The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
Contents
ジュード・ケリー
ジュード・ケリー氏
(Ms Jude Kelly)
メタル
2000年にケリー氏がロンドンで立ち上げたアーティストの創造的な交流の場で、現在は、英国北西部の都市リバプールと英国東部の町サウスエンドオンシーの2カ所に拠点をもつ。創造的なアイデアを通じて、市民の生活を向上させることを目的としており、都市再生、経済的継続性、環境問題などの課題などに取り組むプロジェクトを実施。また、アーティストが、芸術的な研究を継続的に実践できる環境づくりとして、アーティストが長期滞在することができる設備がある。
http://www.metalculture.com/


サウスバンク・センター
ロンドンのテムズ川に面した地域、サウスバンクにある複合文化施設で、ロイヤル・フェスティバル・ホール、クイーンズ・エリザベス・ホール、ヘイワード・ギャラリー、セゾン・ポエトリー・ライブラリーから構成されている。サウスバンク・センターの歴史は、1951年に開催された「英国博覧会」に起源があり、現在、クラシック音楽、ワールドミュージック、ロック、ジャズ、ダンス、演劇、美術など幅広いジャンルのプログラムを実施。
http://www.southbankcentre.co.uk/


クリエイティブ・パートナーシップ
創造性を通じて、学校教育の本質を変革する取り組みで、2002年に英国内の16の地域で試験的にスタート。学校と文化施設、芸術団体、アーティストなどとパートナーシップを形成し、芸術性や創造性の高い活動を学校のカリキュラムの一部に取り入れ、子どもの自尊心の向上、学校教育の質の向上、クリエイティブ産業に従事するために最低限必要なスキルの習得を目指している。
Presenter Interview
2011.4.20
A leader in the reinvention of British arts, idea-woman Jude Kelly 
英国の文化改革をリード ジュード・ケリーのアイデア 
英国を代表する複合文化施設、サウスバンク・センターの芸術監督であり、また、アーティストの創造的な交流の場、メタルの代表を務めるジュード・ケリー氏。彼女は、演劇の演出家としてキャリアをスタートした後、バタシー・アートセンターやウエスト・ヨークシャ・プレイハウスで地域に根ざした劇場づくりに積極的に取り組み、コミュニティ・シアターの実践者として注目されるようになる。近年では、創造性を通じて、学校教育の本質を変革する英国政府主導の教育改革プログラム、クリエイティブ・パートナーシップの立ち上げに参加。また、2012年に開催されるロンドン・オリンピックの初代文化教育委員会最高責任者に就任するなど、英国の文化政策に大きな影響力を持つケリー氏に、彼女の活動の根底にある考え方について聞いた。
(聞き手:吉本光宏[ニッセイ基礎研究所主席研究員・芸術文化プロジェクト室長])


物語の中の物語をつくる〜地域における演劇の実践

──まず、舞台芸術に興味を持つようになったきっかけを教えてください。また、地域の中でどのような演劇活動を実践されてきましたか?

 子どもの頃から、物語をつくるのが好きで、近所の友だちと一緒につくっていました。その物語を見てくれる観客が欲しくて、裏庭でリハーサルをして、近所の人たちに声をかけて、時には有料で発表していました。物語をつくる、舞台をつくるということは、人間の自然な営みですし、私にとって常に身近なものでした。12歳頃から、戯曲を読むようになり、演劇のための物語を書く人たちがいることを知りました。そして、その物語を観客の前で発表する方法に興味を持つようになり、将来は演出家になろうと決心しました。

 大学で演劇を学びながら、演劇ではどのような作家の物語が取り上げられ、どのような人たちがそれを観に来るのだろうかと考えていました。どのような人にも話したい自分たちの物語がありますが、ある人たちのつくる物語の中には、他の人たちのものよりもずっと重要だと感じさせるものがあります。もしも、私に物語を伝える才能があるのだとしたら、どのような人たちのために、また、どのような人たちの代わりに、この才能を活かすべきなのかと考えるようになりました。

 大学を卒業してから、青少年施設、学校、病院、労働者クラブや屋外スペースなど、人々が演劇をするとは想定していない場所で公演を行う劇団「ソレント・ピープルズ・シアター」を立ち上げました。人生を一緒に考え、自分たちの物語を伝える方法を探究する場が欲しかったからです。人々が演劇など期待しない場所で、どんな物語をどのように公演できるのか、毎日が実験でした。やってみて面白いと思ったのは、公演後に何が残るのかということです。そこには、記憶のエネルギーが残ります。そして、人々を興奮させたり感動させたりする催しによって、いつも同じようにしか使われていない場を別の空間に変えることにも興味がありました。

