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カール・レーゲンスブルガー
カール・レーゲンスブルガー
Karl Regensburger

(C) Nikolaus Samilache

インパルスタンツ(ウィーン国際ダンスフェスティバル)
ImPulsTanz - Vienna International Dance Festival

http://www.impulstanz.com/ インパルスタンツ
*ジョージ・タボリ
(George Tabori, 1914-2007)

オーストリア=ハンガリー帝国(現ハンガリー)出身の脚本家、劇作家、演出家。1936年にイギリスに亡命。第二次大戦後はアメリカに渡り、ハリウッドでヒッチコック映画などの脚本家として活躍。1960年代末からベルリンやウィーンに活動の場を移し、劇作家、演出家として活躍。1987年から90年までウィーンの劇場シャウシュピールハウス(SCHAUSPIEL HAUS)の支配人に。戯曲の代表作はヒットラーの著書をもとにナチス批判をした「わが闘争─笑劇」(1987年)。
Presenter Interview
2015.3.31
One of Europe’s leading dance festivals, ImPulsTanz 
ヨーロッパを代表するダンスフェス インパルスタンツ 
毎年夏にウィーンで開催されている「インパルスタンツ(ウィーン国際ダンスフェスティバル)」は、コンテンポラリーダンスの巨匠から新進振付家まで多くの作品が見られるだけでなく、一流のアーティストによる多数のワークショップが行われることで知られるヨーロッパ最大の国際ダンスフェスティバルだ。1984年、現ディレクターのカール・レーゲンスブルガーとブラジル出身のダンサー・振付家のイズマエル・イヴォが、それまでウィーンでは学ぶ場のなかったコンテンポラリーダンスのワークショップを集中的に実施する「ウィーン国際ダンス週間」をスタート。1987年からパフォーマンスプログラムが行われるようになり、翌88年にドイツ語の“脈打つ(ImPuls)”という意味を持つ現在のフェスティバル名に改称した。以来、ウィーンの公立劇場が夏休みになる7月〜8月の期間を活用して毎年開催され、ヴィム・ヴァンデケイビュス、マリー・シュイナール、ラ・ラ・ラ・ヒューマン・ステップス、ローザス、ジョセフ・ナジ、エミオ・グレコら、世界で活躍する振付家、カンパニーの新・旧作品を継続的に紹介するとともに、ワークショップを中心にした若手育成に尽力。96年にはすべての公演、ワークショップに無料参加できるほか、メントーの指導が受けられる「ダンスウェブ奨学プログラム」を創設。また、2001年からは若手振付家を紹介する「8:tension」もスタート。ウィーンダンス週間から数えて30年、ヨーロッパのコンポラリーダンス・シーンを支えてきたインパルスタンツについて、レーゲンスブルガー氏にインタビューした。
聞き手:山下秋子[ジャーナリスト]

──まずレーゲンスブルガーさんの背景から伺わせてください。私が知っている限り、レーゲンスブルガーさんはダンスのバックグラウンドはもっていらっしゃらないようですが、何が契機でこの仕事を始められるようになったのでしょう。
 大学では経営学を専攻しました。ダンスの教育を受けたわけではありませんが、就職したのがダンス関係の事務所だったので大学で学んだ経営をダンスの道で生かすことになりました。その後、ニューヨークで活躍していたブラジル人のダンサーで振付家のイズマエル・イヴォがヨーロッパで活動を始めて、縁あってイヴォのマネージャーを務めることになりました。これが本格的にダンスの仕事をはじめたきっかけです。

──レーゲンスブルガーさんとイヴォさんが「インパルスタンツ」の前身であるダンスのワークショップを集中的に開催する「ウィーン国際ダンス週間」をスタートしたのは1984年です。ピナ・バウシュがヴッパタール舞踊団の芸術監督に就任したのが1973年、ウィリアム・フォーサイスがフランクフルト・バレエ団の芸術監督に就任したのが1984年です。80年代の初めといえば、ドイツでピナに象徴されるタンツテアーターが市民権を得た時代だったと思います。この時代のウィーンのコンテンポラリーダンスの状況はいかがでしたか。
 1980年代、確かにドイツではピナがタンツテアーターを確立し、フォーサイスがバレエ界に新風を吹き込みました。この時代は、ダンスにおける新しい動きが始まった時期で、それはドイツに限ったことではなく、フランスでも国立振付センターの設置がはじまりました。
 当時、ドイツやフランスと同じように、ウィーンでもコンテンポラリーダンスへの関心が高まっていました。イヴォも私自身もウィーンで何か新しいことを始める機が熟したのではないかと考えました。そして手探りのような状況だったのですが、1984年に「ウィーン国際ダンス週間」を始めました。
 最初はウィーン体育大学のスペースを借り、私の友人であったダンサーや振付家など、世界から6名の著名な講師を招待して2週間のワークショップを開催しました。今から考えれば、本当に手作りという表現がぴったりでしたが、とても大きな関心を呼び、定員を越える参加者がありました。期間をもっと長くしてほしいという声があがり、結局3週間に延長することになったほどです。こうしたダンスやバレエの世界で新しい声が上り始めたことに対して、ウィーンの劇場はとてもオープンで、協力的でした。ウィーン国際ダンス週間が回を重ね、多くの参加者が集まってくるとことに注目してくれました。

