念ながらあまり知られていません。まずフェスティバルの概要を伺いたいと思います。今年行われたフェスティバルが確か35回目ですね。

ウド・バルツァー=レーアー(以下BR):ええ、フェスティバルは1976年に始まりました。以後、毎年、5月下旬から6月上旬にかけて、2週間半開催されています。今年のフェスティバルの対象となった作品は、去年の3月から今年の3月にかけて、ドイツ語圏、すなわちドイツ、オーストリア、スイスで初演されたものになります。5人のジャーナリストが選考委員会のメンバーとしてシーズンに初演される新作戯曲をすべて読み、作品をほとんど見ます。これらの公演された作品の中から7本ないし8本を選んで、フェスティバルの期間中に上演するという形態を取っています。南西ドイツ新聞、フランクフルター・ルントシャウなどの新聞の文芸・学芸欄、雑誌「テアーター・ホイテ」に書いている演劇ジャーナリスト、批評家らがメンバーです。以前には演劇研究者が選考委員を務めたこともありますが、現在は全員が演劇ジャーナリストです。

──初演とおっしゃいましたが、ドイツ語圏で1シーズンに初演される作品の数というのはどれくらいあるのでしょうか。

BR:「初演」という意味を明確にしなければなりませんね。古典的戯曲が新たに演出され、ある劇場で初めて上演される場合も「初演」という表現を使いますが、我々のフェスティバルで「初演」というのは、新作戯曲が初めて舞台で上演されることを意味します。
 ドイツ語圏で行われるこうした初演作品は、年間約130本です。つまり現存作家によってドイツ語で書かれ、ドイツ語圏で初演された戯曲作品約130本の中から、7、8作品を選考して上演するのがミュールハイム劇作家フェスティバルということです。ただし、新作戯曲がシーズン中に複数の演出家によって上演されることもあります。その場合は、上演作品選考委員が戯曲をもっともよく反映していると判断した作品を招待します。
 フェスティバルで上演された作品の中からその年の最優秀の劇作家を選びますが、そのためには別に受賞作選考委員会を設けています。受賞作選考委員会のメンバーは5名で、1名は上演作の選考委員が兼ねています。その他のメンバーには、演劇ジャーナリストや批評家だけでなく、少なくとも2名は、芸術監督、演出家、ドラマトゥルグ、俳優などの舞台関係者にお願いしています。兼務している選考委員以外は毎年メンバーを入れ替えています。ちなみに「ミュールハイム劇作家賞」の賞金は1万5000ユーロ(1ユーロ=113円)です。
 フェスティバルの会場としては、我々の事務所が置かれている劇場「テアーター・アン・デア・ルアー」を含めて市内3ヶ所にある劇場あるいはホールを使っています。

──対象作品について、上演時間などの条件はありますか。

BR:公立劇場であれ、フリーの劇場であれ、どの劇場で初演されたかは問いません。作品の長さにも条件はありません。通常は90分から2時間ですが、6時間の作品を上演したこともあります。

シュテファニー・シュタインベルク(以下S):プロジェクトとして発表された作品でもかまいません。プロジェクトとしてあるアンサンブルが作品を発表したとします。そこからテキストとしての戯曲が書かれ、別のアンサンブルによって繰り返し上演される可能性があれば、我々のフェスティバルの選考委員会の検討対象となります。

──バルツァー=レーアーさんはディレクターとして選考に関わられるのでしょうか。

BR:いいえ、私はあくまでフェスティバルの運営の責任者です。上演作品についても受賞作についても選考委員会に参加はしますが、決定に関して私が意見を言うことはありません。このフェスティバルはミュールハイム市の主催で行われていますが、芸術的な決定はすべて選考委員会に委ねられています。

S:現在は、受賞作選考委員会の議論を公開しています。300名ほどが入れる会場で、聴衆を前にして選考委員が議論します。この結果、受賞を決定する話し合いに透明性が確保されるようになりました。また、近年はその様子をライブストリームでも見られるようにしています。議論は公開されていますが、聴衆の反応が選考に影響を及ぼすようなことはありません。受賞委員会が決定する賞以外に、観客の反響が最も高かった作品には、観客賞が授与されますが、この賞には賞金はありません。

