The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
Contents
ジョー・シディック
ジョー・シディック氏
Mr. Joe Sidek


ジョージタウン・フェスティバル
George Town Festival
http://georgetownfestival.com/
ジョージタウン・フェスティバル
『マンガニヤ・セダクション』
Manganiyar Seduction (2012)
マンガニヤ・セダクション
マンガニヤ・セダクション
Photo: Neoh Chee Jin
『ミラーズ・ジョージタウン』
Mirrors George Town (2012)
ミラーズ・ジョージタウン
ミラーズ・ジョージタウン
Photo: Ken Takiguchi
『シラット』
Silat - Our Heritage For The World (2012)
シラット
Photo: Neoh Chee Jin
シラット
Photo: Wong Horng Yih
Presenter Interview
2013.2.28
Born in a World Heritage town, the George Town Festival 
世界遺産の町から生まれたジョージタウン・フェスティバル 
2008年にユネスコ世界遺産に登録されたマレーシア・ペナン島のジョージタウン。ペナン島は、イギリス植民地時代にはプリンス・オブ・ウェールズ島と名付けられ、東インド会社の交易の拠点となったことで知られるマレーシア随一の観光地。中心となっているジョージタウン地区には今も当時の面影を伝えるコロニアル建築などの町並みが残され、中国系、マレー系、インド系の住民約40万人が暮らしている。その世界遺産の町で、2010年に始まったのがジョージタウン・フェスティバルだ。2011年のアクラム・カーン、2012年のロイステン・アベルなど世界的なアーティストの招聘や、オーストラリアで始まった世界最大の短編映画祭『トロップフェスト』との連携など国際的なプログラムに加え、もうひとつの柱として町並みなどの景観を活かしたストリート・アートプロジェクト、マレーの伝統的格闘技「シラット」をテーマにした作品のプロデュースなど、ペナン島の文化を活かしたプログラムを積極的に展開。「ペナン島、ジョージタウンの物語をシェアする“グローカル”なフェスティバルを目指す」というディレクターのジョー・シディックさんに、東南アジアで今最も注目されているフェスティバルについて、詳しくインタビューした。
聞き手:滝口 健

──シディックさんの経歴から伺います。アートに関わるようになったのはどうしてなのですか。
 私は専門家ではありません。私は実業家で、繊維用薬品を製造する工場を運営しています。しかし、少年時代からアートには関心がありました。音楽、絵画、写真、それにマレーシアの伝統的な芸術文化にも。過去30年間、オペラの衣装をデザインしたり、芝居の演出をしたり、あるいは展覧会のキュレーションをしたりと、実際にアートの仕事にも関わってきました。私にとって、アートとは仕事というよりは情熱の対象だったのです。
 素人だということがプロジェクトの企画を助けてくれることもあるのです。例えば、今年のジョージタウン・フェスティバルで初演される『魅力的な楽器たち』というプロジェクトは、音楽への私のシンプルな感嘆から始まったものです。楽器を見て、「こんなものからなぜこんな音が出せるのだろう?」と思うことはありませんか。楽器の中には奇妙な見てくれのものだってあります。こんな木の箱が、こんなにも美しい音を生み出すなんて。このプロジェクトでは、アジア各地からユニークな楽器を集めて路上パフォーマンスを行います。観客はそれぞれの楽器に触れ、その感触を確かめ、奏でる音を理解することができるはずです。

──イギリスで教育を受けられたと聞いていますが、その影響はどのようなものだったでしょうか。
 イギリスに行ったのは18歳の時でした。今のように情熱的に話す人間ではありませんでした。まだそういう気質が表に出ていなかったんでしょう。イギリスにいる時には、常に西洋文化に触れるわけですが、そのことによって自分たちの文化への愛情が育まれたような気がします。ペナンに戻った時、私のアートへの情熱のスイッチが入ったのです。ただ、私は西洋文化を否定しているわけではありません。そこから学べることはたくさんあります。さまざまな芸術を理解し、味わう方法などはその一つです。

