The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
Contents
ニック・ストゥッチオ
ニック・ストゥッチオ氏
Nick Stuccio



「フリンジアーツ」
FringeArts

http://www.fringearts.com
フリンジアーツ
Presenter Interview
2014.3.31
A new home for the arts in Philadelphia, USA   FringeArts 
米フィラデルフィアの新たな拠点 フリンジアーツ 
アメリカ合衆国ペンシルベニア州最大の都市であるフィラデルフィア。1997年以来、毎年9月に開催されてきた「ザ・フィラデルフィア・ライブ・アーツ・フェスティバル&フィリー・フリンジ」は、会期中多数の観客を集める現代舞台芸術のフェスティバルとして知られている。そのフェスティバルが「フリンジアーツ」と改称し、1903年に建設された煉瓦造りの歴史的建造物(元水道局の施設)をリニューアルした同名の常設アートセンターを開設。2014年9月のフェスティバルでグランドオープンする。この施設は、フィラデルフィアのオールド・シティーと呼ばれる地域の端、デラウェア川のウォーターフロントに立地し、床面積930平方メートル、約280坪、天井高30フィートの空間に、240席の劇場、リハーサル・スタジオ、レストランなどを備える。フリンジアーツでは、9月のフェスティバルだけでなく、通年での事業を実施する予定だ。フェスティバルの創始者でフリンジアーツのエグゼクティブ・ディレクターであるニック・ストゥッチオ氏にインタビューした。
聞き手:塩谷陽子[ジャパン・ソサエティー芸術監督]

──この建物の購入費は75万ドル(約7千万円)とのことですが、随分とお買い得な価格ですね。
 低価格の理由は、この建物が外観に手を加えたり、壊すことのできない歴史的保存建築に指定されているからです。そうでなければ、取り壊されてホテルか何かになっていたのではないでしょうか。フィラデルフィア水道局の倉庫として使われていたので、柱の間隔が広く、オープンな空間がつくれるので、我々には最適な建物でした。フィラデルフィアのウォーターフロントの歴史的市街区域という素晴らしいロケーションにあり、アルコールの販売許可も取得したので、レストランとバーも併設しました。ここで世界一流のアートと楽しい社交場の両方を提供できればと思っています。9月にグランドオープンしてからは毎日営業し、レストランでもキャバレー式のパフォーマンスや、コンサートなどのイベントも行います。

──開発費用は全体でどれくらいですか。
 2次に分けて開発する予定で、総額は800万ドル強(8億円強)です。第1次は、ビル購入のコストも含めて約650万ドル。第2次で野外スペースをガーデンプラザとして整備する予定です。

──今後、フリンジアーツでは、年間にどのぐらいのプログラムを主催する計画ですか。予算規模も含めて教えてください。
 現在のところ年間300万ドルぐらいの計画です。しかし、ここに移転して日が浅いので、レストラン収入やレンタルスペース収入など見込みが立たないことも多いので、予算規模やプログラム数については見極めようとしている段階です。あまり経費をかけずに上演できる新進アーティストの作品はいろいろありますが、その中から次世代を担っていく才能を見極め、私たちの主催事業としてどうしていくかを、これまで以上に真剣に考えていかなければと思っています。私たちは、フェスティバルを18年続けている実績を持つオーガニゼーションですが、施設運営については新規事業として今はまさに取り組み始めたばかりのところですから。

──フェスティバルについて、ご紹介いただけますか。
 1997年に「ザ・フィラデルフィア・フリンジ・フェスティバル」としてスタートしました。私たちが選んで主催するプログラムと、私たちのキュレーションを通さないプログラムの2種類があります。
 当時はもちろん、現在もフィラデルフィアにはコンテンポラリー作品を紹介するプレゼンターがあまりいません。それでまずは世界各地にいるおもしろいアーティストを私たちがキュレーションして紹介することが重要だと考えました。彼らについては、上演料、劇場費、時には渡航費もこちらで負担します(チケット収入は主催者)。もうひとつのプログラムは、エジンバラなどの「フリンジ・フェスティバル」と同じで、どんなアーティストにも開かれた発表の場として機能しています。私たちは全体のPRの役割を果たし、中央チケット・センターでチケット販売も行いますが、上演会場の確保などその他一切を手打ちで行う必要があります。
 この2本柱を併せて「フィラデルフィア・フリンジ・フェスティバル」と称していましたが、2004年から私たちがキュレーションするプログラムを「ザ・フィラデルフィア・ライブ・アーツ」と名乗るようにしました。世界の著名な劇場をツアーするようなアーティストを招聘する財源が確保できるようになったためです。つまりエジンバラのように国際フェスとフリンジに分けた形になりました。