 劇団で4年を過ごした後、バタシー・タウンホールを引き継いで、バタシー・アートセンターを始めました。ロンドンの南部に位置するバタシーという地域には、労働者階級のコミュニティがありましたが、当時、中流階級の人たちが続々と転入してきたために、本来のコミュニティのかたちが変化し、労働者階級と中流階級で二分されていました。それで、バタシー・アートセンターをたくさんの実験的な活動やコミュニティ向けの活動が同時に起こる場所にしました。私は、様々な方法で、空間を再利用することに関心がありますが、バタシーはひとつの利用目的しかなかった建物を受け継いで、別の目的に使用できることを示したひとつの事例になったと思います。

 しかし、いろいろな人たちからは、「演劇の演出家なのに、なぜ、劇場の運営までするの?」と不思議に思われていました。私が演出家になった理由は、物語を伝えたいということでしたが、同時に、私たち自身を変えられるという物語も伝えたかったのです。つまり、私は、「虚構の物語を伝える」ということと、「私たちが暮らしている現実という物語を変える」という、二つのことにいつも興味がありました。そして、こうしたことは、コミュニティを支援することと非常に深い関係があると思います。

 バタシー・アートセンターで5年間を過ごした後、コミュニティに関係した仕事から離れて、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーでシェイクスピアのテキストに集中して過ごしました。ちょうどアーティストも作品を発表するばかりでなく、自分自身と向きあう時間が必要ですよね。シェイクスピアは最もすぐれた演劇の哲学者だと思います。シェイクスピアの人間性に対する考察力、また、言葉の美しさや文章構成の美しさ、舞台の構成はとてもすばらしいものです。これらの研究に没頭するのはまるでスパの中にいるようで、生命力が回復したような気持ちになりました。

 2年が過ぎようとしていた頃、ウエスト・ヨークシャ・プレイハウスの立ち上げに着手していたロイヤル・シェイクスピア・カンパニーから芸術監督に応募しないかと誘われました。予定地は、リーズのクアリーヒルという丘の上にありました。この丘は、かつてクアリーヒル・フラットと呼ばれる巨大な社会住宅(公営住宅)のプロジェクトが計画された場所で、とても話題になりましたが、すぐに実験的で大げさすぎると評判が悪くなりました。都市の中に都市をつくるコンピューター・アニメーションのようなアイデアで、建築家が計画した最初のプランでは、街の中に子どものための保育所や庭園などがつくられる予定でした。しかし、社会住宅を建設したときには、資金を使い果たし、それらは実現できませんでした。「実際に必要なものだけをつくる」と考えたのでしょうが、その必要だとされたものが明らかに不必要なもので、保育所や庭園が必要なものだったのです。それらがないために、この地域は、犯罪や公共物の破壊、暴力が溢れるスラム街になり、結局、すべてを取り壊さなければならなくなりました。その丘には的外れの理想主義があったわけですが、私は、「そんな場所に理想主義の代わりに劇場をつくるなんて何とすばらしいんだろう」と思いました。

 ウエスト・ヨークシャ・プレイハウスのあるリーズは、とても大きな都市ですが、自分たちは二流だという感覚がありました。でも劇場には、時代遅れで、特別すぐれているわけでもない人たちの物語、困難な状況にも関わらず人々が輝いている物語がたくさんあります。私は、街が二流だと決めつけてしまう考えには反対でした。「リーズ出身だからあるレベルまでしか成長できない」とは、思われたくないはずです。なので私は、リーズがなろうと思えば何にでもなれる場所だという物語を伝えられる劇場にしたかった。望みさえすれば、世界一の場所にもなれるし、リーズに来た人にその物語を伝えることもできる。これが、私が意味する「物語の中の物語」ということです。

 そこには、虚構の物語の上に積み重ねられた何ものかがあります。その文脈は、人はどうすれば自分の人生を信じられるかということに欠くことができないものです。つまり、ロマンティックな目的、現実から逃避する目的のために劇場を使うのか、そうではなくて人生の意味を考えるために劇場を使うのか──そこには大きな違いがあります。後者を実現するためには、人生にも意味を与える文脈の中に劇場を位置づけなければならないのです。これがウエスト・ヨークシャ・プレイハウスで取り組んだことで、それは都市をつくることでもありました。大学や市議会、企業などの周りに集まること、そして人々がそうした考えを探求できる場として劇場をつくることが、私にとって重要でした。

 もうひとつ私が素晴らしいと思ったのは、この予定地を見たときに、公共のホワイエの空間がすごく広かったことです。それには本当に興奮しました。例えば、劇場に行って、900人もの見知らぬ人と一緒に静かに座り、何かを鑑賞し、感動的な体験を経験するというのは特別なことなのです。一方、劇場から出たとき、もしくは劇場に入る前には、劇場とは違うもう一つの劇場、つまり観客ひとりひとりの物語があります。仮に、彼らが一つのストーリーを鑑賞するために一緒に劇場に入ったとしても、彼らが劇場から出るか、劇場に入る前には900の物語があるのです。