──フェスティバルがこのような形態を整えるようになったのはいつからですか。

BR:1976年の第1回目からこのスタイルで実施しています。上演作選考委員会や受賞作選考委員会のメンバー数や顔ぶれが変わることはあったにせよ、フェスティバルの構成、コンセプトは同じです。もし変化したことがあったとするなら、それは量的なものです。つまり1970年代半ばには対象になる作品は60くらいしかなかったのですが、今では新作が増えて毎年120を超える作品が対象になっています。

──一般的な質問ですが、ドイツにはどれくらいの演劇祭があるのでしょうか。

BR:多すぎますね(笑)。信じられないほどたくさんあります。非常にローカルなものから、地域を越えたもの、国際的なものまでいろいろです。フェスティバルのコンセプト、規模なども多種多様です。ただ、我々のフェスティバルのように、非常にコンセプトがクリアで、国際的なものは他にはありません。そういう意味では、競合するフェスティバルはありません。先程も言いましたが、我々の場合は選考基準が開催当初から一貫している。ドイツ語で書かれた新作、初演、劇作家に焦点を当てているという揺るぎない立場が、このフェスティバルを唯一無二の存在にしています。ベルリンで毎年行われるテアーター・トレッフェン(毎年5月に開催)も非常に大きな規模のフェスティバルですが、我々とは全く違ったコンセプトで開かれています。

──それでは、開催の経緯についてお尋ねしたいと思います。このフェスティバルが始まった背景にはどのような事情があったのでしょうか。

BR:今お話したベルリンのテアーター・トレッフェンは1960年代前半に始まりました。このフェスティバルは、当初から演出が選考の対象になっています。ドイツでは基本的には演出家、俳優に重点が置かれ、劇作家は冷遇されていました。このような状況を改善し、劇作家のために何とかしなければというのが、フェスティバルを始めた理由です。
 フェスティバルの開始に当たっては、ノルトライン=ヴェストファーレン州がイニシアティブを取りました。開催地をどこにするかを検討する中で州が重要視したのが劇場を持っていない町を選ぶということでした。その頃、ミュールハイムには市立の劇場がなく、市長が開催に意欲を示して資金調達を行うとともに、当時の市の文化局長が非常に積極的に取り組んでフェスティバル実現のためにふさわしい人材を確保しました。フェスティバルを開催する以上、継続への熱意がなければなりませんが、ミュールハイムにはその熱意と人材がそろったということでしょう。ただ、今の経済状況で同じことをやろうとしたらかなり難しかったろうと思います。そういう意味で、1970年代半ば以降、オイルショックがおさまった時期はフェスティバルを立ち上げるのに最適の時代だったのではないでしょうか。

S:当時、ドイツの劇場では、シェークスピア、チェーホフ、モリエール、イプセン、あるいはブレヒトといったすでに世を去った古典的大家の作品を、現代に置き換えて演出し、上演することが主流でした。同時代の現存作家の戯曲は、古典的大作の陰に隠れ、初演される機会も少なかったのです。ドイツ語で書く劇作家を育てることが、このフェスティバルの目的でした。さっき、バルツァー=レーアーさんが言いましたが、1970年代、1シーズンに初演される新作ドイツ語戯曲の数は50から60本程度でしたが、今では120を超えるようになりました。35年の間に、ドイツ語で新作を書く作家が2倍以上に増えた一つの理由が、このフェスティバルにあることは確かだと思います。

BR:1976年以降、多くのことが起きました。たくさんのフェスティバルが生れ、劇作家にとって多くの可能性が与えられるようになりました。劇場専属の作家も出てきました。劇作家への奨励賞も設立されるようになり、大学でも劇作家を育てる学科ができています。ミュールハイム劇作家フェスティバルが35年間という継続の中で、ドイツ語圏の劇作家をめぐる状況に一石を投じ、新しい流れを生み出す基礎を築いたことは確かだと思います。

