The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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ユーゴ・ドゥ・グレーフ
ユーゴ・ドゥ・グレーフ氏
(Mr. Hugo De Greef)
カイテアター(Kaaitheater)
http://www.kaaitheater.be/
カイテアター
Presenter Interview
2011.5.26
Hugo De Greef, presenter behind the “Flemish wave” 
フレミッシュ・ウェイブの仕掛け人 ユーゴ・ドゥ・グレーフ 
ユーゴ・ドゥ・グレーフは、ブリュッセルで国際フェスティバルのカイテアター(Kaaitheater)を1977年に創設。20年間にわたってディレクターを務め、アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルやヤン・ロワースなどベルギー・フランダース地域のアーティストを世界に知らしめた「フレミッシュ・ウェイヴ」の影の立役者。その後、プロデューサーとしてフランダース・フェスティバル、欧州文化首都の運営に関わり、また、舞台芸術に関する専門誌『エトセトラ』の創刊やIETM(Informal European Theatre Meetings)の創設にも参画するなど、演劇人、劇場、フェスティバルのネットワーク化に尽力してきた。欧州フェスティバル協会(EFA)の事務局長、ブリュッセルの文化施設フラジェのディレクターを歴任し、現在は国際文化政策に関する文化大臣顧問を務めているドゥ・グレーフ氏に、現代舞台芸術の創造基盤が大きく欠けていたフランダース地域の発展をいかに推進したかを聞いた。
(聞き手・構成:藤井慎太郎)


──まずは、ユーゴさんの経歴についてお聞きしたいのですが、プロデューサーとして活動を始めるまで、どういったことをされていたのですか。
 私はブリュッセルの近郊に生まれました。実は今もそこに住んでいます。アントワープのステュディオ・テルリンク(Studio Teirlinck)、ゲントのコンセルヴァトワール、ブリュッセルのRITSというフランダース地域の3つの中心的な演劇学校を転々とするようにして、演技や演出を学んでいました。当時の教育内容は一般的にいって今よりも古典的なもので、学校によっても異なりましたが、不条理演劇の劇作家・演出家や、イエジィ・グロトフスキ、ピーター・ブルックらの実験的な仕事について学びました。
 1960年代後半から70年代はヨーロッパ全体で政治演劇が盛んになった時期で、当時の新しい演劇といえば政治的な演劇でした。アヴィニョン演劇祭でも上演されたアルトゥロ・コルソ(Arturo Corso)とヴァネス・ファン・ドゥ・フェルド(Wannes Van De Velde)が1973年に演出したダリオ・フォ(Dario Fo)作『ミステロ・ブッフォ』は、フランダース演劇にとっても、ヨーロッパ演劇にとっても、私個人にとってもきわめて重要な作品になりました。その後、俳優や演出家として多少仕事もしましたが、オーガナイザー、プロデューサーとしての仕事にすぐに惹かれていきました。1977年、最初のカイテアター・フェスティバルを開催したときには、まだ23歳でした。

──ブリュッセルにカイテアターを創設しようと思ったきっかけは何だったのですか。
 個人的に、当時のヨーロッパで重要な役割を果たしていた2つの組織に大きな影響を受けていました。第一がアムステルダムのミクリ(Mickery)劇場です。そこは、ロバート・ウィルソン、ブレッド・アンド・パペット、パフォーマンス・ガレージ、ウースター・グループなど、アメリカの前衛演劇をヨーロッパに招聘していました。第二がジャック・ラングが創設してディレクターを務めていたナンシー演劇祭です。ナンシー演劇祭は当時の最も重要なフェスティバルで、前衛演劇、とりわけ共産主義圏の学生演劇、アメリカの演劇を見せてくれました。タデウシュ・カントール(Tadeusz Kantor)、ピナ・バウシュを初めて見たのもナンシー演劇祭でした。

──そういえばそのどちらも日本から寺山修司を招聘していましたね。また、ナンシー演劇祭は舞踏をヨーロッパに紹介する上でも重要な役割を果たしました。
 そうした作品を上演する場をブリュッセルにもつくりたいと思ったのです。たまたま、フェスティバルを創設する機会が得られて、1977年4月のナンシー演劇祭で見た作品を3本、9月にブリュッセルに呼ぶことができました。これがカイテアターの始まりです。この時代に刺激的だった政治演劇、アンダーグラウンド演劇をスペイン、ドイツ、ベルギーから多く紹介していました。