 私たちは、人間性を楽しみ、人間であるということを本当に楽しむ必要があります。私は、ホワイエの空間にその可能性を感じました。なぜなら、見知らぬ人々と一緒にいる楽しさを実感できる場所で何かを体験をしてもらうために、公共空間を活用できると思ったからです。ウエスト・ヨークシャ・プレイハウスには、誰でも入れるホワイエを作ることでそれを実現できる可能性がありました。誰もが歓待されていると感じられて、ホワイエで何かが始まるのです。そこではたくさんの面白い会話が生まれるという確信がありました。

 私は、子どもの頃、裏庭に近所の人々を集めていたときから、いつも「コミュニティについての物語」を伝えるという同じことをしてきたんだと、リーズで実感しました。「コミュニティについての物語」をコミュニティの人たちに観てもらうことで、コミュニティは変化することができるのです。


アイデアが出会い、アイデアが実現される場づくり〜メタル設立

──その後、様々なアーティストが交流し、新しい芸術表現の挑戦に取り組む「メタル」というスペースを立ち上げられたのですね?

 私は、ウエスト・ヨークシャ・プレイハウスを離れて、アイデアを生むための時間と空間の必要性について別の対話を始めたいと考えていました。当然かもしれませんが、人々が新しいアイデアにたどり着くための思索を支援するような助成制度はありませんでした。アーティストにも周期的なパターンがあると思いますが、私は物事を深く考えたいと思う周期に入るところでした。常に施設の運営に携わっていたり、組織の指導者でいたりするのは良くありません。アーティストには別の思考空間に入る時間――解毒のようなものが必要なのです。でも、そんなことができる助成はありませんでした。

 同時に、芸術活動への資金を獲得するために、「アクセス」や「地域再生」といった用語を使い始めていたことも知っていました。逆に政治家が文化政策で求めるようになるほど、私たちはそうした用語を使い過ぎていたのかもしれません。私は、制約のないところで「新しい言語」を生み出したいと思いました。それは、ゆっくりした言語、深い意味のある言語です。そこで、私の直感を働かせられる場、それを私の知らない人たちと共有できるスタジオをつくろうと決めました。

 当時、私には、アーティストや芸術関係者との交流について、いくつか疑問に思うことがありました。例えば、内覧会やオープニングなど、業界の主催するイベントではなぜか業界人に愛情がないと感じ、緊張しました。また、業界の中にいるとどうしてアートがあると感じられないのか、どうして私たちは競争的になるのか、どうして観客をおびえさせるのか、どうして業界人はいつも黒い服を着ているのか、どうして人々はいつも深刻でなくてはならないのか、なぜ人はそんなに身分を気にするのかなど、疑問に思うことをじっくり考えました。

 それから、私は見知らぬ人たちとすばらしい会話をしたことを思い起こしました。パーティで一緒に一夜を過ごしただけのよく知らない人たちとでも、翌朝には紅茶を入れて朝食をつくり、いろいろな会話ができます。その人は銀行員なのか庭師なのか、どんな人なのか本当によく知らないのです。つまり、その関係には、身分や立場がないのです。

 そこで私は、キッチンやテーブル、料理のことを考え始めました。そして、メタルをストーブから始める場所にしようと決めました。テーブルがあって、食事をして、ドリンクを飲んで、会話ができるミーティングのスペースがあるというアイデアから始めたいと思いました。

 もし、アーティストや思想家に会えば、彼らが直感を持っていないなどあり得ないということを信じられるはずです。直感はほとんどの人に備わっていますが、それをしまい込んでしまう傾向があります。だから、自然にアイデアを不可能なものだと思ってしまうのです。人々が本当に必要としているのは、アイデアの実現を後押ししてもらうことなのです。

──つまり、メタルを設立した理由をひとことで言えば、どんなことでしょうか?

 勇気を持って実行することです。「勇気をもって実行する」というのは、「恐れ」と「勇気」を組み合わせたものなのですが、アーティストが実行しなければいけないと分かっていることを阻止してしまう「恐れ」の存在に興味を持ちました。たとえば私には、ヨークシャ・プレイハウスを出て、何もない状態から新しいことを始めなければいけないという直感がありましたが、それを妨げる唯一のものが恐れだったと思います。

 もちろん、それはすべてのアーティストが感じるものです。その証拠に、恐れについて私はシリーズ映画をつくりました。こうした恐れを持つことは、企業の社長や何かを経営している人にも、非常によくないことです。これは人間共通の特性なので、逃れることができません。人はそれを隠そうとしたり、偽ったり、また、恐れを持ったまま何かを実行しようとするため、恐れは自身にとって非常に問題になりますし、他の人にとっても結局自己防衛したり詐欺行為として問題になる可能性があります。

