The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
Contents
ベルトラム・ミュラー
ベルトラム・ミュラー氏
Bertram Mueller

タンツハウスnrw
http://tanzhaus-nrw.de/
タンツハウスnrw
*1 ヨゼフ・ボイス
ドイツの現代美術家、社会活動家。デュッセルドルフ芸術アカデミーで学び、1961年から彫刻家教授になるが、大学はすべての人に開かれるべきと主張して大学と対立。72年に解雇されるが78年に訴訟に勝訴。かつて使用していた教室を使い、自らが主宰して「自由国際大学」を開設。
ベルトラム・ミュラー
*2 関西セミナーハウス
1967年、ドイツ発祥のアカデミー運動「はなしあい」の関西拠点として財団法人日本クリスチャン・アカデミーによって京都に開設された研修・宿泊施設。
Presenter Interview
2011.11.18
The programs and mission of tanzhaus nrw, at the forefront of German dance 
ドイツのダンス発信地 タンツハウスnrwの取り組み 
現在、ドイツで最古の市電車庫をリニューアルした施設を拠点に幅広いダンスのワークショップや公演を数多く行い、ヨーロッパのダンスの要になっているタンツハウスnrw。その歴史は、1973年に、ロバート・サロモンやクリス・パーカーらデュッセルドルフの芸術家たちが空き工場を占拠して講座を開くなどの芸術活動を始めたことに遡る。一時中断した活動を、1978年に「ダンス、演劇、絵画、工作、造形の工房」という名称で再開したのが、65歳の今なおディレクターとして現場を指揮し、ヨーロッパ・ダンスハウス・ネットワークの会長も務めるベルトラム・ミュラー氏だ。その歩みと、1997年に「タンツハウスnrw」と改称して現在の拠点で行っている活動について聞いた。
(聞き手:山下秋子)


──1973年はピナ・バウシュが当時のヴッパータール・バレエの芸術監督に就任した年です。同じ年、デュッセルドルフの芸術家たちが集まって講座を開くというタンツハウスの前身になる活動を始めたと聞いていますが、当時はどのような時代だったのでしょうか。激しい学生運動を繰り広げたいわゆる1968年世代が公的な立場を得るようになった時代だと思いますが、このような時代背景とこうした活動(以下、タンツハウス)がはじまったこととは関連がありますか。タンツハウスが生まれてきた歴史的、社会的文脈について説明してください。
 確かにタンツハウスが生まれた背景には、学生運動の理念がありました。奇跡と言われた第二次世界大戦後のドイツの復興について、再評価が行われ始めた時代です。西ドイツで初めての社会民主党出身の連邦首相となったヴィリー・ブラントの標語「より一層の民主化を目指そう(“Let's dare more democracy”)」にならって、文化的には「より一層の創造性を目指そう」という主張が生まれました。個々人の創造性が前面に押し出されるようになったのです。既成の大学や文化施設を担っている学生や芸術家たちによる体制への批判や議論が高まりました。
 例えば、デュッセルドルフ芸術アカデミーにはヨゼフ・ボイス(*1)がいました。1973年にはピナ・バウシュがヴッパータール市立劇場の芸術監督に就任しましたが、まだ無名の存在であり、彼女は劇場との間で大きな問題を抱えていました。とは言っても、ボイスもピナ・バウシュも既成の組織に属していました。しかし、タンツハウスはこれらの公的な施設や組織とは違った存在でした。私たちはいわばオフ・オフシアターだったのです。つまり、私たちは公的な存在ではなかったのです。誰かが何かを作った、創設したというのではありません。もちろん私が作ったというものでもありません。

──つまり、タンツハウスは一つの運動であって、組織としての体制化を意図していなかったということでしょうか。
 タンツハウスが勝手に動き出してしまったと言ったほうがいいでしょう。私たちは、1973年に取り壊しが決まっていた空き工場を占拠し、活動を始めました。デュッセルドルフには芸術アカデミーがありましたし、フリーの演劇集団もありました。また、ピナのもとで踊っていたダンサーたち、あるいはカンパニーに属さないダンサーたちがいました。そこで私たちが考えたのは、組織を出て自由な活動をしたいと思っていた芸術家、音楽家、俳優、ダンサーたちを集め、一般の人たちに芸術を教える講師として呼ぼうということでした。大学や文化施設といった「象牙の塔」から芸術家を引き出し、開かれた場所で労働者やサラリーマンに出会わせようとしたのです。
 私の持論は、「普通の人々が芸術に魅了され、夢中になるためには、偉大な芸術家が必要だ」ということです。だからこそ、私はダンス教育者ではなく、舞台に立っているダンサーを講師にしました。ダンスのステップを教えるのではなく、芸術家として生きるとは何を意味するのかを一般市民に伝えようとしました。芸術に必要な技術ではなく、自らの意志を形成すること、独自の生き方を切り開いていくことを、芸術家を通して学んでほしかったのです。美術、演劇、ダンスであれ、創造的な個性を発揮するための実験、挑戦をするための媒体を見つけてもらうことが目的でした。こうして、タンツハウスは徐々に人々の間に浸透していきました。

