The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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ヤイル・ヴァルディ
ヤイル・ヴァルディ氏
(Mr. Yair Vardi)


スザンヌ・デラル・センター
The Suzanne Dellal Centre for Dance and Theatre

1989年設立。イスラエルにおけるダンスの中心的存在である。ディレクターのヤイル・ヴァルディの強力なリーダーシップの下、イスラエルのダンスは飛躍的に認知され、高い評価を得るようになった。敷地内に4つの劇場を有し、世界的な人気を誇るバットシェバ舞踊団とインバル・ピント・アブシャロム・ポラック・ダンスカンパニーもここにレジデンスしている。若手のためのダンス・フェスティバル「カーテン・アップ!」、見本市的な性格をもつフェスティバル「インターナショナル・エクスポージャー」には、いまや世界中からダンス関係者が訪れる。

5 Yechiely St. , Neve Tzedek, Tel Aviv 65149, lSRAEL
Tel: +972- (0) 3-510S657
Fax: +972- (0) 3-5179634
lnfo[a]suzannedellal.org.il
http://www.suzannedellal.org.il/
スザンヌ・デラル・センター
スザンヌ・デラル・センター
バットシェバ舞踊団
Batsheva Dance Company
バットシェバ舞踊団
バットシェバ舞踊団
バットシェバ舞踊団
バットシェバ舞踊団
バットシェバ舞踊団
Presenter Interview
2011.3.14
Leading the Israeli dance world - Program successes of the Suzanne Dellal Centre 
イスラエルのダンスを牽引 スザンヌ・デラル・センターの挑戦 
イスラエルを代表するバットシェバ舞踊団とインバル・ピント&アブシャロム・ポラック・ダンス・カンパニーの拠点であり、世界中からプレゼンターが集まる見本市兼フェスティバル「インターナショナル・エクスポージャー」を主催するテルアビブのスザンヌ・デラル・センター。元学校をリニューアルして1989年にオープンして以来、ディレクターとしてイスラエルのコンテンポラリー・ダンスを育成し、世界に発信してきたヤイル・ヴァルディ氏にこれまでの歩みと最新の取り組みについて聞いた。
(聞き手:乗越たかお[舞踊評論家]/2010年12月11日、テルアビブ スザンヌ・デラル・センターにて)


──スザンヌ・デラル・センターの始まりについて教えてください。
 スザンヌ・デラル・センターは、1989年10月19日に開館しました。この敷地には元々古い学校(男子校・女子校・師範学校)がありました。それを建物のファサードだけを残して、5年間かけて改装し、現在のような形にしていきました。中心になったのは、デラル財団・テルアビブ市・文化省がつくった共同体で、テルアビブ財団が建設を請け負いました。
 きっかけとなったのは、富豪だったデラル家の娘スザンナが事故で亡くなったことです。スザンナは別にダンサーだったというわけではありませんが、彼女の死を悼んだデラル家は彼女を偲ぶ建物を建てようとイスラエル中を探していたのです。義理の息子の1人がテルアビブに事務所をもっていたため、この建物について知っていました。その時にはすでに老朽化のためテルアビブ市が取り壊すことになっていたのですが、「デラル家が資金を提供するので、改装をして文化施設(カルチャーセンター)にしよう」と話を持ちかけたのです。
 元々は演劇と舞踊を扱う施設としてスタートしたものの、次第に舞踊専門になっていきました。最初は具体的なプログラムはありませんでした。ちょうどその当時、バットシェバ舞踊団が新しい物件を探していた時期だったので、引っ越してきて、スザンヌ・デラル・センターを拠点とするようになりました。

