The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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ベッティーナ・マーズッフ
Photo: Juergen Fehrmann
ベッティーナ・マーズッフ氏
Ms. Bettina Masuch

ベルリン国際ダンスフェスティバル「8月のダンス」(Tanz im August)ディレクター
*ウーファースタジオ
2010年にベルリンのヴェディング地区に開設されたコンテンポラリー・ダンスの新拠点。赤煉瓦づくりの旧鉄道車庫をリニューアルした施設で、大小14のスタジオ、事務所、交流スペースなどがある。大学連合ダンスセンター、タンツファブリーク、アダ・スタジオの拠点。ドイツ宝くじ協会が改修し、ウーファースタジオ有限会社が運営。
Presenter Interview
2013.7.1
Dance in August, a festival born in West Germany 
西ドイツで誕生した「8月のダンス」」 
今年で25周年を迎えるベルリン国際ダンスフェスティバル「8月のダンス」が、8月16日から31日までHAU、ゾフィーエンゼーレ、ベルリン祝祭劇場、フォルクスビューネなどベルリンの主要劇場で開催される。このフェスティバルがスタートしたのは東西ドイツが統一される2年前の1988年。当時、ベルリンは壁によって東西に分断され、西ベルリンは東ドイツ領内に位置する飛び地状態で、海外からカンパニーを招聘することはほとんど不可能だった。そうした状況に対し、1988年にベルリンが欧州文化首都に指定されたのを契機に再開されたヘッベルテアター(1978年から財政難により閉館。現在は他の2館と合わせてHebbel am Ufer(HAU)として運営)の初代芸術監督となったネレ・ヘルトリングは、「世界への窓」として国際的なコンテンポラリー・ダンスのカンパニーを招聘するフェスティバル「8月のダンス」をスタート(後にHAUとタンツヴェルクシュタット・ベルリンの共同企画・運営に移行)。HAUダンス部門のディレクターを務めた経験を持ち、25周年を迎えた今回のフェスティバル・ディレクターとなったベッティーナ・マーズッフ氏に8月のダンスが目指してきたもの、今年のプログラムなどについて聞いた。
聞き手:山下秋子[ジャーナリスト]

──「8月のダンス」が始まった経緯とコンセプトついてお聞かせください。
 25年前に8月のダンスを始めたのは、ヘッベルテアターの芸術監督だったネレ・ヘルトリングです。私自身はまだダンスの仕事はしていなかったので、始まったときの状況は関係者の話でしか知りませんが、彼らが私に繰り返し語るのは、東西ドイツが分断されていた当時はドイツではまだコンテンポラリー・ダンスが確立していなかったということです。
 当時のベルリンは壁によって東西に分断され、東ドイツ領内の飛び地になっていた西ベルリンは“陸の孤島”であり、そうした閉塞状況を打開する新しい風が求められていました。世界で何が起きているのかを見たい、知りたいという欲求が生まれ、国際的に活躍しているカンパニーを呼んで「世界への窓」を開こうとしたのです。これが、8月のダンスを始める大きなモティベーションだったと思います。今ではベルリンに海外からカンパニーを招聘することは簡単にできますが、それでも世界のダンサー、ダンスシーンを知りたい、見たい、交流したいというのがこのフェスティバルの核になっています。
 8月のダンスによってベルリンの環境は大きく変わりました。ベルリンに来たダンサーで残る人も出てきましたし、海外の仲間と一緒に仕事をしたいと思う人も現れるようになりました。1989年に壁が崩壊したことで、ベルリンのダンスシーンは大きな変化を遂げますが、その起爆剤として8月のダンスが担った役割はとても大きなものだったのです。

──「世界への窓」という言葉を聞くと、60年以上前に始まったベルリン国際映画祭のことを思い出します。陸の孤島となった西ベルリンにとっては、映画祭も世界との繋がりを意味するものでした。
 そうですね。それとベルリンで毎年行われている国際演劇祭「テアター・トレッフェン」もあります。

