The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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ジョー・ハシャム/ダト・ファリダ・メリカン
Profile
ジョー・ハシャム Joe Hasham(左)
(クアラルンプール・パフォーミングアーツセンターklpac芸術監督)
ダト・ファリダ・メリカン
Dato’ Faridah Merican
(同エグゼクティブ・プロデューサー)



クアラルンプール・パフォーミングアーツセンター(klpac)
http://www.klpac.org
*1 klpac制作作品例
[1]『ブロークン・ブリッジズ』
klpacオープニングの記念作品ともなったミュージカル。2006年初演。1950年代のイポーを舞台に、社会の発展の中で変わっていくコミュニティの姿を描く。同年のBOHキャメロニアン・アーツアワードでは最優秀音楽賞やオーディエンス・チョイス賞などを受賞。
作:リム・チャンイック、テン・キーガン
演出:ジョー・ハシャム
(写真は2013年の再演時のもの)
ブロークン・ブリッジズ
ブロークン・ブリッジズ Photos courtesy of klpac

[2]『欲望という名の電車』
テネシー・ウィリアムズの代表作をダンスドラマとして再構成した作品。2014年8月上演。JTインターナショナルからの支援を受けて日本でオーディションを実施し、NBAバレエ団の加登美沙子をはじめとするダンサーが参加した。
演出:ジョー・ハシャム、ポール・ロスリー
振付:レックス・ラクシュマン
音楽:バーナード・ゴー
欲望という名の電車
欲望という名の電車 Photos courtesy of klpac
*2 国際交流基金との関わり
国際交流基金クアラルンプール日本文化センターとklpacとの結びつきは強い。2005年5月に国際交流基金主催で実施した黒田育世率いるコンテンポラリーダンスカンパニー、BATIKの初のマレーシア公演『SHOKU: full version』は、klpacの小劇場(Pentas 2)のこけら落とし公演として実施された。数多くの候補の中から、あえて日本の作品を最初の上演作品としたことは、実験的・先鋭的な作品への期待とともに、それまでに積み重ねてきた信頼関係を反映したものだった。
その後も2006年には山海塾公演『HIBIKI』、2007年に珍しいキノコ舞踊団公演『Not Quite Right』、2009年にコンドルズ公演『Conquest of the Galaxy: Mars』と、現地でも大きな反響を呼んだ公演を次々に実施。近年も文楽座の初の東南アジア本公演を共催(2013年)。また、ニブロール公演(2014年)においては現地のダンサーをオーディションし、作品に参加してもらうなど、協力関係をさらに深めている。
長期的なプロジェクトとしては、2007年の劇団態変との共同制作、TAIHEN in Malaysia プロジェクト『Hutan Kenangan: 記憶の森』がある。これは、ジョー・ハシャム、ファリダ・メリカン夫妻が2003年に国際交流基金の文化人招聘プログラムで訪日した際、劇団態変の金満里に出会ったことがきっかけで始まったもの。マレーシアでも態変のメソッドを使って身体障害者による演劇を作りたいという夫妻の意向により、4年をかけて金がワークショップを行い、公演を実現した。klpacではその後も身体障害者に加え、がん患者や難民の子どもたちなどを対象とした社会的弱者向けのプログラムを積極的に提供しているが、本事業はその嚆矢となるものだった。
写真:
文楽公演にて来賓を迎えるファリダ・メリカン
klpac文楽公演
パフォーミングアーツセンター・オブ・ペナン(penangpac)で開催されたニブロールのオーディション風景
klpacニブロール公演オーディション
Photos courtesy of The Japan Foundation Kuala Lumpur
Presenter Interview
2015.1.22
Nurturing theater and music in Malaysia   Kuala Lumpur Performing Arts Centre (klpac) 
マレーシアの演劇・音楽を育てるクアラルンプール・パフォーミングアーツセンター(klpac) 
独立して50年余り。今、マレーシアではショッピングモールにアートスペースや小劇場が相次いでオープンし、舞台芸術の環境整備を行うカキセニが活動するなど文化シーンが活性化している。そうしたシーンをリードしてきたのが、同国初の本格的民間劇場として2005年にオープンしたklpacだ。建物は、国有鉄道(KTM)の操車場をリニューアルしたユニークなもので、504席(固定)と190席(可動)の劇場、100席のフリースペース、9つのスタジオ、ガラス張りの作業場などを備えている。不動産開発を手がけるYTLコーポレーションとチャリティー財団のヤヤサン・ブディ・ブニャヤンがパートナーとして支援し、1989年に劇団としてスタートしたアクターズ・スタジオが運営している。若い演劇人を育てるアカデミーの開講、レジデント・ディレクターによるプロデュース公演、海外アーティストの招聘の他、klpacオーケストラなどの楽団の拠点になるなど、活発に活動するklpacについて、ジョー・ハシャムOAM(芸術監督)とダト・ファリダ・メリカン(エグゼクティブ・プロデューサー)の両氏にインタビューした。
聞き手:滝口 健[シンガポール国立大学]

