The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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ユーディット・ゲルステンベルク
ユーディット・ゲルステンベルク氏
(Ms. Judith Gerstenberg)
ハノーファー州立劇場
Staatstheater Hannover

http://www.staatstheater-hannover.de/
ハノーファー州立劇場
Presenter Interview
2011.7.13
Bringing the dramaturge to the cutting edge  The approach of Niedersachsen Staatstheater Hannover 
ドラマトゥルクの最前線 ハノーファー州立劇場の取り組み 
2009年にラルス=オーレ・ワールブルク(Lars-Ole Walburg)が演劇部門の芸術監督に就任して以来、フィールドワークに基づいた実験的な演劇プロジェクトを次々に実現しているハノーファー州立劇場。そうしたプロジェクトに不可欠なのがドラマトゥルクの存在である。チーフ・ドラマトゥルクのユーディット・ゲルステンベルクに地域や社会の問題に真っ向から立ち向かっている演劇プロジェクトやドラマトゥルクの仕事について聞いた。
(聞き手:クラウトハイム・ウルリケ)


──ゲルステンベルクさんは2009年からハノーファー州立劇場で芸術監督のラルス=オーレ・ワールブルク(Lars-Ole Walburg)のチームでチーフドラマトゥルクを務めていらっしゃいます。先ずハノーファー州立劇場の基本情報を教えてください。
 ハノーファー州立劇場は、非常に歴史のある歌劇場の他に、演劇部門として650席のホール、400席の会場、200席の会場2カ所という5つの劇場がある大きな施設です。全体の年間予算は5,200万〜5,400万ユーロ(約60億円〜62億3,000万円)です。ニーダーザクセン州が負担していて、ハノーファー市からの支援はありません。オペラ部門、演劇部門、劇場管理部門があり、予算のほとんどは建物の維持・管理費に費やされていて、演劇部門の予算は年間約600万ユーロで、年間約30作品を製作しています。ヴッパータール劇場が閉鎖されたことからもわかるように、ドイツではいま劇場の閉鎖が相次いでいます。ハノーファー州立劇場はいまのところその心配はないとはいえ、予算の削減や人件費の高騰による事業予算の縮小など対応に追われています。
 演劇部門は芸術面ではオペラ部門から完全に独立していて、芸術監督のワールブルクと予算やスケジュールなどを管理する事務局長の元で事業を行っています。ドラマトゥリギー部は演劇部門における「企画部」のような役割で、チーフドラマトゥルクを務めている私の他に5人のドラマトゥルクがいます。その内の1人は、Töpfer財団の助成を受けて1年間だけ雇用されている特別プロジェクト専属です。そのプロジェクトは、数年にわたって行われる「植物学の長期的演劇」というもので、作品のリサーチに集中的に取り組むため専属のドラマトゥルクが必要でした。
 ハノーファー州立劇場には青少年劇場があり、5人目は主にそちらのプロダクションを担当しているので、演劇部門の年間プログラムをメインでやっているのは4人です。ちなみに青少年劇場には別の芸術監督、マルク・プレートシュ(Marc Prätsch)がいて、彼は演劇部門の企画づくりにも関わっています。
 以前は、青少年劇場は独立した部門として運営されていましたが、ワールブルクが芸術監督に就任したときに統合し、ドラマトゥルクも両方のプロダクションに関わるようになりました。最近、青少年劇場の専属アンサンブルも演劇部門のアンサンブルと統合されました。ちなみにアンサンブルには全部で29名の俳優が所属しています。

──ドラマトゥルクが6名というのは、多いような気がします。
 私たちは、非常に手間のかかるプログラムを組んでいます。上演するのはプロジェクト型のものが多くて、台本づくりを始め、チームがゼロから創作する企画に積極的に取り組んでいます。それと、ドラマトゥルギー部の体制も普通と少し違っていて、ドラマトゥルクの内の一人は演出家・劇作家を兼任していますし、もう一人は舞台美術家としても仕事をしています。つまり、ドラマトゥルギー部は、クリエイティブなブレインのプールなんです。

──つまり、現在のドラマトゥルクというのは以前と役割が変わって、図書館に座ってじっと調べ物をしているのではなく、もっと幅広い仕事をしているということですか?
 はい、そうだと思います。勿論劇場によってドラマトゥルクの役割はいろいろなので一概には言えませんが、近年では自分で芸術活動を行っているドラマトゥルクが確かに増えています。その上、ハノーファー州立劇場のドラマトゥルギー部は台本も含めて創作しているので、ドラマトゥルクの仕事の範囲は特に広いと思います。
例えば、すでにドイツ語に翻訳されていた井上ひさしの戯曲『少年口伝隊1945』をハノーファー州立劇場で取り上げることになったのですが、アンサンブルに所属していた俳優の原サチコさんから翻訳の問題点についての指摘がありました。それで、劇場所属の劇作家であるシェーレン・ヴォイマ(Sören Voima)は原作に相応しい言語を探って新たな上演台本をつくりました。