──ウィーンには潜在的なニーズがあったということですね。
 はい。ウィーン国際ダンス週間にとって大きなブレークのきっかけとなったのは、当時の演劇界で最も脂が乗っていたジョージ・タボリ(*)との出会いでした。それまでにも単発的に彼と一緒に仕事をしたことはありましたが、タボリが1987年にウィーンの劇場、シャウシュピールハウスにやって来たことは私たちの活動に大きな転機となりました。彼が劇場を使わせてくれて、ワークショップだけではなく、公演プログラムができるようになったのです。こうして、1988年以降、ウィーン国際ダンス週間から、現在の「インパルスタンツ(ウィーン国際ダンスフェスティバル)」(以下IPT)と改称し、ワークショップに加えて、世界からいろいろなカンパニーの公演を招聘するようになりました。
 ワークショップだけを取ってみても、2週間という設定で始まったのが、3週間になり、現在では4週間になっています。夏だけでは足りないということになり、1997年までは、大学が休暇に入る冬の時期にも10日間のワークショップを開いていました。冬のワークショップにも100の講座があり、150人の講師が来ていましたが、1998年からは夏だけに集中するようになりました。

──IPTは7月から8月というウィーンの公立劇場が夏休みに入る時期に開催されています。この会期は最初から考えていたのですか。
 劇場のシーズンが終わる時期であれば、劇場専属のダンサーや振付家などを講師として呼べます。また、ダンサーもワークショップに参加しやすくなります。劇場が休暇に入っている時期だからこそ、公演のための会場として劇場が使用できますし、会期をこの時期に設定したのは良かったと思っています。今では、IPTの期間中だけでなく、シーズン中にもウィーン市内の劇場でIPTの公演をしたり、劇場側が私たちに公演の協力を依頼したりするようになりました。もちろん、我々に財政面でのリスクがないことが条件になりますが。

──IPTが大きな成果を上げ、ウィーンで認められたという証拠ですね。
 そうですね。1984年の開始当初からワークショップが大きな関心を集め、さらに1988年にはパフォーマンスプログラムが加わったことで、IPTはウィーンの夏に欠かせないものになったと言っていいのではないでしょうか。

──ワークショップの対象者は、ウィーン国際ダンス週間のスタートから現在に至る30年の間に変わりましたか。
 どういう人を対象にするかを意図的に変えたわけではありませんが、受講者の質が変化してきているのは事実です。始めたころは、ダンスを大学で学び始めたばかりの若い学生を中心に、地元の人たちが多く参加していました。しかし、96年からダンスウェブ(danceWEB)と呼ばれる奨学制度を始めてから、プロフェッショナルなダンサーが増えました。この制度は大変な人気で、60から70名の定員に対して、世界中から1500名余りの応募者があります。彼らはIPTが始まる前にウィーンに入り、IPT全般についてのオリエンテーションを受けてから、IPTが提供するすべてのワークショップ、パフォーマンスプログラム、さらにはリサーチプログラムなどに無料で参加できます。プログラムが終了した後には全体を振り返る時間をもち、全部で5週間をウィーンで過ごします。
 プロフェショナルを目指すダンサーに向けたワークショップを行う一方で、私たちはダンスに関心を持つ人たちを広げるために、子どもから高齢者までの幅広い年齢層を対象にした講座や、全くダンス経験のない人を対象にした講座も提供しています。こうした講座を行うのは、ダンスに対する垣根を取り除くことが大切だと考えているからです。例えば、去年の参加者の最高齢は84歳の女性です。彼女は全くダンス経験がなかったのですが、毎年ワークショップを受講するようになり、参加することをとても楽しみにしています。私たちは“揺りかごから墓場”までダンスを提供しているのです(笑)。