──プロフェッショナルとして活躍している芸術家たちとの出会いが、普通の人たちの意識を変えていくというわけですね。
 そうです。フリーのダンサーは、作品を作るための資金がありません。そこで彼らはタンツハウスの講師として作品制作のためのお金を得ました。週末には、受講生は自分たちの講師が作った作品を見るようになりました。これは受講者にとって重要な体験でした。

──タンツハウスは当初からダンスが中心だったのですか。
 ダンスが重点の一つであったことは確かですが、1978年に再開した時の名称は「ダンス、演劇、絵画、工作、造形の工房」でした。芸術と関わりたいという人々の思いを真剣にとらえ、工房としてこれらの人々に開かれた場所を提供したのです。ある人は絵画、ある人は演劇、ある人は動きやダンスを通じて、自らの創造性を表現することができます。80年代に入ってから、演劇部門が独立、画家たちは自らのアトリエに戻り、そこで教えるようになりました。世界音楽の部門はzakk(Zentrum für Aktion, Kunst und Kommunikation)として活動しています。様々な活動の中から、いくつかの原則が生まれてきました。その一つが、ドイツでそれまで知られていなかった外国の文化を紹介するセンターになろうということでした。こうして、アフリカやインドのダンス、日本の舞踏などがここで初めて紹介されました。もう一つの原則は、実験的なことをやるということでした。

──ミュラーさんご自身の経歴とタンツハウスに関わるようになったきっかけについて教えてください。
 私のバックグラウンドは哲学と神学です。ハイデルベルクとベルリンで神学と哲学を専攻し、その後、ボンで心理学を学んだあと、アメリカとヨーロッパで臨床心理を8年間学び、医療機関でセラピストを教育する仕事にも携わってきました。その結果、私は比較的幅広い哲学的・文化的背景を得ることができたと思います。また職業上の体験から、現代社会において、人々がどのような不安や困難を抱えているのか、芸術がどのような治癒力や潜在能力を持っているのかということも理解することができました。
 現代社会は信じられないような速さで変化しています。そしてドイツの文化は非常に個人的です。つまり、人間が人間性を形成し、発展させ、さらにその幅を広げるためには、時には共同体とぶつかったり、摩擦を起こしたりすることがあるのです。そのために挫折してしまう場合もあります。このような挫折を避けるために、芸術家の生き方やあり方が大きな示唆を与えてくれます。独自の世界を作り、独自の道を歩みながら、共同体にもつながっている芸術家こそが、現代人の人格形成のモデルとなってくれるのです。この確信があったので、私は芸術家と普通の人々が出会い、芸術家の生き方をモデルとして人間性を発展させ、自由な表現を見つける場所を作りたいと思うようになり、空いた時間にタンツハウスの仕事をするようになりました。

──ダンサーや振付家としての経験はお持ちなのでしょうか。
 もし私にダンスの経験があったなら、クラシックバレエのようにテクニックをきっちりと教えるバレエ学校を作るか、あるいはコンテンポラリーダンスだけをやっていたと思います。哲学を学んだことで教育という側面、心理学や臨床心理を学んだことで人格の形成や発展という側面を考慮した取り組みをやるようになったのだと思います。

──ミュラーさんが1978年に「ダンス、演劇、絵画、工作、造形の工房(以下、工房)」として再開されてから、現在に至るまでいろいろな紆余曲折があったと思います。
 私たちが活動を始めた当時、ドイツの文化は基本的には地方自治体が財政的に負担していました。これは今も実質的には同じです。つまり、文化予算は優先的に市立の文化施設に与えられていたのです。私たちはプライベートな組織ではなく、公共の利益を目的とするNPOとして活動する道を選び、発展させてきました。このような活動形態は当時のドイツにはほとんどありませんでした。10年間の活動を続けた結果、やっと公的助成を受けるようになったのです。公的な資金援助がなければ、解散するのが通常です。私たちが生き延びたのは一つの奇跡と言えるでしょう。

