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ジュディス・ナイト
ジュディス・ナイト
Ms. Judith Knight



アーツアドミン
Artsadmin

http://www.artsadmin.co.uk アーツアドミン Arts Organization of the Month
Presenter Interview
2015.3.6
Supporting Expressions that Go Beyond  Artsadmin 
新機軸の表現を支援する アーツアドミン 
1979年に設立されて以来、実験的でユニークな作品を育成するための活動を行っているイギリスの中間支援組織アーツアドミン。イースト・ロンドンに開設した劇場(208席)、5つのリハーサル室などを備えた拠点トインビー・スタジオ(Toynbee Studio)を運営するとともに、既存のジャンルに収まらない表現にフォーカスして支援し、「Under 25s」という若手アーティストの育成にも取り組むなど、インディペンデントなアーティストにとってなくてはならない存在となっている。近年では、障害のあるアーティストを支援する「アンリミテッド」をアーツカウンシルからの助成を得てShape(1976年設立の障がい者アート支援団体)とともに運営。また、環境問題とアートを結ぶ欧州プラットフォーム「Imagine 2020」の創設に参画。その活動が注目されるアーツアドミンについて、創立メンバーであり、30年以上にわたり組織を率いてきたディレクターのジュディス・ナイトにインタビューした。
聞き手:岩城京子[ジャーナリスト]

──マーガレット・サッチャーが首相に就任した1979年に、ナイトさんはセオナイド・スチュワートと共にアーツアドミンを設立されました。よく知られているように、サッチャー政権ではその強気な経済政策の裏側で芸術文化に対する支援が大幅にカットされ、多くの芸術家が苦しむことになりました。アーツアドミンが設立されたのはそうした時代背景があったからでしょうか。
 他の多くの人たちと同様、そもそも私もサッチャーが首相に就任することに反対でした。私の考えでは、彼女の政策が国とその芸術に対し、功を奏すとは到底思えませんでした。とはいえ、質問にお答えするなら、私がセオナイドと共にアーツアドミンを設立したのはサッチャーとは関係ありません。動機はもっと個人的なもので、単に周りにいる才能あるアーティストたちにいくらかの「社会的地位」と「安定感」を与えたいという一心でこの組織を立ち上げました。
 もちろん設立当初は慈善団体と呼べるようなものではまるでなく、二人の若い女性が今こうしてあなたと話しているようなテーブルに座ってそこをオフィスと呼び、資金もプランもストラテジーもなく始めたことでした。あったのは熱意だけです。ですからもし当時「ビジネスプランを教えてください」と問われていたら、率直な答えは「ありません」の一言でした。自分たちの好きなアーティストを支援したい、その一心で始めただけですから。本当に35年も組織が継続するなんて、当時は想像もしていなかったです。そんな先々のビジョンを聞かれたりしていたら「冗談言わないで」と笑い飛ばしていたでしょうね(笑)。

──支援したいと思われたのは、特にどのような作品を生み出しているアーティストたちだったのでしょうか。
 これは現在にもそれなりにあてはまることですが、30年前の英国演劇界は今よりもずっと戯曲重視の傾向にありました。つまり戯曲を教科書にして生み出される舞台芸術のみが正当な演劇として認識されていて、それ以外は「フリンジ」として扱われていた。けれど私たちの周りにいるアーティストたちは、演劇、ダンス、パフォーマンス、ビジュアルアーツを自在に融合して、どの枠にも当てはまらないジャンル横断的な素晴らしいアートを生み出していたんです。
 例えば66年に設立された「The People Show」は、当時、英国でもっとも評価されていたインディペンデント・カンパニーの一つで、マルチディシプリンな表現をいち早く取り入れていました。今は映画監督として知られるマイク・フィギスはこのカンパニーから離脱したメンバーで、彼が手掛けた最初の3つの舞台作品を私たちがプロデュースしました。同じぐらい当時注目されていたのは、68年に設立された「Welfare State International」は巨大な屋外インスタレーションや祝祭的なプロジェクトを創作した芸術家集団でした。彼らとは私たちは残念ながら仕事をしませんでしたが、素晴らしいカンパニーでした。少し経ってから、私たちは国際的パフォーマンス集団である「Station House Opera」 (80年設立)などと手を組むようになりました。
 これらのアーティストたちは本当に素晴らしいクオリティの作品を生み出していながら、その分野横断的な形式ゆえに、英国では継続的な資金援助を得ることが困難な状況にありました。そしてありがちなことですが、ときに母国よりも海外で高い評価を得ていました。たとえばアムステルダムのミクリ・シアター(芸術監督リットサート・テン・ケイトのもと、ウースター・グループ、ロバート・ウィルソン、ピーター・セラーズ、寺山修司などの作品を招聘していた前衛劇場)は、彼らを継続的に支援してくれた劇場のひとつです。私たちと仕事をしていたアーティストたちにとっては、ミクリ・シアターが実質的な拠点であり、そこから他の海外の劇場、特にフランス、ベルギー、オランダ、スイス、ドイツなどにネットワークが広がっていきました。こうしてアーティストたちは生活を支え、作品を作りつづけることができたのです。

