The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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コスミン・マノレスク
Profile
コスミン・マノレスク氏
Mr. Cosmin Manolescu

1970年生まれ。ガブリエラ・テュードル財団(http://www.gabrielatudor.ro/site/en.html; http://zonadstudio.wordpress.com)のディレクターのほか、ルーマニアのアーティスト・イン・レジデンスのネットワークを繋ぐ「ArtistNe (s) t Network of Artist-in-Residence Centres in Romania」のディレクター、東欧唯一の国立のコンテンポラリダンスセンターであるルーマニア国立ダンスセンターの創設者、独立セクター連合メンバー、キュレーター・マネージャーとしても広く知られる。ヨーロッパを中心にコンテンポラリーダンス界の幅広いネットワークを構築し、ルーマニア、バルカン地域のコンテンポラリーダンスシーンを牽引するなど、精力的に活動。
ガブリエラ・テュードル財団
Gabriella Tudor Foundation
http://www.gabrielatudor.ro/site/en.html
ガブリエラ・テュードル財団
Presenter Interview
2012.8.12
Contemporary dance in Romania, the post-revolution new wave 
革命後のニューウェイブ ルーマニアのコンテンポラリーダンス 
1989年、チャウシェスク政権を打倒した革命により、自由な表現が許されるようになったルーマニア。ロシアの影響下で盛んに行われていたバレエに対し、革命後の第一世代のアーティストたちが西ヨーロッパとの交流で新たに出会ったのがコンテンポラリーダンスだった。自らも振付家として作品を発表し、コンテンポラリーダンスの環境づくりに尽力してきたキーパーソンがコスミン・マノレスク氏(ガブリエラ・テュードル財団ディレクター)である。ルーマニアのアーティスト・イン・レジデンスのネットワーク「ArtistNe (s) t Network of Artist-in-Residence Centres in Romania」のディレクターとしても知られ、バ ルカン諸国のネットワークづくりにも取り組む彼に、ルーマニアのダンス事情や最新のプロジェクトについて聞いた。
聞き手:乗越たかお[舞踊評論家]

革命前・革命後

──まず1989年の革命前のルーマニアの状況と、ダンサーとしてのキャリアの始まりについて聞かせてください。

 私は革命前年の1988年に公立のバレエスクールを卒業して兵役に就き、そこで革命を迎えました。専制国家の閉ざされたシステムから解放され、自由に発言し生きられるようになった「革命後アーティスト」の第一世代と言えるかもしれません。
 ロシアとの関係もあり、革命前からルーマニアではバレエが盛んでした。その他に小さなアンダーグラウンドのモダンダンスも一部で行われていました。私が通った学校のモダンダンスの授業は、週1回1時間程度あるだけでした。指導者は、1970年から80年、一時的に渡航が緩和されたときに海外でホセ・リモン、マーサ・グレアム、マース・カニンガムなどのスタイルを学んできた人々でした。
 検閲が厳しくて自由な公演は難しく、入ってくる国外の情報といえば外国の大使館に置いてある雑誌ぐらいでした。一方で、無料のアンダーグラウンドの公演を密かにやったりしていましたが、当時主に上演されていたのは、スタジアムで国中から何百人ものダンサーを呼んでチャウシェスクの共産主義政権下の「労働の喜び」を賛美し、独裁者の誕生日を祝う馬鹿げた共産党プロパガンダのマスゲームのようなものでした。
 私はバレエスクールを卒業する頃、自分にはバレエは合わないと思っていました。革命後の2年間は初めての自由を満喫し、黒海のリゾート地のキャバレーで踊ったりして、面白い経験をしていました(笑)。その後、ルーマニアの文化省が設立したジョン・ツガールーが芸術監督の初めての公立モダンダンス・カンパニー「オリオン」に参加しました。