──お二人はクアラルンプール・パフォーミングアーツセンター(klpac)の芸術監督、エグゼクティブ・プロデューサーであると同時に、アクターズ・スタジオというご自分の劇団を運営されています。この2つの組織はどういう関係になっているのでしょうか。

ジョー・ハシャム(以下JH):klpacにはアクターズ・スタジオの他に2つのパートナーが参画しています。不動産開発を手がけるYTLコーポレーションとチャリティー財団であるヤヤサン・ブディ・プニャヤンです。ただし、これらのパートナーはklpacの運営には全く関与しておらず、アクターズ・スタジオがそれを一手に引き受けています。

ファリダ・メリカン(以下FM):ヤヤサン・ブディ・プニャヤンが参画したのは、同財団のトップだった故ダティン・スリ・エンドンが私たちのパトロンであったからです。彼女は、klpacオープン当時にマレーシアの首相を務めていたトゥン・アブドゥラ・バダウィの奥様でした。彼女は今も私たちの精神的なパトロンであり続けています。
 YTLはklpacを取り巻く一帯の開発を手がけており、劇場を資金面で支えてくれています。klpacの取締役会を組織しているのもYTLで、ジョーと私もそのメンバーになっています。彼らからの介入はなく、非常に快適なパートナーシップが構築されています。

──では、まずアクターズ・スタジオについて聞かせてください。1989年に劇団として創設され、その後、ご自身のパフォーマンス・スペースをつくったとうかがっています。劇場をつくることは当初から計画されていたのですか。

JH:ええ。ファリダの「師匠」だったアメリカの演劇人、ジョイ・ジノマンの影響なのです。私たちが劇団を旗揚げした時──それは私たちが結婚したのとほぼ同時なのですが──、私たちはワシントンにあるジョイの劇場、スタジオ・シアターを訪問して、非常に感銘を受けました。そして「これこそ私たちが欲しいものだ!」と思ったのです。それで、帰国してから真剣に場所探しを始めました。
 私たちの最初のスペースは、クアラルンプール中心部の独立広場(ダタラン・ムルデカ)の地下にありました。95年、そこに153席の劇場をオープンしました。その後、90席のブラックボックス、4つのスタジオを備えた「アカデミー」を増設しました。また、演劇に関する本が閲覧できるリソースセンターも備えていました。

FM:この最初の劇場をオープンしてから8年後、つまり2003年に、クアラルンプール市の中心部を襲った洪水で、これらすべての施設が失われました。ただ、幸いなことに、その時までには市内の別の地域にもう一つの劇場を持つようになっていました。
 2000年頃、流行の先端を行くファッショナブルな地域として知られていた郊外のバングサ地区にショッピングセンターを持っていた開発業者からアプローチがあったのです。かつて2つの小さな映画館が入居していたスペースが18カ月にわたって空いたままになっており、そこに映画館を作らないか誘われました。私たちは「ぜひ」と答えました。そして2001年にアクターズ・スタジオ@バングサ・ショッピングセンターをつくりました。この劇場のおかげで、洪水にあっても完全には打ちのめされずにすみました。もちろん、非常に心が痛むできごとではありましたが。