──資金源を獲得するためには、英国アーツカウンシル(Arts Council England)を説得する必要があります。アーティストでさえ充分な助成金を得るのが難しいなか、どのようにしてアーツアドミンのような中間支援団体に助成金をまわすように説得されたのでしょうか。
 先ほどあなたが言われたように、当時はサッチャー政権により芸術関連組織への助成金はどんどん減らされていました。そのためにアーツカウンシルの説得は難航しました。ただ幸いなことに、当時は、他業界でも同じようなことをし始めた人たちがいました。例えば私たちが組織を設立した前年には、今ではフェスティバルとして知られ、当時はインディペンデントなダンスカンパニーのツアーも手掛けていた「ダンス・アンブレラ(Dance Umbrella)」が舞踊業界で設立されたところでした。また音楽業界でも同じような中間団体が立ち上げられていました。そこで私たちは手を組んで、アーツカウンシルを説得しにかかりました。
 もちろん最初はうまくいきませんでした。「我々はアーティストを支援しているのだから、そのアーティストにあなたたちは支払いをもらうべきだ」というのがアーツカウンシル側のロジックでした。私たちはそれに対し、「もしアーティストが少ない助成金を削ってまで私たちに金を払ったら、彼ら自身が生きていけなくなる」と反論しました。5年程はどちらも一歩も譲らない状態が続きました。私たちは必死に、自分たちが惚れ込んでいるアーティストがどれだけすばらしい芸術的実験を続けていて、どれだけ国際的に影響力があるかということを伝えました。でも芸術的なロジックでどれだけ攻めても、彼らの財布の紐はまったく緩まなかった。
 最終的に彼らの心が揺らいだのは、私たちが彼らに「アーツアドミンに資金をまわしたほうが、アーティストに安定的な基盤を与え、よりひとつの作品に長い命を与え、より多くの人に見てもらえる」と費用対効果の面から説得したためです。そこから少額の助成金が下りるようになり、徐々に金額が増えていきました。とはいえ今から思えば、よく彼らは私たちにお金をくれたなと思います。今でこそ私たちは、英国でのこの分野の芸術支援の草分け的な存在になっていますが、当時はアーツアドミンがどのように発展するかまったく見通しがつかなかったでしょうからね。かなり長い間、彼等がためらっていたのも無理はありません。