──『少年口伝隊1945』については、後ほど詳しくお話を伺いたいと思いますが、その前に専属アンサンブルについてご紹介いただけますでしょうか。
 専属アンサンブルの俳優とは年間契約を行っていて、彼らを中心キャストとして配役しながらプロダクション毎に必要な客演を招いて公演を行っています。それから芸術監督のワールブルクの他にアンサンブル所属の演出家が二人います。トム・キューネル(Tom Kühnel)とフロリアン・フィードラー(Florian Fiedler)で、ワールブルクとは全く異なるスタイルをもった演出家です。二人は、年2本の演出作品を担当し、アンサンブルの編成にも大きく関わっていて、演劇部門のプログラム全体をサポートしています。

──アンサンブル所属の演出家とドラマトゥルクの役割分担はどのようになっていますか。
 所属演出家の芸術的な表現やアイデアをとても評価しているので、可能な限り彼らにも関わってもらっています。例えば、来年のラインナップについては、みんなで田舎に行って2日間合宿し、会議を行う予定です。ただ、彼らは別の劇場とも仕事をしているので、劇場全体のコンセプトやラインナップは基本的に芸術監督とドラマトゥルキー部で考えていて、彼らにはアドバイザー的なスタンスで関わってもらっています。

──ゲルステンベルクさんがハノーファー州立劇場に就任したのは2009年です。そのときハノーファーをどのような地域だと思っていましたか。
 ハノーファー市はドイツでも比較的大きな州であるニーダーザクセン州の首都です。市の人口は約55万人で、「あまり面白くない都市」というイメージがあります。景観も魅力的ではなく、私のようにウィーンから移ったり、ライプツィッヒやベルリンから移ってきたチームのメンバーにとっては正直にいうと面白くない町にしか思えませんでした。
 そこで私たちは、まず、ハノーファー市の歴史に向き合うことにしました。それで自分たちが住む町を探索してみたら、ここにはとても面白い歴史があることがわかってきました。ハノーファーは軍需産業で栄えた町だったので、世界第二次大戦のときの爆撃で町の80%ぐらいが破壊されていたのです。今の町は、1950年代にHillebrecht(ヒッレブレヒト)が描いたモータリゼーションに対応した都市計画に則ったもので、敗戦後、ドイツの都市の約8割で行われた復興でできた町の典型のようなものだったのです。フォールドワークによってこうした町の歴史に触れると、テーマがどんどん浮かんできました。もちろんそれをそのまま舞台に上げるわけにはいかないので、ドラマトゥルギー的な仕掛けは必要になりますが…。

──そういうフィールドワークによって作品がつくられた例を具体的に教えていただけますか。
 青少年劇場が会場として使っているバルホーフ(Ballhof)の近くに、ヨハン・トロルマン(Johann Trollmann)という人の名前が付いた100メートルほどの道りがあります。通りの名前を記した標示板の下に、彼がどういう人だったかのちょっとした説明がついています。彼は1930年代のドイツのボクシング・チャンピオンだったにもかかわらず、シンティ(ジプシー)だったためになかなか正式なチャンピオンとして認められなかったのです。チャンピオンになった2日後に、ナチスからタイトルを剥奪されました。その事実を知り、彼の経歴をもっと詳しく調べました。とてもハンサムだったので、当時のハノーファーで非常に人気があり、練習を見に来る女性ファンのために、わざわざ屋外に練習用のリングを立てて見せていたそうです。ナチスは、彼がシンティなのでボクシングスタイルがダンスのようでドイツ的ではないと、タイトルを剥奪しました。
 その後の彼は本当に悲運でした。タイトルが剥奪された次の試合で、肌を白塗りし、髪の毛を金髪に染めてリングに立ち、戦わないでノック・アウトされることで抗議しましたが、それで彼のボクサー人生に終止符が打たれました。その後、国防軍の一員として東戦線へ送られ、負傷。帰国後に逮捕され、ノイエンガンメ(Neuengamme)強制収容所へ送られて、殺されました。その事実を、ハノーファーのほとんどの人が知りません。この通りがあるところはトロルマンさんが育った地域だったのです。
 これをきっかけに、このボクサーをテーマとしたプロジェクトを立ち上げました。そのプロセスでわかったのですが、バルホーフはかつてヒトラー・ユーゲントの寮だったのです。その事実もハノーファー市のアーカイブの奥底にしまい込まれていました。プロジェクトではこのエピソードも含めて展開しました。シンティは居留地に移住させられ、母語であるロマニスを失いつつ、現在では多くの人々が「HartzIV」という生活保護を受けて暮らしています。プロジェクトでは、シンティの青年を語り手にして、ボクサーの物語を再現しました。
 また、イュールゲン・クットナー(Jürgen Kuttner)という伝説的なラジオ・モデレーターの作・演出でハノーファー市の歴史などをユーモラスに描いた「ハノーファーレビュー」もやりました。所属演出家のキューネルと人形作家のズーゼ・ヴェヒター(Suse Wächter)も参加して、色々と遊んだ作品です。

