The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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キャシー・エドワーズ
Photo: Ken Arnold
Profile
キャシー・エドワーズ氏
(Ms. Cathy Edwards)

1965年生まれ。コネチカット州ニューヘブン市の「インターナショナル・フェスティバル・オブ・アーツ&アイディア」(IFAI)の舞台公演プログラム・ディレクター。オレゴン州「ポートランド・インスティテュート・フォー・コンテンポラリー・アート(PICA)」主催のタイム・ベースト・アート(TBA)フェスティバルのゲスト芸術監督(2009年、10年、11年)。両フェスティバルにおいて、舞台公演のプログラム構成の責任者。これに先立って、ニューヨークのダンス・シアター・ワークショップ(DTW)では2001年に共同芸術監督、2003年には芸術監督を務めたが、彼女の国際的な名声はすでにこの時から確固たるものとなっており、ニューヨーク・タイムズ紙は「彼女の勇気あるキュレトリアルな選択は、彼女がプログラムしたアーティストに勝るとも劣らないクリエイティブで想像力豊なものだった」と賞している。DTWの前職は、ダンスとパフォーマンス・アートをプレゼントするムーブメント・リサーチの共同ディレクター(1990〜95年)。イエール大学卒。二児の母。



「インターナショナル・フェスティバル・オブ・アーツ&アイディア」
インターナショナル・フェスティバル・オブ・アーツ&アイディア
http://www.artidea.org/
Presenter Interview
2011.2.16
Cathy Edwards - Helping bring out the creativity in contemporary dance artists 
コンテンポラリー・ダンスの創造性を引き出す キャシー・エドワーズの挑戦 
カンパニーや個人の振付家のためにさまざまなサービスを提供し、コンテンポラリー・ダンスのアーティストたちの拠点となっているダンス・シアター・ワークショップ(DTW)の前アート・ディレクターで、現在は2つのフェスティバル(インターナショナル・フェスティバル・オブ・アーツ&アイディア、TBAフェスティバル)のプログラム・ディレクターを務めるキャシー・エドワーズ。ニューヨーク・タイムズ紙に「彼女の勇気あるキュレトリアルな選択は、彼女がプログラムしたアーティストに勝るとも劣らないクリエイティブで想像力豊なものだ」と称される米コンテンポラリー・ダンス界を代表するプレゼンターに、その歩みと考え方を聞いた。
(聞き手:塩谷陽子[ジャパン・ソサエティー芸術監督])


──2009年から米国で最も評判の2つのフェスティバルのプログラミングの責任者となってらっしゃいますね。その前には、ダンス・シアター・ワークショップ(DTW)の芸術監督だったことも皆が知っていますが、そもそもプレゼンターとしてのキャリアの始まりはいつだったのでしょうか?
 DTWの前には、ムーブメント・リサーチで働いていました。ダンス・アーティストに対してサービスを提供し、かつ彼らの作品を上演(プレゼント)する組織です。これから世間に出てくるアーティストにとって創作の課程にある作品を発表する良い機会を提供してくれる組織でした。また、今も続いている「マンデー・ナイト・パフォーマンス」は、ポストモダンダンス発祥の地であるジャドソン・メモリアル・チャーチで開催していますが、これは私の在職中に始めたプログラムです。

──ダンスを自分でやっていたことはない---と、以前おっしゃっていた記憶があります。
 はい、高校時代にジャズとモダン・ダンスを少しかじった程度ですが、その頃、とても感動したモダン・ダンスの舞台を観ました。父が国務省に務めており、ギリシャの米国大使館勤務していた際に、3年間アテネに住みました。その時期にアテネにアルビン・エイリー・アメリカン・ダンス・シアターが来て、『リベレーションズ』を観たんです。古代の野外劇場で行われたのですが、現代ヨーロッパの都市で古代の設定と深いアメリカの芸術形式がそろったそれまで私が観たことのないほどのスリルがあり、力強く、美しく、信じられないくらい素晴らしい公演で感動しました。