──アーツアドミンの運営に充分な資金を得られるようになったのは、いつ頃からですか。
 資金はいつだって、本当の意味で充分とは言えません。ただ1994年にトインビー・スタジオという劇場・稽古場兼オフィスをイースト・ロンドンに構えてから、ある程度、組織運営が安定しました。それまでは5、6人のメンバーで、本当にあらゆることを必要最低限の資金でまかなっていましたから。ただ少人数だったとはいえ、国内外を問わず、多くのプロジェクトを手掛けていたことに変わりはありません。
 現在は英国アーツカウンシルが支援するナショナル・ポートフォリオ団体のひとつとして、年間約53万ポンド(約9700万円)の公的資金援助を得ているほか、プロジェクト毎に、財団、トラスト、寄付団体などから年間10万ポンド(1800万円)を確保しています。またトインビー・スタジオのオフィスレンタル、5つのスタジオレンタルの賃貸料によって年間30万ポンド(約5500万円)の売上を得ています。さらに、3つの欧州芸術ネットワーク(クリエイティブな方法論で気候変動に取り組む「IMAGINE2020」、アーティスト、制作者、リサーチャー、観客をイノベイティブな形で連携する「CREATE TO CONNECT」、子どもたちとその家族に実演芸術を介して創造的体験を提供する「BAMBOO」)に属しているため、そこからの予算ももらっています。
 これらの資金をもとに、第一に、私たちは制作面、経済面、創作面など、あらゆる方法でアーティストを支援します。アーティストとともに作品を制作し、若手教育プログラムを運営し、環境問題に取り組んでいます。また、その他にもいろいろ単発のプロジェクトも展開しています。ですからアーツアドミンという命名は……、これは自分で命名したから言えることですが、完全に間違っています。当時はプロデューサーという呼称が舞台業界には存在せず、アドミニストレーター(制作者)という肩書きでなんとか自分たちの活動をくくるしかなかった。でも私たちは芸術作品の着想から実現に至るすべてのプロセスに綿密に携わっていますから、あきらかにアドミニストレーターの守備範囲を越えた活動を当時からしていたと言えます。

──アドミニストレーターの仕事には、この組織を設立される前から携われていたのでしょうか。
 ええ、最初はHull Arts Centreで秘書として働いていました。次の職場は、グラスゴーのCitizen’s Theatreで、そこでは2人のディレクターのアシスタントとして働きました。この劇場では、あまりお目にかかれない演出の、シェイクスピアやモリエールといった古典の上演がなされていました。才能ある3人の座付演出家(Giles Havergal、Philip Prowse、Robert David MacDonald)のおかげで、かなりビジュアル的にカッティングエッジな作品が生み出されていたんです。仕事を通して才能ある彼らの作品に身近に触れたことで、私は演劇にはテキストベースの演出以外にも様々な可能性があることを学びました。その後、就職したOval Houseという南ロンドンの実験劇場でアドミニストレーターとして働いていました。共同創設者であるセオは職場の同僚でした。ここで私は、演劇とビジュアルアートの境界に位置する、多くのエキサイティングな作品に触れることになりました。

──そんなアドミニストレーター2人のアイデアから始まり、今では多くのメンバーを抱える組織になりました。組織体制について教えてください。
 私とギル・ロイドが二人でディレクターを務めています。ギルは主にトインビー・スタジオの管理運営にまつわる仕事を指揮しています。彼女がいなければ、スタジオは明日にでもつぶれていることでしょう。また彼女は財政面のこともすべて管理しているので、まちがいなくギルは私よりも資産面の運用に長けています。そのうえで、彼女はアーティストたちとの仕事もこなしています。他には、マーケティング&デベロップメント部、制作・ビル管理運用部、経理部、カフェ飲食部に各数人ずつ、またアーティストのアドバイザーとして働くメンバーが数人、そして実際のプロジェクト制作に携わるアートプロデューサーが私とギルを除いて5人います。他に、私たちはアーツカウンシルのもと「Unlimited」という聾者または障がい者の芸術作品を委託製作するプロジェクトをShapeと共に運営していますので、そのスタッフも加わります。プロジェクト毎にフリーランスの人材も雇用しますが、大抵のことは基本メンバーでまかなっています。これ以上、組織が大きくなることを私は望んでいません。この規模だからこそ、フットワーク軽く動けることが多いように思います。ちなみにこのような体制は、トインビー・スタジオを構えた後に少しずつ整備されてきました。