──トロルマンのプロジェクトについてどのように組み立てていったのか、ドラマトゥルクの関わりを含めてもう少し詳しく教えてください。
 まず、ハノーファー出身の演出家が「Johann-Trollmann道り」を見つけて、詳しく調べてみるといい材料になることがわかりました。問題は、そこからどうやって台本をつくるかでしたが、私は劇作家のビョルン・ビッカー(Björn Bicker)がいいのではと思いつきました。彼はミュンヘンのカンメルシュピーレ劇場で素人、特に問題行動を起こした青少年や社会的マイノリティーの人が参加する演劇をつくっていてとても豊富な経験があります。例えば、ミュンヘンにハーゼンベルグル(Hasenbergl)というさびれた高層マンションの並んだ団地がありますが、そこの住民と一緒にプロジェクトを行っています。ドキュメント的な素材をコラージュするだけでなく、素材からテキストをつくるという方法をとっている劇作家です。私はビッカーと後に青少年劇場芸術監督になるプレートシュを組み合わせました。こうした座組をつくるのもドラマトゥルクの役割です。
 二人はシンティと知り合うために、様々なところに訪ねていきました。シンティのコミュニティは閉鎖的であり、州立劇場を疑惑の目で見ているので、知り合いになるのはとても大変でした。幸いシンティを対象にした就職支援所のジョブ・センターの紹介で、シンティにプロジェクトに参加して、舞台に出演してもらうことができるようになりました。トロルマンの甥の息子も見つかったので、彼に語り手の青年をやってもらいました。

──シンティを取り上げたことで新しい客層が開拓できるなど、何か影響がありましたか? 
 ビッカーが言ったことですが、演劇においての仕事は社会事業に変わりつつあります。このプロジェクトでの私たちの仕事は、確かに8割ぐらいが社会的なものだったと思います。その過程でシンティとの文化の違いがどれほど大きいか改めて気づきました。それまで、自分はマイノリティーについて興味もあったし、偏見ももっていないと思っていましたが、私も社会的なギャップについてよく理解できていなかったことを思い知らされました。
 シンティはナチスに迫害されたため、今も犠牲者としての意識を強くもっています。稽古中に劇場スタッフがナチスのように敵視されることもありました。初日などはお客さんのほとんどがシンティで、遠くから駆けつけた人や劇場に初めて来た人も多かったと思います。素晴らしいことに、参加者はこのプロジェクトを通して「初めてシンティに声が与えられた」と言ってくれました。出演者が民族の代表のようで、舞台は哀愁に溢れ、ボクサーへの鎮魂歌のような感じになりました。
 このプロジェクトの結果、町にいろいろな動きが生まれました。ハノーファー市で最大のプロテスタントの集まりである「Markt」教会が建物を提供してくれたおかげで、観客が劇場から教会に移動して上演する形をとれました。また、ハノーファー市またはニーダーザクセン州はシンティとローマに対する政策を徐々に問い直すようになりました。