──ジョージタウン・フェスティバルは2010年にスタートしました。始まりはどんなふうだったのですか?シディックさんが関わるようになったのはどのような経緯からだったのでしょうか?
 2008年にペナンが国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産に登録されると、州政府はそれを祝うイベントを実施したいと考えました。そこで私に声がかかったのです。私に与えられた準備期間はたったの6日間だけでした。その6日間で私は『ミュージック・トリビュート・トゥ・ペナン』というイベントを制作しました。これは古い音楽劇から最近のポップミュージックまで、ペナンのさまざまな音楽を集めたもので、最終的には100人の出演者を得ることができました。これが最初のイベントです。2年目には14日間の準備期間をもらいました。これらはいずれも1日だけのイベントでした。
 しかし、3年目には、これをフェスティバルに拡大しようということになりました。地元の団体、アーツ・アライアンス、ペナン遺産トラスト、中華系の同族組織からは3つの提案があったのですが、結局主催者を引き受けようという者はありませんでした。そこで、州はまた私に白羽の矢を立てました。2010年の第1回ジョージタウン・フェスティバルの準備期間は6週間でした。私は世界中の知り合いに電話をかけ、「フェスティバルに協力してくれないか?」と頼みました。シンガポールの映画監督であるグレン・ゴーエイ、マレーシアの映画監督ソー・テョンヒン、日本のソプラノ歌手の蔵野蘭子、それにニューヨークからは美術・写真のレオン・リムといったアーティストが参加を承知してくれました。
 2011年の2回目のフェスティバルでは、準備期間は4カ月ありました。昨年は5カ月でした。マレーシアの状況では、5カ月の準備期間というのはかなり贅沢であると言わざるを得ません。フェスティバルをきちんと準備するのには、月単位ではなく年単位での準備期間が必要だということを理解する人がいないのは大きな問題です。

──フェスティバルはその後発展し、東南アジアでも最も活気のあるフェスティバルの一つとして認識されるようになりました。
 最初の2年間は、私にとっては学習期間でした。フェスティバルとしての特徴をどうやって確立し、地元やアジア地域の人々に知ってもらうか。その意味で、例えば2011年に上演した振付家アクラム・カーンの『ヴァーティカル・ロード』や2012年のロイステン・アベルの『マンガニヤ・セダクション』など、世界的に有名なアーティストの作品を招聘できたのは非常に幸運でした。2013年のフェスティバルには、ブラジル、ポルトガル、カナダ、イギリス、オーストラリアといった遠方の国を含め、150件ものプロポーザルをいただいています。
 過去3年間、私はフェスティバルの運営を心から楽しんできました。もちろん困難もありますが、これまでの人生で最も幸福な時間であったことは間違いありません。私が生きている理由はこれだとまで思いました。それを多くの人と分かち合えることは本当にうれしいことです。
 多くの人々が助けてくれました。アクラム・カーンには手紙を書き、電話をかけただけです。それだけで、彼は「イエス」と言ってくれました。2年間にわたって作品を上演することを承知してくれたのです。『マンガニヤ・セダクション』の場合はもっと面白かった。いったい、どこのフェスティバル・ディレクターがフェイスブック経由でアーティストに連絡を取ろうとするでしょうか?でも、私はまさにそれをやったのです。
 後にロイステンに実際に会った時、彼は言いました。「これはほんとに貴重だよ。私はあまりフェイスブックを見ないんだ。でも、その日はたまたまフェイスブックを見て、それで君に返事をしたんだから」と。昨年は予算が十分に集まらず、本当に心配でした。でも、彼は「ジョー、心配するな。フェスティバルの名前が売れるまでには7年かかる。君たちが今やっていることを続けていけば、2年もすればスポンサーが事務所の前に列をつくるよ」と言ってくれました。本当にたくさんの人がこうした温かい言葉をかけてくれました。私は幸運です。これまでの歩みはすばらしいものでした。