──映画、演劇、そしてダンスという順番で、「世界への窓」が開かれていったということですね。
 ええ。当時の西ベルリンには、世界から取り残されてしまいそうな危機感があったのです。

──西ベルリン以外では、海外のカンパニーを見ることができたのでしょうか。
 多少あったかもしれませんが、当時のドイツには多くの市立劇場に付属ダンス・アンサンブルがあり、予算はアンサンブルの運営と公演に使われていたので、外部や海外からカンパニーを招聘する予算はありませんでした。それに対して、ヘルトリングは自前のアンサンブルを持たないでプログラムをつくるという、当時としては全く新しい考え方でヘッベルテアターを再開しました。他の公立劇場が自分たちのアンサンブルを抱えることで精いっぱいだった中、外部からの客演だけでプログラムをつくるヘッベルテアターは、ベルリンで大成功を収めました。

──ヘッベルテアターの活動資金はベルリン州から出ていたのですね。
 その通りです。アンサンブルの維持のための資金ではなく、客演のための資金として出されていました。その後、徐々に、ヨーロッパの他の劇場との共同制作も認められるようになっていきました。

──2003年、ヘルトリングの後任ディレクターとしてマティアス・リリエンタールが就任します。その際、ヘッベルテアターはその他2つの劇場を合わせて運営するHebbel am Ufer(HAU)になりました。それで8月のダンスはヘッベルテアターからHAUに引き継がれたわけですね。
 ヘルトリングが8月のダンスを始めたときは、事業の一部をタンツヴェルクシュタット・ベルリン(スタジオを有し、レジデンスプログラムを実施)のウルリケ・ベッカーとアンドレ・テリオーに委託していました。リリエンタールが芸術監督になってからHAUとタンツヴェルクシュタットの共催になり、HAUから2人、タンツヴェルクシュタットから2人の計4人でキュレーションしていました。
 しかし、1つのフェスティバルに2つの組織と4人のディレクターが関わるのは複雑すぎるし、費用がかさむこともはっきりしてきました。それで今回から一人のディレクターがキュレーションする体制に変わり、25周年の節目のディレクターを私が引き受けることになりました。
 制作チームは私ともうひとりのスタッフの2名だけ。後、半年ほどは50%勤務のスタッフがひとり手伝ってくれます。広報関係はアウトソーシングしていて、舞台技術やグラフィックデザインなどは、HAUの関係部署が協力してくれます。ちなみに2014年、2015年のディレクターはヴィルヴ・スティネン(Virve Sutinen)に決まりました。ストックホルムのコンテンポラリーダンス・フェスティバルのディレクターを務めた経験を持つ、非常に力のある人です。

──今回の8月のダンスの運営資金は?
 全体の予算額は概算で80万ユーロ(約1億400万円)です。このうち半分の40万ユーロがベルリン首都文化基金(ベルリンへの首都移転に当たって、首都にふさわしい文化的プログラムを実施するための基金として1999年に設立された)、20万ユーロがベルリン州政府、10万ユーロがHAU、残りの10万ユーロが入場料収入となっています。去年の入場者は1万7千人でこれまでの最高記録でしたが、今年はそれ以上を目指したいと思っています。

──限られたスタッフと予算で、8月のダンスの責任を負われるのは大変だと思いますが。
 そうですね、やるべきことがたくさんあります。記念すべき年になりますから、内容もそれにふさわしい特徴を出したいと思っています。

──8月のダンスではHAUを含めてベルリン市内のさまざまな劇場が会場になっています。
 ディレクターがひとりになったからといって、そのコンセプトは変わりません。できるだけ多くのパートナーと連携しながら、今年もフェスティバルを開催します。ただし、かつては、無償で会場提供してもらっていたのですが、ここ数年はどこも劇場予算が削減されたため、HAU以外は賃料を払って劇場を借りなければなりません。フェスティバルを市全体に広げられるようできるだけ多くの場所での開催を目指していますが、予算を睨みながら決めています。今までのゾフィーエンゼーレ、ベルリン祝祭劇場(Haus der Berliner Festspiele)、フォルクスビューネに加えて、今年は青少年の演劇を行うテアーター・デア・パルクアウエ(Theater der Parkaue)、ハンブルガー・バーンホーフ、聖アグネス教会といった新しい場所が加わる予定です。