──革命後に、一気にコンテンポラリーダンスの波がやってくるわけですね。
 幸運にも、その頃はフランスが「La Danse en Voyage(旅するダンス)」という、著名なフランス人振付家をルーマニアに派遣する大規模なプロジェクトを立ち上げて、ワークショップやマスタークラス、公演などを行っていました。私も1991年にブカレストでクリスティーネ・バスティン(Christine Bastin)と彼女のカンパニーのダンサーたちとのワークショップを受け、そこで初めてコンテンポラリーダンスを体験しました。身体を自由にし、流れに身を任せ……バレエしか知らなかったので、2週間のワークショップを受けた後は自分の身体に何が起こっているのかさっぱりわかりませんでした(笑)。
 公立カンパニーを辞めてから2年後、同世代のダンサー3人とルーマニア初の独立したダンスカンパニーを立ち上げました。「主流の外に位置している」という実感から「The Marginal Group」と名付けました。ちょうどその頃、先述のプロジェクトでルーマニアを訪れていたフランス人の若い振付家のChristian Trouillasと仕事をすることになり、パリに行きました。初の海外、初の飛行機でした。当時22歳、私にとって新しい時代がやってきたようでした。
 しかし、私たちの前向きなエネルギーにもかかわらず、ルーマニアの情勢は依然厳しいものでした。スタジオもない、お金もない、公演の機会もありませんでした。この国のダンスが置かれた難しい状況を変えるには、マネジメントを学ぶ必要があると気づきました。1年間勉強に専念して、研究旅行でフランスとイギリスを訪れ、1996年にフランスで文化経営論の修士号を取りました。その翌年、私は妻のガブリエラ・テュードルと共に、Project DCM(Dance Cultural Management)というルーマニア初の私立ダンス財団を設立し、様々なプロジェクトを立ち上げました。その後、財団は2009年に亡くなった妻と同僚に捧げるガブリエラ・テュードル財団と改称しました。

──アーティストが自ら財団を設立するというのは興味深いですね。よくあることなのですか?
 はい、ルーマニアではよくあります。文化的にコンテンポラリーなものを立ち上げることにおいてはアーティストが最も大きな原動力をもっていますから。
 革命後、ルーマニアは経済などすべての分野の基盤を国営から民営に移しましたが、文化や舞台芸術に関してはいまだに国の影響力が強いままです。現在も劇場はほとんどが国立で、民間劇場や民間組織はきわめて少なく、その中でも生き残ることができるのはごくわずかです。国立もしくは市立劇場は年間助成金によりスタッフや事務所などのインフラが整備されていますが、民間にはプロジェクト単位でしか資金が提供されません。結果、管理費などの経費を賄えず、多くの組織は解散に追い込まれました。ですから、アーティストには創造力がなければなりませんし、筋道をつけて世間から認められなければなりません。
 妻とDCMで最初に始めたプロジェクトの一つが、“Inter/National Centre for Contemporary Dance”という小さなコンテンポラリーダンスセンターを開設するというもので、ワークショップやクラスを開講しました。さらに1998年には、初の「ルーマニア・ダンス・プラットフォーム」をDCMで主催し、2日間で12人の振付家による12作品を発表しました。これがきっかけとなって若者たちの間に初めてコミュニティーが生まれました。また5年間プロのアーティスト育成に投資した結果として、数人の興味深い新進アーティストたちが頭角を表し、海外にも進出していくなど、大いに活気づきました。

──資金はどのように調達したのですか。
 当初は、海外の文化支援団体や、ウィーンのKulturKontak、アムステルダムの欧州文化財団、ブカレストのフランス会館などの東欧向け助成プログラムからサポートを受けていました。また、EUのNGO向けの特別サポートプログラムを6カ月受けて、コンテポラリーダンスセンターを始めました。その後、地元の企業が大きなイベントごとに支援してくれるようになりました。
 大きなプロジェクトとしては、1998年にブリティッシュ・カウンシルが“British Dance Edition”というルーマニア4都市をツアーする巡回型ダンスフェスティバルを始め、注目を集めていました。私はそこで、イギリスのダンスカンパニーが3都市で公演する企画を担当しました。ブカレストで行った8つの公演では2週間で7,000人もの観客を集めました。そのフェスティバルの成果もあって、ブリティッシュ・カウンシルは定期的にルーマニアでダンス公演を主催するようになり、私たちに対しても、Charles LinehanやBalanescu Quartetとルーマニアの振付家たちとの共同制作を委託してくれるようになりました。