──同じ頃にドゥ・スハームト(「恥」を意味する、De Schaamt)も創設されていますね。アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル、ヤン・ロワースも参加していた、重要なマネージメント組織だったと聞いていますが、ドゥ・スハームトはどのような組織だったのですか。
 友人の間で始まった制作のための組織と言えるでしょう。既存の組織では前例がなく、許されないような何かをやりたい若いアーティストの集まりでした。新たにメンバーを加える際には、非常に高い水準が求められましたので開かれた組織ではありませんでしたが、その仲間の間では絶対的な信頼と寛大さが存在していました。いってみれば、みんなでひとつの銀行口座を共有していたようなものです。あるアーティストが受け取った収入が別のアーティストの創作の資金になっていたわけです。もちろん、単にどんぶり勘定にしていたわけではなくて、年末にはきちんとカンパニーごとの収支を計算して明らかにしていました。
 ドゥ・スハームトの中心になっていたのはラデース(Radeis)という3人組のユニークな集団でした。今ならヴィジュアル・シアターとでもいうべきものだったのですが、当時はほかに呼びようがなかったのでマイムと呼ばれていました。ローザスの池田扶美代の伴侶でもあるジョス・ドゥ・パウ(Josse De Pauw)はその中心でした。
 1970年代後半のヨーロッパでは、アムステルダムで1975年に創設された道化祭を端緒として、「道化(フール)」のフェスティバルがドイツ、フランスほかヨーロッパ各国で相次いで開かれ、一種の「道化祭」世代を形成していました。後になってみれば、前衛演劇、ダンス、サーカス、大道芸に分化していくようなものが、ジャングルのようにごちゃ混ぜになって詰め込まれていました。こうしたフェスティバルがラデースを招聘してくれたおかげで、ヨーロッパ中のプロデューサーと知り合いになることができました。
 その後、アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル、さらに後にヤン・ロワースもドゥ・スハームトに加わりました。彼らの成功のおかげで、私はプロデューサーとして、すでに知名度があるアーティストの売れそうな作品とまだ知られていないアーティストの作品を合わせて売り込むことができるようになりました。ドゥ・スハームトは1985年にカイテアターに統合されてひとつになりました。ヒー・カシールス(Guy Cassiers)は、フランダースだけでなくヨーロッパでもっとも活躍している演出家ですが、彼も同じようにカイテアターで仕事を始めた一人です。
 カイテアターでは作品を上演するだけでなく制作していましたが、同時代、1970年代後半から80年代前半、私たちの制作した作品を招聘してくれるアーツセンターが各地に出来たのはありがたいことでした。フランダースのルーフェンのストゥック(Stuk)、ゲントのフォーラウト(Vooruit)やニューポルト(Nieuwpoort)、アントワープのモンティ(Monty)、コルトレークのライムライトなど、各都市にインディペンデントのアーツセンターがつくられていったのです。ハンブルクのカンプナーゲルなどが有名ですが、こうした現象はドイツ、オランダ、スイスでも同時に起こっていました。
 公的助成を受けずにやっていたところばかりだったので、ギャラはないも同然でしたが、より多くの観客に見てもらえるというプラットフォームとして大きな意味を持っていました。アーティストは多くの場合 ── 私自身もかなりの間そうだったのですが ── 失業者として手当を受け取りながら活動を続けていました。
 その後、短期間で終わるフェスティバルではなくて、もっと持続的に活動することの必要を感じ、カイテアターは年間を通じて上演を行うようになりましたが、最初の5、6年間は自前の劇場がなく、あちこちの劇場を借りて遊牧民的に公演を行っていました。1983年にもともとビール醸造所だった建物、現在のカイテアター・ステュディオを買い取って拠点とし、90年代初めまで作品の稽古に使っていました。自前の劇場を持つ必要を痛感するようになり、90年代の初めに、1920年代に建てられた後に倉庫になってしまっていた劇場、ルナテアター(Lunatheater)を見つけ、フランダース政府を説得してこの劇場を買い取らせたのです。