──1988年から観客向けのパフォーマンスプログラム(公演)を開始されましたが、不安はありませんでしたか。
 先ほども言いましたが、劇場側から私たちに公演を一緒にやらないかという幸運な誘いもくるようになっていました。でも、パフォーマンスプログラムをやろうと思い切れたのはトリシャ・ブラウンを招聘した公演が評判になったことが大きかった。それ以来、ダンスカンパニーの間に口コミでIPTのことが広まり始めました。ウィーンに来たカンパニーがとても居心地よく感じたということでしょう。例えばアンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルは、IPTで数多くの作品を公演していて、彼女にとってウィーンは定期的な公演地になっています。

──最近、彼女はオーストリア連邦文化功労賞を受賞しましたね。
 IPTが直接の受賞の理由ではないと思いますが、少なくとも彼女がウィーンで公演を始めるきっかけとなったことは確かです。

──IPTの内容を見ると、ワークショップ、パフォーマンスプログラムの他に、リサーチ、ソシアルという部門があります。
 リサーチ・プロジェクトは、プロフェッショナルなダンサーだけを対象にした3週間のセミナーとして1990年に始まりました。プロのダンサーにとって、3週間は長すぎるということがわかり、今では10日から14日間に会期を短縮しました。IPTの公演のために来ている振付家たちや、コンテンポラリーダンスの分野で注目すべきプロセスやテーマを持っている振付家たちから直接指導を受けるコーチング・プロジェクト(現在は名称を「フィールド・プロジェクト」に変更)や、インプロビゼーション、グループ作業などが、集中的に行われます。ソシアルというのは、いわばIPTのミーティングポイントで、ダンサーだけではなく一般の人たちも参加できるパーティのようなものです。初演のお祝いもここでやります。一般の人々がダンス関係のアーティストたちと出会い、自由に話し合える場所となっています。ダンスへの敷居を低くするためのもので、ウィーンの人たちにはとても人気があります。ウィーンの街中にIPTが根付く一助になっていて、IPTの成果の一つです。

──夏休みで閑散としているウィーンが、IPTによって活気づけられているということですね。
 100%その通りです! 事実、IPTによるウィーンの宿泊者は35000人に上ります。ワークショップの受講者、カンパニーのダンサー、舞台関係の技術者、観客などがウィーンに集まるのですから、合計すればこれだけの数になります。

──2014年は7月17日から8月17日までの1カ月に、市内15会場で約35作品が上演され、約20会場で計240のワークショップが行われました。こうしたプログラムを構成するにあたって、IPTでは毎年何かテーマを掲げて臨んでいるのでしょうか。
 私たちは、まさにそれを避けています。その年のテーマを決めてプログラムを構成するとなると、最低2〜3年の準備が必要になります。そうなると、フェスティバルの柔軟性と時事性が失われてしまい、最新のダンスシーンの動きに対応することができなくなります。決まったテーマに沿った作品の創作を委嘱するというのではなく、そのときに最も興味深い作品をIPTで見せるというのが私たちの考え方です。

──IPTのパフォーマンスプログラムのキュレーションはレーゲンスブルガーさんご自身がなさっていますか。
 最終的には私が決定しますが、IPTには20人を越えるスタッフと多くの協力者がいます。世界中にいる私たちの協力者から興味深い作品があると聞けば、私やスタッフが見に行きます。1年でほぼ200作品の公演を実際に生で見ていますし、600〜800本の作品を録画で見ています。
 ワークショップについては、イズマエル・イヴォがコンセプトを作り、スタッフと一緒に決めています。それから、パフォーマンスプログラムの内、若手振付家を紹介する「8:tension」(審査員によって選ばれた最優秀作品には1万ユーロの賞金が与えられる)には専門の担当スタッフがいます。協力者、スタッフ、私自身が見た作品の中から、最終的にプログラムを決定しています。

──パフォーマンスプログラムでは、すでに創作された作品をラインナップするのが基本ということですか。
 もちろんウィーンで初演されるものもあります。実際、多くのカンパニーがIPTを初演の場にしたいと考えています。ただ、初演となると劇場を最低でも5日前、できれば8日前から準備のために借り切ることになり、予算との兼ね合いが必要になってきます。
 IPTは1カ月間、世界のカンパニーの公演の場となりますが、時間的に余裕を持たせた日程を組んでいるので、ダンサーや振付家の交流が可能になっています。次のプロジェクトを考えている振付家にとっては、ワークショップを見学したり、講師と話し合ったり、そのプロジェクトのためのダンサーを選ぶこともできます。ダンサーにとっては、ITPに来ることが次の仕事を得るチャンスにもなっています。ダンサーはオーディションでのプレッシャーを感じなくても済みますし、振付家にとっては、何枚もの応募用紙に目を通さなくても、目の前でダンサーを見ることができる。両者にとって、IPTのワークショップは良い出会いの場になっているのです。