──フェスティバルの規模の拡大が目覚ましいものであることはもちろんですが、それよりも印象的なのはプログラムの内容です。フェスティバルのプログラムはどのようにして決めていますか?その際のポリシーは?
 プログラムの構成については、私には完全に自由裁量が認められています。実行委員会のようなものも、ガイドラインのようなものもありません。私は自分の感覚のみをもとに決定することができます。これは非常に稀なことですし、このような環境を作ってくれた州知事には感謝しています。もちろん、自分の責任がきわめて大きいことも自覚しています。昨年、私は30万リンギット(約880万円)の私費をフェスティバルの赤字補填のために使わなくてはなりませんでした。これは公表されていないので、そのことを知っている人は多くありません。しかし、それでもフェスティバルのディレクターであるということは幸福なことだと思っています。自由裁量が許されているディレクターなど、いったい何人いるでしょうか。どんなに寛容な組織であっても、「これはするな、あれはするな」という指示が出てくるものです。しかし、私には州政府から科せられている制約は一切ありません。
 そのことが、2番目のポイントにつながっていきます。私自身がフェスティバルでのクリエイティブな作業における自由を保障しなくてはならないということです。これは、マレー系住民に対する優遇政策が存在するマレーシアにおいて特に重要です。マレー文化は常に特権を与えられ、ほとんどアンタッチャブルなものとみなされているからです。しかし、私の企画には、マレーの宗教的な音楽をキリスト教会で演奏するといったものもあります。ペナンは、このような種類の実験芸術を許容してくれるという点で、特別な場所なのです。もし同じことをマレーシアの他の州でやったら、私に対してファトワー(イスラム法学上の勧告・警告)が発せられると思います。でもジョージタウン・フェスティバルでは、特定の民族・文化・宗教に偏らないプログラム編成ができるのです。なので、我々はシンプルに良い物、本物であると認められる物を取り上げています。

──このフェスティバルでは、アクラム・カーンなどの国際的に著名なアーティストの作品と、地元のコミュニティベースのプロジェクトとが良いバランスを保っているように思います。
 ええ。私は2つの点でバランスが重要だと考えています。第一は地元の人々の教育に資するプログラムと、彼らにインスピレーションを与えるためのプログラムとの間のバランスです。昨年『マンガニヤ・セダクション』を招聘したのはこのためです。伝統音楽で新しい観客を興奮させることは大変難しいことだというのはわかっていました。しかし、ロイステンはすばらしい仕事をしました。ラージャスターン地方の伝統音楽のミュージシャンたちを巣箱状の区画に配置し、視覚的にすばらしい効果を与えるとともに、人々が気軽に楽しめるように工夫されていたのです。私が求めているのは大物アーティストの名前ではなく、地元の人々に刺激を与える作品なのです。
 第二は地元の人々が求めるものと、海外からの観客が求めるものとの間のバランスです。そのために地元のビデオグラファーたちとあるプロジェクトを立ち上げました。地元のあらゆる社会的階層の人々と海外からの観光客にインタビューするというもので、2つの質問をします。一つは「ジョージタウン・フェスティバルについてどう思いますか?」、もう一つは「フェスティバルに期待することは何ですか?」という質問です。これは、私にとっての学習の機会です。今年すぐに変えることは無理かもしれませんが、少なくとも人々が何を欲しているかを理解することはできます。そうすれば、外国の人たちにも魅力的で、同時に地元の人々も「このフェスティバルは自分たちのものだ」と感じることができる良いバランスを見つけることができるはずです。