──先ほどの失業手当の件ですが、ベルギーにも、フランスのアンテルミタン(intermittent)制度(*1)にも似た舞台芸術家に対する休業補償制度が存在すると聞きますが、その制度の恩恵を受けていたということでしょうか。
 当時はアンテルミタンのような制度はありませんでした。けれども、通常なら失業者は毎日、役所に行って失業状態の認定印を受けなければいけないところを、文化や社会福祉の領域に従事する労働者は、その義務の免除を受けて、役所に足を運ぶことなく、手当を受けることができたのです。その後、フランスのアンテルミタン制度と部分的に似ている制度も導入されていて、現在では公的制度から収入を得ているアーティストも数多く存在します。

*1 雇用保険の枠組みにおいて、一定時間数の労働実績があって非正規雇用に従事する舞台芸術家を給与所得者と見なして、契約がない時期に失業手当を支給する制度


──現在、アラン・プラテル(レ・バレエ・C・ドゥ・ラ・B、Les Ballets C. de la B.)、ヤン・ファーブル(トラウブレン、Troubleyn)、ヤン・ロワース(ニード・カンパニー、Need Company)なども、自分のカンパニーとして助成金を受け取りながら、若手のアーティストの作品制作と普及にその一部を当てていますね。こうした助成金の使い方はフランダースの演劇界の特徴のように思うのですが。
 こうした芸術家の間の連帯が生まれたのは、私たちの世代からだと言っていいでしょうね。ドゥ・スハームトの場合は政府の助成金は受け取っていませんでしたから状況は違いますが、助成金が全く見込めない状態で(現在はフランダース政府の舞台芸術に対する支援はきわめて手厚い)、アーティストの間で融通し合った資金が助成金のような役割を果たしたわけです。失業手当だってそうかもしれませんが(笑)。フランダースでは助成金の配分をめぐる世代対立が比較的少ないのですが、これはとてもよいことだと思います。

──アーツセンターはそれぞれ独立した動きの中から、バラバラに生まれてきたそうですが、互いに連携してはいたわけですよね。
 ベルギーはご存知のように小さな国ですから、私たちはもちろん互いに顔見知りでしたし、ネットワークも立ち上げました。フランダース・シアター・サーキット(VTC、Vlaams Theater Circuit)という、フランダース地域のアーツセンターの連合組織をつくったのです。VTCは、集合体として国外からアーティストを招聘してツアーを企画しやすくしたり、文化政策に関して政府との協議の窓口となったりしました。この組織が現在のフランダース演劇研究所(VTI、Vlaams Theater Insituut)の母体になったのです。VTCも1970年代末、私が中心になって創設した組織です。アーツセンターとは別に、ハッセルト(Hasselt)やトゥルンハウト(Turnhout)のような、より小規模な市がもっぱら主体となって設立し、運営していた文化センターの中にも、国際的な活動をしていたところがありましたので、そことも協力し合いました。
 その仲間たちと、現在では当たり前のものとなった共同制作の手法も編み出しました。資金がありませんでしたからね。80年代にはカイテアターは徐々に政府から認められて助成金も受けられるようになったものの、その金額はわずかで、現在受けている支援の水準とは比較になりませんし、アーティストに対する助成金はないも同然でした。
 共同制作の最初の例が、ケースマイケルの出世作となった『ファーズ(Fase)』(1982)です。彼女の作品はその前の『アッシュ(Asch)』から見ていましたし、わざわざニューヨークに行って留学中の彼女の活動もフォローしていたくらいで、個人的にもよく知っていました。当時としては珍しいことですが、稽古中だった『ヴァイオリン・ファーズ』のヴィデオ映像があったので、プレゼンターたちに「フランダースに新しい才能が出現した」と自信を持って見せたら、「なぜこんな変な作品の制作に金を出す必要が?」と、みんな非常に否定的な反応でした。私が力を振り絞って説得したおかげで共同制作に同意しましたが、今ではみんな自慢げに「自分がケースマイケルと最初に仕事をした」といっています(笑)。
 その後、状況の変化とともに、共同制作や国外からの作品招聘の母体となるよりも、演劇学的、文化政策学的な見地から理論的な基礎を固めたり、ネットワークを支援したりすることの方が重要になり、VTCはそのミッションを変えて、1987年にVTIとなったわけです。ギド・ミネ(Guido Minne)はルーフェンのストゥックを創設し、1979年にカイテアターのスタッフに加わった人物ですが、彼がVTIの初代のディレクターとなり、現在のVTIの基礎を築きました。