──ハンブルガー・バーンホーフは現代美術の美術館、聖アグネス教会は元カトリックの教会をギャラリーにリニューアルした空間です。先日発表されたプレスリリースでも、今年の8月のダンスは、ダンスと造形芸術の接点を一つの重点テーマにしていると発表されていました。
 どちらの会場も振付家と造形芸術家が互いに関心を寄せあい、ダンスと美術の接点を見せるプロジェクトの会場になります。
 ここ数年、美術館がパフォーミングアーツに門戸を開くのは世界的な傾向になっています。ロンドンのテート・モダンのプログラムにはダンスやパフォーマンスが組み込まれていますし、ニューヨーク近代美術館でも同様です。ベルリンはまだこれからですが、8月のダンスが二つの芸術の接点を見せることは、新たな課題だと思っています。

──マーズッフさんご自身の経歴についてお聞かせください。ゾーリンゲンのご出身ですが、ゾーリンゲンといえばピナ・バウシュの出身地です。このこととマーズッフさんがダンスの仕事を始められたことと関係はありますか。
 ええ、もちろんあります。実は、私が生まれ育った家はピナ・バウシュの実家とそんなに離れていないのです。私がティーンエイジャーの頃、ピナ・バウシュがヴッパータール市立劇場のバレエ団の芸術監督になりました。当時、ヴッパータール市立劇場はゾーリンゲンでも年に数回公演することになっていて、初期の作品も上演されました。その時の観客の拒絶反応は激しくて、非難するだけでなく、舞台を壊そうとする人もいたほどです。私の両親は、ゾーリンゲンの劇場の年間会員だったので、バレエを習っていた私も作品を見に行きました。多分『コンタクトホーフ』だったと思いますが、両親も私も作品を理解できませんでした。人々はもっと踊ること、ダンスを期待していたのです。でも、この作品は私の頭から離れず、もう一度見に行きました。
 ピナ・バウシュは、当時の人々が見たくないと思っている社会の部分を舞台にさらけ出していたのです。私は青春時代を彼女の作品を見ながら過ごし、物事や社会を批判的に見ることを学びました。私にとって、ピナ・バウシュは、物事、社会、現実の見方を教えてくれる学校でした。それによって演劇や同時代の芸術を見る目を養うことができたと思っています。私は家庭で、あるテーマを実験的に展開することや、新しい形を実験してみることは習いませんでした。私はピナ・バウシュの作品を見ることで、こういった実験が何を意味するのか、これらの実験によって思想的にも感情的にも自由な空間がつくり出せることを知ったのです。私は彼女にとても感謝しています。

──子どものころバレエを習われていたということですが、ギーセン大学でもダンスを学ばれたのでしょうか。
 ピナ・バウシュと出会ってから、クラシックバレエに対する熱は冷めてしまいました。それで演劇を勉強しようと思い、ギーセン大学の「応用演劇学」に進みました。当時新しくできた学科は、他の大学とは異なり、入学試験がありました(ドイツでは通常、大学の入学試験はない)。1学年20名の少人数制で、授業は理論と実践が半々でした。それと古代から始まる演劇の歴史を学ぶのではなく、20世紀の実験演劇が中心のカリキュラムで、とりわけブレヒト、ガートルード・スタイン、・ロバート・ウィルソンが重要な人物でした。舞台に立つことや、演出をするといった実践的なことも学びました。理論と実践と同じ比重で学べるというのは、当時のドイツでは全く新しいことでした。頭の中で考えるだけではなく、実践することが私にとって最も重要なことでした。

──応用演劇学科で扱っていたのは、それは言語劇ですか、それとも舞踊劇でしょうか。
 両方です。というか、指導教官のアンジェイ・ヴィルト教授が私たち学生に繰り返し言っていたことは、「今すでにある演劇ではなく、将来、自分が見たいものをつくり出しなさい」ということです。私たちは、演劇を新たに発明しなければならなかったのです。過去の演劇ではなく、常に将来を見据えた演劇がテーマだったのです。ギーセン大学での勉強は、私に新しい地平を切り開いてくれました。