──常にフェスティバルの核には、「ジョージタウン」という町がある気がします。2012年のフェスティバルで最も話題になった『ミラーズ・ジョージタウン』は、マレーシア在住のアーネスト・ザハレヴィッチによるストリート・アートプロジェクトでした。壁に描かれた絵と、本物の椅子、自転車、バイクなどが組み合わされた作品を、世界遺産となっている市の中心部に配置するというものです。昨日、私もそのエリアを散策したのですが、作品が町の風景によく馴染んでいると感じました。
 フェスティバルは地元のコミュニティの現状を反映すべきですし、コミュニティにとって意義のあるものでなくてはならないと思います。「あなたの社会で何が起こっているんだろう?」というのは重要な問いかけです。私にとって鍵となるのは、人々、コミュニティ、そして空間です。『ミラーズ・ジョージタウン』はこうした要素に焦点を当てたもので、昨年のフェスティバルの最大の成果となりました。最初にアーティストがペナンに来て壁画を描いた時、誰も関心を持ちませんでした。でも、私は「これは面白い」と思ったのです。今ではこの作品が広く知られるようになりましたので、私のところには似たようなプロジェクトがたくさん提案されてきます。でも、それにはすべて「ノー」と答えてきました。ペナンの壁すべてをグラフィティや絵で埋め尽くしたくはありませんから。
 その代わり、今年は『快楽の秘密の庭』と題したプロジェクトを実施します。これは、画家ヒエロニムス・ボスによるシュールレアリスティックな作品『快楽の園』にインスパイアされたプロジェクトです。このプロジェクトに適した場所を求めて、私はジョージタウンの道、空間、壁を調査してきました。そこを10カ所の「庭」に変えてしまおうというのです。インスタレーション・アーティストや造園家、モザイク作家などに声をかけ、「庭」の空間を自由に使ってもらいます。壁でも、壁と壁のあいだの空間でも、床でも、どこでもかまいません。庭に入った人たちは、こうした作品に遭遇して「あそこにあるのは何だろう?」と思う…。このプロジェクトでは、アート、庭、そして人々が一体になるのです。重要なのは、地元のコミュニティがこのプロジェクトを自分たちのものと捉えてくれることです。自分の家のすぐ隣で行われる、これはあなたのプロジェクトなんです!
 作品を輸入してきて上演することにはあまり意味を感じません。そんなことをすれば、他のフェスティバルとの違いが見えなくなります。一方、もし草の根レベルを巻き込むことができれば、地元のユニークな人々、空間、コミュニティ、そして文化を取り込むことができる。そうすれば面白いことができるはずです。私がやろうとしているのはそういうことです。そうすれば人々はこれが自分たちのフェスティバルだと感じ始めます。でなければ、政府のフェスティバルだと思うようになるでしょう。インタラクティブなプログラムを持たない多くのフェスティバルではそういう状況になり始めています。
 だからこそ、今年のフェスティバルでは、「コミュニティ、交流、空間」を強調したいと思っています。地方化、ローカリゼーションという言い方がありますが、興味深いことだと思います。グローバリゼーションと地元の個性との間にも良いバランスが必要なのです。

──どのように地元の人たちを巻き込んでいくのですか?
 写真を撮り、リサーチをし、その家の人たちに会い、お願いします。そうすることで、彼らはこれが自分たちのフェスティバルだと感じるようになります。
 『ミラーズ・ジョージタウン』の時には、壁画を描きたい壁を持つ建物の持ち主を調べ、話をしました。市議会とも話しました。『快楽の秘密の庭』についても下準備を始めています。「庭」にしたい10カ所の写真を撮り、その持ち主にアプローチしています。合意を得ることができれば、すぐに写真をアーティストたちに送り、プロポーザルの作成を依頼することになっています。

──先ほど、アーティストからのプロポーザルを受け取られているとおっしゃっていました。同時に、新作をコミッションするということもなさっていますね。つまり、プログラムを決めるのに2つの方法があるということですか?
 はい。プロポーザルの募集告知は行っています。私たちのフェスティバルがアーティストに知られるようになり、かなり多くのプロポーザルをいただくようになってきました。年に2〜3回は私が海外に出かけ、良い作品を探すようにもしています。もっとも、この2年ほどはその時間がなかなかとれないのですが。
 同時に、地元の小規模な劇団が自分たちの作品を上演するのを支援したり、大きな集団であれば作品制作をコミッションしたりもしています。例えば、2012年には『シラット』という作品をコミッションしました。これはマレーの伝統的な格闘技を元にしたダンスと伝統音楽、現代的な視覚効果を組み合わせた作品です。今年はインド舞踊の劇団テンプル・オブ・ファインアーツに『ラーマーヤナ』の制作を依頼する予定です。この作品では、彼らがもっている地域支部をすべてリンクしたいと考えています。
 私たちの仕事は、フェスティバルをクリエイティブな人々のためのプラットフォームにすることだと考えています。アイデアがある人たちに会い、資金的な支援、あるいはプロジェクトを育てていく手伝いができるかどうかを考えます。マレー語で言う「スロノ・スンディリ」、つまり自分の楽しみだけのための作品は必要ないのです。
 フェスティバルの趣旨にマッチする作品をコミッションすることは、フェスティバルのアイデンティティを育てていく上で非常に重要です。私が2015年のフェスティバルに招聘しようとしているのは、ドイツのリミニ・プロトコルの『100%』という作品です。この作品は、ある一つのコミュニティの人口に関するもので、統計学的な事実を地元の人々のライフ・ストーリーに結びつけていきます。非常に素晴らしい作品で、私はすぐにこれをペナンに持ってきたい、ペナンバージョンの『100%』の制作を依頼したいと考えました。これは人々の物語であり、「あなた」の物語でもあります。私にとって、これはフェスティバルのコンセプトによくマッチする重要なタイプの作品なのです。