──「工房」の他の部門が独立していったのも、財政的な理由からでしょうか。
 演劇のグループは、私たちの「工房」以外にも、デュッセルドルフには数多くありました。ダンスがここで生き延びたのは、ダンスにはこの「工房」しか場所がなかったからです。アフリカン・ダンス、オリエンタル・ダンス、ヒップホップがドイツで初めて紹介され、レッスンを受けることができたのは、この「工房」でした。さらに、ダンスは他の部門と比べてレッスンによる収入が多かったので、存続することができました。ある日、スタジオをのぞいてみたら、フラメンコのレッスンの受講生は半分以上が日本人ということがありました。自分を強く見せたいという気持ちから、若者たちにはカポエラに人気が集まっています。もっと自由に自分を表現したい、冒険したいという人は、コンテンポラリーダンスのレッスンに集まります。バレエのレッスンに来る人たちは、規律を求めて来ています。それぞれの人が、それぞれの表現の方法を求めているからこそ、私たちはできるだけダンスの間口を広げて、多様なニーズに応えてきたのですが、このような考え方が広く社会に受け入れられるようになるには、25年という月日がかかりました。タンツハウスが成功したのは、ある一つのダンスの種類を取り上げるのではなく、実に多様で多彩なダンスがあることをあらゆる年齢層の人たちに提示してきたからではないでしょうか。
 最初のころの話に戻りますが、私たちが得た収入について、最もお金を必要としている芸術家たちに払うことを優先しました。講師として参加してくれる芸術家の質が下がらないように彼らの生活を保障することが第一でした。講師の質に投資するからこそ、受講生が集まって来ます。その結果、初めて家賃を払い、組織維持のための収入を得ることができるというのが私の考えです。コピー機は廃止、電話1台だけ、ポスターは自分たちで作り、自転車で町中に貼りに行きました。こういったパイオニア的活動の時期を経て、徐々に市からの助成が出るようになったのです。

──当初は工場を占拠されたということですが、現在の場所に移るまでにはどのような経緯がありましたか。
 工場は大きなスペースでした。でも暖房がなく、決して良い条件ではありませんでした。その後、工場が取り壊され、私たちはいくつかの建物に移動しました。1980年代の初め、市が家賃を払うという形で市内の中心地の建物に移りましたが、やがてそこの家賃が高くなったため、市電車庫を整備して再利用することが決まりました。これは本当に運が良かったと思います。

──ドイツ最古の市電車庫をリニューアルするというプロジェクトでしたね。リニューアルに当たって、経費の負担はどうだったのでしょうか。
 市電車庫のリニューアルは全体で1,600万マルクかかりましたが、ノルトライン=ヴェストファーレン州が80%を負担しました。デュッセルドルフ市はわずか15%、残りは自己負担という分担でした。当時、ルール地方の産業遺跡を文化施設として再利用するという州の大規模な事業が実施されていました。デュッセルドルフはルール地方には属していませんが、ドイツ最古の市電車庫を取り壊すのではなく、新たな文化施設として再利用することは、この事業の趣旨に沿ったものということで、この大規模事業の一つとして州の予算が認められました。今から14年前、市電車庫の改修工事を始めるに当たり、名称を「工房」から「タンツハウスnrw(注:nrwはノルトライン=ヴェストファーレンの略)」に変更しました。70年代半ば、ハンブルクに「ファブリーク(工場)」という大規模な社会文化センターがありました。ニュルンベルクやその他の町にも、「より一層の民主化」と「文化・芸術の普及」というヴィリー・ブラントの理念を実現すべく、多くの社会文化センターが生まれていた時代です。私たちの「工房」も、社会文化センターの一つだったのです。