──ムーブメント・リサートの話に戻りましょう。それが初めての仕事だったのですか?
 ムーブメント・リサーチで働き始めたのは私が24歳の時だったと思いますが、その前の2年ほどは別のことをしていました。最初はコンデ・ナストなどの出版社で編集の仕事に携わりました。次に、「アメリカン・センター・イン・パリ」という団体のニューヨーク・オフィスを立ち上げようとしていたベッツィ・ガルデラの下で働く職を得ました。ちなみにこの会社は事業拡大計画が実現せず、結果的に閉鎖されました。彼女の仕事は、米国の有望なアーティストを調査して、パリにある「アメリカン・センター・イン・パリ」の本部に送り込むというものです。ベッツィーはディビッド・ホワイト(1975〜2003年、DTWのエグゼクティブ・ディレクター)を私に紹介してくれました。ベッツィーはDTWでアメリカン・センター・イン・パリに送り込むためのアーティストを探していました。ディビッドは私にDTWやそこで活動するアーティストを紹介してくれました。他にもPS122(*1)のエグゼクティブ・ディレクターだったマーク・ラッセルを紹介され、PS122が紹介するアーティストの作品も観るようになりました。これらの出会いはアルビン・エイリーを観た時と似ていて、「こんなものを作る人がいるんだ…」ということを、私はその時まで知らなかったわけです。1980年代の終わりのことです。私は当時はまだ若かったですし、それまでの自分が知っていたものとは全く違うものをライブで観るのは、すごい経験でした。ベッツィーが多くの興味深い人々に私を引き合わせてくれたおかげで、私の目は新しい芸術の世界に向かって開かれていきました。
 1年後くらいに、「アメリカン・センター・イン・パリ」のニューヨーク・オフィスが立ち行かなくなりそうだったので、その職場を離れました。長期間にわたる素晴らしい指針があり、素晴らしい人々がフォローしてくれ、フランク・ゲイリーのデザインによる素晴らしい施設をパリに建てましたが、プログラムのための資金調達ができなくなってしまい、新しい施設を維持することができなくなってしまったんです。
 そうこうしている時に、PS122の事務方から「ムーブメント・リサーチ」で人を募集しているという連絡をもらいました。「『マネージング・ディレクター』というポジションだけど、君が応募するべきだ」って。私はアシスタントでしたから、そこからマネージング・ディレクターの職に就くなどということはかなりの飛躍でした。でも同僚が「肩書きに怖じ気づくことはない。あそこはエグゼクティブ・ディレクターとマネージング・ディレクターの二人しかいない小さい組織だから」と突っ込みを入れてくれて(笑)。

*1 マンハッタンのダウンタウンにある実験劇場。パフォーマンス・アートを始め、ジャンル分けのしにくい位置にある前衛的なプログラムで知られている。

──その頃すでにムーブメント・リサーチが設立されてから数年以上たっていましたよね。
 はい、設立は70年代の後半、ちょうどジャドソン・チャーチ・ムーブメントに端を発しています。そもそもムーブメント・リサーチは、ジャドソン・チャーチの次世代の人々が、「ダンス創作の《課程》を重視し《試行・実験》のできる環境を保持する」というジャドソン・チャーチの理念を継承するために作った組織なので。それで、当時のムーブメント・リサーチのエグゼクティブ・ディレクター、リチャード・エルビッチのところに面接を受けに行ったら、まぁ、なんと、小さなオフィスで(笑)、エスニック・フォーク・アート・センターの一部にデスクが2つあるだけ。そこを無料で間借りしていたのですが、実はこのセンターには素晴らしいスタジオ・スペースがあってムーブメント・リサーチがその運営業務に責任を持つ替わりに賃料は無料というバーターでやっていたんです。
 エルビッチは、「お、いいね、じゃあ明日から働いてもらおう」って。「ダンスのことは詳しくないんですけど」と言うと、「いや、君なら大丈夫だから」と(笑)。本当にそれだけでした。それでいきなり最初の仕事としてやったのが次シーズンのダンスとパフォーマンスのワークショップのプログラミングでした。「どんな人がいるのかも知らないのに、いったい誰に連絡をとったらいいのでしょう?」と言うと、リチャードはその前年のワークショップのリストを開いて、「ワークショップ参加者数を参考にして、今年もまた来てほしい人を考えればいい」と。最初の1〜2カ月は、壁にとまっているハエみたいにこっそり観察していたのですが、ある日「ハエになってる場合じゃない。聞きながら覚えて、積極的に前進しなきゃ」と気づいて。プログラムを考え、助成金の申請をして、予算を立て、理事会やアーティストたちとの調整をし始めました。とりあえず謙虚ささえ保っていればOKだろうって(笑)。