──観客の反応はどういうものでしたか。
 とてもよかったのですが、まだまだ十分でないことも痛感しました。ルーマニアではダンスはオペラやバレエ、演劇の一部という認識で、独立した芸術形式とは認められていなかったのです。
 そうした状況は、大規模な運動を行った後、ブカレスト初の国立ダンスセンターが開館した2004年まで続きました。それ以前は、いくら支援を要望しても、政府は何も応えてくれませんでした。2001年に「Movements of the Edge」という東ヨーロッパとルーマニアのプロの振付家を育成するための特別プロジェクトを立ち上げたときにも、オーストリアやポーランド、オランダ、フランスなどの外国の団体から支援を受けましたが、自国の文化省からのサポートは無し。そこで私は、印刷物に海外の助成団体のロゴを掲載した下に「当プロジェクトはルーマニア文化省からいっさい資金を提供されずに実施されています」と明記し、記者会見でも言及しました。同僚たちは「こんなことを書いたら大変なことになる」と言いましたが、別に失うものはありませんからね(笑)。
 実際、効果がありました。その1年後に公的な資金援助を得たのです。その頃からルーマニアのコンテンポラリーダンスは海外に進出し、その成功によって、第2回「ルーマニア・ダンス・プラットフォーム」とソフィアで行った第1回「バルカン・ダンス・プラットフォーム」には海外から20組以上のプレゼンターが見に来るようになりました。その後も私はIETMやアエロウェーブスAerowaves(John Ashfordが1996年に創設した、アーティストやクリエーター、フェスティバル・ディレクターたちと振付家と結びつける特別なネットワーク)でロビー活動を続け、「ルーマニアには創造的な潜在能力があるアーティストたちが大勢いるんだ!」と働きかけました。その結果、ルーマニアのダンサーたちがウィーンやベルリン、ニューヨーク等の重要な海外のスペースで発表できるようになったのです。
 海外での評価が高まることで、私も文化省やメディアと交渉しやすくなりました。2002年には国会の文化委員会の代表者や文化省に対し、「国際的に認められているルーマニア人アーティストをルーマニア国民に見せるため、力を貸してほしい」と交渉しました。その際、ダンスの振興に役立つコンテンポラリーダンスの公的機関を立ち上げるアイデアを打ち出しました。

──日本にも似た状況がありました。山海塾ダムタイプなど、80年代に高い評価を得た日本のアーティストの多くが海外に拠点を移し、日本の素晴らしいアーティストの公演を日本の観客が見られない状況がありました。
 2004年に第2回ブカレスト─ウェスト国際ダンスフェスティバル(the BucharEast-West international dance festival)を開催した直後、私は旧世代の代表者たちと未来のルーマニアのダンスを話し合う会議に呼ばれました。「君が我々を悪く言って騒動を起こしている奴だね?」と批難されたので、「私はただ事実を述べただけです」と答えました。私を擁護してくれたのは、新しい世代の振付家が存在することを国際的に認めてくれたすばらしい観客と、重要なメディアがそれを取り上げてくれたことでした。この議論の結果、彼らは「コンテンポラリー・ダンス・ガラ」を開催するための資金として、当時としては大きい1万ユーロの助成を申し出てくれましたが、断りました。「私たちに今必要なのはガラ公演ではありません。優れたアーティストが、海外ではなくルーマニアで創作・公演を行えるような長期的に支援するシステムです」と。向こうは「1万ユーロを断るなんて、頭がおかしいのか!?」と激怒しましたね(笑)。しかし金さえ貰えればいいというものではないのです。
 この話し合いは8カ月間も続きました。結果として2004年に設立されたのが、ブカレストの国立ダンスセンターです。現在はコンテンポラリーダンスをサポートする重要な公的機関となっています。こうして今やダンスは、オペラや演劇と同様に「特別に予算が組まれるべき芸術」として認められました。これが1997年から2004年までの私の活動ですね。こんなシンプルなことを成し遂げるのに7年もかかってしまいました。