──『シラット』は特に「メイド・イン・ペナン」的な作品ですね。ペナン生まれのソー・テョンヒンが演出し、振付を担当しているのもペナンを拠点に活動しているアイダ・レザです。この作品はどのように計画されたのですか?「メイド・イン・ペナン」というのは、あなたにとっては重要な要素なのでしょうか。
 『シラット』はソー・テョンヒンのアイデアで、私がプロセスをリードしました。この作品はマレーの伝統的格闘技を元にしており、そのしきたりを学ぶこの上ない機会になりました。ただ、残念ながらそれを十分に掘り下げることができなかった。この作品をワーク・イン・プログレスと呼んでいるのはそのためです。やってみる、経験する、そしてそれから学ぶ。どうであれ最善を尽くすことです。もしかしたらこの作品は完全なものとはならないかもしれないけど、その瞬間を楽しみ、すべてを捧げ、でもそれに拘泥しないということが大事です。これはとても仏教的な考え方だと思います。
 アイダ・レザとは、今年のフェスティバルで『カキ・リマ(5フィート)』と題された作品をつくることにしています。これは「アナ・アナ・コタ・ペナン」(ペナンの子どもたち)についての学校演劇です。こうした「メイド・イン・ペナン」プロジェクトを通じて、私は地元の才能を育てていきたいと思っています。フェスティバルでは、毎年1つか2つの特別コミッション作品、あるいは特別協賛作品をつくっていきたいと考えています。

──いくつかの作品は特定の場所を想定してつくられていますね。シンガポールの劇団スペル#7のケイリーン・タンが作・演出した『No. 7』という作品が2011年にコミッションされていますが、これはユネスコの遺産保護賞を受賞した「ブルー・マンション」で上演されました。
 『No. 7』に主演したタン・ケンファには、第1回のジョージタウン・フェスティバルの時に出会いました。『No. 7』は19世紀末にジョージタウンを拠点として活動していた中国人の大商人、張弼士の7番目の妻についての物語です。私は、このようなジョージタウンの歴史にまつわる作品がほしいと常々考えていました。
 この作品の上演に使われた「ブルー・マンション」は、張弼士の邸宅を修復したもので、現在はホテルとして使われています。この建物を上演のために使うことには何の問題もありませんでした。唯一の制約といえば、中庭が狭いために少人数の観客しか入れることができなかったということでしょう。
 このような歴史的な建造物を使うことができるのは、我々がペナンにいるからこそ。これは特別なことなのです。州も、住民も進んで支援の手を差し伸べてくれます。たとえば、私は、市庁舎を1カ月間無料で使用させてもらっています。フェスティバルのためだけに交通規制が行われます。これがジョージタウンのスピリットであり、クアラルンプールなどでは望んでも得られないものです。ペナンの人々は、この土地に対する愛着が非常に強いのです。ペナンは彼らのものであり、ジョージタウンは彼らのものなのです。これは、ペナンがとても小さい島だからかもしれません。まるで小さな村のような感覚なのです。