──その後、貴女自身がムーブメント・リサーチのエグゼクティブ・ディレクターになりましたが、その経緯は?
 私が就職して最初の1年は、重要な仕事は皆リチャードがやっていました。でも1年半後に、彼が転職してしまった。彼は「アクト・アップ」(*2)の活動にとても力を注いでいて---当時はエイズをめぐる活動が非常に盛んな頃で、彼はそういう動きのリーダー的存在でした。同時に、素晴らしい作品を発表していたソロのパフォーマンス・アーティストとしても多忙にしていました。しかし、次第に社会活動の方に傾倒し、ゲイ・メンズ・ヘルス・クライシス(*3)からヘッドハントされたのです。彼は、彼が辞めたら私はエグゼクティブ・ディレクターになりたいと理事会に伝えるべきだと言ってくれました。「君がやらなくて誰がやる?」と。
 そこで私は、当時ムーブメント・リサーチの理事会に名を連ねていたガイ・ヤーデンに声をかけて、「理事会という役割を降りて、私とあなたの二人三脚で運営する『共同エグゼクティブ・ディレクター』案を、理事会に提案しよう」ともちかけました。ガイはPS122で経理と音楽プログラムのキュレーションの仕事を長年やっていて、そろそろ職場を変えたがっていることを私は知っていました。彼はすぐにOKしてくれて、今に至ります

*2 エイズ撲滅のためのアドボカシーNPO
*3 エイズにかかった同性愛者のためのNPOサービスオーガニゼーション


──なんかいい時代ですね。ムーブメント・リサーチは、貴女のようにダンスのことを知らない人が一歩を踏み出すには理想的な職場ですね。公演を見に出かけて行って情報収集に励まなくても、新しいことが向こうからやってくる環境ですから。
 素晴らしい職場でしたよ。ジョン・ジャスパースの作品を観て、ジェニファー・モンソンを見て、アーサー・アヴィラがいて、ドンナ・ウチゾノもいた。ムーブメント・リサーチで仕事をするまでは全く知らなかった世界ですから。もちろんアルビン・エイリーのダンスとは「違う種類のアート」と言ってもいいくらい指向性は違いますが、どれも素晴らしいダンスでした。あの手の美しい作品の荒削りな感じと、肌が触れあうぐらい小さな場所でつくられている感じ、その距離感が作品に生かされている感じ──そういうものに惹かれました。数多くの考えさせられる作品があそこには常にありましたね。同時に、アドミニストレーションの面でも多くのことを学びました。プレス・リリースの書き方、ワークショップの組み方、面白いアーティストは誰か、小さな作品の上演の仕方、チケットの売り方などなど、あそこで多くを学びました。
 また、クラスの受講者が実に国際色豊だったこともとても面白いことでした。「ニューヨークで学ぶならムーブメント・リサーチで」という評判があったのでしょう。当時ダンスを学びたいという人々は、マース・カニングハムのスタジオを通じて学生ビザを取っていましたが、そのスタジオに通いつつ、ムーブメント・リサーチにも来るわけです。ニューヨークのダンス・コミュニティーがいかに国際的かということを知った興味深い経験でした。
 それと、当時、エスニック・フォーク・アート・センターのスタジオを、ベベ・ミラーとスティーブン・ペトロニオの二つのカンパニーが長期で借りていたのですが、そのおかげで、振付家が作品を作っていくプロセスを最初から最後までずっと追いかけることができました。作品づくりを内側からみることは、すごく勉強になりました。リハーサル・スタジオとオフィスが隣接しているということの特典ですね。
 ムーブメント・リサーチは、「アーティストありき」の姿勢を貫いて、アーティストに創造・調査・学習という機会を与えるところです。こういう「アーティスト第一義」的価値観は、それ以来ずっと私の仕事の核になっています。現在の私の仕事が「アーティスト第一義」ではなく「アーティストと観客をつなぐ」というのが主体であるにもかかわらず、です。考えてみると、ムーブメント・リサーチの頃は、「観客」というのは「他のダンサー」や「他の振付家」のことで、一般の観客を取り込むための予算を準備する必要すらなかったんです。