──フリンジのほうにはどのようなアーティストが参加していますか。
 コントロールしていないので、音楽でも、シェイクスピアでも、何でもアリです。ただ結果として、私たちのキュレーションが実験的な方に向いているので、フリンジも挑戦的・前衛的な出し物に偏る傾向はあります。アーティストたちは、「このフェスティバルは普通の出し物をやる場所じゃない」と感じているのだと思いますが、こういう実験性がフェスティバル全体のトーンになっています。

──フェスティバルを「9月開催」にすることにした理由は?
 劇場やスペースを確保できる時期だったからです。フィラデルフィアにはいくつものリージョナル・シアターがありますが、そのシーズンが10月1日から6月までで、夏と初秋なら劇場を無料もしくは破格の値段で借りることができました。夏は集客が難しいので、9月開催にしました。だからこそ、10万ドルそこそこの予算で当初のフェスティバルを実施できました。

──1997年の第1回フェスの模様を教えてください。そもそもどのようにして資金調達をされたのですか。
 2、3の勇気ある支援者にめぐりあえたのです。「自分たちは経験のない若いプロデューサーの集まりですが、助成してもらえませんか?」といろいろなところを訪問したら、何と2つの大型財団が支援を決定してくれたんです。経験もなく、持っているのはビッグなアイデアだけ、という私たちにインディペンデンス財団が1万5千ドル、ウィリアム・ペン財団が3万ドルの支援をしてくれました。財団もリスクを負って賭けてくれたのだと思います。
 第1回は、5日間の会期で、計50プログラムを行いました。初年度に50プログラムは多いと思われるかもしれませんが、フリンジ・フェスティバルと称したからには、ある程度のボリュームを提示することが必要でした。その内、4、5プログラムが他と共催して私たちが招聘したものでした。初年度が大成功し、その後、規模を徐々に拡大していきました。現在では会期は16日になっています。初期にはまだ駆け出しだったアクラム・カーンやシェン・ウェイなども招聘しています。

──今年の秋に常設アートセンター「フリンジアーツ」がグランドオープンしますが、いつ頃から施設が必要だと思うようになったのですか。
 けっこう初期の頃からですね。それが理想的だろうとずっと思っていました。覚えていらっしゃると思いますが、2002年〜03年にかけて、アメリカでは不動産バブルが始まりました。それまでフェスティバルではフィラデルフィアの中心街のあちらこちらでサイト・スペシフィックなプログラムを展開し(現在も実施)、フェスティバル本部も古くて巨大な産業ビルに構えていましたが、そういった場所の地価が高騰し、私たちは他所へ追い出され始めました。来る年も来る年も、今年はどこに本部を構えようかと悩み、毎年、引っ越さなければならなかった。それはそれで「今年のフリンジ・フェスはどこに出没するか!」と話題にもなりましたが、次第に市の中心から離れた場所に移らざるを得なくなり、2007年には本部も中央チケット・センターもサイト・スペシフィックなプログラムも、市の端に追いやられてしまった。これではいけない、やはり雑多なものの混在する市の中心に戻らなければ…と焦りました。「混在」なくしてフェスティバルの活気はあり得ませんし、フェスティバルが楽しいかどうかも多くの人々が誘われる「おもしろい集合場所」があるかどうかにかかっています。その集合場所をつくりたいと思うようになりました。
 それから、先ほども言いましたが、フィラデルフィアには、私たちのようなことをしているプレゼンターがあまりいません。全米で5番目に大きな都市だというのに、コンテンポラリーの舞台芸術が上演されるのはフェスティバルが開催されている16日間だけ。ですから常設アートセンターを構えて通年で事業を行ってもニーズがあるに違いないと確信していました。また、会期を限られたフェスティバルでは、ツアーをしているアーティストをブッキングするにも限りがあります。通年で事業ができる場所をもっていればそうしたチャンスを活かせますし、金銭面でのメリットも大きいのです。