──今も、VTIがIETMとともにカイテアターの建物の中にあるのは、そうした経緯によるのですね。IETMの創設にも中心的な役割を果たされたと聞いていますが、その設立の経緯についても教えてください。
 IETMは1981年頃に自然発生的に生まれた組織です。アーツセンターやフェスティバルがフランダースだけでなく、ドイツ、フランス、イタリア、オランダなどヨーロッパ全体につくられ、活動が発展していた時期でした。アーティストのツアー活動を通じて私たちは知り合いになりましたが、もっと頻繁に会って、互いのよく知るアーティストについてもっと踏み込んで話をしたいと思うようになり、定期的に会合を持つことになったのです。これが「インフォーマルな演劇界のミーティング」の場として構想されたIETMの始まりです(*2)。IETMは、劇場人が国籍や言語の壁を超えて出会い、知り合い、一緒に酒を飲み、ときに羽目をはずして楽しむ機会をもち、友情を土台にして仕事をすることを可能にしました。IETMは、ヨーロッパ全体に共同制作を当然のものとする文化を広げたと考えています。

*2 IETMはInformal European Theatre Meetingの略称だが、現在ではIETMはこの当初の名称を用いずにInternational Network for Contemporary Performing Artsを名乗っている。


──ベルギーは1993年のアントワープ、2000年のブリュッセル(2000年はミレニアム・イヤーとして例外的に10都市が選ばれた)、02年のブリュージュと3回の欧州文化首都を経験しましたが、ユーゴさんはブリュッセルとブリュージュ、そのうちの2回について責任者を務めています。
 欧州文化首都は1986年に始まった制度ですが、その都度、多くの友人・知人が関係者として関わっていましたから、責任者としての仕事を引き受ける以前からその事情には通じていました。2000年のブリュッセルは、芸術監督を打診され引き受けたのですが、結局は苦い経験になりました。フランス語圏とオランダ語圏の政治的対立がもとになって、私は4か月で辞職を余儀なくされました。2002年のブリュージュについては、私は総監督を務めましたが、これは逆にきわめてうまくいき、現在でもなお成功例として国際的に参照されています。

──ユーゴさんはフェスティバルとの関わりがきわめて深い一方で、フェスティバルとして発足したカイテアターを常設劇場に変えて、そのディレクターも務めたように、フェスティバルと劇場の両方をよくご存知です。フェスティバルの意義についてどのように考えていらっしゃいますか。
 カイテアターは、複雑な話を簡単に言えば、国外から招聘した作品、私たちが制作した作品、ドゥ・スハームトのアーティストたちがつくった作品を上演しようと思えば、短期間のフェスティバルでは充分ではなく、年間を通じた活動が必要になったので劇場にしました。
 フェスティバルについては、今日ではあまりにその数が増えて内容も多様化していますから、一般的に何かを語ることはきわめて難しい。もちろん、短い期間の中に凝縮されたエネルギー、密度の濃さ、楽しさ、多様性はフェスティバルの一般的な特徴だと言えるでしょうし、出会いや発見の場としての機能、「祭り」や「パーティ」にも通じる高揚した雰囲気もそうでしょう。ここTPAM in Yokohamaでも(このインタヴューはTPAMの開催期間中にBankArt NYKにおいて行われた)、1週間の間に数多くのレクチャー、ディベート、ワークショップ、ショーケース、ブース・プレゼンテーションなどが集中して行われ、祭り的、フェスティバル的な雰囲気の中で、舞台芸術に関係するプロフェッショナルに限られているとはいえ、参加者がきわめて濃密な時間を過ごしています。こうした特徴は、新しいこと、見知らぬものを人々に知らしめ、受け入れさせる上で強い原動力となります。
 フェスティバルの文脈においては、国外や若手のアーティストの作品、実験的で型破りな作品を見せることがより容易ですし、通常の劇場の活動の文脈におけるよりも大きな反響を得ることが可能です。美術において街のギャラリーで展示するのと、ドクメンタや上海ビエンナーレで展示するのとでは、同じ作品でも受容がまったく異なるのと同じです。フェスティバルには劇場よりも高い自由度があります。観客自身、フェスティバルには「驚き」を求めてやってくるからです。それはフェスティバルの強みです。開催都市のイメージの向上や経済的な振興を理由として開かれるフェスティバルもありますし、それはそれで結構なことだと思いますが、私が問題にしたいフェスティバルは、まず第一にアーティストによるすぐれた創造、およびそれを可能にする文脈、環境を生み出すという野心を持ったフェスティバルのことなのです。