JH:02年にはペナンにアクターズ・スタジオ・グリーンホールという小さな劇場もオープンしました。

──89年にアクターズ・スタジオを立ち上げた時のマレーシアの演劇はどのような状況だったのでしょうか。どこで公演を行っていたのですか。

FM:クアラルンプールのさまざまな場所で上演を行っていました。それはとてもストレスのたまる状況でした。コミュニティホールや政府が所有する施設が空いているかどうかは予測がつきませんでしたし、こうした場所できちんとした上演を行うことはとても難しい、いやほとんど不可能と言ってもいい状況でした。初期には年に2〜3本の作品を上演していましたが、いつ公演を打てるかを約束することができなかったのです。

JH:でも、その時期に私たちはファイブ・アーツ・センター、インスタントカフェ・シアターカンパニーといった他の劇団との共同作業を始めたのです。ですから、大変な一方でとても刺激的な時期でもありました。

──劇場をオープンした95年の時点で、クアラルンプールに同様の施設というのはあったのでしょうか。

FM:いいえ、全くありませんでした。中華系の演劇コミュニティがつくったごく小規模な劇場を例外とすれば、私たちの劇場がマレーシア初の民間劇場でした。著名な演出家であるファイブ・アーツ・センターのクリシェン・ジットは、「あんたたちは頭がどうかしてる。自分たちの劇場をつくるって、一体なんのために? 絶対うまくいきっこないよ」と言いました。確かに、私たちはちょっとどうかしてたのかもしれません。でも、それがフルタイムで演劇をやる唯一の道だと信じていました。

JH:そして、それがこの国の舞台芸術を育てる唯一の道でもあったのです。私たちが独立広場にアクターズ・スタジオをつくったその瞬間から、たくさんの劇団が私たちのところに来て、共同作業を持ちかけるようになりました。もちろん大歓迎でした。お金を取らないで劇場を貸したこともあります。多くの新しい劇団の旗揚げを助けることができました。 
 マイ・ダンス・アライアンス、ハンズ・パーカッショングループ、舞踏のニョバ・カン、劇作家・演出家であるフジール・スライマンのストレーツ・シアターカンパニー、高い人気を誇るコメディアン、ハリス・イスカンダーの『ハッピー・アワーズ』シリーズ……すべてここで始まったのです。当時はちょうどマレーシア演劇が開花期を迎えた時期でした。この劇場の存在がそれを後押しし、演劇が真に成長する助けとなったと考えています。

──独立広場におけるアクターズ・スタジオの展開は非常に自然で有機的なものであったように感じます。

FM:その通りです。みんながまるで自分の家にいるように、そのスペースが自分たちのものであるように感じていました。ですから洪水でそれが破壊された時、アーティストたち誰もが大きな衝撃を受けていました。

──でも、それが一方ではklpacの始まりにもなりました。このプロジェクトは洪水への対応から始まったと聞いています。

FM:洪水の後、私たちは次に何をしたらいいのかと考えていました。新聞にも大きく取り上げられました。私たちの友人であったトゥン・アブドゥラ・バダウィとダティン・スリ・エンドンもそれを読んでいました。同じ業界の友人たちもです。建築家であるヌグ・セクサンもそのひとりでした。彼はklpacの設立に重要な役割を果たしてくれました。
 ある日、彼は私たちに電話してきて、「セントゥルに場所がある。ぜひ見に来てくれ」と言いました。セントゥル地区は劇場を開くのに適しているようには思われませんでした。でも、彼は頑固でした。そこで、洪水の10日後にその場所を見に行ったのです。
 この土地はかつてマレーシア国有鉄道(KTM)が所有していましたが、YTLコーポレーションによって買い取られていました。セクサンは地域内の公園のデザインを任されていたのです。彼はKTMによって建てられた建物を見せてくれました。とても自分の目が信じられませんでした。クアラルンプールの中心部にこんな場所があるなんて。完璧だと思いました。KTMの操車場だったその建物は、柱のない構造だったのです!
 私たちは、即座にYTLの社長であるタンスリ・フランシス・ヨーに連絡しようと決意しました。トゥン・アブドゥラ・バダウィも強くサポートしてくれ、「ここは完璧だよ」と言ってくれました。私たちはアートセンターをデザインし、タンスリ・フランシスと取締役会のメンバーにプレゼンを行いました。彼は私たちに目をむけ、「やりましょう」と言ってくれました。彼の会社はそのエリアにマンションや住宅を建設することにしていたので、劇場をつくる意義があると理解していたのです。非常に多くの人たちに支えられている私たちは、本当に幸せだと感じています。
 デザインコンセプトを作ったのは我々ですが、実際の設計はYTLの設計士と共同で行いました。それは非常にうまくいき、18カ月で工事を完了することができました。劇場がオープンしたのは2005年5月9日です。来年は私たちの10周年になります。