──バットシェバ舞踊団は1963年に設立されたイスラエルを代表するダンス・カンパニーです。ヴァルディさんもかつてはダンサーとして踊っていました。バットシェバ舞踊団は、1990年にオハッド・ナハリンが芸術監督になってから、一気に世界的な人気を誇るカンパニーに成長します。彼の芸術監督就任と、ここに移ってきたタイミングが、ちょうど合っていたのですね。
 私が踊っていた頃の舞踊団は、街の中心近くの4階建てのビルの中にありました。ですから引っ越しはすごく大がかりなものでした。
 スザンヌ・デラル・センターには、当初、2つのスタジオしかありませんでした。その後劇場をつくりましたが、特定のカンパニーのためではなく、オープンな劇場でした。これによって、イスラエルのダンス界は、スザンヌ・デラル・センターという「ダンスがつくられ、発表する場所」を獲得したわけです。
 ちょうどこの頃は、有力なダンス・カンパニーに新世代が台頭した時期でもあります。バットシェバだけでなく、イスラエルを代表するキブツ・コンテンポラリー・ダンス・カンパニーも、90年に創立者のユディット・アーノンに代わって若いラミ・ベールが芸術監督に就任しました。
 私はイギリスのニューカッスルにあるダンスシティというセンターと附属カンパニーのディレクターとしての経験を積んだ後、88年にイスラエルに戻りました。その時にここのディレクターの仕事を打診され、90年に就任しました。ダンスシティでは芸術的なことだけでなく、予算や政治的なことなどを学んでいましたので、就任当初から様々なアイデアをもって運営に臨みました。ここに88年9月3日付の申請書がありますが、これが最初に私が思い描いたダンスセンターの計画です。
 当時の私は、自分のキャリアについて考える時期にきていました。私は振付家ではないな、いずれ踊るのもやめるだろう……そうやって自分自身をクリアにしていくと、自ずとなすべきことが見えてくるものです。それでダンスを支援する意志を固め、情熱を注いだすべてがこの申請書です。ダンス、演劇、音楽、講義、セミナー、フェスティバル、展覧会──すべてここに書いてあります。いつもすぐ出せるところに保存してありますよ(笑)。
 しかし、今と違って当時のスザンヌ・デラル・センターの周辺には人も住んでおらず、暗くて、本当に何もないところでした。インフラも整っていなくて、バスも通らない細い道には街灯もなく、こんな奥まった場所へなど、誰も寄りつきませんでした。街からも遠く、この地域自体が全く人に知られていなかった。まさにゼロからのスタートでした。スザンヌ・デラル・センターがどこにあって何をしているところなのか、人々が認識してくれるようになるまでに5年はかかりました。途中湾岸戦争もありましたし、本当に大変でした。
 施設を改装してからは、演劇・ダンスの様々なカンパニーが公演をしたいと言ってくれるようになりました。しかし「専門性をもとう、ダンスに集中しよう」と決めたのです。もちろんテルアビブ市内にも劇場はあり、ダンスも活発に行われていましたが、ダンスの専門劇場はありませんでした。
 ともかく、場所があれば始めることができるわけです。あらゆるアイデアを駆使し、具体化し、活動を広げていきました。もちろん、そういうことは、ちょっとクレージーな人がいないとできないわけですが(笑)。そうして古い学校は劇場に変えられ、20年間かけてこの地域全体を活性化させていったのです。
  
──なぜダンスだったのですか? 通常、市や国は演劇やオペラ、クラシック・バレエを望むことが多いようですが。
 古い建物時代からインパル・カンパニー(注:インパル・ピントではなく、イエメン系ユダヤ人の民族舞踊の舞踊団)がここに拠点を置いていたということもありますが、やはりバットシェバ舞踊団が移ってきたことが大きかったと思います。この舞踊団は、1963年にバットシェバ・ド・ロスチャイルド夫人がマーサ・グラハムを芸術監督に迎えて創設した時から、極めて重要な存在でしたから。

──就任してからどのような取り組みを始められたのですか。
 就任早々は、いかに観客を集めるかが課題でした。そのために、私はとにかく公演をやり続けることにしました。観客が私1人だけ、ということも時々ありましたが、とにかく「スザンヌ・デラル・センターでは、いつも何かの公演をやっている」という認識をもってもらえるようなることが大切でした。まあ他にはやりようがなかったから、とも言えますが(笑)。
 それから、「Curtain Up!」や「Shades in Dance」といった若手振付家のためのフェスティバルを打ち出していきました。露出を増やすために、国内外から招聘するなどして「ダンス・ヨーロッパ」「テルアビブ・ダンス」「ダンス・イン・ジャズ」「サマー・ダンス」や国際的なコンクールを開催しました。95年には、初めて世界中の友人に声をかけて、イスラエルのダンスに起こっていることを見てもらおうと、「インターナショナル・エクスポージャー」を始めました。
 こうしたことを、ゆっくり時間をかけてつくり上げていきました。「何か新鮮なものを、他とは違うものを創り出そう」という私たちの挑戦は、同時に人々から求められていたことでもありました。若く才能のある多くの振付家が次々と現われてきました。我々は彼らに金銭的な援助はできませんでしたが、場所があれば、彼らは作品を創り上演することができます。私たちは彼らにその機会を与えることができました。この場所が、次々と若い才能を呼び寄せたのです。「客席がガラガラだって、それがどうした?」と私たちは確信していました。
 もちろんお金はあるに越したことはありません。市などからの援助はありましたが、大した額ではありませんでした。また「品質の高いものをやること」を大原則としていましたから、商業的なものはやりませんでした。商業的な作品はお金がすべてですし、「商業的ではないが芸術性は高い作品」を支えるためにこそ、政府や市や財団からの援助があるのですから。
 また年々公演が増えてくると、少しですがスポンサーもつくようになりました。99年にダンス・ヨーロッパを始めてから、スザンヌ・デラル・センターでワークショップや公演やプロジェクトをやるアーティストが増えていきました。今では空いている日のほうが少なくなり、公演もちょっとやり過ぎなくらいです。そのためここだけでは足りず、時には外部のオペラハウスを使ったりしています。2011年6月にはバットシェバ舞踊団が大きな野外劇場で公演をします。300平方メートルのステージに1300人が出演する規模になる予定です。