──闘っていますね(笑)。文化省の対応に、その後変化はありましたか?
 ええ。文化省と長年交渉した成果は少なからずありました。2005年に私は、文化省からの支援は協会や財団だけでなく、直接アーティストも受けられるようにするべきだと説得しました。支援は受けられるようになったのですが、2008年に法律が変わり、アーティストも自身の創作活動に対し資金援助を受けた場合は16パーセントの税金を払わなければならなくなりました。
 もう一つのロビー活動の成果が、独立セクター連合を通じて、ヨーロッパ圏内のプロジェクトに対してEUの特別文化プログラム助成(2007〜13)を直接受けられる資金調達スキームを2010年に獲得したことです。さらに2011年からは、文化省が毎年大規模プロジェクトに対する助成を公募するようになりました。こうした支援は、私とステファニア・フェルケダウが立ち上げたルーマニアやキプロス、アイルランド、ラトビア、UK、トルコのアーティストと制作者をサポートする“E-Motional Bodies & Cities”プロジェクトには不可欠なものとなっています。

──国立ダンスセンターが危機的な状況にあると伺いましたが、それは本当ですか?
 残念ながらそうです。ルーマニアの歴史はどうして一進一退を繰り返してしまうのでしょう。国立ダンスセンターについてもう少し詳しく紹介すると、最初はブカレスト中心部の国立劇場の敷地内にあった2,500平方メートルほどの使われていなかったスペースを2004年に確保しました。そこに2つの大きなダンススタジオと120席の舞台を設け、リサーチや創作のための施設として使用していました。そして、センターでは定期的に国内外のアーティストの作品を上演していました。2010年にダンスセンターのオーナーである国立劇場が大幅な改修工事を行うことになりましたが、そこにダンスセンターが含まれていなかったのです。
 その結果、2011年3月に国立劇場がリニューアルした時には、ダンスセンターには小さなスタジオと事務所スペースしか与えられず、創作には最悪のコンディションになっていました。マネジメントについてもおろそかにされていて、何にも戦略的な計画がありませんでした。一からのやり直し交渉は難しいことですが、私は何らかの解決策を見つけたいと思っています。

バルカン・ダンス・プラットフォーム

──コスミンさんが立ち上げたダンス関係者のための「バルカン・ダンス・プラットフォーム」について聞かせてください。

 これは、私とデッシー・ガブリロヴァ(Dessy Gavrilova)がソフィアのRed Houseと共にバルカン地域のアーティストを繋ぐことを目的に2000年に始めたプロジェクトです。あまりにも皆の目が西ヨーロッパに向いていて、隣の国で起こっていることに無関心な状況に疑問を感じたからです。まずはルーマニアとブルガリアのアーティストたちがワークショップやトークイベントなどを介して交流することから始めたのですが、徐々にスコピエ、アテネ、リュブリャナなどのバルカン諸国も加わりました。
 2年に1度開催し、第1回の2001年はソフィア(ブルガリア)で、03年ブカレスト、05年スコピエ(マケドニア)、07年アテネ(ギリシア)、09年ノヴィ・サド(セルビア)、そして2011年にはリュブリャナ(スロベニア)で開催しました。現在2013年にどこで開催するか検討しているところです。
 長い間、世界の人々にとってバルカン地域はブラックホール同然でした。2000年まで、この地域で起きていることの情報は何もなく、誰も訪れない、アーティストも紹介されないような場所だったのです。しかしこのプラットフォームには海外からの舞台関係者も訪れますし、アーティストの交流も盛んに行われるようになりました。このプラットフォームによって、西ヨーロッパにとってバルカンがエキゾチックな場所として、また「ヨーロッパの血と蜜」として、再発見されたと思います。
 現在はバルカン諸国をアジア諸国と繋げる方法を模索しています。私は今回の来日で、バルカン・ダンス・プラットフォームをTPAMや横浜ダンス・コレクションと繋げ、共同作業をする可能性を探りたいと思っています。