──お二人のそれまでの劇場と比べ、klpacはサイズ、機構、組織の点でまったく異なる規模になっています。政府からの支援はあったのでしょうか。政府との関係はどうなっているのでしょう。

JH:政府との関係は大きく進歩しています。文化芸術担当の官僚との間に相互の信頼関係を築いてきたからです。特に資金面ではもっとやってくれてもいいのに、と思ったこともありますが、彼らができる範囲で支援してくれています。

FM:一方で、政府の支援の新しいトレンドが始まっていることにも注目しています。マイ・パフォーミングアーツ・エージェンシー(MyPAA)やカキセニ(Kakiseni)といった組織が、観光文化省の代理のような形で資金を分配するようになってきました。現時点では、私たちはまだ、観光文化省と直接交渉しています。それはこうした新しい組織によるサポートが、これまでの観光文化省からの支援と同じ方向性で行われるのかどうか、まだよくわからないからです。注意深く見守る必要があると思います。ただ、私たちは観光文化省の支援に感謝しており、彼らのことを信頼していることは言っておきたいと思います。

JH:私たちは最初からこう言い続けています。「私たちは演劇運動家ではない。私たちは演劇の実践者なのだ」と。運動家であることに反対しているわけではく、ただ、私たちにとってそれが目的ではないということです。つまり、私たちが求めていることは単純で、マレーシアの演劇を育てる、それだけです。

──この複合的な芸術施設をデザインするにあたって留意したことはどんなことですか。

JH:デザイン上の特色のひとつに、舞台装置や小道具をつくるための作業場が上げられます。劇場の入口に位置していて、壁は透明。来場者は私たちがそこで何を、どうやってつくっているかを眺めることができます。物事はどこからともなくやってくるのではない、というのを見てもらいたいと思いました。

FM:klpacをデザインする時、設計者には「ここを独立広場のアクターズ・スタジオの大きなバージョンにしたい」と伝えました。klpacにリソースセンター、スタジオ、劇場といった設備があるのは、それが理由です。破壊されたスペースにあったものを反映させたかったのです。もちろん、規模という点ではまったく異なりますが。

JH:スタジオは9つあります。多少の経験を積んで、私たちのパフォーミングアーツセンターにはスタジオが不可欠だということがよくわかっていました。リハーサルのためというのはもちろんですが、アカデミーのためにも必要でした。スタジオは主劇場の外郭を囲む形で2階と3階に配置されています。

──klpacは上演のための場所というだけではなく、おっしゃったように若い演劇人を育てるための場所としても機能しています。独立広場地下の時代から続く「アカデミー」はそのために重要な役割を果たしていると思います。これを始めた理由を聞かせてください。

FM:教室は、実は劇場を開く前から始めていました。旧国立美術館のクリエイティブセンタービル、これは今ではマジェスティック・ホテルになっていますが、そこで開講していました。

JH:その他にもダンサーのラムリー・イブラヒムのスタジオを使ったり、格式の高いコモンウェルス・クラブを使ったこともありました。アカデミーを始めたのは、演劇教育をしなければ将来何もできない、何も起こらないと心から感じたからです。当時、マレーシアで舞台芸術を学ぶ機会はきわめて限られていました。しかし、海外で学ぶ余裕のある人はごく少数です。芸術科目がある学校は少なく、大学でも芸術は重視されていませんでした。私たちはこの状況を変えるために何かしたいと思い、そして実行したのです。

──アカデミーを設立したそもそもの動機は何だったのでしょうか。ご自身の劇団の作品に出演できるプロの俳優を養成しようとしたのでしょうか。それとも一般の人たちが対象だったのでしょうか。

JH:その両方ですね。ただ、俳優を養成しようとしたのは、必ずしも自分たちの作品に出てもらおうということではありませんでした。もちろん、教室運営に携わった俳優に出演してもらったことはあります。彼らのことはよくわかっていましたから。ただ、それが選抜の基準ではありません。