──「工房」が始まってから現在のタンツハウスに至るまで、すでに30年以上が経っています。この間、社会的には大きな変化がありました。このような変化がタンツハウスの理念や活動に影響を与えましたか。
 もちろんタンツハウスは社会の変化とともに生きています。一つの顕著な変化は、多くの外国人がいろいろな理由でドイツに移り住むようになったことです。文化的にも多様な背景を持ってドイツに移り住んできた人たちを真剣にとらえた文化施設は、当時はわずかでしたが、私たちはその一つでした。世界中のあらゆる国の人々がこの町に住んでいます。彼らが自分たちの文化的アイデンティティを持ちながらドイツ社会に溶け込めるようにすることが大切です。タンツハウスの近くには、アフリカの店がたくさんありますが、なぜそうなったかというとここにタンツハウスがあったからです。私たちがアフリカン・ダンスの講座やフェスティバルを始めたところ、多くのアフリカの人たちがやってきて、やがてこの地区に住むようになりました。同じことは中南米の人たちにも言えます。彼らはタンツハウスに自らの文化的な故郷を見出したのです。ドイツは今や多くの移民が住む社会になっています。もはや単一の文化ではこの国の多様性には対応できません。だからこそタンツハウスの活動は多岐にわたるものになっています。社会の現実に対応する文化を提供しなければならないと思います。
 「工房」の初期の時代から、私たちは文化と社会に橋を架けることを目標に設定していました。劇場で公演を見たらそれでおしまいという状況を変えようとしたのです。文化教育、舞台公演、作品の制作、作品についての議論が、それまではばらばらに行われていましたが、私たちはそれを一つの場にまとめようとしました。とくにコンテンポラリーダンスは公演を見終わったあと、観客がそれぞれの受け止め方を話し合うことが必要です。アフリカの太鼓の音楽にしても、リズムを聞いたあと、すぐに踊ることをここでは禁止しています。ドイツの音楽にはない、多様で複雑なリズムの基礎になっている文化的背景を理解してほしいと思うからです。
 社会の変化と言えば、若い人たちへの文化の普及活動の必要性が高まってきたことです。30年前に比べれば、文化的な催しの数は10倍になっています。にもかかわらず、文化的施設に定期的に足を運ぶ人はわずか5%、1年に数回という人が45%、一度も行かないという人が50%もいるのです。オペラに行けば、白髪まじりのエリート層ばかりです。文化的、社会的に不利な立場にいる人たち、特に子どもたちに対して、文化という栄養を提供しなければなりません。親たちには、子どもが文化的生活を送ることが、将来の職業生活にとっても重要であることを理解してもらわなければなりません。ダンスを学ぶことを通じて、子どもたちは自覚、注意深さ、創造性、規律を身に着けるようになります。タンツハウスはまさにこの点を重視し、課題として取り組んでいます。