──私のところのジャパン・ソサエティーが2013年1月〜3月に平田オリザ氏のロボット演劇の北米ツアーを行いましたが、フリンジアーツが初の通年プログラムの一環としてツアーを受け入れてくださいました。その時にはまだ施設は改装中でした。
 ロボット演劇の時は、劇場をレンタルしました。フェスティバルの時期以外での上演は、あれが最初のプロジェクトでした。フェスティバル以外でどれくらいチケットが売れるのか予測できませんでしたが、結果は上々で、私たちとしても通年で事業を行う自信につながりました。
 実はロボット演劇の前にも、市の北部の方に借りていた大きな倉庫で、フェスティバル以外の時期に非公式なイベントは行ったことがありました。フェスティバルで上演する新作のワーク・イン・プログレスを見せるといったもので「スクラッチ・ナイト」と呼んでいましたが、これらのイベントも通年事業の雰囲気を試してみる意味では、非常にいい経験になりました。

──ここらでストゥッチオさん自身のことを聞かせてください。以前はプロのバレエ・ダンサーだったそうですが、それがどうしてコンテンポラリーな舞台芸術のプレゼンターになられたのですか。
 私の祖父母はイタリアからの移民でした。父は非常に貧しい移民家庭で、働くことしか知らずに育ち、医者になりました。ですから長男の私も銀行マンとか医者になって一生懸命働くことを期待されていました。ですから、ニューヨーク州サラトガ・スプリングスにあるスキッドモア大学に進学した時も専攻は生物学でした。でも入学して数日で「舞踊科」があるのを発見してしまった! 私は連日、ダンス・スタジオに通い、真夜中まで練習に励みながら学生生活を過ごしました。父親とは「学業を全うしていれば、好きなだけダンスをやっていていい」という約束で、それはちゃんと守りました。
 でも卒業する最後の年に、医学部に進学するのではなく、ダンス学校のオーディションを受ける決意をしました。ペンシルベニア・バレエ団でダンスを学べる奨学金をもらい、6カ月後には実習生に昇格。間もなく同バレエ団の正式ダンサーになっていました。4人の子供のうち男の子は私一人だったのに、唯一の息子がバレエ・ダンサーになっちゃったんですから(笑)、父の期待を裏切って申し訳なく思っています。でも、科学を勉強しておいて、分析力がついたのはよかったと思っています。ということで、私は22歳でペンシルベニア・バレエ団に入団、32歳で辞めるまでの10シーズンを同バレエ団の舞台で踊りました。

──なぜ退団したのですか。
 私が退団する前、90年代の初頭は、エイズが猛威を振っていて、特にバレエの世界はひどい打撃を被っていました。ペンシルベニア・バレエ団も例外ではなかった。そこで私たちダンサーは、エイズの人々を助ける非営利団体に寄附をするため、1993年に寄附金集めのイベントを開催しました。バレエ団のアドミニストレーターの手は借りず、すべてダンサーだけで企画を練り、イベントを実現しました。僕が発起人のひとりでもあったので、次第に実行委員の中でプロデューサー的役割を担うようになりました。何せ初めてだったので、レンガをひとつひとつ積み上げるように取り組みました。全員が素人ですから、怖いもの知らずで情熱だけに突き動かされて、様々な人に協力を呼びかけました。このイベントを手がけるうちに、プロデューサー業の虜になってしまいました。このイベントの2年目の時には、もうダンスをする気が無くなっていました。資金を調達し、プロダクションをまとめ上げ、チケットを売る──この一連の魅力にハマってしまい、プロデューサー業とプレゼンター業に徹することに決めました。