──「まずアーティストありき」ということをもう少し詳しく説明してください。逆に言えば、「『まずアーティストありき』ではない」対極の価値観というのはどういうものを指すのでしょう?
 まず対極にあるのは、「観客の体験を第一義にする」でしょう。「市民生活への影響」とか「教育目的」ということを第一義にしている組織もありますよね。「アーティスト第一義」と言っても、ムーブメント・リサーチの場合は、公演やツアーを仕立てるとか資金調達をするという面のヘルプは全くしていないので、「アーティストのキャリア・アップを助ける」タイプのものですらありません。つまりひたすら芸術のための研究と進化、創造行為を助けることに集中していました。

──その後、ムーブメント・リサーチからNPN(ナショナル・パフォーマンス・ネットワーク)(*4)に職を移されましたね。
 娘が生まれたのを機に1年間休み、ちょうど(法曹家の)夫が最高裁判所の書記官の職に就いたこともあって、ワシントンに1年住んだ後、ニューヨークに戻り、DTWの「インター/ナショナル」部のディレクターとして働き始めました。「インター」の部分は海外のアーティストを扱うプロジェクトを受け持つこと、「ナショナル」の部分がNPNの仕事です。NPNは成熟して規模も大きくなり、変革が必要な時期になっていて、DTWの一プロジェクトとして維持するより独立したNPOに移行させた方が相応しくなっていました。一方、ディビッド・ホワイトはDTW自身の劇場スペースをもちたいと思っていて、ちょうどフロアを間借りしていたビルが建物ごと買い取れる機会がめぐってきた。DTWの通常の運営のための資金調達に加えて、成長しているNPNの運転資金調達、さらにビルを買い取るための資金調達──同時に3つのファンドレイジングが不可能なことは次第に明白になってきました。そこでディビッドと改革委員の人々とはがっぷり四つに組んで計画を練り、結局、NPNを独立したNPOとして切り離すことに決定しました。
 方針が決まっても、諸問題を整理し、戦略を立てて実際にNPNが独立するに2年の歳月を要しました。私にとってはシンドイ2年間でした。改革委員のメンバーをNPNの理事会メンバーに移行し、経理をDTWから分離し、NPNのトップになるエグゼクティブ・ディレクターを人選し…という具合です。
 私自身も、「マネージング・ディレクターとしてNPNに残るか、それともDTWに残るか?」を判断しなければならなかった。それで2年にわたるNPNの仕事を振り返ってみたのですが、2つの良い発見がありました。ひとつは、アメリカ中に出張する仕事を通して、あちこちにアーティストや出資者、プレゼンターとのネットワークを築けたこと。もうひとつは、DTWの小屋にいるだけでは見られないたくさんの(地方のダンス)現象を見て、いかに多くの人々が、各自の地元の状況に対応しながら三者三様のやり方でプレゼンターの業務を遂行しているかを知ったこと。改めて、劇場のプレゼンターたちと働くよりも、アーティストとやりとりをしながらDTWで年間公演のプログラムをつくるほうが、ずっとエキサイティングに思えました。それで、NYのアーティストを主に扱うクレイグ・ペターソンと「共同アーティスティック・ディレクター」という肩書きを分け合って、プロデューサーのディビッド・ホワイトと共に国内外のアーティストを扱い、協同でプログラミング業務を手がけることになりました。

*4 ダンスやパフォーマンス・アートのNY一極集中を改善するために、全米の中小の劇場を運営するプレゼンターらをネットワークし、ツアーや共同委嘱を促進させるプロジェクト。DTWの一プロジェクトとして始まり、その後独立したNPOとなる。

──「NY以外と海外のアーティストを扱うプログラミング」という仕事をするためには、やはりかなりあちこちに出張をしたのでしょうか?
 はい。でも、私は聞き上手なので、「何を観た?」「どんなアーティストがいま面白い?」「彼らはどこにいるの?」「誰を追っかけたらいい?」と聞いて歩いた。自分ひとりで飛び回って世界を見渡すことはなくて、必要なのはアーティストやプレゼンター、ジャーナリストなどから話が聞ける関係を持っていることです。彼らからの情報によってどこへ旅するべきかの焦点を絞ることができます。