──ここでお二人のご経歴を伺いたいのですが。

S:私はバルツァー=レーアーさんほど長くいるわけではありませんが、1997年からフェスティバルに関わっています。最初は運営の仕事をしていましたが、2000年からは広報とフェスティバルのドラマトゥルグを担当しています。バルツァー=レーアーさんのアシスタントとして、2007年からはコンペ部門以外のプログラムも担当しています。フェスティバルの枠組で何ができるかを考えながら、様々な企画を考えています。
 我々の仕事は、まず上演作品の選考委員会のための準備、資料の作成に始まります。どの作品が招待されるかが決まった時点で、上演の日程や会場を決め、広報活動を開始します。それと並行して、付随するプログラムを企画し、実行しています。このプログラムの中に、翻訳者ワークショップや児童演劇の劇作家フェスティバルも含まれています。児童演劇の劇作家フェスティバルは、今では独立したプログラムになっていますが、これについては後ほど詳しくお話しできればと思います。

BR:私は、1955年生まれ、今年55歳ですからほぼ定年の歳ですよね(笑)。このフェスティバルのディレクションを引き受けたのが1992年で、それと同時に、ミュールハイム市の演劇に関わる部門全体の責任者になりました。つまり、このフェスティバルだけではなく、ミュールハイムにやってくる劇団のツアー公演、児童演劇、オフシアターのフェスティバルをはじめ、国際ピアノフェスティバルにいたるまで、年間を通じてミュールハイム市民に舞台芸術を見てもらえるように多様な事業を企画し、運営しています。その中で、このフェスティバルは最も重要な事業のひとつです。
 私が専門として学んだのは行政学です。法律、経営、行政などを学んだあと、ミュールハイム市の社会文化に関わる部門で仕事をし、市内の2ヶ所に社会文化センターを開設するとともに高齢者の劇団の立ち上げなどに携わりました。ちなみに、社会文化センターというのが日本にあるかどうかわかりませんが、ミュールハイムではいわゆる高級住宅街と、低所得者層や失業者の多い地区の2カ所に設置しました。ミュールハイムのあるルール地方では、石炭産業や鉄鋼産業が衰退し、産業の構造改革によって失業者が著しく増加しました。このような地区での社会文化センターの活動は、当初は住民たちへの文化普及活動が中心でしたが、時代が進むにつれ、移り住んできた移民に対するドイツ社会への参加のバリアを低くするようなプログラムや取り組みが増えています。どちらのセンターにも、いろいろな世代や社会的背景の人たちが集まってきますので、住民がイニシアティブをとったり、市の文化局が提供したりして、本当にいろいろな活動を行っています。社会文化センターが開設されたのも高齢者劇団が設立されたのも1980年代後半のことですが、当時は本当に財政的な余裕があったのだと思います。
 1992年、劇作家フェスティバルのディレクターが定年退職するに当たり、私に後任にならないかという打診があり、引き受けましたが、正直まさかこんなに長くこの職に留まるとは思いませんでした。私の専門は行政学ですが、個人の活動として長い間セミプロの劇団に参加していて、多くの演劇人と知り合いでしたし、演劇への関心もありました。ですから21歳のときに劇作家フェスティバルの第1回目を見て以来、ずっとこのフェスティバルに一人の観客として参加していました。先ほど言った社会文化センターの仕事に専念するために、1981年に劇団は辞めていましたが、セミプロの劇団員だったこと、社会文化センターや高齢者劇団設立という経験もあったので、フェスティバル関係者もこの男なら大丈夫だろうという判断があったのだと思います。
 私が観客としてフェスティバルに参加していたころは、受賞選考の議論は公開されていませんでした。1989年か90年だったと思いますが、ミュールハイムの文化局長に就任したハンス=ゲオルク・キューパース(現ミュンヘン市文化局長)と一緒に、周辺の諸都市も加えて、オフシアターのフェスティバルであるインプルゼ(“Impulse”)」を立ち上げました。その後、ミュールハイム劇作家フェスティバルの受賞選考の過程をどうするか、キューパースとしばしば話し合いました。どの賞でも、受賞の選考基準や理由が明確でないことが問題にされますが、どうすれば受賞の決定をよりよく提示できるかを考えたのです。ちょうどそのころ、オーストリアのクラーゲンフルトで開催される「インゲボルク・バッハマン賞(注:ドイツ語圏で最も重要な文学賞のひとつ)」の選考が公開の場で議論されるようになりました。ミュールハイムでもその方式を参考にして、1993年以降、受賞委員会の議論を公開するようにしました。また、数年前からはこの議論をインターネットでも流すようになり、その結果、議論が客観的で、信頼のおけるものになったと思います。