──バルカン諸国のプラットフォームを考えたのは、EUが背景にあったからですか、それとも文化的なアイデンティティからでしょうか。
 文化的アイデンティティからです。バルカン諸国同士は食べ物や芸術など、互いに共通点のある文化が根付いています。ルーマニアは、ある部分はバルカンとして見られ、ある部分は中央ヨーロッパとして見られるという西洋と東洋が出合う興味深い国ですから、そういう文化的アイデンティティへのアプローチを試みたいと思っています。
 ただ、コンテンポラリーダンスに伝統舞踊を取りこむ、といった動きはほとんどありませんね。伝統舞踊は共産主義政権のときにずっと保護され奨励されてきましたし、「カルサリ」という伝統舞踊は世界中で何千回と公演されてきました。いまさらそこに戻ろうという人はほとんどいません。ルーマニアでコンテンポラリーやモダンアートが本格的に始まったのはやっと2006年か07年くらい、という歴史の浅さとも関係あるかもしれません。ただ少数ながらそこにふれようとするアーティストもいて、私もその一人です。伝統舞踊は私の一部であり、原点ですからね。

──バルカン・ダンス・プラットフォームの予算は?
 ホスト国が主に参加アーティストの宿泊やフィー(西欧レベルよりはかなり低いですが)を負担し、パートナーがアーティストの国内の経費を負担するというのが基本的なスタイルですが、毎回異なるプログラムで予算も異なります。私がオーガナイズした2003年のブカレストの時は、プロジェクトが始まったばかりで物価も安かったので全体予算は1万ユーロでした。そのときの財政状況に応じてプログラムを組む共同プロジェクトなのです。いずれにしても、ルーマニアのダンスシーンにとって非常に重要なプロジェクトです。

E-Motional, Bodies and Cities

──あなたが立ち上げたもうひとつのプロジェクト「E-Motional, Bodies and Cities」(http://www.e-motional.eu)について聞かせてください。あなたはアーティストやマネジャーにとって「移動する力」がとても大切なのだと言っていましたね。

 そうです。現代の作品重視の世界において、芸術的なリサーチに最も大切なのが「Mobility and Exchange」です。つまり「交流」の前にまず「移動」があるということです。私たちはこのプロジェクトを6カ国で始めましたが、その内のイギリス以外の5カ国(キプロス、ラトビア、アイルランド、ルーマニア、トルコ)は、共産主義時代もその後も、お互いの国で何が起こっているのかを知りませんでした。このプロジェクトでは、ヨーロッパの中で才能と創造性を確立し、育成し、魅了し、持続することを意図しました。ダンサーや振付家だけではなく、マネジャーや評論家が各国を巡り、人と会い、公演を見て、ワークショップや地元のプラットフォームに参加できるように助成金、レジデンス、フェローシップ、リサーチ、共同制作などの支援をしています。
 さらに新しい作品を制作し、そのものについて考えるためのレジデンスも組織しています。日常的な雑用から離れ、自分の活動を分析し、考えを巡らせてほしいのです。小さな予算しかありませんが、将来はそこから発展したプロダクションが立ち上がるかもしれません。これはそうした「種まき」のためのプロジェクトなのです。
 もうひとつこのプログラムで重要な事業は「芸術的リサーチ」で、10名のアーティストがダブリン、リガ、リマッソル、ロンドン、ブカレストへ研修旅行しました。参加アーティストの申し込み用紙には「参加6カ国からの参加者しか受け入れない」と明記してあるのですが、結局多くの国から膨大な数の申し込みを受けました。それだけ需要があるということなのでしょう。
 E-Motionalは、ブカレストのガブリエラ・テュードル財団がダブリン・ダンスフェスティバル、ダンス・アイルランド、キプロスのDance House Lemesos、イギリスのbody>data>spaceをキーパートナーにしながら、EUの「文化助成プログラム2007-2013」のサポートを受けて実施しています。また、アムステルダムの欧州文化財団とルーマニアの文化・国家文化財省、ブカレストの国立ダンスセンターからも補助金を得ています。