──さて現在のタンツハウスについて伺いますが、どのような施設があり、どのような活動をされていますか。
 私たちが運営している建物は4000m²の広さがあります。8つのスタジオがあり、1週間に250の講座が開かれ、講師は40名、約2,500人の参加者がいます。そのうち子どもは約800人です。午前中はプロのダンサーのためのバレエやモダン、コンテンポラリーダンスの講座が5つのスタジオで行われています。午後は2〜3歳以上の子どもたちが親と一緒にやってきます。午後5時からと週末はおとなのための講座が開かれています。
 スタジオ以外に大小2つの舞台があります。客席数はそれぞれ350と約90で、世界のダンス作品と同時に、地元のノルトライン=ヴェストファーレン州のダンスを紹介しています。作品制作の場として、レジデンス・プログラムも実施ししています。レストラン、ホワイエもあります。ホワイエは公演終了後のディスカッションやアフター・トーク、セミナーや研修の会場にもなります。
 それ以外に、飛行機の離陸を意味する「テイク・オフ」という部門があります。これは2歳以上を対象にしています。最近、生後2〜3カ月の赤ちゃんのための「テイク・オフ」も始まりました。フォーサイスのもとでドラマトゥルクをしていた女性が担当していますが、彼女自身が自分の子どもの誕生をきっかけに始めたものです。また、「テイク・オフ」の中にいくつかの作品制作プロジェクトがあります。一つは「タンツハウス・青少年アンサンブルJET(Junges Ensemble am tanzhaus nrw)」です。これは若くて才能のある子どもたちが週3回のレッスン・リハーサルを経て、舞台作品を作るというもので、将来、大学のダンス科を受験する子どもたちを対象にしています。
 二つ目が「チャンス・ダンス(Chance Tanz)」です。これは困難な家庭環境にあって薬物依存や攻撃的性格などのために、学校や職場に適合できない青少年を作品制作に参加させるというものです。これは3年前から始めたプロジェクトですが、学校や職場から見放されてしまった青少年たちがダンスを通じて社会性を取り戻しています。誰もが不可能と思っていたことが、可能になったのです。規律、コミュニケーション、社会的能力に対して、ダンスが持っている力を見せたいと思ったので、私たちもこのプロジェクトには熱心に取り組みました。
 「テイク・オフ」では、タンツハウスが学校に出向くプロジェクトも行っています。26のクラスで午前中にこのプロジェクトが行われているということは、正課の授業、つまり数学や他の学科と同じ科目としてタンツハウスのプロジェクトが行われていることを意味します。ここにたどり着くまで、かなりの抵抗がありました。しかし、親たち、とくに移民の背景を持つ親たちが大きな力となりました。言葉の比重が低いダンスの授業を通じて、移民の子どもたちが学校に溶け込んでいくようになるのです。今ではダンスを通して得ることができる社会的能力が認知され、学校側からの要望が強くなっています。タンツハウスという文化施設と学校の密接な協力によって成果を上げている「テイク・オフ」のモデルが、デュッセルドルフだけではなく、ノルトライン=ヴェストファーレン州全体に広がるように、連邦政府からの資金援助を求めて働きかけているところです。
 長い年月をかけて、私たちが今タンツハウスと呼んでいる組織の特徴、独特な存在を作り上げることに成功したことは重要なことです。私が政治家によく言うのは、劇場、コンサートホール、オペラハウスはあるのに、なぜダンスハウスがないのかということです。ダンスが独立した芸術であり、そのための建物が必要なのです。世界のダンス芸術と同時に、地元のフリーのダンス芸術家たちを支援すること、外国のダンス文化やコンテンポラリーダンスを多様な教育的コンセプトによって市民に普及すること、社会的な問題の背景を検証しながら、それらの問題と関わろうとするコミュニティ・ダンスの実践に、タンツハウスの独自性を見ることができます。
 劇場の専属アンサンブルが作品を作って公演するというドイツ特有の劇場システムの難点は、自己完結的で閉鎖的というところです。フランスのように、制作センターで作られた作品を劇場が買って上演するという場が、ドイツの公立劇場にはありません。国際的なダンス作品の紹介や、フリーの芸術家のダンス作品の上演の場所は、ドイツではわずかしかありません。代表的なところには、ベルリンのハウ(HAU)、フランクフルトのムーゾントゥルム(Mousonturm)、ハンブルクのカンプナーゲル(Kampnagel)と、このタンツハウスがありますが、もっとフリーのアーティストを支援する場が必要だと思います。

──タンツハウスが協力しているiDAS(International Dance Artist Service)とは、どういうものでしょうか。
 ノルトライン=ヴェストファーレン州にはおよそ50のカンパニーがあります。そのうち約20のフリーの振付家あるいはカンパニーが州を超えた活動をしています。iDASはこのようなカンパニーを支援する組織で、タンツハウスとは密接な協力関係にあります。制作や、国外でのツアーを希望するアーティストのためにきめ細やか支援を行っています。

──iDASのような活動も含めると、実に多彩で活発な活動をされていますが、運営組織はどのようになっていますか。活動資金は、どこから得ていますか。
 ダンスの講座は事業収入で賄っています。この収入の70%で講座の必要経費を賄い、残りの30%が制作支援、事務経費に充てられます。補助金は、国際的なカンパニーのゲスト公演に絞られています。タンツハウスの財政モデルは国際的に大きな関心を呼び、多くの国の市会議員たちが視察にきます。最近ではトゥールーズ、ティルブルフ、オスロからの訪問がありました。タンツハウスには毎年18万人が訪れます。デュッセドルフ市からの補助金を訪問者一人当たりに換算すると、10〜15ユーロという計算になります。これが市立劇場だとチケット1枚につき120ユーロ、オペラでは150ユーロ、ハンブルク・バレエ団の場合は1枚につき160ユーロもの公的補助金が支払われているのです。タンツハウスは、少ない公的補助で、勅使川原三郎をはじめ、世界中の著名なカンパニーの公演を実現しているのです。また、「テイク・オフ」のように、プロジェクトごとにスポンサーがついているものもあります。たとえば、先程お話した「チャンス・ダンス」はロータリークラブがサポートしています。