──つまり、人とコミュニケートすることで、出張先に優先順位をつけるということですね。
 そのとおり。私はリサーチャーなんです。DVDもとてもたくさん見ますよ。DVDだけを見てそのままプログラムに組むということはほとんどありませんが、DVDを見て、「あ、これは面白い、実際のものを見に行かなきゃ」と判断します。例えば、今晩これから観に行くLes SlovaKsというダンスカンパニーは、今晩がアメリカ・デビューですが、2年くらい前から2、3の人が推奨していたので、以来カンパニー・マネージャーと連絡を取り合っていました。DVDも何枚か送ってもらって見ています。面白かったのですが、生の公演を観に行くことができませんでした。すると8カ月前にそのマネージャーから「ニューヨークで公演することになったからぜひ観に来てほしい」という連絡が入ったというわけです。

──意見を聞くのは固定した限られた人たちだけですか? それともそういう人たちを広げようとしていますか?
 かつて一緒に仕事をしてきた人たちの中から、中心的なグループが構成されているように思います。いつも意見が合うとか、趣味が一緒とか、そういうことではなくて、お互いにお互いの持っている意見や経験、芸術について考えることができることを理解しあっているという人たちです。新しい出会いもありますし、特に若い人はとても貴重な同僚です。私は助成金の選考委員を務めることがとても多いのですが、そうした選考会あるいはフェスティバルで初対面の人と2〜3日一緒に過ごす機会がありますが、お互い似たようなフェスティバルに参加していたり、関連のあるアーティストの作品をフォローしていたり、時に、私のプログラムやリサーチにとってとても有益な情報源になることがあります。
 他の人のテイストや考え方をとおして自己チェックをするようにしています。自分の好みやテイストについて自問自答してみるわけです。というのも、キュレーションというのは、純粋なテイストなどの問題ではないと思っているからです。今を生きるアーティストが抱えている課題に対して「反応する」という部分がキュレーションには不可欠だと考えています。なので、手放しで好きとは言えない作品をプログラムに加えることもあります。ただ、その作品がどういうところから生まれ、どういう重要さ故に自分のプログラムに加えることにしたのかについて、キュレーターとしてのしっかりした意識は必要です。観客がなるほどと感じ、共鳴するものを提供しなければならないのですから。
 長年やっていると自分のテイストが変わるのがわかります。似たような身体言語ばかりみている気がしてダンスに飽き飽きしてしまった時期もあります。その結果コンセプチュアルな作品にひどく惹かれるようになり、けれどそのうちに「ダンサーが誰も動かない作品を観るのは耐えられない」と思うようになる…。などと言っていると、ある時突然またゴロッと変わる(笑)。いま現在は、親近感を感じられる規模の、漠然とした、空間と音と動きをパーソナルに扱っているものに興味があります。大がかりなスペクタクル作品にはあまり興味がない。なんて言ってはいますが、私やあるいは世の中が、口をアングリ開けるようなビッグなものを求めていた頃だってあったわけで。こういう変化は、その時その時の政治や文化のあり方に応じて起こるものだと思います。アートを生み出すことや観客の反応の大半は、時代や空間、そして美に関するいろいろなことがすべて根源で関連しあっていますから。
 ただ、どのようなテイストに変わろうと「美に誠実」であり、「明確な意思」がある作品---使われすぎている言葉ではありますが---が好きだということだけは、変化していません。