──演劇においての仕事が社会事業に変わりつつあるということを、もう少し詳しく説明してください。
 まさにトロルマンのプロジェクトがその典型でしょう。また、最近の演劇教育(theatre pedagogics)の拡大もそうした例になると思いますが、青少年が出演するなど色々な形で関わるプロジェクトも多く行われていますし、「演劇トラック」でのアウトリーチも積極的に進めています。対象は両親を通して演劇への窓口を持っている、よく教育を受けた中流階級の子どもとは全く異なる若者たちです。青少年を路上から引っ張りだして、彼らに声を与えるような、移民をバックグラウンドとしている青少年に向けたプロジェクトも多く行っています。
 最近、若い客層を開拓するのに、多くの劇場に「ヤング劇場」部門が設けられるようになりました。そこで若者が出演するような作品の創作も行われていますが、その傾向が広がり過ぎていて、このままでいいのかが問われています。ハノーファー州立劇場では青少年劇場がこうしたプログラムを担当していますが、全体からみると一部の取り組みに過ぎません。年間で30演目も製作していますので、私たちにとってはあくまでも大ホールのプログラムが主だと考えています。
 本当の意味で社会に波紋を投げかけたのは、今シーズンの冒頭に発表した『Freie Republik Wendland』(ウェントランド自由連合)というプロジェクトです。これは若者が参加したプロジェクトで、ニーダーザクセン州のゴアレーベン市の近くで30年前に実際に起こったことを再現しました。当時、ゴアレーベン市に核廃棄物処理場が計画されていて、その反対運動の一環として、農家と活動家がその近くのウェンドランド(Wendland)に小屋で村をつくり、30日間にわたって社会的ユートピア「ウェントランド自由連合」を実現する試みを行いました。村で交流を深めて深い関係を築いていったのですが、その村での面白い逸話がたくさん残っています。
 このプロジェクトでは、若者たちを誘ってバルホーフ会場の前の広場に小屋を建てて村をつくり、実際に運動に参加していた人にも集まってもらいました。小屋で運動家たちが若者たちに自分の経験を語り、現在の政治状況についても議論を行いました。それから普段劇場内で上演しているイブセンの『民衆の敵』など、演劇作品も何本か村で上演しました。それから、青少年と一緒にフリードリッヒ・デュレンマット作『物理学者』を上演し、パフォーマンスなども行いました。
 しかし、このプロジェクトは、市議会から劇場に質問状が送られてくるなど、物議をかもしました。州から予算をもらっている劇場が反政府活動に拠点を提供していると思われたようです。もちろんそれは誤解です。『Freie Republik Wendland』関連で起こった問題をめぐって、劇場で「政治は誰のものか」というタイトルで公開討論を行うことにしました。劇場は政治活動をするべきではなく、私たちの仕事は戯曲をいいレベルで上演することだとよく言われました。ドイツでは最近、国民と政治の間にギャップが生まれ、多くの国民は政治が自分たちの気持ちを代弁しているように思えなくなっています。その結果、政治的な運動が激しくなりつつありますが、こうした状況に対して、劇場はそれとは質の異なる公的な場を提供できるのではないかと考えています。
 劇場を公共の場としてとらえ、演劇が持つ方法論を分析装置として物事を目に見えるようにすることによって演劇が人々の認識を変えられることを願っています。また、観劇で体験したことが現実の行動に結びつくことが私たちの希望です。劇場が、古代ギリシャの都市国家ポリスで市民が集った広場「アゴラ」のようになること私たちは願っています。現代の問題は、みんな自分の財産を守るので精一杯で、今のことしか考えられず、未来が怖くて、将来が見えてこない状況だということです。それに誰も過去と向き合おうとしません。ですから、私たちは、演劇を通じて、広い視野からの大いなる問いかけをしたいと思っています。それもできるだけ具体的なことを通じて行う必要があります。
 例えば、別のドキュメンタリー的なプロジェクトでは『モスクDE(Moschee DE)』を製作しました。ベルリンの郊外にあるパンコー・ハイナーズドルフ(Heinersdorf)地区のモスクの建設をテーマにした作品です。これはハノーファーではなく、ベルリンなので非常に特別なケースだったのですが、歴史への意識を育てることを目標にすればこの具体例にフォーカスするのも面白いと考えました。この仕事をする前にみんなで相談しているときに、今、歴史認識や、歴史と現代の関係性への眼識がなくなっているのではないかという話しになりました。それでこうしたモスクの建設をめぐる社会的な事件に関わっている人々の考え方や動機をなるべく具体的に取り上げることで、もっと大きな問題についての判断が可能になるのではないかと思いました。
 このモスクの建設をめぐっては、2006年から地域のイスラム化を危惧する近隣住民の反対運動が起こっていました。賛否を問う署名を求められた映像作家は、これをきっかけにエッセイストと二人でハイナーズドルフに移り住んでこの問題に関わった多くの人々を取材しました。『モスクDE』では彼らが集めた素材を台本にまとめました。とても興味深いことに、ハノーファー市内のシュテッケン(Stöcken)で同じようなことが起きていたことが後から分りました。
 ドイツでは、今、移民統合についての大々的な議論が巻き起こっています。スイスではモスクの礼拝時刻を告知するための塔(ミナレット)についての国民投票が行われ、反対されました。こうした社会を二分するような事件について自分がどちらにつくかが人の経歴にどういう意味をもつかということに、私たちは気づきました。ハイナーズドルフのモスク建設反対運動のことを調べて、市民が賛否を決めるプロセスでほとんどの人に似たような転回点があったことがわかりました。つまり、賛否に関わらず、モスクを通じて市民のストーリーが成立していたのです。このようなプロセスの分析は私達にとって非常に興味深いものでした。