──さまざまなフェスティバルも行われています。
 2カ月に1回フェスティバルを開催しています。オリエンタル・ダンス、フラメンコ、タンゴ、アフロ・ラテン、子どものダンスのフェスティバルは毎年実施しています。年によってテーマは変化しますが、シリーズもあります。今年度はグローバル・ダンス・アライアンスというシリーズを行っていて、来年3月に行う勅使川原の公演はこのシリーズの一つです。このシリーズでは、国際的に著名な振付家やカンパニーと無名の若いダンス芸術家を組み合わせた公演を行っています。次の世代を担う芸術家が生まれて来なければなりませんから。ただ、勅使川原の公演では、彼の新作ではなく、ドイツ初演になる「鏡と音楽」を公演するので、若手と組み合わせることはしません。デュッセルドルフだけではなく、アムステルダム、パリの劇場にも声をかけ、欧州公演として行う予定です。

──デュッセルドルフで活躍している振付家にはどのような人がいますか。最近、ベン・J・リーペ(Ben J. Riepe)がデュッセルドルフ市の奨励賞を受賞したようですが。
 ベン・J・リーペは、タンツハウスが手塩にかけて育てました。こうなるまで10年ほどかかりました。名前を挙げるとすれば、オペラ座のマルティン・シュレプファー(Martin Schläpfer)、ノイヤータンツ(Neuer Tanz)のVA・ヴェルフェル(VA Wölfl)、今はパリにいることが多くなりましたが、ライムント・ホーゲ(Raimund Hoghe)がいます。若い世代では、先程のベン・J・リーペ、ジルケ・Zとレジスタンス(Silke Z./resistance)、シュテファニー・ティルシュなどでしょうか。数年前までは、ロドルフォ・レオーニもいましたね。彼は現在フォルクヴァング大学の振付の教授を務めています。全員が日本に行った経験を持っています。

──ドイツ全体のダンスシーンとの関連で、タンツプラン・ドイチュランド(Tanzplan Deutschland)についてお尋ねします。これは、2010年までの5ヶ年計画で、ドイツ国内9都市でのダンス事業を支援する事業でした。タンツハウスは、この事業の拠点の一つとなっていたと思いますが、どのような事業がなされたのでしょうか。
 「テイク・オフ」がタンツプランの支援事業でした。タンツプラン自体は2010年に終了し、ハンブルク、ベルリン、デュッセルドルフの継続が決まりました。ミュンヘンは規模を縮小して継続されています。エッセンが継続されるかどうかはまだ決定していません。支援が継続される条件は、それぞれの都市が50%の経費を負担することですが、「テイク・オフ」が引き続き支援され、タンツハウスの重要な構成部分として存続することは、青少年を対象にしたダンス事業の重要性をデュッセルドルフ市が認めたと言えます。

──「タンツプラン」の5年間の活動で、何が達成できて、何が達成できなかったと考えていらっしゃいますか。タンツプランに対するミュラーさんご自身の評価を伺いたいと思います。
 タンツプランという表現が誤解を招きますが、これは計画ではなく、プロジェクトです。先程も言いましたが、ドイツの文化は連邦(中央)政府ではなく、地方自治体が財政負担をしています。連邦政府が資金を出しても良いのは、国全体として重要な意味を持つ、あるいは国際的な文化事業に限られています。バイロイト音楽祭、カッセルで行われるドクメンタ、ベルリンのテアータートレッフェンなどが該当します。ダンスの分野でも国全体として取り組める事業がないかということで、アイデアコンペが行われました。その結果、ダンス文化の発展を作り出す基盤整備事業が5年間にわたって9都市で実施されることになりました。この事業が残したものは、もっとダンスに力を注ぐべきだという政治的な意識、ダンスにおける連邦政府の関与と責任、連邦文化メディア庁のノイマン長官が我々ダンス関係者との協力関係に心を開いたことです。今後、フリーと公立劇場の協力による歴史的なダンス作品の再構築、著名な振付家あるいはカンパニーによる青少年たちとの共同創作、ハンブルク・バレエ団のノイマイヤーによる若手ダンサーのカンパニー設立という3つの重要なプロジェクトが、連邦文化メディア庁が支援する事業に決定しています。また、ドイツ国内のダンス関係の団体が参加するドイツダンス連盟が、文化におけるダンスの地位を高めるためのロビーとなって、タンツメッセやタンツプラットフォームを支援する体制ができました。