 アーティストも同様に恐れを持ちますが、なんとかしてその恐れと対峙し、経験し、共生する必要があります。アーティストが避けることができない恐れとは、「才能を失うこと」「理性を失うこと」「身分や地位を失うこと」です。それは全く意味のない恐れです。なぜなら、アーティストには常にそれらすべてを失う覚悟ができていなければならないからです。すべてを捨て、恐れと向きあい、他人の恐れについて自分でも共感できる能力を持つ必要があります。メタルは、アーティストが恐れを抱いても、かまわない場所です。それはセラピーではありませんが、私たちが何をどのように成し遂げようとしているか全く分からなくても、それを許容してくれるような場なのです。特に、アーティストは、常に今までとは違う新しいことに挑戦しようとしている存在なので、常に恐れの入り口にいるのです。

──ロンドンのメタルでの具体的なプロジェクトを教えてもらえますか?

 例えば、ロンドンでは、コロンビア出身のアーティストを招聘しました。彼女は、ロンドンで多くの人々に会い、また、私が開いたディナーで人々に会ったのち、地下鉄で出会った人たちの顔の色を描いていくというプロジェクトを始めました。これは非常に巨大な作品になりました。地下鉄で出会う人の顔の色にはいろいろな階調があり、茶系からピンク混じりの黒色まで、とにかくたくさんの「顔色」を描き、そして、この作品は非常に多くの人々が人種や経済について話す大きなきっかけになりました。なぜなら、彼女がコロンビアで同じように描いた作品では、収入がなく、肌の色も暗い人々が描かれていたからです。人種や肌の色は、追求したり、簡単に会話に取り上げられるようなテーマではありませんでした。でも、そうした対話を促すため、この作品は様々な場所、そんなことが一度も議論されたことのない場所へと巡回されました。そして、彼女がレジデンスしていたことで、他のアーティストも触発されて、同様のテーマの作品を他にはできないような方法でつくり始めました。このような出来事は、メタルが行ってきたことのほんの一例にすぎません。

 全く異なる事例として、大勢の人々が地域再生について話し始めたということがありました。ロンドンのある地区で、アーセナル・フットボール・クラブの移転により、大規模な地域再生に取り組むことになりました。跡地をどうすべきか、明確になっていませんでした。普段は、そんなことをしたことのないアーティストのグルーブが、その地域で大規模なクリスマス・フェスティバルのようなものを開催し、イルミネーションを計画することにしました。彼らはフットボールのファンで、互いに顔見知りだったという理由だけで、一緒に集まったのです。その結果、30以上のプロジェクトが実行されたと思います。今まで一緒に活動することなどなかったアーティストが、互いに一緒に仕事をするようになりました。そしてその地域のイズリントン区議会は、彼らからアドバイスをもらうようになり、そのアーティストたちは地域再生計画に携わるようになりました。

 メタルは、見知らぬ人同士の出会いを誘致し、「今までこんなことを考えたことがある?」というような人々のアイデアに気付く単純な装置だということです。アーティストが誰にも阻止されることなく、アイデアをすすめて良い場なのです。それは、まさしく可能性の蓄積を生み出すようなものです。そして、私は、このモデルがアーティストや研究者(後にもフランソワ・マタラッソさんの紹介で出てきますが、thinkerの適切な日本語訳はなかなか思いつかないものの、思想家というとちょっと別の意味になるので、研究者としました)や意志決定者に限ったことではなく、テーブルを囲んだコミュニティにも適用できると実感しました。コミュニティ活動の大きな問題点のひとつは、専門家が専門家ではない人に対して何かを決めてあげなければならないという気になってしまうことです。コミュニティ・アーツ・プロジェクトはたいてい達成しようとする計画の中に、コミュニティが全く参加していないということもあります。そもそもコミュニティにはそれが本当に必要なものなのかどうか判っていないのです。気がつくと私は、紅茶を飲みながらテーブルを囲んで、中立の立場でアイデアをどのようにコミュニティに伝えられるかを模索していました。それが、メタルで、立地する場所にもっと深く関わっていこうと決めた理由です。


過去の物語を紐解く〜サウスバンク・センターの芸術監督になって

──2005年、サウスバンク・センターの芸術監督に就任されたのは、どんなきっかけからですか?