──とはいっても、なぜバレエからコンテンポラリーに興味が変わったのですか。
 私がペンシルベニア・バレエ団に在籍した最後の3年間の芸術監督は、クリストファー・ダモワーズでした。彼はまだ30の半ばの若さで、「コンテンポラリー・バレエ」ということに様々なアイデアをもっていて、様々な振付家を招いてダンサーに新しい試みをさせようとしていました。しかし、私たちダンサーはクラシックを踊るために入団したわけですからもちろん反発しました。そんな中で、私たちに衝撃をもたらした若い振付家と出会った。サンフランシスコを拠点にするジョー・グードでした。私のダンサーとしてのキャリアの最後の時期でしたが、自分の人生でこんなことが起きるとは想像もしていなかった。グードは、僕らダンサーにペンを持ってフロアに座るように指示し、小さな出来事を語ることを求めたり、彼の考える「現代の文化」について説明したりしました。わけがわからず、嫌悪感さえ抱きました。ある日、私は本当に嫌になり、彼の指示をあざけった挙げ句に「ほっといてくれ」という最悪の態度をとりました。するとグードは、「それだよ、それ。それこそがコンテンポラリー・ダンスだ。君は今すばらしい感情表現をしたんだよ!」って言ったんです。
 その瞬間、「これって楽しいじゃないか」と目から鱗が落ちた。「腕を上げて、下げて、4拍目と5拍目で回転して」と誰かに指示されて動くクラシックの世界とは全く違う表現、勝手にしゃべったり即興したりする表現──というものを、すっかり受け入れてしまったのです。踊るのを止めてからは、地元フィラデルフィアのアーティストを訪ね歩きました。そして小さな舞台──たいていがコンテンポラリー・ダンスでしたが──をプロデュースし始めました。

──当時、実験的な作品をつくっていた地元のアーティストと知己があったのですか。
 いや、全くありませんでした。ただもうとにかく公演を見て、アーティストに会い続けました。AさんにBさんを紹介してもらい、BさんにCさんを紹介してもらう。そして「エジンバラに行きたい」というひとりのアーティストと出会いました。私は、「プロデューサーといっても何の実績もない自分に、彼の作品をプロデュースしてエジンバラまで持って行くことができるのか」「いや、できる」と自問自答しました。それで、資金を調達し、彼の創作を手伝い、エジンバラまで持って行きました。フェスティバル滞在中に、「フィラデルフィアでもこんなフェスティバルができないだろうか?」と思いつきました。それが1996年、私がバレエ団を退団したのが1995年、そして最初のフェスティバルが1997年です! 当時の私は、それがどれほど無茶なことかわかっていなかった。尻込みするにはあまりにナイーブすぎたということです。

──先に言及のあった助成財団の他に、どんな人々が支援してくれましたか。
 バレエ業界の知り合いからも援助してもらいました。今でも、私を「元バレエ・ダンサーだから」という理由でサポートしてくれる人がいます。また、フェスティバルはフィラデルフィアにとって良いものだからという理由での支援してくれた人もいますし、私が上演しようとしていたような作品が好きだからという人々もいました。とにかく学ぶことだらけでした。どこかの財団の人にアポをとって、「こういうことがやりたいけど支援してくれませんか?」とお願いする。その人が了解してくれれば、「他に誰と会ったら良いでしょうか」と尋ねて、今度はその人に会いに行く。そうしてドアからドアへ、協力を求めて人々を訪ねて回ることを毎日毎日1年間続けて、何百人もの人に会いました。当時、私の妻は当時バレリーナで、年収は2万2千ドルでしたが、その収入だけで家計をやりくりしていました。
 フリンジアーツのエグゼクティブ・テクニカル・ディレクター、コンラッド・ベンダーはフェスティバルの設立メンバーのひとりですが、フェスティバルが実現できた理由のひとつは彼がいてくれたことです。彼はプロダクションにかけて本当に冴えた人間で、別のプロダクション仕事を正業として持っていましたから、過去18年間、副業でフェスティバルのために働いてくれました。私が、寄付金集めやチケット販売などに頭を悩ましている最中に、コンラッドはプロダクションのことをすべてやってくれていました。コンラッドのおかげで、どんな上演もすばらしい仕立てで作ることができました。偉大な強みです。