──スザンヌ・デラル・センターの予算はどれくらいあるのですか?
 年間総予算は1100万 NIS (イスラエル新シェケル。約2億5千万円)なので、そんなに多くはありません。スタッフは14名です。
 助成金は、テルアビブ市から175万 NIS(約4千万円)。イスラエル政府から110万 NIS(約2,500万円 確認中)。不足分の870万 NIS(約2億円)は、公演のチケット収入やスポンサー収入、貸館料、レストランなどからの収入で賄っています。時には財団や民間からの支援を得られることもありますが、不安定なのでそれに頼ることなく、ビジネスとして継続できるような予算を立てています。こうした支援を獲得するのも私の仕事です。失敗はできませんし、ダンスのことばかりを考えているわけにはいかない、きつい仕事です。しかしスタッフはみんな熱心に取り組んでくれています。
 イスラエルの観客は好奇心の強い人が多く、ここで上演される作品の質の高さを気に入ってくれています。私たちは、かなり変わった作品を上演していますが、さらに勇気をもって、大胆に挑戦しなくてはなりません。どれくらい続けられるだろうか、と思う時もあります。しかし大胆な仕事に対して、応援してくれる人もいますから。信念を貫くべきだと思っています。
 もちろん「こんなにお金をかけて、なぜこんなつまらない作品を」と言う人はいます。どんな作品も、好き嫌いはありますから。様々な文化があれば、様々な見方があるのは当然です。それがイスラエルという国がもっている多様性という素晴らしさだと思います。

──現在はバットシェバ舞踊団とインバル・ピント&アブシャロム・ポラック・ダンス・カンパニーという2つのカンパニーがスザンヌ・デラル・センターを拠点として事務所を構えています。バットシェバはセンター開館当時からということですが、インバル・ピントはどのような経緯だったのですか? 他にも多くのカンパニーが希望していたと思いますが。
 6〜7年前、事務所の空きができ、募集した時に、ちょうど彼らも事務所を探していたので決まりました。「なぜピントなのか、なぜ他のカンパニーではないのか」と言われても、その時はピントだったということです。人生というのはそういうものでしょう(笑)。彼らは非常に実力のあるカンパニーですし、彼らがここを拠点することは、お互いにとっていろいろな利点がありました。
 センターとカンパニーは全く自立・独立している存在ですので、家賃は請求しています。センターにもっと場所があれば、他にも実力のあるカンパニーや、あるいは施設をもたない若い人たちを受け入れたいところですが、これ以上、敷地内に建物を建てる許可が取れないのが実情です。