──フェスティバルの中でも重要な位置づけにある映画関係のプログラムについても聞かせてください。オーストラリアで始まった世界最大の短編映画祭である『トロップフェスト』はジョージタウン・フェスティバルの一部となっていますね。
 3年前、オーストラリア大使公邸にお招きいただいた際、『トロップフェスト』のことを聞きました。この映画祭はエンターテインメント性に富み、実に楽しめるものでした。15本の参加作品を見て、そのすべてを気に入りました。それで、『トロップフェスト』のマネージング・ディレクターであるマイケル・ラバティーに会うことにしました。我々は人々、特に若い人たちに対する情熱を共有していることがすぐにわかりました。そこで、彼にジョージタウン・フェスティバルが東南アジア版の『トロップフェスト』をホストするという提案をしました。ASEANができてから40年近くになりますが、焦点はいつも経済に向けられていて、文化的な面で国境を越えた活動をするということはなかったのです。このプロジェクトを通じて、ASEANを文化的なプラットフォームとして捉えてみたいと考えました。マイケルは賛成してくれましたが、『トロップフェスト』の創設者であり、ディレクターでもあるジョン・ポルソンと話す必要があると言いました。彼はニューヨークを拠点とするオーストラリア人俳優であり、映画監督でもあります。数カ月後、まず電話で話し合いました。彼はジョージタウン・フェスティバルで我々がやっていることに興味を示してくれ、さらに協議を進めるためにニューヨークに来いといってくれました。そこで私はアメリカに飛び、契約書にサインし、東南アジアにおける権利を獲得できました。
 過去10年間、オーストラリア人はアメリカで大きな成功を収めてきました。ハリウッドではお互いに助け合っていて、『トロップフェスト』で最優秀作品に選ばれると、モーションピクチャー・アソシエーションの経費負担でロサンゼルスに行くことができます。ですから、彼らが私たちを助けてくれることもできるのではないかと考えました。その一方で、オーストラリアの芸術的な映画のプロデュースをしたいと考える裕福な東南アジア人もたくさんいるはずで、双方にとって利益となる形で関係を深めていくことができるのではないかと考えています。つまり、ビジネスの面でも共同作業を行う可能性を探るということです。アートにもう何年も関わっていますが、このようなビジネス的な感性も持ち続けていると思っています。

──そのようなビジネス的な感覚は、ジョージタウン・フェスティバルにも生かされているのでしょうか。
 フェスティバルにビジネス的な側面があることは確かです。地元のアーティストによる大規模な作品を上演することができずにいるのは、それを見にわざわざ飛行機でやってくる観客などいないからです。アーティストは、社会が彼らを支援すべきだと考えます。もちろん、アートを支援するのは企業の社会的責務です。しかし、それは必ずしも義務ではない。企業からのスポンサーシップをアートの主財源とすることは難しいのです。そんなことをすれば、早晩やっていけなくなるでしょう。「どうやったら続けていくことができるのか?」これは、常に私が気に掛けている問題です。
 物品販売、自助努力、アートの経営科学──これらのことが私を駆り立てます。もしひとつのモデルを確立することができれば、他の人々も同じことができるようになる。一つの例として、私たちは今「フェスティバル・カード」を立ち上げようとしています。50リンギット(約1,500円)でこのカードを購入すると、100リンギット分の航空券の引換券がもらえ、フェスティバルで上演される作品のチケットが半額になります。これは自助努力の一つの例です。今年中に実現したいと考えています。
 名前を売ることだけを考えているスポンサーは欲しくありません。人々が我々に投資してくれる理由、つまり見返りに何を提供できるのかを見つける必要があります。私は急成長を続けている地元の低価格航空会社、エア・アジアにもアプローチしているのですが、その際にはこのように呼びかけました。「見てください。今、私たちのウェブサイトには年間500万回のアクセスがあります。昨年は100万回でした。来年は2000万回を目指しています。これだけ多くの人々がウェブサイトを見て、ペナンに来たいと思うなら、あなた方の会社も利益を得ることができますよ」と。双方にメリットがなくてはなりません。あなたが我々をサポートする、我々はあなたの業界をサポートする。
 ホテルや開発業者とも同様の関係を築くことができると思います。いつも彼らに言うのですが、外へ出かけてもイベントなどがなければ、誰が500万ドルも払ってペナンに家を買おうと思うでしょう。彼らにアートをサポートする理由があれば、それは単なるスポンサーシップではなく、強固なパートナーシップになります。これは共生の関係で、我々は皆、同じ船で同じ方向を目指しているのです。地元の観客、スポンサー、アーティストを巻き込んで、文化的なキャパシティを増やしていくことが必要なのです。
 フェスティバルを持続させていくためには、優れた計画が必要です。最初の3年間はフェスティバルの名前を周知し、基礎固めをする時期でした。次の3年はより大きなネットワークを形成し、強力なパートナーを獲得することで自立の道を探る時期になるでしょう。私はなにも公的支援が不要だと言っているわけではありません。それなしに生き残っていくことは不可能です。私はアートを育成するのは政府の責務だと思っていますし、政府は常にスポンサーとなるべきだと思っています。しかし、その比率は徐々に小さくなっていくべきです。州は我々のフェスティバルを支える大黒柱であり続けなければなりませんが、フェスティバルを州の所有物にしてしまってはいけないのです。それは間違いだと、私は思っています。