──最近では欧州フェスティバル協会(EFA)の事務局長を務めていらっしゃいますが、EFAはどのような組織なのでしょうか。
 EFAは、ドゥニ・ドゥ・ルージュモン(Denis de Rougemont)というスイス人の知識人が主導的役割を果たし、バイロイト、エクサン・プロヴァンスなどの現在でも有名な音楽祭が中心となって、1952年にジュネーヴに事務局を置いて発足した組織です。ドゥ・ルージュモンは、文化を通じた欧州の和解と統一を目指し、戦後の欧州統合の動きの中で大きな役割を果たし、欧州文化財団を創設した人物でもあります。EFAは、年に一度総会を開いて、ディレクター同士が会って親睦を深め、情報を交換することが目的でした。共同制作の推進や、文化政策に関する働きかけなどは当初の目的にはありませんでした。クラシック音楽ではオーケストラ、歌手、演奏家を雇用する上でエージェントに多くを負っているので、そうした情報を交換することも有益だったのです。また、クラシック音楽祭は旧東欧にも存在していましたから、EFAはその後、共産圏のフェスティバルもメンバーに迎え、まだ東西に分断されていたヨーロッパにおける文化の架け橋となることもできました。そういえば、クロアチアの首都ザグレブには共産主義時代の1961年から現代音楽ビエンナーレも存在していました。現在のクロアチア大統領であるイヴォ・ヨシポヴィッチ(Ivo Josipović)はこのフェスティバルのディレクターを務めていたことがあるので、私たちは彼のことをよく知っているんですよ。
 オランダ・フェスティバルのディレクターを務めた人物フランス・ドゥ・ラウテル(Frans De Ruyter)が理事長であった時代に大きな改革がなされて、音楽祭だけでなく、演劇祭やダンス・フェスティバルも加盟するようになり、メンバーが多様化しました。オランダ・フェスティバルは規模の大きさもさることながら、音楽のほかに前衛的な演劇・ダンスの作品もプログラムに加えていた点でも重要です。スイスがEUの加盟国ではないことで不都合も生じていたので、ジュネーヴからゲントへ事務局を移すことになりました。EFAの事務局はゲントのフランダース・フェスティバルの事務局内に置かれています。その後に、私が事務局長の職を引き受けることになったのです。現在は、かつて私のもとで働いてくれていたダルコ・ブリーク(Darko Briek)が事務局長となってそれまでの活動を継続、発展させてくれています。

──現在のEFAの活動はどのようなものですか?
 活動の柱をなしているのは、研究、出版、人材育成、文化政策の4つの事業です。まだ充分なものとはいえませんが、研究者グループと連携してフェスティバルに関する研究を進めています。出版事業として「EFA Books」シリーズを刊行していますが、その中で研究の成果を発表しています。
 「若手フェスティバル・マネージャーのためのアトリエ(Atelier for Young Festival Managers)」というトレーニング・プログラムも開始しました。年に2回、若手のプロデューサーを集めて、フェスティバル界の中心人物によるレクチャーやラウンドテーブルを通じて、フェスティバルが歴史的に蓄積してきた経験を共有し、アーティストの創造活動を可能にする環境づくりについて議論します。そして欧州レベルでの文化政策の形成のための働きかけを行います。そのために2008年に準備を開始し、欧州文化の家(European House for Culture)を2009年に正式に発足させました。
 欧州文化の家は、欧州あるいは国際的な文脈において活動する文化ネットワーク組織をパートナーに迎えて、実務的作業と出会いのための場を提供しています。欧州文化の家はブリュッセルにあるアーツセンターであるフラジェの一角に事務局をおいていますが、そこにパートナー組織もまた事務所を置くことができます。ひとつのコーヒーメーカーをみんなで共有することで、これがまた出会いとネットワーキングの場となるのです。欧州文化の家は、さらに欧州レベルでの政策決定に文化セクターの声を反映させることも目的としています。

──1970年代以来フランダースが経験し、実践してきたことは、今後の日本の舞台芸術環境のあり方について考える上で、重要なヒントを示しているように思います。どうもありがとうございました。
 
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