──マーズッフさんはかつてHAUダンス部門のキュレーターもされていました。
 2003年から08年までダンス部門のキュレーターとして毎月自分が立てた企画をやっていました。HAUの代表として、8月のダンスのディレクションにも参加していました。また、毎年2月に行われていた「コンテクスト」というコンテンポラリー・ダンスの小さなフェスティバルのキュレーションもしていました。

──来年にはノルトラインウェストファーレン(NRW)州のデュッセルドルフにあるタンツハウスのディレクターに就任される予定です。
 タンツハウスは、ダンスに関わる様々なモデルが良い感じで混在しています。子どもから大人まで、アマチュアのダンサーに対する教育プログラムや講座がとても充実しています。それだけではなく、作品の制作や、ヨーロッパの劇場との共同制作にも熱心に取り組んでいます。残念ながらこのようなセンターがベルリンにはありません。また、NRWにはフォルクヴァング大学、ケルン音楽・ダンス大学といった大学レベルでのダンス教育の場や振付センターのPACTもあります。ヴッパータール舞踊団、ノイヤータンツ、ライムンド・ホーゲ、VAヴェルフェル、マルティン・シュレプファーといった組織や振付家が活動していて、同州のダンスシーンは活気にあふれています。そこでディレクターとして働けることをとても楽しみにしています。

──今年のプログラムについてお伺いします。25年間を回顧するような特集も予定されているのでしょうか。
 はい。大きな問いは、歴史をどのように扱うかということでした。造形芸術は作品が残りますが、ダンスは公演が終われば過ぎ去ったものになってしまいます。特にコンテンポラリー・ダンスのカンパニーは作品をレパートリーとして維持することがほとんどありません。予算があれば25年前の作品を再現できたかもしれませんが、無理なので、8月のダンスが始まった頃、ダンスにとって何が重要だったのかを再検討する企画にしました。
 当時、ニューヨークを発信地としていたポスト・モダンダンスについては、ハンブルガー・バーンホーフを会場にトリシャ・ブラウンの初期作品集(Early Works)とスティーヴ・パクストンの古い作品『バウンド(Bound)』を取りあげます。また、若い頃に8月のダンスで紹介したイズトク・コバッチが振付家として地位を築くまでの25年の歩みを紹介します。造形作家としても活動しているティノ・セーガルは、3人のダンサーにより20世紀のすべのダンス様式を辿って見せます。それからシンガポールの気鋭のアーティスト、チョイ・カファイの『Notion:Dance Fiction』を招聘します。この作品は、人間の筋肉に電気的刺激を与えてコンピュータによって動きをコントロールし、ピナ・バウシュの振付などを再現することを試みるものです。ある感情から動きをつくるのではなく、すでに振付された動きをコンピュータに取り込み、その動きを分析して、電気的刺激によって身体の動きに転換するわけです。そうやってつくりだされた動きに感情を入れることができるか、まさにピナ・バウシュの考え方を逆にした実験と言えます。ダンスの歴史、ダンスの伝統、すでに出来上がった振付をどのように次の世代に伝えるかの実験です。スポーツ医学の分野では、電気的刺激によって筋力を強めることは実践されていますが、ダンスではまだ始まったばかりです。この作品をレクチャー・パフォーマンスとして行う予定です。京都国際舞台芸術祭2012で初めて見て、8月のダンスに招聘することにしました。