──約20のオフィス、5つのリハーサル室、劇場、会議室のあるトインビー・スタジオはどのような経緯で入手されたのでしょうか。
 これに関しては、おそらくサッチャーに感謝しなければならないでしょうね! 彼女が85年にロンドン地区教育局(Inner London Education Authorities)の管理施設のひとつとして利用されていたトインビー・スタジオを閉鎖したために、私たちがこの建物に目をつけたときには、空き家同然だったんです。
 トインビー・ホール・コンプレックスは1865年に建設され、1920年に最盛期を迎えるセツルメント運動(富裕層と貧困層が互助的に暮らすという精神に基づくボランティア運動)を促進する施設として長年利用されていました。1930年代に、いま私たちがオフィスとして利用しているトインビー・スタジオが増設されました。けれどサッチャーによって閉鎖されて以後、この美しい施設は廃屋化していた。そこで私たちはトインビー・ホールの管理者に会いに行き「施設をアートとリハーサルのための空間として再利用させてくれないか」とお願いしました。嬉しいことに、彼らはこの申し出を快諾してくれました。そこで私たちは94年にこの建物にオフィスを設け、その後、2000年に、英国アーツカウンシル開発部門と欧州地域開発基金からの助成金を得て、トインビー・スタジオの賃貸権を獲得したほか、屋根裏に新しいスタジオを設けるなど建物の改修を行いました。そして2007年に、建物を改装オープンしました。現在では、劇場とカフェ施設を含むトインビー・スタジオの賃貸権を2038年まで所有しています。
 トインビー・スタジオは、組織に安定感を与えてくれました。また共に仕事をするアーティストたちにホーム感を与えてくれました。もちろん、建物を得たことで安定収入も得られるようになりました。

──トインビー・スタジオに入居する以前/以後では、具体的にどのようにアーツアドミンの活動内容は変化したと言えますか。
 ここに居を構える前、79年から94年までは、私たちの仕事のほとんどはプロデュース業でした。作家たちの着想に耳を傾け、そのアイデアに必要な資金を確保するため助成金申請を行い、そのプロジェクトが実現するためのあらゆる雑務をこなし、さらにその作品が一夜限りの命で終わらないよう国内外のツアープランも手掛けました。つまり繰り返しになりますが、私たちは自分の好きなアーティストに持続的な基盤を与えるべく仕事をしていたわけです。
 けれどトインビー・ホールに入居してからは、状況がガラリと変わりました。賃貸料という安定収入を得たことで、経済的なゆとりを得ることができました。またスタジオ施設を得たことで、空間的な余裕も確保できました。そして図らずもこの建物が付与してくれた安定感から、徐々に活動の枝葉が広がっていきました。トインビー・ホールにオフィスを構えてまず初めにやったことは、アーツ・フォー・エブリワンという助成金に申請したこと。この助成金によって私たちは、若手作家に奨学金を与えるアーティスティック・アドバイザーを雇い、また毎年給料制の制作インターンを採用することができるようになりました。

──なぜ90年代に若手アーティスト、若手制作者の育成に目を向けるようになったのでしょうか。
 私たちは自分の好きな同世代の作家たちを15年間支援しつづけ、それなりの成果をおさめていたわけですが、その成果を見て「すみません、私たちの面倒も見てくれませんか?」と扉を叩きにくる若いアーティストたちが増えていました。その状況を見て、若手のためにも何かすべきかもと思い始めました。ただ単純に、自分たちだけでそれをやるには時間が足りなかったんです。そこで若手アーティストの支援を専門に行うアドバイザーを雇うことにしました。
 アドバイザーたちは、文字通りあらゆるアドバイスを若手アーティストに与えます。まず創作の初期段階の話しに耳を傾け、そのプロジェクトを実現するために必要なコネクションを与え、助成金申請にまつわる手助けをし、どのような施設で発表すべきか相談し、とにかくあらゆる相談にのります。またアドバイザーには、若手アーティストに創作のための時間的・空間的なゆとりを付与する奨学金(Artists’ Bursary Scheme)の窓口としても働いてもらうことにしました。この奨学金は、最終的な成果物をアーティストに求めない、英国で初めての奨学金のひとつでした。これらの活動の延長で「Under 25s」という若手教育プログラムも開始されました。