──スザンヌ・デラル・センターは、イスラエルのダンスのなかで、どのようなポジションに立っているのでしょうか?
 エルサレムにも劇場がたくさんあり、ダンスも盛んで、質の高いダンスプログラムを自主企画しているところも多いですが、ダンスを専門にしたセンターは他にはありません。
 私たちは今、他のセンターとも連携していて、イスラエル・オペラとの提携プロジェクトや、テルアビブ・パフォーミング・アーツ・センターと共同開催しているダンス・プロジェクトなどを行っています。あなたが昨日(2010年12月10日)見た「THE PROJECT - An Initiative of The Israel Opera and The Suzanne Dellal Center」(*1)がイスラエル・オペラとスザンヌ・デラル・センターが提携したもので、両者が実行委員会を組織し(ゼネラル・ディレクターは、ヤイル・ヴァルディとイスラエル・オペラ芸術監督のハンナ・ムニッツ)、海外の振付家3名に依頼して作品を創りオペラハウスで発表しました。
 イスラエルにはレパートリー・カンパニーがありません。私が踊っていた頃のバットシェバ舞踊団にはジェローム・ロビンスのバレエやマーサ・グラハムのモダンダンスのレパートリーがあり、観客はいろいろな演目を見て刺激を受けることができました。今のイスラエルにはそれが欠けているのではないかと感じていました。ダンサーにしても、オハッド・ナハリンやインバル・ピント以外に、もっといろいろなものを踊りたいのです。それは若いダンサーにとっていい挑戦になるはずです。
 今回のプロジェクトには、インディペンデントのダンサー260人からオーディションで選ばれた12名が出演しましたが、そういう意味でいい刺激になると思います。イスラエル・オペラは規模が小さく、バレエ・カンパニーを所有していません。そのためこれまではバレエを必要とするような演目はできませんでしたが、今後はこのプロジェクトで選ばれたダンサーが、必要に応じて招集されることになると思います。これはまだプロジェクトなので、継続的な契約になるかどうかはわかりませんが、発展する可能性はあると思います。
 イスラエルのダンスが高い評価を受けるようになり、スザンヌ・デラル・センターも私も現在はとても順調だと思います。沢山のプロジェクトもありますし。もちろん敵も多いですが、生き残ってきました(笑)。常にダンスを中心に考えながら、新しいアイデアも取り入れています。2011年はインド週間や中国週間、スペイン週間などの催しも行いました。12年には日本週間を計画しています。年に一度「The Piano Festival」を開き、有名人から一般の人まで4日間、ピアノを弾いていますし、夏には子どもためのSummer Workshopも開いています。しかしそれ以外は全部ダンスです(*2)
 スザンヌ・デラル・センターが成功したのは、やるべきことを明確にし、それに対して真摯になり、かつそれを実現するための場所を確保したからです。手を広げすぎては焦点を合わせられません。

*1 「THE PROJECT - An Initiative of The Israel Opera and The Suzanne Dellal Center」演目と振付家
Through the Center by Emanuel Gat
Light Years by Jacopo Godani
Super Nova by Marco Goecke 
 
*2 2011年度にセンターで予定されているスペシャルイベントのラインナップ
 2月 Chinese Dance Celebration
 3月 DIás de Flamenco
 5月 The Magic of Indian Dance
 6月 Batsheva Dance Company. Premiere
 6月 The Balkan Beat Box and The Suzanne Dellal Center at the Israel Festival, Jerusalem
 6月〜8月 Summer Dance
 7月 MadriDanza Tel Aviv
 8月 Bridge - Choreographic Dialogues - Summer Workshops
 9月 Photodance Exhibition and Auction / Shades in Dance
 10月 New Production - The Suzanne Dellal Center
 10月〜11月 Curtain Up!
 11月 The Piano Festival
 12月 International Exposure 2011


──いま欧州では多くのダンス・カンパニーが保守的になっています。ウィリアム・フォーサイスもアンヌ=テレサ・ドゥ・ケースマイケルもナチョ・デュアトも、長く拠点としていたところを追われています。資金を出しているスポンサーや財団、そして政治家がクラシックを好むことが多く、新しい挑戦がしづらくなる傾向がありますが、イスラエルではいかがですか。
 イスラエルはとても実験的で、そういうことはありません。いつも新しいものを求めています。常に新しいもの、新しいもの、新しいもの……そのため今では誰もマーサ・グラハムのことを知らない(笑)。国民性かもしれませんね。ただマーサ・グラハムのカンパニーは2011年に招聘するつもりです。観客がどう反応するか想像がつきませんが。
 もちろん、スポンサーの趣味に影響もされません。絶対にです。「資金を出しているのだから、これをやれ」などいうことは、誰にも言わせません。

──スザンヌ・デラル・センターの中にダンス学校はつくらないのですか?
 つくりません。ひとつには、物理的につくる場所がないからです。そしてスザンヌ・デラル・センターは、あくまでも「アーティストが作品をつくり出す場所」だからです。ある大学の先生から「ダンス教師を派遣してくれないか」という相談がありましたが、その時も断りました。ここはあくまでアーティストと観客のための施設であり、ダンスの創造を楽しむ場所なのです。
 それにテルアビブの街にはすでに多くの学校があり、バレエ、コンテンポラリー・ダンス、ジャズ……そして振付や創作法にいたるまで何でも教えています。だからここはこのままであるべきで、学校は必要ありません。