──海外のアーティストとの共同制作について伺います。ダンス評論家のアルント・ヴェーゼマン(Arnd Wesemann)がゲーテ・インスティトゥート(Goethe-Institut)のために書いた記事には、「タンツハウスnrwでヨーロッパのダンス政策が行われる(tanzhaus nrw - Europe's Dance Policies Made in Düsseldorf)」というタイトルが付けられています。やや大げさな感じがしますが、どう思われますか。また、ミュラーさんは、ヨーロッパ・ダンスハウス・ネットワーク(European Dancehouse Network)の会長をされていますが、このネットワークについて教えてください。国際的なダンスエージェントをタンツハウスnrwに設けるなど、大変意欲的な取り組みだと理解していますが、今まで具体的に上がった成果をお聞かせください。
 残念ながらヴェーゼマン氏の記事を読んでいません。やや大げさな表現だとは思いますが、そう言われると嬉しいですね。タンツハウスは政治の場ではありません。ただ、私は資金不足を抱えるタンツハウスが生き延びるためには、ヨーロッパにあるダンスハウスと協力し、ネットワークを構築せざるを得ないことを、他のどのダンスハウスよりもよくわかっていたことは事実です。タンツハウスは現在ヨーロッパを中心に40を超えるパートナーを持っています。そして、ヨーロッパでのプロジェクトのために欧州連合の助成金を申請したのは、恐らく私が最初でしょう。欧州連合からどのように資金を調達するかのノウハウだけではなく、信頼できるパートナーを持つことが重要なのです。
 こうしたタンツハウスのヨーロッパ内のパートナーとの協力活動から生まれたのが、ヨーロッパ・ダンスハウス・ネットワーク(EDN)です。EDNは、ダンスハウスのネットワークとして、国際的に活動している最も強力で、最も明確なものだと思います。たとえばEDNの活動の一つに、バルセロナのダンスハウスが主体となって取り組んでいる「モジュール・ダンス」というプロジェクトがあります。これはアーティストを数年間、リサーチ、レジデンス、制作、公演という4つの段階を通じて支援するものです。EDNに参加しているダンスハウスすべてが劇場機能を持っているわけではありませんが、リサーチやレジデンスの段階では、スタジオだけしか持っていないダンスハウスが利用できます。制作、公演の段階では、舞台技術者や舞台設備が整ったダンスハウスが必要になってきます。このモジュール・ダンスで最も成功を収めているのが、日本人ダンサーであり振付家の伊藤郁女(かおり)のプロジェクトです。EDNはそれぞれのダンスハウスの特徴を利用したネットワークであるというのが、うまく機能している秘密だと思います。

──タンツハウスnrwは、ヨーロッパのダンスハウスの拠点という位置づけに加えて、アジアとの事業の窓口にもなっているように思います。実情はいかがでしょうか。中国や韓国との交流プログラムがあると聞いていますが、これは恒常的なものでしょうか。
 「モジュール・ダンス」以外に、ヨーロッパのダンスハウスとの協力で、2010年には「Kore-A moves」というプロジェクトをほぼ1カ月にわたってヨーロッパ各地で開催し、韓国のコンテポラリーダンス・シーンを紹介しました。2012年には2回目の「Kore-A moves」を行います。まさしくヨーロッパのダンスハウスのネットワークを活かした公演です。「2012年11月、韓国のダンスシーンを紹介したいと思っています。一緒にやりますか?」という電話1本で、エストニア、アイルランド、イギリス、ポルトガルやスエーデンでの公演が実現するのです。韓国との交流プロジェクトでは、韓国側がヨーロッパまでの渡航費を負担し、ヨーロッパ側がローカル・コストを分担するという方式です。
 2008年に行った「Chin-A moves」という中国との交流は、ヨーロッパ側がすべての経費を負担しました。ヨーロッパ各都市と中国の3都市で、ヨーロッパと中国のインディペンデントのダンサー、振付家が交流するという壮大なプロジェクトでした。アクラム・カーンが中国国立バレエ団のダンサー3名と、カーン自身のカンパニーのダンサー5名を用いて作った作品「bahok(ベンガル語でキャリアと言う意味)」の公演を皮切りに、2008年5月にはヨーロッパから5名の振付家が中国を訪問し、中国の振付家やカンパニーとワークショップを行いました。同年の秋には、中国を訪問したヨーロッパの振付家の作品が北京、上海、昆明の3都市のフェスティバルで上演されました。また、中国の振付家の作品は、ヨーロッパ各地のダンスハウスで上演されたのです。こうして、今までヨーロッパでは紹介されることのなかった中国のフリーのコンテンポラリーダンスに光を当てることができました。