 2000年にウエスト・ヨークシャ・プレイハウスを離れたのですが、この前後に様々な出来事がありました。まずは、ウエスト・ヨークシャ・プレイハウスを離れる2年前から、メタルの構想を持っていて、適当な場所を探し、リノベーションを始めました。そして、2000年にメタルを立ち上げ、その2年後に、コレット・ベイリーに出会い、彼女もメタルの活動に参加することになりました。それから、オリンピックへの立候補のために、プランづくりに参加しないかと誘われました。これは少し別の話かもしませんが、すべて関連しています。これまでのオリンピックよりも、もっとはっきりと文化や芸術を盛り込んだオリンピックとパラリンピックにできれば何て素晴らしいだろうと感じました。もしそうなったら、特に、子どもや青少年のためになると考えたからです。それでその準備に参加し、2005年にはロンドン・オリンピックの開催が決定しました。同じ頃、サウスバンク・センターの芸術監督にならないかとヘッドハンティングされました。

 私は、その件についてコレットと多くのことを話し合いました。なぜなら、メタルは今後もずっと関わり続けるプロジェクトで、私が永遠につくり続ける芸術作品のようなものだからです。私たちは、どうしてサウスバンク・センターが芸術監督を必要としているかなど、サウスバンク・センターについて本当によく話し合いました。サウスバンク・センターには、1951年にオープンしたときの素晴らしい物語がありました。ところが当初の物語は完全に忘れ去られて、全く異なる活動をしていました。そこは、物語を忘れてしまったもうひとつの場所の例であり、誰かが方向転換する必要がありました。とても大変な仕事になるかもしれないけど、サウスバンク・センターを特別なものにすることができると確信し、私は芸術監督を引き受ける決心をしました。

──サウスバンク・センターのオープン当時の素晴らしい物語とはどんなものだったのですか?

 第二次世界大戦後、他の多くの国と同じように、英国は世界が戦争によって引き起こした結果に驚きや衝撃を受けました。そして、国際連合やユネスコ、世界人権宣言のように、世界で様々な運動が起こり、私たちはこのような過ちを二度と繰り返さないようにと、誰もが切なる願いをいだいていました。

 英国では、第二次世界大戦後の総選挙で労働党が政権を握りました(これは、保守党のウィンストン・チャーチルにとっては、当然のように選挙に勝つだろうと思っていた矢先のとても大きな衝撃だったと思います)。労働党政権下で国民の健康や福祉、教育などについて数多くのアイデアが提案されました。芸術もその中に含まれていて、アーツカウンシルが設立されました。政府が芸術を(補助金によって)支援するという概念が確立された、もっとも重要な時期でした。

 また、多くの人が地域再生のアイデアを持っていました。特に、疲弊してしまったテムズ川の南部は一部がスラム街のようになり見捨てられていました。その場所を綺麗にして、将来の可能性、つまり「国家を活性化する」ことすべてを賞賛する「英国博覧会」を開催しようというアイデアが生まれました。それはいわばモダニズムであり、あらゆる人が、実用的で美しい将来をデザインできるというもので、本当に規模の大きな展覧会でした。しかし、そこで重要だったのは、誰もが平等に参加できる初めての催しだったということです。会場で働いていた半分以上のアーティストは難民でした。

 まずは、「子どもと女性」にとって素晴らしい場所にしたかった。女性の原理や、遊び心の感覚を取り入れるということでした。なぜなら、戦争は、男性が組み立てたものだと考えられたからです。また、テムズ川との関係も重視されました。そうして、彼らは、水、光、緑について話合い、色彩に富んでいることが主要なアイデアの一部になりました。また、学校のあり方や社会自治の方法など、たくさんのアイデアを検証しました。

 当時、その場所を訪れた人々にとって、それは明らかにすばらしい体験でした。今でも語り草になっているほどです。しかし、チャーチルが政権に返り咲き、保守党政権がフェスティバルを解体してしまいました。そして残されたのは、ロイヤル・フェスティバル・ホールと、徐々に芸術のために変わった廃屋でした。1960年代には、クイーン・エリザベス・ホールが建設され、ヘイワード・ギャラリーも完成しましたが、この二つの施設は、あまり歓迎されず、中で何が行われているのか外からはわからないようにデザインされ、21エーカーの土地はほとんど活用されていませんでした。

──サウスバンク・センターの芸術監督になってどのようなことに取り組まれましたか?

 まず、私は、いくつかの絵を描きました。それまでのその場所の物語、忘れられてしまったこと、私が将来こうなってほしいと思うことなど、私なりに感じたことを4枚の巨大な絵にしました。今でも、定期的にそれらの絵を取り出して、その絵に込めたものをどのようにしたら実行できるか、少しずつ計画を進めています。それは、この組織がなぜそこにあるのかという存在理由を変えていくことを意味します。つまり、原点を思い起こすためです。それが物語なのです。