──公開討論の場に作家もいますか。

BR:もちろんいても構わないのですが、誰もいません。きっとインターネットで見ているのでしょう。自分の作品が討論の対象になっているときにどんな反応をするのか、観客に見られたくないのでしょう。でも、インターネットは確実に見ていますね。受賞が決定した途端に、作家からくるメールの反応を見れば、彼らがずっとネットの中継を見ていたことがわかります。ただ、誰も見ていたとは言いませんが(笑)。

S:選考の前日に上演された作品の作家が、公開討論の場に居合わせることはありました。作家が同席してくれれば嬉しいですが、同席したくないという彼らの気持ちもよく理解できます。

──フェスティバルは35年という非常に長い歴史を持っていますが、ここまで長続きした理由は何でしょうか。

S:このようなテーマと焦点を持っているフェスティバルは他にないということだと思います。これは本当にこのフェスティバルの特異なところです。観客を見ればわかるのですが、ジャーナリスト、演劇研究者、ドラマトゥルグなど内外の演劇専門家が、フェスティバルにやってきます。3週間弱の期間中、ミュールハイムに来れば、信頼に足る選考によって決まったドイツ語圏での最も重要な作品が見られるのですから。そういう意味で、このフェスティバルは他に例をみないものであり、だからこそずっと続いてきたのだと思います。

──このフェスティバルには、ドイツ語というハードルがあります。関連プログラムとして翻訳者ワークショップが行われていますが、その詳細についてご紹介いただけますか。

BR:翻訳者ワークショップは、世界各国にあるゲーテ・インスティトゥート(GI)と国際演劇協会(ITI)の協力を得て、1985年にスタートしました。その目的はドイツ語圏の戯曲を海外に広く紹介することで、世界各国の翻訳者をミュールハイムに招きそれぞれの国の言葉に翻訳してもらおうと取り組んでいます。できれば毎年やりたいのですが、今のところ隔年開催になっています。
 ミュールハイムからネットを通じて、世界中のGIとITIに募集をかけて、各国のITIが選抜した翻訳者がミュールハイムに派遣されます。大切なことは、演劇や戯曲を専門にしている翻訳者、あるいはそれぞれの国で何らかの形で演劇に関わっている翻訳者が選抜されることです。世界から12名の翻訳者、1名のセミナー指導者、ITIから1名の運営担当者が参加します。経費的なことを言えば、GIとITIがドイツまでの旅費を負担し、フェスティバル側は翻訳者のミュールハイム滞在期間中に関わる費用を負担することになっています。
 フェスティバル開催中、ワークショップ参加者はいくつかのグループに分かれ、実際に上演されている作品の中から3本ほどを対象にしてテキストの翻訳に取り組みます。セミナーの指導には、演劇あるいは翻訳の専門家が当たっています。

S:フェスティバルで実際に上演されている作品を取り上げるわけですから、翻訳者はテキストがどのように舞台作品として実現されるのかを生で見ることができます。また、作家がその場にいるので、作家と直接話し合ったり、質問したりすることもできるようになっています。セミナーには翻訳者以外に、劇作家、出版社、他のフェスティバルのディレクターなども参加しています。
 ワークショップの参加者が、テキストをそれぞれの母語に翻訳するだけではなく、劇作品として上演されるところまで持っていくというのが、このワークショップの目的です。だからこそ翻訳者は文学作品の翻訳者ではなく、それぞれの国の演劇シーンに深く関わっていることが重要なのです。

──翻訳者が上演を見るということは、戯曲のテキストを、演出という、いわば色をつけて見ることになり、純粋にテキストの翻訳にとどまることができなくなるのではありませんか。