FM:彼らに演劇、ダンス、音楽の技能を学ぶ機会を与えたいというのが私たちの願いでした。マレーシアの教育システムにおいて舞台芸術が適切に教えられているとは思えませんでしたので。この問題は、私が学校を出てから深刻になったように思います。私の時には状況はかなり違っており、文学、演劇、美術の授業がありました。でも、私達がアクターズ・スタジオを立ち上げた時には何もない状態でした。学生たちがクリエイティブな能力を伸ばすために必要なものは全く与えられていなかったのです。
 ジョーにオーストラリアのNIDAでの経験があり、知識を学生たちに伝えることができたのは幸運でした。彼のように訓練を受けた人がいなければ、教えることは困難です。彼は後に私達のところで教えることになるアーティスト、マーク・ビュー・ダ・シウバ、クリストファー・リンを始めとする多くのアーティストを育てました。

──現在のアカデミーはどのように運営されていますか。

JH:現在、7人の常勤スタッフがアカデミーに携わっています。その他に多数の非常勤の教員がいます。各学期の入学者数は2〜300人。1年3学期制で、その他にホリデーキャンプという非常に人気のある集中講座も開講しています。すべてを合わせると、年間で1,000人を軽く超える学生がいます。私たちにまともな判断力があれば、演劇などやめてアカデミーだけを運営していたでしょうね!

──学生はどんな人たちなのですか。

JH:学生の年齢層は3歳から75歳まで。ティーンエージャー、成人、それに高齢の方もいます。シニアのための演劇プログラムからは何人か素晴らしい俳優も育っています。そのうちのひとりは生まれて初めて舞台に上がったのですが、最近、私たちの『ショート・アンド・スイート』演劇コンペティションで最優秀助演賞を受賞しました。私たちにとって、アカデミーは大きなサクセスストーリーなのです。

FM:私たちは最近になってアカデミーのブランドの見直しを行いました。klpacに移ってからは単に「アカデミー@klpac」と呼んでいたのですが、これではブランドにならないということに気づいたからです。そこで、「アクターズ・スタジオ・アカデミー@klpac」と変更し、マレーシアにおける演劇教育で象徴的な意味を持つこの名前を前面に出すことにしました。この見直しと、私たちのレジデント・ディレクターが積極的に教育活動に参加するようになったことの相乗効果により、アカデミーは飛躍をとげることができました。
 それ以前は、学生を確保するのに非常に苦労していました。現在では、多くの才能ある教員を確保することでさらに多くの学生を呼び寄せるという好循環が生まれています。私たちは人名録から教員を選ぶようなことはせず、何かを教えることができると自ら信じるアーティストたちを精選してきました。その中でも最も重要な役割を果たしてくれたのがマーク・ビュー・ダ・シウバ、私たちのレジデント・ディレクターでした。

──レジデント・ディレクターのシステムは、若い才能を育てるという意味で重要な役割を果たしているように思います。これまでに何人のレジデント・ディレクターが存在したのでしょうか。選抜はどのように行われたのですか。

FM:マーク、クリストファー・リン、ヘレナ・フー、ゲビン・ヤップ、ケルヴィン・ウォン、オマー・アリ…7人ほどだと思います。

JH:選抜の方法は一定ではありません。例えば、マークについては、私たちは彼の演劇界でのキャリアの初めからよく知っていましたので、迷うことはありませんでした。私たちは彼がアーティストとして育っていくのをずっと見てきました。彼は素晴らしい演出家であり、優れた劇作家でもあります。また、大学で演劇を教えた経験も持っていました。私たちは彼にオファーを出し、ありがたいことに彼はそれを受けてくれました。
 オマーの場合は、彼がレジデント・ディレクターとなった時には舞台芸術の経験がたった3年しかありませんでした。でも、彼は自分の俳優としての才能をすでに何度も証明していました。私もいくつもの作品で彼を演出し、彼には素晴らしい能力があることがわかっていました。それを信頼し、彼を採用しました。

FM:クリストファー・リンの場合は、彼の方からアプローチしてきました。当時、彼はある教会に所属し、コミュニティのための演劇活動を行っていました。彼のことは小学生だった頃から知っており、後に彼が友人たちと劇団を旗揚げした際には独立広場のアクターズ・スタジオで公演を行っていました。ですから、彼が教会を離れてアーティストとして生きていこうと決意した時、ここで働くことができないかと私たちのところを訪ねてきました。