──常設アーツセンターの開設を機に、オーガニゼーションの名前を「フリンジアーツ」に変更しました。扱うプログラムがすべてフリンジだというのならわかりますが、世界的にビッグなアーティストも多くラインナップされているのに、なぜ「フリンジ」にしたのですか。
 フェスティバルだけのときは、「ザ・フィラデルフィア・ライブ・アーツ・フェスティバル・アンド・フィリー・フリンジ」と名乗っていましたが、こんなに長い名称ではエントランスからサインがはみ出してしまう(笑)。それで新しい名称を考えたのですが、フェスティバルだけをやるわけではないので○○フェスティバルという名称は相応しくない。なら選択肢は2つで、全く新しい名前にするか、もうひとつは「フリンジ」という単語を活かすか、でした。
 というのも、観客はみんな、私たちが対象としているのは「注目のアーティスト、無名のアーティスト、新人アーティスト」と、「全米・世界中で公演している著名なアーティスト(例えばロメオ・カステルッチやヤン・ファーブル)」の2種類だということをよく知っていますし、その違いや私たちがそれをあえてひとつのマーケティング・フレームにまとめて事業をやっていることすら理解しています。その上で、どんなプログラムを観ても、彼らは私たちのフェスティバルのことを「ザ・フリンジ」と呼ぶ。愛称みたいなものですが、それを思うと、「フリンジ」という単語を抹消するわけにはいかない。私たちの活動は地元の観客あればこそですから。何にしても、観客のほとんどは、今後も私たちのことを「ザ・フリンジ」と呼び続けることは想像に難くなかったので、それなら「フリンジアーツ」にと決めました。

──その観客について具体的に教えてください。
 毎年のフェスティバルで売るチケット数は2万5千枚。この数字から通年事業の観客数を想定するのは多少難がありますが、だいたい8千人から1万人が私たちのコアの観客だと考えています。ざっと言えば、年齢層は多少高齢化していて、中心の観客の年齢層は35歳から50歳。次に多い層が50歳以上、その次が大学生で、その割合は全観客の2割程度です。以前はもっと若かったのですが、現在の平均年齢は40歳台になっています。ちなみに25歳以下には、窓口で買えるディスカウント・チケットを出しています。
 私たちの観客は以前よりも「裕福な層」になってきていて、4割が年収8万ドル以上です。プログラミングがちょっとヨーロッパ寄りになってきているからかもしれません。今度の新しい施設のためには、完全に新しい観客層を発掘する必要がありますし、もっと多様性に取り組まなければと考えているところです。

──フェスティバルでは常に日本人のアーティストを取り上げてきました。ストゥッチオさんは2003年以降、日本を訪問されていませんが、どのようにして日本のコンテンポラリーの舞台芸術に精通なさっているのですか。
 日本の舞台芸術のことはもっとよく知っていたいのですが、なかなか思うにまかせません。そろそろまた日本に行くべき時ですよね。日本のアーティストに関する知識の多くは、塩谷さんのように詳しい人からの情報や、ツアーをしているアーティストの公演から得ています。ジャパン・ソサエティーのツアーもロボット演劇、庭劇団ペニノを受け入れました。岡田利規も昨年のフェスティバルの目玉として取り上げ、チェルフィッチュによる『ホットペッパー』と、岡田さんが地元フィラデルフィアのピッグ・アイロン劇団とコラボレーションした『ゼロコストハウス』をやりました。『ホットペッパー』はたいへん面白い作品で、惚れ込んでしまいました。
 これまで紹介した日本とアジアの舞台芸術の中で、一番気に入っているのは笠井叡です。もうずいぶん前になりますが、『花粉革命』を上演したときには、笠井さんはゲイシャみたいな着物を着て鬘を被り、フィラデルフィアのストリートを馬車に乗って行進して劇場まで乗り付けた。私たちは劇場の前に馬を引き込んで、馬車から降りた笠井さんは観客を引き連れてそのまま劇場へと入って行った。あれはフェスティバルにとってとても素晴らしいパフォーマンスでした。田中泯もやりました。日本の偉大なアーティストといえば、勅使川原三郎もいます。スペインで彼の『鏡と音楽』を見ましたが、実に美しい作品でした。彼のKARASはまだフィラデルフィアに招聘していませんが、そういう意味では、梅田宏明、ダムタイプ、小池博史にも興味があります。