S:まさにその点がこのワークショップでも論点になり、非常に熱い議論が行われています。戯曲のテキストは、舞台に乗せられてこそ初めて存在することができるものですが、しかしながら、演出によって当然テキストの解釈が違ってきます。

BR:その点は、このフェスティバルが初めて開催された1976年からずっと議論し続けられています。戯曲だけなのか、演出を通しての戯曲なのか、この問いは今までもありましたし、これからもあり続けると思います。

──受賞した作家に対して劇場が新作を委嘱することは増えていますか。

BR:その傾向は確かにあります。劇場からの委嘱を受けることは作家にとって経済的な安定につながることも事実です。ただ、劇作家が委嘱を受けるかどうかは別の問題です。委嘱に対して懐疑的な作家もいます。例えば、初演が1月15日に決まったとすれば、戯曲は遅くとも前年の10月には出来上がっていなければなりません。書きあげる時期が決められることは作家にとっては大変なプレッシャーになります。このような重圧の中で書きたくないという作家もいます。

──2002年、04年、09年とミュールハム劇作家賞を受賞したノーベル文学賞作家のエルフリーデ・イェリネクのように、ミュールハイムの劇作家賞を繰り返し受賞している作家がいますが、新人あるいは若手の作家に対するフェスティバルのスタンスはどうですか。

BR:フェスティバルは、年齢や作家としての経験は一切問いません。選考の対象になるかどうかは、その戯曲が上演されたかどうか、ただその一点だけです。若手作家、新人作家という点で言えば、たとえばベルリン芸術大学のシナリオ・ライティング・コースに在籍中の学生の作品がフェスティバル作品として選抜され、上演されたこともあります。

S:私たちは事務局として、選考の対象になる戯曲テキストを集めます。大半は出版社から我々に送られてきます。まだ出来上がっていない場合でも、選考のための情報資料として送られてきます。出版社がまだついていない若手の作家、あるいは権利を自分のところにおいておきたい作家は、直接我々にテキストを送ってきます。ドイツ語で書かれたテキストであること、初演されることが確実なこと、この二つの条件が満たされれば、キャリアがあるとか若手とか関係なく、誰でもテキストを我々に送ることができます。

──話は変わりますが、財政面ではどうでしょうか。この35年間で変化したことはありますか。

BR:ありますね。当初はミュールハイム市がほぼ全額を負担し、ノルトライン=ヴェストファーレン州が若干の補助を出していました。今では、3つの財政源がフェスティバルを支えています。全体の約三分の一をミュールハイム市、同じく三分の一を州、そして残りの三分の一弱を連邦文化・メディア庁が負担するという形態に変化してきています。連邦文化・メディア庁が負担するようになったのは、2002年以降です。
 フェスティバルの年間予算は年によって若干の変動はありますが、60万から65万ユーロの間です。金額としては決して多くありませんが、この金額ですべてをまかなっています。選考委員の旅費、上演に関わるあらゆる費用、賞金、広報などすべてです。我々職員の人件費はこの中には含まれていません。また上演のために借りる会場の賃料もこの金額には含まれていません。
 スタッフは5人ですが、先程も言いましたように、我々の仕事はフェスティバルだけではありません。私がディレクター、シュタインベルクさんが広報とドラマトゥルグを担当していますが、それ以外に運営、経理の担当者がいます。この事務局が置かれているテアーター・アン・デア・ルアーは1981年にできましたが、市の劇場ではなく、市の助成を受けているフリーの劇場です。フェスティバルの会場の一つにもなっていますが、フェスティバルとの直接の関係はありません。
 フェスティバルの上演会場は、このテアーター・アン・デア・ルアー、もう一つは大人数を収容できる市民ホール、そしてインディペンデントのシーンを代表するリングロークシュッペンです。全く性格の違った3つの会場ですが、これは選ばれた作品が上演されたオリジナルの劇場に最も近い状態を作りだすためにはとても大切なことです。たとえば、ベルリン・シャウビューネの半円形の舞台空間にできるだけ近い状況を作り出さなければならない場合もあるわけです。毎年、会場の設営は大変な作業です。