JH:ケルヴィンは才能豊かな面白い若者です。ただ一つ欠けていたのは実務能力でした。私たちは彼の創造性を愛していましたし、実務面でサポートすることができるだろうと思ったのでオファーを出しました。ヘレナ・フーは、最初、インターンとしてここにやって来ました。私たちとレジデント・ディレクターとの関係もまた、自然に、有機的に構築されていったのです。座って戦略を練るというのは私たちのやり方ではありません。私たちは何かの証明書など、重視していないのです。

──レジデント・ディレクターにはどのような責任があるのでしょうか。このスキームはどう運営されているのですか。

JH:少々野心的な数字ですが、通常、年3作品という目標を掲げています。私たちは彼らに助言を与えますが、クリエイティブな決定に関しては介入しないことを明確にしています。あくまでも助言です。また、もっとも重要な場合をのぞいては、芸術監督として「これをやることは許可しない」とも言いません。私がそれを口にするのは、若い演出家たちがそれを選んだことでどうなるか、結果を予想できないままに作品を選択した時だけです。その作品をやることでどのような困難に直面するかを理解できていないことがあるからです。
 作品の演出の他には、レジデント・ディレクターはアカデミーで自分たちの知識を伝えることも求められます。契約が満了しても、多くの場合、彼らとは密接なつながりを維持しています。

FM:作品については、私たちは困難に立ち向かうことを奨励しています。ただ、同時に彼らを導くことも必要だということです。特に予算や段取りという点では、彼らはあまり経験がありません。若いアーティストたちの一番大きな問題の一つは――もちろん、例外は常にありますが――こうした実務能力の欠如です。このような面でも、私たちは彼らの成長を助けているのです。

──でも、そうした仕事をするためにプロデューサーと呼ばれる人々がいるのでは?

FM:マレーシアにはあまりプロデューサーがいないので、雇うのはなかなか難しい。大学やその他の学校でプロデューサー養成講座が開かれているということもありません。私は舞台芸術のコースを持っているある大学の諮問委員を務めていて、以前その運営委員会の席でプロデューサー、プロダクション・マネージャー、ステージ・マネージャーの問題を取り上げたことがあります。学校側の言い分は、「そうした分野を職業にしたいという学生は多くない。彼らはみな俳優か演出家になりたいのだ」というものでした。そこで私たちは、熱心に取り組めばプロデューサーになることは十分な収入につながると、きちんと伝えるべきだと助言しました。仕事のできるプロデューサーは相当の収入を得ることができますし、業界では高収入を確保している技術・制作サイドの人々も現れています。もちろん、フルタイムのプロデューサーやステージ・マネージャーとしてやっていくのが簡単ではないことは認めなくてはなりませんが。現在、klpacにも常勤のステージ・マネージャーが1名います。彼はオーストラリアで勉強を続けるためにいったん劇場を離れ、勉強を終えた後にまた戻ってきました。

──次にklpacにおける音楽方面の活動について聞かせてください。音楽にも力を入れられていて、独自のオーケストラもお持ちです。

JH:ええ、klpacオーケストラ、klpac交響楽団、klpac弦楽アンサンブルがあります。音楽に関心を向け始めたのは、劇場の初代専任音楽監督・指揮者を務めた故ブライアン・タンのおかげです。彼は数年前に亡くなりましたが、こうした遺産を残してくれました。
 マレーシアには数多くの音楽学生がいますが、オーケストラで演奏する機会を得ることができるのはほんの一握りです。彼らに機会を与えるための場所として、私たちはオーケストラを今後も維持していくつもりです。弦楽アンサンブルは演奏家を育て、オーケストラで演奏できるだけのレベルまで到達させるための場所と位置づけています。
 交響楽団はそれらとはまったく異なる組織で、専任音楽監督・指揮者のシェリル・マーが担当しています。