──日本のコンテンポラリー・アーティストの特徴をどのように捉えていますか。
 「日本のコンテンポラリー・アーティストの特徴はこうだ」というような狭い言い方に落とし込むようなことは、無理です。ただ、あえて言うなら、「勇気ある実験者」だと思います。束縛されていないし、タブーを瓦解させている。笠井叡は、当時60歳代だったと思いますが、それでドラッグ(女装)なんて、すごく大胆なことです。西洋人のモノの見方から言っても、ましてや一般西洋人の中にある「日本文化」というものに対する認識を思えば尚更です。日本のアーティストはそうした日本文化に対する固定概念を崩壊する存在だと思います。岡田利規は、「日本人は形式的にこんな風に振る舞うんです」といって自分の作品を説明したけれど、それを作品の中で巧妙に串刺しにしてみせるでしょ。自己認識に基づいていてとても知的だし、勇敢な行為だと私は思います。

──2013年10月から常設アートセンターでの通年のプレゼンテーションに着手されましたが、この後、どのようなプログラムを予定されていますか。
 2014年1月にチリのローラ・アリアス、日本の庭劇団ペニノの公演があります。それから、米国の大物コレオグラファーであるテレ・オコナー。その後はたくさんのローカル・アーティストの作品が続きます。9月のフェスティバルの主要なものも固まってきていて、ロメオ・カステルッチの再訪が決まっています。コストは高くつきますが、特別な助成金がピュウ・チャリタブル・トラスト財団から出ます。あと、リミニ・プロトコルとも話を進めている最中です。街に出かけていって100人の一般人を連れてきて舞台に乗せるという彼らの『100%』シリーズは素晴らしい作品です。その土地の住民構成(年齢・人種・性別・性向・地理など)を反映して、その姿を浮き彫りにするもので、私たちの地域の問題を客観的に眺めるよい機会となるでしょう。

──最後に、フリンジアーツの体制について確認させてください。通年事業を始めるにあたってスタッフを増員したりしましたか。
 通年事業のためのスタッフが12名。フェスティバルの時はボックス・オフィス担当や、PR担当、プロダクション担当、ボランティア担当など15名ほどが加わります。フルタイムのスタッフも増員していて、テクニカル・ディレクター、ハウス・マネージャー兼ボランティア・マネージャー兼問題処理係を1名ずつ雇用したところですし、管理職も増やしました。私が18年間ここにいて、キャロリン・シュレッカーが13年、そこに新しく上級マネージャーとして、NPOにおけるマーケティングと資金調達の専門知識が豊富なデビッド・ハリソンを加えました。また、新規に、若い優秀なキュレーター、サラ・ビショップ・ストーンを雇いました。これまで、私自身がキュレーターとして大勢のアーティストと付き合い、新人にも目を配ってきましたが、次第に難しくなってきています。彼女が同世代のアーティストとの関係を築いてくれることを期待しています。理事会も拡張していて、現在は27人体制になりました。
 今からの数年はきっと面白くなるでしょう。この素敵なビルの所有者となり、ここを有効に活用していかなければなりません。私たちの課題は、[A]素晴らしいプログラムをつくっていくこと、[B]ここを運営するための資金(寄付金)を開拓すること、[C]ここに来てくれる人々を開拓すること。レストランがオープンすれば、この場所は文化と社交を兼ねた本当に楽しい場所になるので、それが新しい観客開発につながることを期待しています。

──お忙しい時間を割いてお付き合いいただき、本当にありがとうございました。この秋のグランドオープンを楽しみにしています。
 
TOP