──IPTの運営体制について教えてください。ディレクターはレーゲンスブルガーさんとイヴォさんの2人制を敷かれていますが、その他、何名のスタッフがいらっしゃいますか。
 通常は18〜20名のスタッフがいますが、IPTの開催前後の夏には200名ほどになります。また、会場は年によって多少変わりますが14〜16カ所。主に劇場空間を使いますが、今まで演じられたことがない場所を私たちが見つけることもありますし、アーティストが自らプロジェクトを実現したい場所を探してくることもあります。その場合は、できるだけアーティストの希望に沿うよう、会場や役所との交渉を私たちが引き受けます。アーティストは、私たちが思いも寄らないことにも対応するのを知っていますから、常に何か新しいことが起きています。

──IPTの前身がワークショップを行う「ウィーン国際ダンス週間」だったことと関連があると思いますが、IPTは人材育成に力を入れているように感じます。30年間続けてきたワークショップから、ダンサー、振付家などアーティストが育ってきているのではないでしょうか。具体的な成果を教えてください。
 現在活躍している重要な若手振付家の70%はIPTの参加者だと言えます。アクラム・カーンをはじめ、旬の振付家たちの非常に多くがウィーンを活躍の出発点としています。特にダンスウェブを始めたことによって、若手育成がさらに進んだことは確かです。ただ、逆のケースもあって、他の参加者と比べて、自分の能力が足りないことに気づいてダンスを職業として選ぶことを止める人もいます。私たちにとって、若手の育成は本当に重要なことなので、「8:tension」で審査員が選んだ作品の制作支援や滞在を支援するためのシステムを拡充する努力をしています。

──近年、フォーサイスがフランクフルト市立劇場から離れざるを得なくなり、ローザスが本拠地としてきたベルギーの王立モネ劇場がダンス制作の打ち切りを発表するなど、劇場部門におけるコンテンポラリーダンスの立場がどんどん悪くなっています。カンパニーやダンサーはフリーでしか活躍できない状況になっています。
 確かにダンス、ダンサーの状況はとてもシビアです。かつて、ダンサーはカンパニーに属していましたが、今はプロジェクトごとにダンサーが決まります。固定したアンサンブルメンバーを抱えているカンパニーはもうほとんどありません。一つの作品がレパートリーになるようなことはもはやないでしょう。  現在のこのような状況に対して、かつてIPTで上演して大きな成功を収めた作品をもう一度見直す、つまりコンテンポラリーダンスにも歴史があることを示すために「インパルスタンツ・クラシック」というプログラムを始めました。例えばジェローム・ベルの昔の作品を、今の若いダンサーたちが踊ることによって、なぜ彼の作品が成功を収めたのか、なぜ彼が有名になったのかを理解できるようになります。さらに、ウィーンで再演されたことで、ウィーン以外の劇場、例えばロンドンのサドラーズウェルズでも公演されるようになりました。コンテンポラリーダンスの歴史上の作品をIPTが他の劇場と共同製作するという事態も生まれてきています。数年前にその作品を作った振付家が、再び若いダンサーたちと再演することで、振付家自身も自分の作品を新たに見直すことができるかもしれません。

──予算について差し支えない範囲で教えていただけますか。資料によると、全体予算が520万ユーロ、ウィーン市からの支援が210万ユーロ、国から50万ユーロ、EUから60万ユーロ、スポンサー支援70万ユーロ、チケット収入が130万ユーロになっていますが。
 今年は去年よりも少し予算の規模は少なくなるかもしれませんが、全体として50万ユーロ、チケット収入が140万前後になると思います。公的支援、スポンサー、チケット収入の割合は、去年とほぼ変わらないでしょう。

──今年のIPTの会期は7月17日から8月17日までです。どのようなプログラムになる予定ですか。
 プログラムの内容はいま詰めているところです。ワークショップは200ほどで、これはすでに決まっています。パフォーマンスプログラムについても、私がやりたいことは決まっているのですが、今まさに、そのための予算を確保できるかどうかの交渉中です。詳しいプログラムは4月下旬にオンラインで発表しますので楽しみにしていてください。

──今日はお忙しいところ、お時間を取っていただきどうもありがとうございました。
 日本からインタビューを受けることは大変光栄なことだと思っています。こちらこそどうもありがとうございました。
 
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