 なぜなら、サウスバンク・センターは、コンサートホールやアートギャラリーなどの場としてつくられたのではなく、1951年に「フェスティバルの場」としてつくられたからです。そこは、何千人もの多種多様な人が集い、創造性や芸術だけではなく、集まった人同士によって感動する場でした。広々としたパブリックスペースに、私は、その軌跡を感じます。つまり、建築家は、サウスバンク・センターを人々とアートを賞賛する場にしたいと思っていたのです。しかし、建物の中やステージの上で行われることだけが重視されるようになり、エネルギーのすべてを失ってしまったのです。つまり、サウスバンク・センターは、文化・芸術を賞賛する場であるという目的を忘れてしまったんです。

 そこで、私が重要と考えたことは、単なるクラシック音楽や美術の施設というより、人々が集まり、互いのアイデアを賞賛できるような場にしたいということでした。それは、クラシック音楽や美術展をやらないということではなく、別の考え方でセンターに来てもらうということです。現在、サウスバンク・センターに関わり、約5年が経ちましたが、今やっと私が導いた方向でサウスバンク・センターのスタッフが実践するようになってきました。組織全体が、何をなすべきなのかということを感じているのだと思います。

 しかし、英国博覧会の基本方針に戻り、21エーカーの土地を人間性を賞賛するフェスティバルの場に変えるという考えはすぐに受け入れられたものではありません。それまでサウスバンク・センターを支えてきた人たちは、そのことによって失われるものについて考えて躊躇しました。フェスティバルは、死とその後の復活という考えから始まります。フェスティバルは、再生と集会の場でなければなりません。つまり、サウスバンク・センターは、たくさんの芸術があってその周りに広場があるセンターではなく、人間の創造力の最も核心的なもののひとつとして芸術を実践する場だということです。組織の慣習を変えていくのは容易なことではありません。それは、「大好きな絵の下に、ヴァン・ゴッホがあることを保証します。しかし、上の絵を消すまでは見つけることはできません」といった具合に、人々を説得するようなものです。人々は、もちろんそんなことは怖くてできません。人は変化や損失を恐れます。しかし今、サウスバンク・センターのチームにはそれを超えるモチベーションがあります。

──サウスバンク・センターの方向性を変えることになった特別なプログラムはありますか?

 まず、「声の実験室(Voicelab)」というプロジェクトを始めました。多種多様な人たちを集め、あるレベルまで歌のレッスンをして、一緒に歌うというプログラムです。これは、人々が参加できる機会をたくさんつくるということを暗示するものでした。普通の人たちが集まって、非常に大きな組織の一員として何かに参加するというアイデアで、これは大きな変化だったと思います。それから、環境問題に取り組むグループをたくさん招聘し、サウスバンク・センターの一員になってもらいました。私がサウスバンク・センターで成し遂げた最大のことは、アーティスト・イン・レジデンスのプログラムをつくったことです。私は、ビート・ボクサー(ボイス・パーカッションのアーティスト)や、美術家、チェリスト、詩人などあらゆるアーティストに、レジデンスの機会を提供しました。

 それから、私は、様々なフェスティバルを始めました。クラシック音楽のプログラムや美術展などもありましたが、新たにフェスティバルを立ち上げたり、既存のフェスティバルの規模を拡大していきました。大小様々な規模のプログラム、無料のプログラムなどをホワイエで開催することで、スケールの大きな何かを変えることのできる強いアイデアを滝のように流し込んでいくことができます。その結果、人とエネルギーが塊となって野心に満ちあふれ、多種多様なことを同時に起こせるようになります。

──先日のマイム・フェスティバルもあなたが始めたものですか?

 いいえ違います。確かにそれも素晴らしいフェスティバルですが、観客やアーティストを変えていくという私の狙いが十分に反映されたものではありません。マイム・フェスティバル、ジャズ・フェスティバル、ダンス・フェスティバルなどは、会場に持ち込まれて文化施設が受け入れた作品を観客が鑑賞するものです。マイム・フェスティバルは素晴らしいものでしたが、これらは、主に制作する側のアイデアに基づいたフェスティバルで、アーティスト、観客、コミュニティが空間の中で一体となって経験するものではありません。

 私が始めた「アルケミィ」というイギリスとインドと南アジアのフェスティバルには、私の考えがよく反映されています。このフェスティバルでは、会場が飽和状態になるぐらい、展覧会と音楽イベントが集中的に開催されます。そして、来た人誰もがそこがフェスティバルの場なのだと感じます。その一部には教育プログラムが組み込まれていて、教育プログラムが別々に計画された場合と違い、その効果が目に見えて分かります。芸術活動の中で、一般的に困難とされることの一つは、いろいろなアイデアを十分に結びつけることができないことです。その結果、規模の小さな取り組みばかりが実施される際も効果が生まれにくくなっています。サウスバンク・センターは、巨大な文化施設なので、大きな効果をもたらすものが求められます。