──その「Under 25s」のプログラムも多岐にわたります。ワーク・イン・プログレスの作品を同世代の仲間たちに見せてフィードバックをもらう「SCRITS」、18歳から24歳の若手アーティストが4週間集ってクリエイティブな思考を広げる無料の夏期合宿の「Summer Lab」、学校施設での公演発表を行う「Live Art in School」、同世代のアーティストへのサポートやアドバイスを提供する「Youth Board」などが挙げられます。
 今おっしゃっていただいたような若手育成プログラムは、サム・トロットマンという優れたエデュケーション・プロデューサーを採用したことからすべて始まりました。彼女がまず夏期合宿の運営に着手しました。その合宿から、メム・モリソン、マーク・ストラー、ニック・グリーンといった優れた若手アーティストが輩出されました。私たちは、才能ある彼らとの縁を夏期合宿だけで切ってしまうのはもったいないと思ったため「Youth Board」という若手顧問チームを組織することにしました。ちなみにYouth Boardのメンバーは、毎年一人、アーツアドミンの取締役会議にも出席します。組織の年間プログラムを考える際に、彼らの声を無視するのは得策ではないと思えたためです。

──アーツアドミンでは継続的にプロジェクトを手掛けるアーティストの他、DV8 Physical Theatre、Emma Smith、La Ribot、Mamoru Iriguchi、Robyn Orlinといったアソシエート・アーティスト19人もウェブサイトに名を連ねています。
 アソシエート・アーティストと私たちの間には、何か契約書のようなものが存在するわけではありません。また彼らのマネージメントを私たちが行っているわけでもないですし、彼らの作品をプロデュースするわけでもありません。単に彼らは、マーケティングや創作にまつわるアドバイスや、ある程度のパブリシティを提供するだけです。その見返りに私たちが求めていることは、当日パンフレット等にアーツアドミンのアソシエート・アーティストである旨を記載することだけです。なおアソシエート・アーティストは、だいたい2年ごとに顔ぶれが変わります。ただ今後、期間を変える可能性があります。たった今、内部でそのことについて話し合っているところです。

──近年では国内での仕事のほかに、海外アーティストとの単発的プロジェクトや、英国人アーティストの海外への紹介なども活発に行っていますね。
 そうですね。ただひとつ気をつけて欲しいのは、私たちは、海外作品のツアー・マネージメントは手掛けないということです。私たちの第一のミッションは、英国拠点のアーティストたちとの仕事です。とはいえ、最近の国際プロジェクトをひとつ例に挙げるなら、2014年の2月末に2015年欧州文化都市であるモンス(ベルギー)に招聘され、現地で数日間、「Ailleurs en Folie - Londres」という英国の若手アーティスト数人を紹介するショーケースを実施しました。また今春には、ジェニンの難民キャンプに本拠地を構えるフリーダム・シアターをパレスチナから招聘し、ワークショップを行う予定です。せっかくトインビー・スタジオのような施設があるので、海外作家のレジデンシー・プログラムはもっと手を広げたいと考えているところです。まあ、ありったけの資金が空から降ってきたらの話ですが。

──イスラエルからの抑圧に対する抵抗運動として演劇を行うフリーダム・シアターのみならず、最近はあなたが演劇に関わり始めた70年代と同じぐらい、芸術界で政治にまつわる言論が盛んになっています。
 ええ、現代では多くの芸術家たちが、世界中で勃発する政治問題や環境問題などについて活発に声を上げています。ただ彼らは70年代の作家たちとは異なり、プラカードを掲げ、デモ行進を行うといった直接的な政治参加を行うわけではありません。そうではなく、彼らの多くはもっと控えめ。彼らはいわゆる「アジプロ」演劇を行うのではなく、もっと間接的なかたちで芸術作品を介して政治を語ります。
 例えばグレアム・ミラーの『Beheld』という美しいオーディオビジュアル・インスタレーションでは、密航者として飛行機に乗った移民たちが、不運にも途中で機体から落下してしまった地点の上空を180度撮影し、その映像を10個のガラスの器に投影します。Staion House Operaの『Dominoes』では、何千個という建築用軽量ブロックを並べ、それらブロックがドミノ倒しになっていくことで、あらゆる現象は国境など存在せずにつながっている事実をシンプルに示します。彼らは決して政治的な主張を大声で叫ぶわけではありません。でもそこには確実に、強いメッセージが存在しているのです。