──日本との関係についても聞かせてください。2011年のフェスティバルには、日本の盆踊りが含まれていました。これはどのように実施されたのでしょうか。日本側の協力者がいたのですか?
 いいえ。これは地元の観光省が独自に実施したものです。大変人気のあるイベントで、多くの人が訪れました。すばらしいイベントだったと思います。ただ、私からすれば、間違った方向に行ってしまったような気がします。ケーキの飾りのようなもので、薄っぺらなものになってしまっていました。つまり、教育的な部分──人々に文化的な知識を与えるという第2のレイヤーを欠いてしまっていました。このイベントに、日本人、日本の歴史、そしてペナンに住む日本人についての展覧会を組み入れることはできなかったのでしょうか。ペナンの日本人については、非常に興味深い歴史があり、それをよく知る人々もいます。そうした人たちをプログラムに巻き込むことができたはずです。そうすれば、このイベントは重層的な構造を持つことになったでしょうし、人々がそのためにペナンにやってきて、週末を過ごすだけの価値のあるイベントになったと思います。
 今年のフェスティバルのために準備しているプロジェクトの一つに、マレー人のディアスポラ、つまり海外に散っていったマレー人たちに関するものがあります。これがモデルになるかもしれません。マレーシア人は、「マレー」という言葉は自分たちのものだと思っているところがありますが、それは正しくない。マレー人はスリランカやカンボジアを始め、多くの場所に住んでいる。マレー人とは何者かを議論するために、研究者たちに集まってもらおうと考えています。ワークショップで論文の発表を行い、夜にはアジア中のさまざまなマレー人コミュニティから集めた楽器を使ったコンサートを開きます。このような多様な糸がひとつのプログラムとして撚り合わされていくのです。
 今年のフェスティバルには、日本からのプロポーザルはまだいただいていません。これは少々悲しいことです。私は、外国の大使館やクアラルンプールの国際交流基金事務所をはじめとする文化関係機関がマレーシアの非主流派の文化を支援してきたことを高く評価しています。マレーシアの実験的な芸術は、こうした支援なしには生き残ることはできなかったでしょう。芸術の視点からの支援、直接的な見返りを求めない支援です。こうした精神を私たちのフェスティバルにも組み入れたいのです。
 今年の2月に国際舞台芸術ミーティング in 横浜(TPAM)にお招きいただいています。これを日本のカウンターパートとの関係を結ぶ機会にしたいと思っています。日本との真剣な協力関係を築いていきたいと考えています。