──次に、貴女がプログラムの責任者をされている2つのフェスティバルについてうかがいたいと思います。コネチカット州ニューヘブンで毎年6月に行われるインターナショナル・フェスティバル・オブ・アーツ&アイディア(IFAI)と、ポートランド州オレゴンで毎年9月の冒頭に行われるPICA(パイカ: Portland Institute of Contemporary Art)というNPOが主催するTBA(Time-Based Art)フェスティバルについてです。観客の種類がかなり違うということを以前から何度かうかがっています。前者はニュー・イングランド、後者はノース・パシフィックという地理的な違いを考えると、観客層の差は当然だと思いますが。あと開催時期も全く違います。前者は大学生が年度末で街から消えてしまう時期、後者は新年度を迎えて若者は皆外に出かけようとワクワクしている時期です。ここまで性格の違うフェスティバルを同時にプログラミングされているわけですが、それぞれの土地や観客層が求めるプログラムと自分の嗜好をどのように調和させているのですか。
 組織に属して仕事をしている私にとって、好き勝手にやるのではなく、その組織の持つ使命や義務に細心の注意を払うということが私の業務の最重要課題です。IFAIの使命は、DTWが使命としていた「ダンスを前進させる」こととは当然違います。それは、「世界的水準にある芸術をニューヘブン市に15日間持ってくる」「そこに住む人々皆が参加して普段の生活を越える啓蒙的体験をする」「住民の暮らしを活気づかせる」ことです。PICAの使命はユニークで、とてもアーティスト寄りで、「おもしろく画期的な舞台芸術と美術のアーティストをサポートし、彼らの作品を世に紹介する」ことです。当然、扱う作品も一般受けするタイプではなく実験色が強くなります。
 ある意味でこれらの使命は互いに相反するものではなく、むしろ一連の繋がりの上にあるのです。例えば、ニューヘブンでは、IFAIの中心的観客は「地元のコミュニティーと文化一般に意識が高い人」「文化はコミュニティーに良い影響を及ぼすのだという理解がある人」「一緒によりよい生活を目指そうという姿勢を持ち、社会のあれこれについて討論できるだけの問題意識がある人」というべき人々なので、広く多様な観客層の興味を引き啓蒙するユニークな視点をもった世界クラスの作品やアーティストを探します。
 具体的に言うと、来年6月のIFAIには、ヨー・ヨー・マと彼のシルクロード・プロジェクトと基調講演をプログラムしました。多種多様なアジアの音楽の伝統がどのようにシルクロードを横断し西洋の伝統的な楽器と出会ったのか、何を共有し、何を差異として残したのかをつまびらかにしてみせるこの世界クラスのコンサート・プログラムは、アートを横糸にして文化・政治・社会を複合的に眺めることができるのでIFAIの観客にとって理想的なものだと言えます。人と人とが繋がり、価値観を共有するという感覚を高めてくれるでしょう。こういう体験をコネチカット州にもたらすことがIFAIにとってはとても重要なんです。

──フェスティバルのプログラムを計画する段階で、その理由を理事会や、同僚や、あるいは地元の人々にどれくらい説明していますか?
 ものすごくたくさんの説明をします。DTWなどの通年の施設は、たいていの場合ひとりのアーティストのビジョンやひとつの作品についての解説を、その時々の必要に応じてやればいいのですが、フェスティバルとなると、一どきに20もの作品が並ぶわけです。20の異なるものを1つ1つ、同じ深さで世間に説明することは不可能ですし、その中身も多様です。でも事前に説明できるプロジェクトについてはできるだけ多くの説明をするようにしています。エグゼクティブ・ディレクターのメアリー・ルーアレスキーは、フェスティバル開催の何カ月も前から核となる一連のプロジェクトを説明するために多くの時間を費やして、市議会議員と会い、ビジネスや大学、行政の関係者と会い、様々な人々との関係づくりに努めています。また財界の人々と会って協賛を頼んだり、従業員に参加してもらいたいという話をしています。

──IFAIで取り上げるアーティストは、主にニューヘブン以外にいる人たちなのですか?
 はい。このフェスティバルの目的は、「このフェスティバルがなければ起こり得ない」という種類のユニークなイベントを仕立てることです。IFAIは卓越したものを外から持ち込むフェスティバルですが、同時に地元のアーティストと協働する様々な方法も工夫しています。特に野外イベント、ミュージシャンやバンドの演奏といったことで協力してもらっています。
 IFAIでは、20種類の有料の「メイン・ステージ公演」を行っていますが、その他に数百人のアーティストが公園でのフリー・コンサートやファミリー・イベントに参加しています。彼らにフィーは払っているけれど、彼らの公演を観るのに観客がお金を払う必要はありません。ニューヘブン公園では、毎日、正午のコンサート、1時半からの子ども向きコンサート、夜6時からの帰宅途中の社会人を対象にしたコンサートが行われます。これだけでもう「1日に3つのコンサート」があるわけです。この他にもたくさんの無料イベントや小さな催しがあります。

──IFAIでは、新作委嘱もしていますよね。どういう動機や判断基準で新作委嘱をするのですか?
 舞台芸術の分野とそのアーティストに貢献したいからです。アーティストの手持ちの作品に対して発表の場を与えることがアーティスト支援の本質ですが、次世代に向けた新しいプロジェクトをひも解くことも等しく重要であり、それは「正しい行為」です。創造する力のあるアーティストが新作をつくるための投資をするのは、舞台芸術のなかの自然の循環──エコ・システムであり、つまりは「市民の責任」として為さなければいけないことだと私は思っています。
 実は残念なことに、現在の委嘱プロジェクトがとりあえず最後になってしまいました。この経済状況の中では、ポートランドにしてもニューヘブンにしても、「フェスティバルを主催する」ということを最優先にしなければなりません。委嘱をやめるわけではないのですが、本来やりたいと思っている確実なペースでは無理ですね。DTWのような場所では、委嘱は常に活動の中心に位置づけられていて、それはニューヨークという「アーティストがそこに住んでモノを創っている街」にDTWが位置しているからでした。ですがフェスティバルとか、あるいはニューヨーク以外の米国においては、我々プレゼンターがアーティストにしてあげられるとても重要なことは、彼らが創ったものを他の土地の人にも観てもらえる機会を提供するということだと思っています。