FM:3つのオーケストラはすべてコミュニティ・オーケストラだと言えます。私たちが団員に提供する指導や訓練はすべて無料で行われます。それに対して、彼らは演奏会に無料で出演してくれます。これは全員にとって望ましい状況です。団員は、信頼ができて尊敬に値する指揮者がいる限り、演奏することに喜びを感じます。シェリルは団員の確保にほとんど困ったことがありません。klpacオーケストラは、現在、ブライアンと一緒に仕事をしていたリー・コクリョンが引き継いでいますが、こちらも団員の確保に困ったことはありません。弦楽アンサンブルも同様です。
 ちなみに団員はオーディションで選抜され、通常、年5回のコンサートが開催されています。オーケストラの公演が2回、交響楽団が2回、弦楽アンサンブルが1回です。

──klpacのプログラミングはどのように行われるのでしょうか。ポリシーはありますか。

JH:おおよそのところはある種の定型に従っています。もちろんアーティストの気まぐれによって最終的に手直しされることもあります。基本的には、先ほど申し上げた年5回のコンサートがあります。それから私自身は2つの大きな規模の作品──ミュージカルだったり演劇だったりするのですが──を手がけます。ファリダはマレーシアの日常生活を活写した『人生株式会社』という非常に人気のある演劇シリーズを行っていて、これは継続していきたいと思っています。その他に年に1作品は自ら演出を手がけます。
 レジデント・ディレクターたちはそれぞれ年に2〜3本の小〜中規模の作品を演出することになっています。それから私たちと長く共同作業をしているポール・ロスリーがフリーランスの立場で年に1〜2本。さらにレジデント・コレオグラファーであるレックス・ラクシュマン・バラクリシュナンが数本のダンス作品を上演します。以上が私たちの独自制作のプログラムです。
 作品の選択については、特にテーマを設けていません。演出家たちはそれぞれの選択をして、私に提案し、それを検討しています。創造性はどこにあるのか?私たちの劇場の観客に受け入れられるだろうか?予算の点では大丈夫か?こうしたプロセスもまた自然で有機的なものです。

FM:他の劇団が持ち込む企画もあります。通常、年の半ばを過ぎたあたりから翌年の計画についての何度もディスカッションを行います。klpacが非常に人気の高い上演会場となっていることはありがたいことだと思います。ただ、それには何か魔法があるわけではなく、klpacに強力な実務スタッフと有能な技術スタッフがそろっているからです。たとえ作品を持ち込んでくる劇団のそういった能力が高くなかったとしても、我々のスタッフが支援し、トレーニングを提供することもできます。現在では、劇場の使用申し込みを相当早くしてもらう必要があるほどになっています。

──クアラルンプールの各国大使館などとも積極的に連携していらっしゃいますね。

FM:ええ。例えば、まもなくラテンアメリカ10か国の大使館が共催する『ラテンアメリカ映画祭』が開催されます。これはklpacができる前から続いている、大変息の長い映画祭です。各国の大使館とは密接なつながりを持っており、一緒に仕事をすることも多々あります。
 また、国際交流基金のクアラルンプール日本文化センターおよび日本大使館との関係も、マレーシアの文化芸術にとってきわめて大きな意義を持つものになっていて、今後も変わらないだろうということにも触れておきたいと思います。日本との関係は、他のどんな国よりも実り豊かなものだと思います。

──klpacは民間の劇場ですが、その規模や重要性のためにある種の公共性を帯びているように思います。klpacのプログラムを拝見すると、コミュニティへの配慮を感じます。

JH:バランスが非常に重要だと思います。芸術的な意義の追求とコミュニティへのアウトリーチをうまくバランスさせたいと考えています。時には一般の観客が「これはいったい何だ?」というような作品をつくることもあります。逆に、シリアスな演劇人が無価値だとみなすような一般向けの作品を制作することもあります。いつも全ての人を喜ばせるものをつくることはできません。ただ、それは私たちが中庸を目指していることを意味するわけではありません。妥協はしません。創造的な意図を持ち、アーティスティックな作品をつくるのであれば、どんな批判を受けてもそれをやり遂げます。商業的な作品をつくる時にはそれに真摯に取り組みます。
 私たちのプログラミングにはさまざまな反応が寄せられています。「なんでもっと商業的な作品をやらないんだ?」という人もいます。それには、「でも、それは私たちの目的ではありません。私たちはマレーシアにおける舞台芸術を育てたいのです」と答えます。舞台芸術はさまざまな方法、手段、形をとります。多様性こそが鍵であり、マレーシアはその豊かな多様性を有した国です。舞台芸術とはあらゆるものの総合であるべきであり、klpacそうした舞台芸術のためのセンターです。klpacは広い範囲をカバーすべきなのです。