──こうした社会のマイノリティーや地域の問題を扱ったプログラムについて、市民はどのように思っているのでしょうか。
 ついてきてくれるように願っていますが、いまはまだ何とも言えません。チームが就任した最初のシーズンのオープニングでハイナー・ミュラーの『ヴォロコラムスク幹線路』とイルヤ・エーレンブルク(Ilja Ehrenburg)の『車の生命(Das Leben der Autos)』を2本立てで上演しましたが、「古くて社会主義の崩壊をテーマとした戯曲をプログラムすることはないだろう。こんなものには今は誰も興味を持っていない」と多くの人が思ったようです。1929年に書かれたエーレンブルクの戯曲は誰も知らない作品でしたが、株式市場の暴落を扱ったものです。シトロエン社の自動車の開発を例に、資本主義の失敗を描いていて、例えばタイヤに使うゴムはどこから来るのかなど、我々の暮しのもとになっているシステムが全体的に見せるテキストになっています。資本主義の失敗は道化師が出てくるレビュー形式で観せる演出で、両作品とも観客の心に響いたようです。真面目すぎるという感想もありますが、最近は、皮肉を込めて、『ハノーファー州立劇場―貴方の道徳的施設』をスローガンに使っています。世間の批判に攻撃的に向き合う戦略です。途中で方針を曲げることは絶対にしたくないですし、受けるものを入れてたまに社会的な作品をやるという考え方は好きではありません。私が演出家に最も強く求めているのは、観客の問題意識を呼び起こすことなのです

──ドキュメンタリー的なプロジェクト以外のプログラムについて教えてください。
 前任のウィルフリート・シュルツ(Wilfried Schulz)が芸術監督だった時代には、シェイクスピアなど古典的なレパートリーが多く上演されていました。なので、逆に私たちは別のことを考える必要がありました。それで最初のシーズンに取り上げたのが、小説が原作の『ジンプリチシムスの冒険』で、所属劇作家のSören Voimaが戯曲に書き換えたテキストで上演しました。この小説は30年間の戦争(1618〜1648)を生き抜いた主人公をめぐる作品です。Voimaのバージョンは、作品を現代風にするつもりはなかったのですが、それにも関わらず、作品が描く価値観の損失、当時の崩壊及び混迷した状況について自然に現代との共通点がでてきたのです。
 それからもう一つの目玉作品として『パルジファル』を取り上げました。私が、とても重要な現代劇作家だと思っているスイス人のルーカス・ベアフッス(Lukas Bärfuss)にヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの原作を元に新しいバージョンを書いてもらいました。ベアフッスは、戯曲でリベラルな社会から生まれるジレンマを扱っています。常に不正行為を行う人達の自己が、ある具体的な事情に対応しなければならない時、崩れていくことは彼の主題の一つです。彼は『パルジファル』の新バージョンで、エッシェンバッハのテキストではまだ存在している、問題解決にむけた発想がもうなくなった現代で改めてこの物語を語る必要性を見せたかったのです。とても面白かったです。
 このように現代の視点から過去を見て、興味深い文学的な題材を探ることを試みました。『アルケスティス』もラインアップに入れて、それから映画のアダプテーションで『Adams Äpfel』、『Träumer』や『Das Fest』も上演しました。

──現代劇作家の作品についてはいかがですか?
 現在、非常に期待ができる劇作家が割りと多くいると思います。例えば、ハノーファーでも上演したローランド・シンメルプフェニッヒ(Roland Schimmelpfennig)の『Der goldene Drache』はドイツで批評家が選ぶ2010年の「年間最優秀戯曲」に選ばれました。フェリドゥン・ツァイモグルー(Feridun Zaimoglu)とルーカス・ベアフッス(Lukas Bärfuss)の作品も上演しました。その他、まだハノーファーでは上演していませんが、ヘンドル・クラウス(Händl Klaus)やエルフリーデ・イェリネク(Elfriede Jelinek)も面白いと思っています。私たちは、年間プログラムとして、ドキュメンタリー型のプロジェクト、歴史上の題材、現代戯曲のバランスを目指しています。それと真面目な作品とユーモラスな作品のバランスもあります。最近Jürgen Kuttnerと一緒に『Kunst wird woanders gebraucht als wo sie rumsteht』というレビューを製作しました。哲学的な背景をもったエンタテインメントです。ただし、プログラムはあくまで内的な必然性によって組むべきだと考えています。