──アーアツドミンでは特にここ数年、様々な環境問題へアプローチするアートプロジェクトに盛んに取り組まれています。
 どちらかというと私たちは、やや遅ればせながら環境問題について考え始めたと言えます。アーツアドミンが自然環境に目を向け始めた頃には、すでに国内の様々な団体がサスティナビリティや気候変動といった問題に取り組み始めていました。活動家、科学者、芸術家が手を組み環境問題を研究する「Platform」という団体や、彫刻、写真、建築、生物学、を融合させたアートを生み出すアクロイド&ハービー(ヘザー・アクロイドとダン・ハービー)といった芸術家は、国内におけるこのジャンルの先駆け的存在です。ハービーに関しては、07年にロンドンのナショナル・シアターの壁面を芝生で覆うインスタレーションを作ったことで覚えている方も多いでしょう。
 アーツアドミンが環境問題に目を向けるようになったのは、「Tipping Point」という気候変動問題に科学者と芸術家が手を組んで着手するネットワーク団体に参加するようになってからです。初めてこの組織のカンファレンスに参加したときのことは、今でも明確に覚えています。もちろんそれまでも書籍や新聞などで、環境問題の深刻さはたびたび耳にしていましたが、直接、科学者の口から事の甚大さを聞いたら、本当にどうしていいかわからないほど未来に絶望してしまいました。けどその反面、科学者たちはこの問題を解決すべく、本当に数々の驚くべきプロジェクトを立ち上げていた。だからこの会議に参加したとき、私は半分は絶望し、もう半分に完全に興奮して、会場をあとにしました。
 それからすぐにアーツアドミンは「Imagine 2020」という欧州で気候変動問題に取り組む芸術組織ネットワークの創設に携わりました(他の参加団体には、ベルギーのKaaitheater、ハンブルグのKampnagelなどがあげられる)。また2009年には、Two Degrees Festivalを創設しました。この2年ごとに開催されるフェスティバルは、環境問題のみならず、金融破綻など世界中の諸問題に光を取り組んでいます。これはトインビー・スタジオ近辺で数日間行う、本当に小規模なフェスティバルですが、数少ない「アートとアクティビズムのためのフェスティバル」として広く認知されています。私個人の認識としては、環境問題はあらゆる問題の上位にあると言えます。だってすべての出来事は、地球がなくなってしまったらすべて無意味ですからね。

──アーツアドミンの長年の努力のおかげで、英国のインディペンデントな芸術環境は確実によりサステイナブルで豊かなものになりました。これは企業ブランディングのために行われた活動でも、国家の短見的なアジェンダで行われたものでもなく、ある強い信念のある個人が「とにかくアーティストを助けたい」一心で続けてきた活動だったからこそ、成功したのだと思います。なぜ様々な困難にも関わらず、35年間、アーツアドミンを持続してこられたのだとあなた自身は思われますか。
 60年代から70年代にかけて、世界はとても楽観的な空気に包まれていました。またそのような時代に生きていたために、芸術界も含めたすべての世界は確実に良いほうに進んでいくはずだという希望的観測を持っていました。ただ今振り返ってみると、世界はあまり良いほうに進んでいるとは思えません。むしろ世界は、多くの人々にとってすごい速度で劣化している。それでも私は、本当にありきたりなことを言うようですが、芸術表現はこの世界に違いをもたらすことができると信じています。
 芸術は、教育現場を改善します。子どもたちの思考を押し広げます。個人の自尊心を育てます。ましてや国家の環境資源となり金を稼ぐことさえします。それにも関わらず、政府は芸術に充分な資金をまわそうとしない。国家予算の総額からしたら、芸術支援なんて大した金額ではないのに。しかも芸術がどれだけ個人に、社会に、国家に、深い影響を与えるかは既に立証されているのにです。だからご質問にお答えするなら、芸術のみが持つその底知れないパワーを心底信じていたからこそ、私はアーツアドミンを持続的に運営して来られたのだと思います。最近では世界があまりにも過酷になっているため、芸術の与えるポジティブな影響の遅さに焦燥感を覚えることもあります。それでも私は、これからも活動を続けていくと思います。芸術は個人の深い部分に変化をもたらすことができると信じて。私の心はちゃんと、それが真実であることを知っています。
 
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