──今年のフェスティバルのプログラムを見ると、コンゴのフォスタン・リニエクラ(Faustin Linyekula)、南アフリカのボイジー・ツェクワーナ(Boyzie Cekwana)、モザンビークのパナイブラ・カンダ(Panaibra Canda)の作品が招待されています。ベルリンの世界文化の家(Haus der Kulturen der Welt)、デュッセルドルフでの「タンツメッセ(Tanzmesse)」などでも多くのアフリカの振付家や作品が紹介されています。
 アフリカからのダンスの紹介はもちろんですが、アジアの紹介も少なすぎると思っています。今は世界中を簡単に移動することができますし、いろいろなところで作品が生まれています。例えば、P.A.R.T.S.(ローザスと王立モネ劇場が設立したブリュッセルのコンテンポラリー・ダンス専門学校)では多くのアフリカやアジアからの留学生が学んでいます。ここで学んだ学生たちが故国に帰り、自分たちの作品をつくり出しています。また、私は昨年、インドのバンガロールに行きましたが、我々よりもはるかに厳しい条件の中で作品をつくっている人たちに会いました。少ない資金でも、表現したいという欲求に駆りたてられて作品をつくる振付家に感銘を受けました。伝統的なルーツを持ちながら、伝統に束縛されず、遊びの要素も入れながら、自由に作品をつくる若い世代の振付家たちに注目しています。それはヨーロッパでは、例えば「ヌーボ・フラメンコ」と呼ばれるものに相当します。フラメンコのルールからもっと自由になった作品がつくられているように、若い世代の振付家たちは伝統的要素を今までとは違った方法で用いたり、あるいは削除したりして、興味深い作品をつくっています。とても刺激的だと思います。

──2010年に大学レベルでダンス教育を行う大学連合ダンスセンター(HZT, Hochschulýbergreifendes Zentrum fýr Tanz)がウーファースタジオ(*)内に開設され、ここがいわばベルリンにおけるダンスのインキュベーターのような役割を果たしています。ウーファースタジオでは「ベルリン・ダンスナイト(Tanznacht Berlin)」(メイド・イン・ベルリンの最新作を紹介するフェスティバル)が催され、昨年初めて8月のダンスとの連携が実現しました。
 この連携は大成功でした。今年もベルリン・ダンスナイトの主催者であるタンツファブリークが創設35周年を迎えるので、最終日を一緒に祝うことになっています。8月のダンスに来場する世界中の人たちにベルリンで活動している振付家やダンサーの作品を紹介できるのは大きな意味があることだと思っています。私の後任のディレクターにもぜひ継続して欲しいと思っています。

──創設から25年経ちましたが、国際的なカンパニーの作品を見せるという8月のダンスの趣旨は変わっていないのでしょうか。
 そうです。これからもこの基本姿勢は変わらないと思います。若いアーティストが作品を発表する場としては、毎年、ゾフィーエンゼーレで「タンツターゲ(Tanztage)」というフェスティバルが開催されています。加えて、ウーファースタジオも発表の場として定着してきました。8月のダンスは、これからの才能の育成を目指すのではなく、ダンスシーンで地位を確立したアーティストを世界から招聘し、それによって若いアーティストに刺激を与え、ベルリンのダンスシーンが活性化されることを目的にしています。
 私は来年ディレクターを離れますが、このフェスティバルが始まったときの“国際性”というコンセプトをもち続けてほしいと思っています。世界でどんな流れがあるのか、どんな技術やスタイルがあるのかなど、コンテンポラリー・ダンスの世界で何が起きているのかを捉え、芸術形式としてのダンスの発展を見せ続けて欲しいと思います。
 ただ、課題もあります。ドイツ最大のダンスフェスティバルと呼ばれているにもかかわらず、予算が少なすぎます。「世界の重要なカンパニーをベルリンであまり見られない」という不満の声がありますが、8月のダンスでこれらのカンパニーを呼ぼうとすると、「作品の制作をしていない」とか「共同制作作品がない」と言われます。公演と制作の両方を目指すなら、長期的にそれなりの予算が必要です。今後、財政面の充実がなされることを強く希望します。

──大変なスケジュールの中、インタビューをお引き受けくださりありがとうございました。
 8月のダンスは国際的なカンパニーの紹介が目的ですが、デュッセルドルフでの新しい仕事はドイツで活動している振付家・ダンサーを育てることなので、ベルリンとデュッセルドルフを繋げることができればいいなと思っています。デュッセルドルフの観客はとても厳しいと聞いていますが、新しい活動が今から楽しみです。
 
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