──インターナショナル・エクスポージャーについて説明してください。これは世界中のフェスティバル・ディレクターが集まるフェスティバルであると同時に、1年間のイスラエルのダンスが一望できる見本市の性格ももっています。いつから取り組まれているのですか?
 始まりは16年前の1995年、すなわちラビン首相が暗殺された年からです。全くの偶然ですが、立ち上げるには最悪のタイミングでした。爆撃もありましたが、それでもやりました。しかし海外から友人たちが来てくれて、みんな毎晩立ち上がってダンサーたちにスタンディング・オベーションを送ってくれました。とても感動的でした。
 第1回は演目も少なく、バットシェバ舞踊団などの有名カンパニーはプログラムされていませんでした。というのも、初めは「若手振付家を応援するために」というのがコンセプトだったからです。それはそれでとてもワクワクすることでしたが、2年目にはバットシェバ舞踊団やキブツ・コンテンポラリー・ダンス・カンパニーなど、みんなが参加したいということになりました。最初は2日間でしたが、それが3日間になり、4日間、5日間と増えていきました。
 フェスティバルには特別予算があるわけではありません。外務省が助けてくれますが、基本的にはすべて我々の予算からです。参加する条件は、「新作であること」です。それは若手も、大きなカンパニーでも変わりません。なぜか。海外から見に来ている人にすれば、去年見たのと同じものを見せられたら、もう二度と来たくなくなるからです。他では見られない新作だからこそ、毎年来る魅力があるのです。
 例えばバラク・マーシャルは才能豊かで海外にアピールしたい振付家ですが、新作ではないので今年はプログラムしませんでした。その代わり過去作品のダイジェスト版をアピールする場を別に設けました。またオハッド・ナハリンの芸術監督就任20周年記念作品『Kyr/Zina 2010』(過去作品を再構成したもの)のオマージュも行いましたが、これら例外的な存在で、後は新作です。

──参加者はどのようにして決めているのですか。
  エクスポージャーの参加者は選考委員会(*3)が選びます。ディレクターなど、ダンス界のプロフェッショナル8名と外務省からのオブザーバーが2名です。批評家はいません。
 選考委員は全員が全ての舞台を見ます。ビデオではなく上演です。地方の劇場から見に来てほしいと言われることもあり、必要と思えば行きますが、できるだけこちらに来てもらうようにしています。我々はセンターとしての意義を確かなものにしていかなければいけないので、スザンヌ・デラル・センターの公演が記憶に残るようにしていくべきだと考えています。それが「センター(中心)」であるということですから。
 選ぶ基準は、「プロの振付家がが創った新作であること。振付家はカンパニーを所有していること。作品は既に発表済みであること」。発表したのがスザンヌ・デラル・センター以外の劇場でもかまいません。また振付家は国際的な認知がなくてはいけないので、もしも海外公演の経験がなければ、我々が機会を与えることもあります。
 例外として、カンパニーを持たない人のプロジェクト作品でも参加できる場合があります。また以前は「イスラエル人の作品であること」という基準でしたが、いまでは「ダンサーがイスラエル人だったらいい」という具合になっています。それが新しいアプローチなら、柔軟性が必要だからです。
 また、スザンヌ・デラル・センターが開館当初から取り組んできた若手を対象にしたフェスティバル「Curtain Up!」 の出場作品の一部もプログラムされています。今回はCurtain Up! 出場作品12作品の内5作品がエクスポージャーに参加しました。
 我々が「紹介しなければならないのはこれだ」と選ぶ瞬間は、本当にワクワクします。なぜこれがいいのか、なぜあちらではないのか、国内か海外か、我々は何を提示するべきなのか……メインストリーム、古典、コンテンポラリー、前衛、ビザール(妙)な前衛……私はあらゆるアイデアに対応する努力をしています。何がそこで起こっているのか、好奇心をくすぐられます。そうでなければ、面白くなりません。
 エクスポージャーから多くのダンサーが世界へ飛び立ちました。みんな世界で認められたいと思っています。経済的にも恵まれますし、ここに縛られているより、進化をしていくためにも外国に出るのはいいことだと思います。そのための扉を開いていくのが私達の使命です。イスラエルを紹介するうえで、彼らは最適な大使だといえます。なぜなら彼らはとても独創的だからです。この国を紹介する最高の芸術の手法はダンスなのです。
 我々は世界の一部です。イスラエルは多くの問題を抱えていますが、それでも我々は質の高いダンスを創り出すことができますし、世界もイスラエルのダンスに興味をもってくださっています。それは幸運なことだと思います。多くの人が「スザンヌ・デラル・センターの成功の秘密は何ですか」と聞いてきますが、秘密などありません。情熱をもっているかいないかだけです。情熱が導いてくれます。この世界で自分に何ができるか、自分にしかできないことは何か、それを常に考え続け、実践していくことしかないと思います。

*3 2010年度エクスポージャーのコミッティ・メンバー
Tzlilit Ben Navat, Nilly Cohen, Siki Kol, Odeda Krubi, Ruti Lerman, Yaffa Olivetzky, Gideon Paz, Rachel Grodjinovsky, Claudio Kogon, Yair Vardi
 
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