 まるで繰り返し開けても同じ人形がでてくるロシアのマトリョーシカのように、私は規模の違いに関係なく、基本的には同じことをしているのだと思います。それは、どんな人でも力強い物語をつくる能力があり、また、場所には物語の記憶が非常に強烈に残るということを人々に理解してもらう努力をしてきたことです。もし、芸術の世界で仕事をするなら、土地の物語と人の物語のキュレーターにならなければなりません。それが、私がこれまでにしてきたことなのです。


芸術の新しい可能性を探る〜英国の文化政策への関わり

──英国の文化政策の委員会のメンバーだったと伺っているのですが、なぜ、文化政策に関わろうと思ったのでしょうか。

 それも基本的には同じで、良い物語をつくることも、悪い物語をつくることもできるということです。実践的なアーティストは、もしそれが可能だと思うなら政策づくりに関わるべきだと考えました。なぜなら、アーティストは別のパラダイムから考える訓練をしているからです。これは、政策づくりにとても重要なことです。私にとって、コミュニティがどうなるのかと考えることと、国がどうなるのかを考えることは一貫性のあることですし、とにかく、自分の暮らす国の政策づくりに貢献できるのは、喜んで受け入れるべき義務のようなものなのです。

 もうひとつの理由は、芸術は、私たちが何かを箱の中に無理に押し込むのと同じように、特別な助成の箱の中に押し込まれるべきではない、と思うからです。芸術がそのように箱の中だけで存在するというのは、非常に不自然です。それで私たちは、「芸術と教育」や「芸術とコミュニティ」について議論し、芸術をその箱から出してもっと全体として社会の一部である自然な場所に移したいと考えています。

 私は芸術だけを専門的に扱う委員会ではなく、ある別の委員会に参加しています。修復的司法(犯罪に関わるすべての関係者が一堂に会して集団的に解決するプロセス)でも、地域再生でも、また、教育でも、芸術は重要な役割を果たすことができるという考えを紹介するためでした。芸術がどれだけ大きな力を持っているかを理解すれば、芸術だけを扱う委員会に参加しても意味がないと思っています。

──それでは、文化政策の中で、具体的にどのようなことを実践されたのでしょうか。

 「All Our futures」という委員会で、学校は創造性と関わりを持つ必要があるということを、本当に強く提言しました。ここでも、アートプロジェクトをつくること自体が目的ではなく、多様な創造性を育成するために、教育の手法としてアートを活用するというものでした。そこから生まれた「Creative Partnerships」は、学校の中心的な課題として創造性を深く取り入れれば、信じられないほどの大きな効果が生まれるということを示すものになりました。実際に、レポートで発表されている事実は本当のことで、非常に成功したプログラムとなりました。

 しかし、一方で課題もありました。それは、このプログラムを実行する費用について人々の理解がまだ十分に得られていないことです。これは、敢えて言うならば、歯の治療費のようなもので、100年前には国が歯の健康管理にお金を出すべきだと人々を説得するのが難しかったのと似ているかもしれません。「すべての歯を抜いてしまって、入れ歯にすればいいんじゃないの?」と言う人がいたかもしれません。もちろん、それも一つの方法ですが、今では、歯の健康管理や歯医者は、現代社会の一部として定着しています。「なぜ今まで、創造性は特別なオプションとしか考えられなかったのだろうか?」と人々が思える時代が来るには、それと同じぐらい時間がかかるかもしれません。でも、私は、そういう時代が来ると思っています。

 その他には、刑務所と修復的司法の中でアートが重要な役割を担えるようにする取り組みにも参加しました。なぜなら、芸術活動を行い、作品をつくり、普段とは異なる特別な方法で考えることで、アートは自分がどんな人間であるかという人々の意識を変えることができるからです。刑務所の人たちの多くは、失読症を抱え、人生をめちゃくちゃにしてしまった人たちです。そして、彼らには余るほどの時間があります。私が刑務所の中で関わった仕事では、拘留者に顕著な効果がありましたが、これも抗生物質の使用に必要な費用を国が負担すべかというのと同じようなところがあります。つまり、効果が目に見えているけど、人を更生させる手段としてアートを活用することにお金を支払う心構えがあるかどうか、ということです。私は、最終的には、そうしたことが社会を運営するひとつの方法になると思っています。私たちは説得する力を持ち続けなければなりません。

 人間が、社会の一員、あるいはある部族の一員である限り、アートは、歌うこと、踊ること、食べることと同じように生活の一部だという事実にかえる旅路を歩んでいるのだと思います。しかし、教養が高まると、そうしたことは人々の生活から切り離されてしまいます。そして、芸術を楽しむ金銭的な余裕ができたり、ある程度の社会的な地位についたりしたときに、それらを取り戻します。つまり現代社会は、人間がお互いのために、またお互い同士で自然に行っていた起源とでも呼べる状態に戻ることを、私たちに求めているのです。ですから、政策づくりは、細分化が進んで、信じられないほど複雑になったこの世界において、アイデアをかつてのようにつなぎ直す道筋をどのようにつくっていくかということなのだと思います。