S:上演作品が決定するのが、毎年、だいたい3月中旬です。フェスティバルが始まるまでの8週間で、どの作品をどの会場で上演するかを決定し、作品の上演に最もふさわしい舞台を作りださなければなりません。正直なところ、時間的にはかなり厳しいですね。

──2006年にはミュールハイム劇作家フェスティバルに日本から岡田利規さんが招待されました。これはどういうプログラムだったのでしょうか。

S:これはバルツァー=レーアーさんが考えたプログラムですが、2006年はご存知のようにドイツでサッカーのワールドカップ大会が開催されました。それに因んで、大会に参加した国から劇作家を呼ぶ企画を考えました。国によっては、劇作家という地位が確立していないところもあります。とにかくそれぞれの国の演劇シーンに関わっている人を、該当国のゲーテ・インスティトゥート、国際演劇協会、あるいは翻訳者ワークショップに参加した翻訳者に推薦してもらい、ミュールハイムに来ていただきました。

BR:当初は、ワールドカップに出場する32ヶ国のうち、20ヶ国の参加者があれば良いと思っていたのですが、結局全部の国から参加がありました。参加者全員がルール地方を見て回ったり、テーブル・フットボールでトーナメントをしたりしました。イタリアの作家が優勝しましたけどね。フェスティバルの最後の催しは、32名が半円形に座り、全員がそれぞれの国の言葉でベケットの「勝負の終わり」を読むというもので、参加者全員で稽古をしました。はっきりと覚えていますが、スイスの次が日本の岡田さんで、なかなか面白かったですね。通常のフェスティバルの準備と並行してこのプログラムを行ったので、スタッフには相当な負担がかかりました。次にこういうプログラムをやろうとしたら、スタッフは全員辞めてしまうかもしれません(笑)。

──ミュールハイム劇作家フェスティバルの今までの受賞者で、日本に紹介したい作家はいますか。

BR:これは難しい質問ですね。というのも、私自身アジアはフィリピンしか行ったことがありません。シュタインベルクさんもアジアには行ったことがありません。また翻訳者ワークショップにも中国、日本、インドネシアからの参加者に限られています。いずれにせよ、アジアは南アメリカと比べて、ドイツの現代劇作家の紹介がさほどなされていない地域だと考えています。その理由はいろいろあると思いますが、私たちが直接アジアに行っているわけではなく、それぞれの国のゲーテ・インスティトゥートや国際演劇協会に協力していただいているので、これらの機関のあり方とも関係しているのかもしれません。
 例えば、我々は、ミュンヘンにあるゲーテ・インスティトゥートの本部と非常に密接な協力関係を持っていますが、ゲーテ・インスティトゥートのビジターズ・プログラムで北欧の演劇関係者を対象にミュールハイム劇作家フェスティバルに招聘するプログラムが組まれたこともあります。
 一つ言えるのは、今年の劇作家賞の受賞者であるローラント・シンメルプフェニヒが日本に行って、とても感激して帰ってきたことです(*)。彼は、日本は本当に素晴らしかった、日本の演劇界で行われている活動に感銘を受けたと言っています。今回の彼の受賞作『黄金の龍(Der goldene Drache)』は、暗い社会を背景に、不法就労している中国人、望まぬ妊娠をした女の子など20人以上の登場人物によって綴られる残酷な寓話劇です。作家自身の演出によって上演され、5人の俳優が早変わりで演じました。こうした作品が日本や中国で紹介され、上演されると素晴らしいと思います。

 川崎市アートセンターのオープニング事業の一環として2008年3月に行われた国際ドラマリーディング・フェスティバルでローラント・シンメルプフェニヒの出世作「前と後(Vorher / Nachher)」を上演。この作品は、同じホテルと思われる場所を舞台に、39名の登場人物によって日常と幻想が入り混じった断片的なイメージが展開されるシュールなもの。


──バルツァー=レーアーさんがディレクターに就任されてから、とくに変化があったことというのはありますか。

BR:髪の毛が薄くなったことでしょうか(笑)