──ドキュメンタリー型のプロジェクトには役者も劇場も必要ありません。そういうプロジェクトを行うことは州立劇場のシステムそのものを問うことになります。州立・市立劇場の役割をどう考えていますか?
 それはいい質問です。確かに州立・市立劇場のシステムを問うプロジェクトが多くなっています。しかし、私はそれでもそのシステムを強く支持しています。確かに今後、どこの都市にも専属俳優のアンサンブルや技術部を持った劇場が要るのか、という質問はでてくると思います。しかし、州や市から補助金を受けているからこそ、自由に発想できる、あらゆる可能性を想像する、代わりとなる(社会)モデルを展開して考察する場としての劇場を存在させることができる。その当然さがなくなったら、とても危険です。市立・州立劇場は、議論の場、考察の場、問題意識を呼び起こす場、社会状況を確認する場、そしてそれを観客と共有する場として維持すべきだと考えています。

──それでは、井上ひさしの『少年口伝隊1945』について話していただけますか。
 『少年口伝隊1945』は、青少年劇場の会場になっているバルホーフのオープニングとして上演しました。ハノーファーが広島の姉妹都市だったので、以前から広島について調べていました。姉妹都市企画として、観客の代表をひとり選んで姉妹都市に派遣し、現地で演劇公演を観て報告してもらうという取り組みを行ったのですが、その関係で広島市とのやりとりが始まりました。また、原サチコさんが、戯曲と上演DVDを持ってきてくれたことから『リトル・ボーイ、ビッグ・タイフーン〜少年口伝隊一九四五』という面白い朗読劇のテキストがあるのを知りました。
テキストの中心になっているのが3人の中学生です。被爆で肉親を失った3人の中学生が、建物が破壊されて新聞が発行できなくなった新聞社に雇われ、口伝で町中にニュースを伝えるメッセンジャーになります。出演したのは原さんを含めて3人の俳優と3人の子どもたちです。
 『少年口伝隊』のテキストをそのまま上演するのではなく、広島に原爆を投下した爆撃機のパイロットだったクロード・イザリー(Claude Eatherly)をめぐるビッカーのテキストを組み合わせて上演しました。イザリーは、「広島の空は晴れ、広島市はいいターゲットだ」と言い出した人です。彼については、ドイツの小説家ギュンター・アンデルス(Günther Anders)の文通相手だったので、素材が多く残されています。イザリーは第二次世界大戦後、わざと捕まりたくて郵便局強盗を働いたとか、罪の意識から広島にお金を送ったといった逸話も残っています。アンデルスはイザリーとの知的格差を感じ、それを埋めようとイザリーからもらった手紙を書き換えたとも言われていて、残された手紙については意見が分かれています。また、イザリーについては別の作家が書いた全く異なる伝記もあって、原爆が引き起こした人生のパラダイムシフトが異なる観点でぶつかりあっているのは大変興味深いことでした。

──この2本のテキストを組み合わせるアイデアはどこから生まれたのですか?
 そもそもは私が出したアイデアです。井上さんの作品は外から広島を見る視点ではなくて、まさに現場の真っ直中から状況を報告する構造になっていますが、我々はその反対側にいるわけです。反対側にいる我々が、その事態にどのように関係していて、今までどのように記憶を紡いできたのかを問うべきだと考えました。そのためにはもう一つのテキストが必要でしたが、最初はモンタージュする予定はなくて、2部構成あるいはエピローグで追加する、別の会場で上演するといったことを考えていました。結局、演出家がモンタージュに決めました。上演毎にポスト・パフォーマンス・トークを行い、観客と議論することにしました。
 2010年夏に、原さんは映像作家のアクセル・テプファー(Axel Töpfer)と一緒に広島に行き、現地取材をしました。ハノーファーと広島の姉妹都市交流の関係者のお一人は被爆者だったのですが、その方にも取材しました。本当はその映像を舞台で使う予定だったのですが、演出プランが変わり、使えなくなってしまいました。それで、原さんがスタッフを集めて、そうした映像などの材料を見せながら広島を伝える「ヒロシマ・サロン」という企画を考え、1月からスタートする予定です。