──大規模な交流プロジェクトですが、経費はどれくらいだったのですか。
 ヨーロッパ側で用意した金額は18万ユーロです。これだけの規模のプロジェクトにしては、ごくわずかな金額です。中国での公演、ワークショップはほとんど費用がかかりません。ヨーロッパでの公演は、劇場などのインフラがすべて整っています。だから、こんなにわずかな資金で、このように大規模な交流事業ができたのです。中国とのこの交流プロジェクトは、模範的な交流事業としてヨーロッパでは高い評価を受けました。

──このプロジェクトは今も継続していますか。
 残念ながら、ヨーロッパで予算がないので継続していません。ただ、いくつかの交流プロジェクトは行われています。また、2012年、13年には「ドイツにおける中国年」が予定されており、この枠組みで中国とドイツのダンス交流が行われる予定です。中国との交流プロジェクトが示しているように、私たちは非常に少ない予算で、大きな成果を上げるシステムを作り上げてきました。

──韓国や中国との交流プロジェクトのような取り組みが、日本の振付家やダンサーに対して行われていますか。
 日本との交流に関しては、単発的なものが多く、ヨーロッパでのネットワークを利用した交流プロジェクトは行われていません。2年前に日本からダンスグループをいくつか招いた公演を、タンツハウスで行いました。先程名前の出た伊藤郁女も、タンツハウスで紹介したことがあります。また、今年の12月には雑誌「タンツ(Tanz)」の最新号で、「Kentaro!!は希望の星」と紹介したKentaro!!の公演があります。来年2月にはベルリンのハウとの共同で梅田宏明の公演を予定しています。3月には国際交流基金との共同プロジェクトで勅使川原三郎を上演します。

──日本との交流が単発的になってしまう理由はどこにあるとお考えですか。
 アーティストの問題ではなく、構造的な問題です。このようなプロジェクトの受け皿になる劇場が日本にはないことが挙げられると思います。日本には立派な劇場がたくさんあるので、その中から3カ所を選んでヨーロッパの劇場と交流するプログラムをぜひ企画したいと思いますが、日本の劇場にはそのための予算がありません。それに日本とヨーロッパの予算年度が違うという問題もあります。ヨーロッパ側で急に可能性が出てきても、日本の予算はすべて決まっているということが多いですね。その逆のケースもありますが。予算年度については、韓国でも同様に問題になります。念を押しますが、日本には多くの素晴らしいアーティストがいて、私たちは大きな関心を持っています。ただ、これらのアーティストを招聘し、ネットワーク化することは、申し上げた二つの理由で残念ながら困難なのが実情です。

──タンツハウスに話を戻しますが、私の知る限りで言うと、日本のアーティストとの関係では、秋谷悦子さん(現在、フォルクヴァング大学教授)、阪本麻郁さん(現在、四国学院大学教員)が、タンツハウスで教えたり、作品制作をしたりしていました。ババ・タカオさんが参加しているE-Motionといったグループもタンツハウスから生まれてきたアンサンブルだと思います。田中直子さんもタンツハウスと関わりがありました。今までの日本人との共同制作など、あれば教えてください。
 秋谷さんはロドルフォ・レオーニのカンパニーの一員として、ここでプロのダンサーを教えながら、レオーニと一緒に作品制作をしていました。阪本さんもバレエの講師をしながら、「テイク・オフ」の一つである青少年アンサンブルの作品を制作しました。ババ・タカオさんが率いるE-Motionと田中直子さんは、先程お話したiDASが支援しているアーティストになっています。

──最後に、ミュラーさんご自身と日本との関わりについてお聞かせください。
 私の父はナチスに抵抗した「告白教会」の牧師でした。戦後、ドイツの教会ではナチス時代への反省から、各地に様々な教育施設を開きました。私の父は京都にそうした教育施設として関西セミナーハウス(*2)を開設するというミッションを受けました。また、私の兄は技術者、弁護士として日本の企業と深い関係を持っていました。つまり、私の育った家庭が、神学的、経済的、そして文化的に日本と深く関わっていたわけです。

──長時間のインタビューにご協力いただき、どうもありがとうございました。
 
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