S:一番重要かつ本質的な変更は、やはり受賞作選考委員会の議論を公開したことです。それと4年前から受賞作選考委員の数も6名から5名に変えました。6人のときには、意見が二つに分かれた場合は、7人目の意見として観客の評価を取り入れていましたが、奇数にすることで問題は解消しました。その代わりに別枠で賞金のつかない観客賞を新設しました。

BR:観客賞は劇作家にとっては嬉しい賞だと思います。それと興味深いことに、受賞作選考委員会の決定と観客賞はかなり近い。今まで、2度の観客賞と受賞作選考委員会の決定が同じだったことがあります。

──ミュールハイム劇作家フェスティバルを通じて、現代ドイツ演劇の傾向が見えてくるということはありますか。

BR:傾向というのが、美学的なことなのか、それともテーマ的なことなのかわかりませんが、このフェスティバルが社会に起きていることを映し出す鏡になっていることは事実だと思います。ただ戯曲を書くというのは非常に個人的な作業で、作家はあくまでも自分の世界を追求しています。それと、フェスティバルとしての決まったテーマや美学をもっているということはありません。

──ところで児童演劇の劇作家フェスティバルですが、これはどういう趣旨で始められたのでしょうか。

BR:劇作家フェスティバルと全く同じコンセプトで、児童演劇の作家を対象にしたものを立ち上げたということです。ミュールハイム劇作家賞として青少年演劇で有名なグリプス劇場の創設者フォルカー・ルードヴィヒの「地下鉄1号線」が受賞したこともありますが、児童演劇の劇作家フェスティバルでは6歳から12歳を対象にした戯曲に限定して取り上げることにしました。

S:成人に向けられているドイツの演劇フェスティバルの視線を、児童演劇にも向けたいと考えたのがきっかけです。児童演劇の舞台で演じられるのは、童話、絵本を舞台用に編集したもの、リンドグレーンの『長くつ下のピッピ』といった作品が中心となっていて、同時代の作家による、ドイツ語で書かれた児童演劇用のテキストが少ないという事情があります。とくに子どもたちにとって、言葉というのはとても大切なメディアです。だからこそ、ドイツ語で児童演劇の戯曲を書く作家を応援しようというのがこのフェスティバルを始めた理由です。
児童演劇というのは、成人を対象にした演劇に比べて、作家、俳優、劇場などどれをとっても脆弱です。このフェスティバルの賞金は1万ユーロなので、作家にとって一つの魅力になっていると思います。また演劇作品が上演されることで、劇団の存在を広く知ってもらえることもあり、関係者からの反響はとても良いですね。

BR:このアイディアに賛同する人はたくさんいます。ただ、この児童演劇の劇作家フェスティバルが定着し、幅広く承認を得るまでには、長い時間が必要だと思います。劇作家フェスティバルが35年という歳月を積み重ねて今の地位を獲得したことを考えると、まだまだ時間がかかると思います。ただ、非常に良いスタート地点に立っていることは確かです。

──35年間のフェスティバルで、とくに印象に残ったこと、あるいはフェスティバルのターニングポイントとなったような出来事はありますか。

BR:印象に残る出来事はたくさんあります。非常に大がかりな舞台、どんな劇場にも入らず、周囲の土地を掘り起こして行った上演など、公演の実現が困難だった作品はやはり印象に残りますが、何よりもまず毎年いろいろな人間、アイディア、芸術、文化に出会うことが私にとって重要です。フェスティバルのコンセプト、構造は35年間何も変わっていませんが、毎年、異なった戯曲や舞台公演がここで実現します。フェスティバルを通じてそれぞれのアーティストなりの世界観、芸術観を体験できることは素晴らしいことです。
 また、毎年、ほとんどの劇作家がミュールハイムまで来てくれます。観客との討論にも参加してくれます。これはフェスティバルをとても豊かなものにしています。イェリネクもフェスティバルに何度か参加しています。2004年、ノーベル賞を受賞した年にも来てくれました。ただ、今はもう旅行ができないので、2009年に受賞したときは、私が彼女を訪ねました。今でも、フェスティバルのことをとても心にかけてくれていて、よく手紙をもらいます。
 ハイライトの逆のダウンライトもあります。出演を予定していた某俳優がアルコール依存症だったんです。開演前になっても、劇場に姿を見せない……。客席では満員の観客が幕開きを待っている、どうしようかということになったのですが、結局、作家がこの俳優の台詞を朗読して、観客にも満足していただきました。フェスティバルで朗読という形を取ったのは、このときだけです。