──つまり、ジュードさんにとって文化政策とは、芸術文化と芸術以外の社会的な課題の間に橋をかけるようなものなのでしょうか。

 ええ、でもそれはひとつの事例に過ぎません。しかし、メタルが主張しているのは、芸術は自立しなければならないということです。それに対して、メタルは、アーティストへの助成方法の政策を変えたという意味で、少し異なった例だと言えます。メタルでは、時間と空間というアイデア、時間と空間に関する権利、時間と空間の必要性を実践的なアーティストに提示しました。コミュニティのために活用されるかどうかは別にして、芸術の言語、手法をアーツカウンシルに再提案したのです。メタルは、芸術の唯一の有用性は芸術以外の分野で機能することだという考え方からは距離を置いたものです。なぜなら、最終的に、芸術がすばらしい理由は、ペットの犬に対する愛情のようなもので、そこには基準などないのです。芸術は役に立つもので、それだけが芸術の素晴らしさだと考えるとしたら、つまり、芸術の言語や芸術を芸術の機能性だけで評価するとしたら、それは非常に危険なことです。しかし、芸術には芸術以外の機能は必要ないというなら、それもまた芸術の衰退を意味するでしょう。つまり、この芸術が芸術であることのバランスと、政策のバランスをどのように維持するかということなのです。これが、私が本当に伝えたいポイントです。私は、芸術が何かに役立つということを推進することが政策立案だとは考えていません。私の政策の仕事は、芸術は非常に奥が深くて多くの利用方法がある何か複雑なものだということを、人々に理解してもらいたいということなのです。

──日本では、教育や社会的な課題に芸術を道具として使うのは、芸術の自律性を損なうことだと言う人もいますが、どのようにお考えですか?

 そういう人々が、何を恐れているのかが分かりません。それらのプログラムによって、芸術がなくなってしまうことはありません。芸術は、世界中でいろいろなかたちで創造され、また繰り返し創造されていくでしょう。例えば、物語の読み聞かせや絵を活用して健康への考え方を変えることにつながるのであれば、それは素晴らしい活用方法だと思います。でも同時に、美術館で絵の前に座って鑑賞するということも、辞められません。私が言いたいのは、芸術そのものと芸術を道具として使うことは何も矛盾しないということです。

──文化政策の研究者のフランシス・マタラッソさんに同じ質問をしたら、彼は、純粋なアートなど存在しないと答えてくれました。

 私もそう思います。私も、純粋なアートというのは、(額縁の絵のような)壁の上の決められたサイズの四角いものだと考えるのは、ばかげていると思います。これはアートで、これはアートでないということは、ギャラリーの壁に掛けられるアートのイメージをつくるのに便利な方法だったのです。すべての芸術は、消費目的のレールに載せられていて、一部の人たちが「これが芸術の境界線だ」と勝手に決めていたのです。

──最後に、現在の課題や将来の方向性について教えてください。

 今年の3月にオペラの演出をします。このオペラは、オーギュスト・ピカールという、アインシュタインの相対性理論を証明するために、世界で初めて気球で成層圏に到達した物理学者の物語です。作曲は、ゴールドフラップのウィル・グレゴリーによるものです。これまでもいくつか音楽劇やオペラの演出をしたことがありますが、今はそういう自分に作品制作を委嘱することに興味があって、新たに一緒に仕事をしてくれる作家や音楽家への委嘱を考えています。おそらく、何人かのチームで作品を作り始めることになると思いますが、近々に始めたいと思っているところです。

 メタルに関しては、ちょうど議論をしているところで、国際的な交流に着手したいと考えています。既に、コロンビアとは交流を始めていて、それをもう少し深めなければなりません。世界の商品や資本は、常に信じられないようなスピードで流通していますが、文化交流も同じように関係構築していく必要があります。国際交流のスピードを上げなければなりません。

 そのため、メタルでは国際交流や国際的なパートナーシップをもっと先行させるつもりです。それは、次に進む非常に刺激的なステージになると思います。文化政策や政府によって定義されたことを考えるのではなく、その枠から出なければなりません。なぜなら、文化政策というのは、人々が実際にやっていることに追いついて、それを形にしようとしてきたものだからです。新しく台頭してきた、ブラジル、ロシア、インド、中国だけでなく、経済的に新しく台頭してきた国々では、文化の中に驚くほどのエネルギーがあります。このエネルギーの一部を、老朽化した国々で活用して、どのようにして彼らのパートナーになれるのかを考えること。それは、非常に興味深いことです。私とコレットは、このようなパートナーシップをより一層探究していくつもりです。
 
TOP