──次にPICAのTBAフェスティバルについてうかがいます。ここのプログラミングの仕事を始めた時にフェスティバルについてどのように感じましたか。
 初めてTBAフェスティバルを訪れた時、ここの観客はニューヨークの観客層ととてもよく似ているなと感じました。つまり、大半が若く、アートに興味がある人々だなと思いました。彼らは舞台芸術関係の人間ではなくて、広告や建築、プロダクト・デザインまで、あらゆる種類の「クリエイティブ」な仕事に従事している人が大半だったんです。信じられないくらい活気に満ちていて、創造力豊かな興味深いコミュニティーですが、必ずしも舞台芸術に特化した芸術について核になる興味を持っているというわけではありません。
 ですから、TBAフェスティバルは、ものすごく広範囲な《クリエイティブ》な意見に触れることのできる長大なマラソン・イベントであり、ここで上演するアーティストたちは、常識的な予想ではとても追いつかない様々な様式で作品をつくる人たちで、「楽しければ最高」という価値観で成り立っています。いいでしょ(笑)。
 すごいのは、深夜にやる「The Works」という名のイベントです。毎晩11時から、観客と、公演を終えたアーティストたちが全員集まってきて、ビア・ガーデンとバーで、レイト・ナイト・パフォーマンスを観ながら、今日観たものの感想なんかをワイワイ語り合う。観たものをシェアして、楽しい時間を共有するということによって形成されるコミュニティーというのは必ずやあるもので、こんな感じで10日間ぶっ続けのノン・ストップ・パーティーが展開されるわけです。

──TBAフェスティバルもIFAIも、どちらも「インターナショナル」な演目のフェスティバルですが、日本のアーティストを含めることについてのお考えを聞かせてください。例えば委嘱とか、サイト・スペシフィック・ワークとか、あるいはレジデンシーとか…
 ポートランドという街やPICAに出入りする若い人々の間では、根本的に日本の作品や日本の美学に非常に強い興味があります。従ってTBAフェスティバルには、いつも日本のアーティストが参加しています。今年度のフェスティバルで行われたOff-Site Dance Projectsのキュレーションによるサイト・スペシフィック・ワーク(鈴木ユキオ山下残)は素晴らしかったですよ。2011年9月のプログラムにも、日本から相応しいプロジェクトを見つけ、ラインナップに入れたいと思っています。今年の評判がよかったからという理由もありますが、何よりも、彼ら二人の作品のお陰で、「日本では今何が起こっているのか?」という興味の目が再び開いたんです。日本を広くながめる機会を得た時からもう数年がたっていますからね。あと、たまたま国際交流基金のPerforming Arts Japan(PAJ)の審査委員に昨年から参加したというタイミングも重なり、この1年は、特にダンスの分野における日本の現象を紹介することを再び考え始めるようになりました。
 演劇分野にも興味はあって、これから調べてみようと思っているプロジェクト・リストの中には、「岡田利規の英語版戯曲」というのがあります。演出家のダン・セーファーとダン・ローゼンバーグが舞台にしています。塩谷さんを含め、多くの人が推薦してくれましたから。ポートランドは環大西洋に位置していることからも、日本を紹介する意味がありますし、また日本という国には、「コンテンポラリー」な舞台芸術に従事しているアーティストが大勢いて、膨大な量の実験的な事象が起こっていますから。

──つまり、日本の舞台芸術やそのアーティストたちは、TBAフェスティバルの路線にごく自然に乗ってくる、ということですか?
 そう。地理的な理由と、コンテンポラリー・アーティストの人口という理由からね。IFAIでも日本のアーティストが紹介できればいいと思っています。あとは相応しい作品を探し出さなければならないというだけです。
 
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