──イェリネクと言えば、つい最近、デュッセルドルフでの『レヒニッツ(皆殺しの天使)』公演がスキャンダルを引き起こしたというニュースが出ていましたね。この作品はオーストリアのレヒニッツという寒村で、ナチスのSS将校がユダヤ人強制労働者を大量虐殺した事実を元にしたものです。2009年のミュールハイム劇作家賞の受賞作ですよね。

S:そうです。フェスティバルのときには、ヨッシ・ヴィーラーの演出によりミュンヘン室内劇場で公演したものを上演しました。この戯曲は95ページほどあったと記憶していますが、非常に長いものです。初演では、戯曲に書かれていることはすべて舞台で演じられるべきだとされていますが、イェリネクは非常に例外的な作家で、彼女の場合、この長いテキストすべてを舞台で演じることは不可能なので、演出家がテキストをどのように扱うかという裁量を持っていました。ヨッシ・ヴィーラーが削除した部分を、デュッセルドルフの演出家は削除しなかったことで、今回、観客が途中で席を立って出て行ったということですね。

BR:戯曲に書かれているのですから、この部分が舞台で演じられること自体全く問題ありません。私がいつも奇妙に思うのは、当時のSS将校たちが犯した犯罪と向き合おうとはしないことです。イェリネクは戯曲の中で、SS将校たちがパーティーの気分を盛り上げるために180人ものユダヤ人を殺害したという事件を描いています。ヨッシ・ヴィーラーが削除し、デュッセルドルフで上演された部分というのは、2001年にドイツで起きた殺害・肉食事件に関する加害者と被害者の対話です。ユダヤ人の大量殺害という犯罪について公開の場で議論も検証もしないのに、戯曲のどの部分を削除したとかしなかったとか、そんなレベルで作品をスキャンダラスに扱うことはとても不愉快です。

──最後に、これからの新規事業あるいは展望を聞かせてください。とくに日本と関連して、こんなことができれば良いなと考えていらっしゃることはありますか。

S:フェスティバルの関連事業の一つとして、2年に一回、劇作家フェスティバルで上演された作品で、外国語に翻訳されたものをその国の劇団によって上演するというプログラムがあります。たとえば、デーア・ロアーの『ルーズヴェルト広場の人々』(2004)が、ブラジル人の翻訳家によってポルトガル語に翻訳され、ブラジルの劇団が上演した作品をミュールハイムで上演しました。すでにドイツでは知られている作品が、外国語に翻訳され、外国の演劇人の視点からどのような作品になったのかを見るのはとても興味深いです。日本語に翻訳され、日本で作られた作品をミュールハイムで上演できるようなことがあればとても嬉しいですね。
 また、インターネットで舞台芸術の批評を展開しているナハトクリティークというサイト(nachtkritik.de)があります。ミュールハイム劇作家フェスティバルの期間中、サイトの批評家がここに滞在して、フェスティバルの情報や批評をネットで発信しているのですが、日本のメディアが日本に向けてこういう発信をしてくれれば素晴らしいと思います。

BR:ドイツのように、戯曲・出版社・劇場というシステムが確立され、しかも多くの公的支援が行われている国は世界でも稀だと思います。公的支援が削減されていることは事実ですが、それでも非常に恵まれた環境だと思います。それはともかく、ドイツ語で書かれた戯曲のドイツ語圏での初演を選抜して上演するというミュールハイム劇作家フェスティバルのユニークさは、これからも変わらず続いていくでしょう。世界でこういったフェスティバルがもっと広がると良いと思います。私の知っているかぎり、マケドニアだと思いますが、同じようなフェスティバルが開催されています。日本でもこのようなフェスティバルが開催され、交流できるようになると良いですね。

──大変興味深いお話をどうもありがとうございました。
 
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