──「E-Motional」はアーティストだけでなく、プロデューサーや評論家等も対象になっているのが画期的ですね。アーティストの支援というとフェスティバルや作品の創作支援を考えることが多いですが、あなたは長期的視点でアーティストを取り巻く状況自体を変えようとしているように思えます。
 おっしゃるとおりです。フェスティバルや大規模なイベントは華やかで観客に好印象を与えるでしょうが、本当に必要なのは、あらゆる方法でアーティスト自身をサポートする体制やプロジェクトをつくることなんです。フランスのようにマーケティングやアート・マネジメントが盛んに研究されているところでは必要ないかもしれません。しかしそうでない国では、こうした試み自体が社会全体を発展させる可能性もあると思います。
 「E-Motional」はそこに焦点を当てている数少ないプロジェクトのひとつです。これから、全体として14組のレジデンス、20組の「移動」助成をアーティスト、プレゼンター、プロデューサー、ダンス評論家に付与し、12のパフォーマンスを4つの国で上演する予定です。さらに2つの育成プログラムをリマッソルとリガで行います。そして、2013年4月にブカレストで3日間の国際フォーラムを開催し、プロジェクトを締めくくる予定です。このような一連の活動に関わることによって、私たちは、メインストリームの外にある新しいコミュニティによるコンテンポラリーダンス・シーンの発展を支援するため、越境的な活動が拡大することを目的にした小さいながらも直接的で人的なサポートを行っているのです。

──プレゼンターなどへの支援は最初からですか?
 はい。プレゼンターやマネジャー、評論家はアーティストと社会との媒介者ですから、知見を広げることは特に重要なのです。マネジャーとは書類を書くだけの人ではなく、制作過程に参加し、フィードバックを与え、人や組織とのコネクションを手伝い、作品の印象を向上させて、次に繋げてくれる存在です。世知に疎いアーティストにとって、彼らは、よりクリエイティブな存在でいなければなりません。しかしながらルーマニアにこうしたマネジャーはほとんどおらず、私のようにアーティスト自身がやるほかはありません。その結果、アーティストたちはとても孤独で、それが彼らの可能性を狭めているように思えます。
 しかしマネジャーの重要性は徐々に認識されており、キプロスとラトビアでは振付家やマネジャーのためのマネジメント訓練を行っています。特に国際協力を重視し、十分な予算を集める方法や目的の明確化、プロジェクトの継続が可能かどうかを分析する術などを教えています。これを日本でやってみるのも面白いかもしれませんね。

ルーマニアのコンテンポラリーダンス

──ルーマニアのコンテンポラリーダンスの状況について聞かせてください。コスミンさん自身、現在もアーティストとして活躍してらっしゃいますね。

 私は現在も自分の「シリアル・パラダイス(Serial Paradise)」というカンパニーで作品を制作しています。ルーマニアで賞を2つ、2005年パリでもSACDという作家団体から「才能のある振付家(Nouveau Choreographie)」の賞を受賞するなど評価していただいています。
 ルーマニアのダンスコミュニティはそれほど大きくありませんが、創造性は豊かです。この国が困難な歴史を抱えていた経験からか、作品はかなり実験的で政治色のある演劇的なものや身体的なものが多いですね。私のパフォーマンスも、きれいに踊ることよりホテルの部屋で上演するなど空間そのものを問うことから生まれる作品が多いです。現在は、アムステルダムのGabriella Maiorinoと“availability”をテーマにした作品をつくっています。今は、自分自身やオーディエンスにとって越境的な作品をつくることに興味があります。
 注目されている若手ダンサーにミハエラ・ダンクス(Mihaela Dancs)という人がいますが、彼女は元歯科医なんですよ。他にも元エンジニアや元心理学者など、ワークショップやダンスクラスを通して身体の力を発見し、ダンスに魅了された他分野の人がダンスに参入して多彩な表現を行っています。ですから、今のアーティストは私の世代と違い、必ずしもバレエがバックグラウンドにはなっていない。それはとても良いことだと思います。従来とは全く別の視点からダンスを理解し、発見することができるということですから。彼らのように「普通の仕事を辞める」というリスクを背負ってダンスの舞台に立つことを選択できるのは、ダンスが社会に対して開かれている証でもあるので、うれしいですね。
 