──最後に、ペナンにおける芸術の一般的な状況について聞かせてください。マレーシアの現代アートにおいては、首都クアラルンプールが長らく中心的な位置を占めてきました。しかし、ペナンも文化とアートの街としての地位を急速に高めているように感じられます。ペナンのアートシーンをどのようにご覧になっていますか? 野党が政権を握った州政府はアートを積極的に支援しているようですね。
 ペナンには勢いがあります。ルネッサンスと言ってもいいでしょう。2008年のユネスコ文化遺産への登録が助けとなったことは確かですが、それだけではありません。もう一度文化の花を咲かせる時期が来たのだと思います。根源的な力を感じます。人々は再びペナンにわくわくし始めているのです。すべてのことがいい方向に進み始めています。新しい政府もその一つです。
 この政府は新しく、経験も豊富ではありません。はっきり言えば、州は芸術文化についてのはっきりしたビジョンも展望も持っていません。州知事本人に「なぜフェスティバルをやるのですか?このフェスティバルで何を得たいと考えているのですか?」と聞いたことさえあるのです。私自身はそれに対する答えを持っていますが、州だって自らの答えを準備すべきでしょう。
 これはペナンだけでなく、マレーシア全体の問題でもあります。国家としての芸術に対する戦略は存在しません。長期的な展望がないままに多くのフェスティバルが計画されています。たとえば、クアラルンプール国際フェスティバルは、すでに9年間実施されていますが、残念ながらマレー人の観客のためのイベントの寄せ集めにすぎません。はっきりしたポリシーがないまま、毎年同じプログラムが繰り返されています。私が自分のフェスティバルについての記者会見をクアラルンプールで開いた時、新聞記者にこのフェスティバルをどう思うか聞いてみました。驚いたことに、フェスティバルの存在を知らない記者もいました。9年も経てば、ある程度は成長していなくてはならないはずです。
 しかし、私は州知事のことは尊敬しています。先ほど申し上げたように、私に完全な自由裁量を認めてくれました。彼には挑戦してみる勇気があるのです。州知事が私の契約を2015年まで延長した時、私は彼に言いました。「私がこれを引き受けるのはあなたがいる間だけです。あなたが職を離れたら、私はもうこの仕事を続けることはできませんよ」と。すぐに反応してくれない人や組織と一緒に仕事をするのは難しいものです。この州知事は違います。これまで、私はこのような支援をどんな個人や組織からも受けたことはありません。

──施設についてはいかがでしょう? 2011年にはペナン・パフォーミングアーツ・センター(ペナンPAC)がオープンし、2012年のフェスティバルでは数多くのプログラムがそこで上演されました。
 ええ、ペナンPACができたことは重要です。デワン・スリ・ペナン(ペナン芸術ホール)というもう一つのメイン会場があるにせよ、それでもやはり会場は足りない。それはジョージタウン・フェスティバルにとってハンディキャップではありますが、一方では利点にもなっています。そのおかげで、通常の上演会場とは違う種類の会場を見つける必要に迫られたわけですから。作品を路上に持ちだそうというアイデアはこうして生まれたのです。
 2010年には日本人のソプラノ、蔵野蘭子さんが路上でオペラのアリアを歌うというプログラムを組みました。これは私にとっては3年間で最も印象深い、魔法のようなイベントになりました。400人の人々が集まり、ベンチや椅子に腰掛けて彼女の歌を聞いたのです。観衆はオペラの愛好家たちだけではありませんでした。あらゆる人々──お店を経営しているおばさんたち、トライショーを引く男衆、こういった人々がやってきて、音楽を楽しみました。
 多くの人にとって、クラシック音楽は敷居の高いものです。自分はそんなに賢くない、着飾った金持ちたちであふれている音楽ホールに入っていく資格などない、と感じてしまう。今存在する観衆を越えた人々にアプローチするにはどうしたらいいのか。これは私がずっと考えてきた課題です。このイベントは、それへの回答になりました。

──活気あるフェスティバルとしての評価が高まるにつれ、ある意味で、ジョージタウン・フェスティバルは地域の他のフェスティバルと競合することになります。将来をどのように展望しておられますか?
 私はいくつかの他のフェスティバルを視察し、どうしてうまくいっているのか、もしうまくいっていないならば何が問題なのかを学んできました。私たちは小さいフェスティバルです。一方、この地域にはシンガポール、メルボルン、アデレード、マカオ、台北、香港など、大規模なアートフェスティバルを開催している多くの都市が存在します。彼らと競うことなどできるわけがありません。我々には大きなホールはないし、予算も限られています。
 でも、我々には物語、ストーリーがある。ペナン、そしてジョージタウンにはストーリーがあるのです。この街のあらゆる街角はギャラリーなのです。私たちのフェスティバルはそれをベースにして始まりました。ですから、自分たちのアイデンティティを見つけることが必要なのです。私たちのアイデンティティとは、つまりジョージタウンです。私は海外からの招聘作品と他の要素とのバランスを考えてはいますが、フェスティバルの核となるのは、いつだってジョージタウンです。ジョージタウンをあらゆる人たちとシェアする、それこそがこのフェスティバルなのです。
 
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