──ゲルステンベルクさんのご自身の履歴について伺いたいと思います。ゲルステンベルクさんはベルリン自由大学で演劇学ではなくて、文学、哲学と美術史を学ばれました。どうして演劇に興味をもたれたのですか?
 私が大学で勉強したころには、「ドラマトゥルギー」という学科はまだありませんでした。ドラマトゥリギー学科できたのは割と最近のことです。演劇学という学科はありましたが、それは私にとって劇場での実践に結びつく道ではありませんでしたし、当時はまだ劇場で働きたいとも思っていませんでした。でも、お祖母さんが女優で、父が演出家として劇場で仕事をしていたので、子どもの頃から演劇はとても身近なものでした。高校卒業後、すぐに大学に進学したくなかったので、ハンブルクのターリア劇場でインターンをした後、大学に進学しました。美術史で学んだ絵画考察や絵画記述の方法、例えば絵の観察から情報を読み取ってその背景にある社会について推測するといったことは、演劇学で演劇を学ぶ以上に今の仕事に役立っていると思います。
 演劇に興味を持ったのは、演劇という方法によって呈示される世界に対する視点に魅力を感じたからです。現実の中の演劇性をどう発見していくか、日常に潜んでいる演出をどう意識するか、日常の体験にどう向き合うか、その問いのあり方、ある種の言語とも言えるものに惹きつけられました。
 それで演出法が異なる作品をいろいろと観ました。その中で特に影響を受けたのは、ベルリンのシャウビューネ劇場がピークの頃、ペーター・シュタイン(Peter Stein)が芸術監督を務め、クラウス・ミハエル・グリューバー(Klaus-Michael Grüber)も演出をしていたときの舞台です。また、その後に登場したカストルフにも大きな影響を受けました。
 劇場で働き始めたきっかけは、クリストフ・マルターラーとの出会いです。大学ではパウル・ツェランについて研究していたので、そのまま博士課程に進むつもりだったのですが、マルターラーの『ファウスト』と『ムルクス』を観て衝撃を受けました。マルターラーが、自分が子どもの頃いつもクリスマスの童話を観ていたハンブルク市のシャウシュピールハウスの所属になることを知り、思い切ってアシスタントに応募して採用されました。1992年か93年頃のことで、フランク・バウムバウアー(Frank Baumbauer)が芸術監督に就任し、シャウシュピールハウスが新しい試みを始めようとしていた時期でした。
 ハンブルクには、ターリア劇場とシャウシュピールハウスという大きな2つの劇場があり、当時、ターリア劇場は高いレベルの古典と現代戯曲の公演を行いとても人気がありました。それに対して、シャウシュピールハウスは別の特徴をつくらなければならず、ライナルト・ゲツ(Rainald Götz)やイェリネクを取り上げる大胆なプログラミングで打って出ました。しかし、世間からは「なんということだ!客席は空で、新聞の文芸欄だけで評判がいい」などと酷評されました。そういう難局を乗り越えて、シュリンゲンシーフ(Schlingensief)もカストルフもハンブルクで仕事をするようになりました。私は彼らからも大きな影響を受けて、演劇の分野での仕事を続けることにしました。
 2年後にチューリッヒのノイマルクト劇場からオファーがきて、移りました。その劇場は専属俳優アンサンブルが6人、スタッフは工房のスタッフを含めて40人という小さな劇場でした。その頃、ノイマルクト劇場ではプロジェクト性のある作品がよく創作されていたので、そこでモンタージュや台本の創作などの方法について学ぶことができました。その後、私と同世代のチームの一員としてバーゼル劇場に移りましたが、そこで今の私が形づくられました。バーゼルがシュテファン・バッハマン(Stefan Bachmann)とラース・オーレ・ワールブルクを中心とした若いチームに劇場の運営を任せてくれたのです。私たちは劇場運営のルールは全く知らなかったし、「これは駄目で、こうしなければいけない」という人も周りにいませんでした。経験が浅いながら勇気を持ったチームで、壁にもよくもぶつかりましたが、とても幸せでした。その後、ウィ−ンのブルクテアターに移り、そこで初めて両親や祖父母の世代と仕事しました。とてもいい経験でしたが、自分のキャリアがそうした劇場から始まったのではなかったのもよかったと思います。ウィーンは大規模な劇場で私が慣れていた仕事の仕方と違っていたこともあり、自分がみわたせる範囲で仕事がしたい、またプロジェクトの創作に関わりたいと思いハノーファーに移りました。