──ルーマニアのダンスを取り巻く経済的な状況はいかがですか。
 まだまだ楽観視できません。2010年にルーマニアは、ギリシアで起こったのと同じような経済危機に直面し、緊縮財政にせざるを得なくなりました。公務員の給料を25%カット、そして文化と外交に関する予算が大幅に削減されたのです。文化省から市議会に派遣された人が次々に助成を打ち切ったため、いくつかの重要な文化機関が解散の憂き目に遭いました。
 2010年は「合併の年」と呼ばれるほど多くのオーケストラや劇団、バレエ団等が、他のカンパニーと合併させられ、人員がリストラされました。監督3人の代わりに総監督を1人任命すれば安くあがるという考え方です。国立ダンスセンターも同様の合併が行われそうになりましたが、ぎりぎりのところで踏みとどまりました。状況はかなり深刻で、独立文化セクターやフリーのアーティストにとってますます難しい状況に陥ってしまっています。

──民間からの支援はどうですか?
 ルーマニアの民間セクターは、文化に対してはほとんど投資しません。文化はサッカーのようなスポーツがもたらす利益が無いからですが、そもそもコンテンポラリーアート全般にまだマーケットがありませんし、グローバル経済の危機の影響もあります。結局、EUに加盟してもルーマニアの中間層は育たず、非常に裕福な数パーセントの人々と、70%の貧困層に二極化しているのが現状です。もちろん大多数のアーティストは貧困層です。
 
──ルーマニアのダンス環境に、希望的な展望はありますか?
 はい。確実に良くなってきている状況もあります。例えばダンサーの拠点といえば、かつてはブカレストだけでしたが、今は増えています。クルージュ=ナポカには「Kontakt Improvisation Festival」を開催しているダンス組織が2つあります。また、「Temps d'Images」というダンス・演劇・ビジュアルアートといった学際的なレベルでかつ国境を越えたフェスティバルがあり、独立プロダクションも幾つかあります。今ではダンスにとってブカレストの次に重要な都市になったといえるでしょう。北にあるバカウという都市では、私たちの財団がアーティスト・イン・レジデンスのダンス・プログラムを行っています。2006年には「Apostu Culture Centre」も小規模なフェスティバルを立ち上げ、徐々にダンスのイベントもプログラムされるようになりました。そもそも10年前にはルーマニアの組織が自分でプロジェクトを発案するなんていうこと自体、想像すらできませんでしたからね。その意味では確実に前進しています。

──6週間滞在した日本の印象をお聞かせください。
 今回の日本滞在は実にすばらしい機会でした。多くの日本のダンス・コミュニティにふれることができ、その歴史やアーティストにも出会いました。東京でいくつかの公演を見ましたし、50人以上の振付家、プレゼンター、プロデューサー、批評家と出会い、東京・横浜・福岡・広島・仙台・京都などで活動するダンスNPOや劇場、文化機関なども訪問しました。日本には実に素晴らしいアーティストがいて、活発なダンス・シーンが存在することを実感しました。
 6週間の滞在中、山下残Baby-Q川村美紀子、関かおりなど数えきれないほどの多くの素晴らしいダンサーや、多くのフェスティバルや劇場のプロデューサーと話をする機会があり、あらゆる発見がありました。彼らはとてもオープンでルーマニアの文化にも純粋に興味をもってくれ、これからコネクションを築いていこうという意志を示してくれたことに大変感動しました。今回の来日を機に、近い将来、日本・ルーマニア間の共同プロジェクトが生まれるベースがつくれそうな気がしています。
 今回私が招かれたセゾン文化財団のヴィジティング・フェローのように一定期間、人を招聘するプログラムはとても重要で、互いにとって有意義なことだと思います。セゾン文化財団には本当に感謝しています。効果はすぐには現れないかもしれませんが、このような繋がりは時間をかけて熟成していきますから、ぜひ続けてもらいたいと思います。フレームワークさえ整えば、多くの組織や団体を巻き込んでプロジェクトが立ち上がる可能性があります。インフラストラクチャ、フェスティバル、ダンスカンパニー、会場、レジデンス……アーティストを取り巻く環境づくりのために日本とルーマニアが互いにアイデアを持ち寄って協力していく。今回の来日が、その第一歩になることを願っています。
 
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