──近年、クアラルンプールでは特定のフォーカスをもった小規模な劇場が数多く現れています。例えば、「PJライブアーツ」は子どものための演劇とコメディーに特化しています。このような動きをどうごらんになっていますか。

JH:ええ、本当に多くの新しい民間劇場が生まれています。ダマンサラ・パフォーミングアーツセンター(DPAC)、パブリカ・ショッピングモールのホワイトボックス、それに住宅地であるタマン・トゥン・ドクター・イズマイルにできたKuAshシアター。いずれも愛すべき小劇場ですし、そこではテーマを絞った作品がつくられています。私たちの劇場の影響も少なからずあると思います。とても気分のいいことですよ!

FM:先ほど申し上げた通り、95年にアクターズ・スタジオ・シアターをオープンした時、民間劇場というのは存在しませんでした。ジョーと私はこの劇場はひとつの足がかりに過ぎないのだと考えていました。こう言い続けていたのです。「1つの劇場だけで終わってはいけない。もっともっと多くの劇場ができるようにしていかなければ。サイズは問題じゃない。スタジオでもかまわない」と。

JH:その一方で、先ほど申し上げたように、私たちはklpacには多様性が必要だと考えています。ある部門に特化した劇場ではすくい上げてもらえない分野はたくさんあるからです。例えば舞踏、クラシック・バレエ、実験的なコンテンポラリーダンス、先鋭的な演劇作品などです。かつてはアンダーグラウンドのロックバンドのコンサートの会場になったこともあります。こうした人々に上演の場を提供する必要があると考えています。

──2011年にはパフォーミングアーツセンター・オブ・ペナン(penangpac)がオープンしました。運営やプログラミングという点ではklpacのモデルを踏襲したものと考えていいのでしょうか。

FM:その通りです。klpacのモデルは大きな成功であったと考えているからです。例えば、penangpacでも音楽にフォーカスを当てています。独自のコーラスグループを持っており、オーケストラもまもなく立ち上がります。
 ただ、「成功」というのはあくまで創造の分野においてのことであり、経済的にはとてもそうとは言えません。このような大規模なアートセンターを自前で運営することは極めて難しく、スポンサーへの依存度は非常に高く、スポンサーシップによって作品制作ができているのが現状です。ペナンの状況はクアラルンプールよりも少しだけ厳しいので、penangpacでは大きな規模の作品をつくることができず、共同制作による作品や外部の作品に大きく依存しています。

JH:私たちを信じてくれる友人たちがペナンにいるのは幸運です。ペナン州を含む北部地方の人々がpenangpacを非常に誇りに思っているのを感じるのです。世界のどの劇場と比べても引けをとらないものだと思っています。そして、ペナンには勢いがあります。毎年行われるジョージタウン・フェスティバルの目覚ましい成功もその要因のひとつです。

FM:州政府からのさらなる支援も取り付けたいと思っています。残念なことではありますが、マレーシアでは州政府、あるいは連邦政府からの支援なしには何もできません。彼らは予算を握っていて、その中には芸術文化への割り当てもあるのですから。

──インタビューを締めくくるにあたって、これからの課題についてうかがいたいと思います。現在のマレーシア演劇が直面している問題とはどんなものだと思われますか。

FM:政治の影響力があまりにも強すぎるのではないかという懸念は常にありました。その時の政治が舞台芸術に関心がなければ、舞台芸術は荒れ果ててしまうかもしれません。

JH:本当の課題は、舞台芸術はこの国の成長にとって極めて重要な要素なのだということを政府に認めさせることなのではないかと思います。これは単純な問題ではなく、社会、宗教、教育、その他さまざまな要素にかかわる極めて複雑な問題です。例えば、舞台芸術はハラム(イスラムの教義上「罪」であるとされるもの)だという人々もいます。私たちはこうした複雑性に応えていく必要があります。これは私たち全員にとっての大きな挑戦なのです。
 
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