──改めてドラマトゥルクの仕事について、どのように考えていますか。
 ドラマトゥルクというのはドイツ語圏にしか存在しない独特の職業です。ドイツ語圏の演劇のレベルは、多様な要素を横並びにし、結束させるドラマトゥルクが企画の中心にいて仕事をすることに大きく関係していると言ってもいいと思います。劇場のドラマトゥルクは、個々のプロジェクトに演出家や俳優を集めるだけではなくて、1シーズンのプログラム全体を徹底的に考えることができます。キャスティングする場合も、それぞれの履歴をみながら、特定の俳優だけに主役をさせるのではなく、バランスのとれた効果的なキャスティングを行うこともできます。そして、劇場が対外的にどのようなイメージを発信し、どのようにコミュニケーションを図るかを考えるのもドラマトゥルクの仕事です。それは劇場の扉にスローガンを掲げるのかどうか、広報物のコンセプトをどうするかといったことにまで及びます。
 つまり、ドラマトゥルクの役割とは、すでにある素材の中に眠っているものを目に見えるようにする、写真の現像のようなものだと思います。目に見えないものに名前を付け、記述し、語ることを通じて、次のステップに進むことが可能になります。優秀なドラマトゥルクは、いうまでもないですが、本がよく読めますし、世の中のことに対してユニークな視点を持っています。優秀なドラマトゥルクの条件は、ドラマトゥルギー科を卒業したことではなく、世の中を見る視点やものごとの関係性を発見する能力、アーティストをインスパイアーする力、そしてアイデアを実現する手段をもっていることです。そして、劇場の内部から抵抗があってもアイデアを遂行し、プロダクションを劇場の組織から守ることもあれば、逆に組織をプロダクションから守ることもあります。そういう組織とプロダクション(創作)の仲介者という立場に価値があることを願っています。

──ドラマトゥルク・チームと芸術監督の役割分担について教えてください。
 それについては一般論では答えられません。その芸術監督のやり方やチームの編成によって異なるからです。芸術監督の立場がとても強くて、プログラムの基本方針も自分が決め、演出家とも交渉し、キャスティングも行う劇場も少なからずあります。その場合はドラマトゥルギー部の役割も異なってきます。私の場合、幸いドラマトゥルギー部が企画の中心を担っている劇場しか経験していませんし、バーゼルもハノーファーも上下関係にあまり縛られないところです。ちなみに、芸術監督が替わるとドラマトゥルギー部のメンバーは必ず替わります。劇場専属アンサンブルは場合によって異なりますが、芸術監督と一緒に動く俳優もいますし、劇場との契約が解約できない俳優もいます。技術スタッフと事務局スタッフは芸術監督が替わっても残ります。

──最後に、ゲルステンベルクさんが今後実現したいと思っているプロジェクトについてひとつ紹介してください。
 一つだけ取り上げるのは大変難しいのですが、特別なプロジェクトがあるので紹介します。それが最初に少し触れた「植物学の長期的演劇−我々なき世界」です。これがプロジェクトとしてどのように成立するのか私も想像できないのですが、主役は植物です。つまり、我々人類がいなくなった後の世界がどう見えるかを問題にしていて、本当に植物が出演する演劇に挑戦しています。
 現在、プロジェクトは人類が滅亡して30年のところまで進んでいます。かつて軍事施設だったところに庭をつくり、3カ月毎に4日間ずつ入って、植物を植え替えたりしながら、5年後に人類が滅亡した100万年後の姿として見せる計画です。このプロジェクトのために、植物学と地球の未来のシナリオについて勉強しています。これは私たちにとって全く新しい挑戦で、今までのプロジェクトに相当する(植物を主役にした)独自の芸術的かつ演劇的な構造を生み出す必要があります。観客はバスで会場まで行き、改装したコンテナの中に座り、大きな窓から植物が描き出す世界を観ます。植物の世界は役者によって演出されます。ある植物は主役となり、次のエピソードでその植物に不幸がおこるといったような大きな物語です。ワールブルクの芸術監督の任期(5年)が更新されれば、このプロジェクトも更新するつもりです。

──演出家は演劇界のひとですか?
 生物学者兼演出家兼作家のトビアス・ラウシュ(Tobias Rausch)です。彼がそもそもこのプロジェクトを考えたのですが、ベルリンを拠点にしたパフォーマンス・プロジェクトユニット「ルナティクス(Lunatiks)」に所属しています。ハノーファー州立劇場のドラマトゥルクの1人もそこに所属しています。ルナティクスというのは、プロジェクトが本当に実現できるかどうかに関わらず世の中のことを熟考することを目的に定期的にミーティングしている集団です。ユニット内でアーティストと研究者の交流が活発に行われていて、そこから毎回違う人たちが関わったプロジェクトが生まれつつあります。

──とても興味深いお話を聞かせていただき、どうもありがとうございました。
 
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