The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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タン・フクエン
タン・フクエン
Tang Fu Kuen
Presenter Interview
2015.4.27
Seeking new context for communicating 
the multicultural contemporary Asian experience 
多文化な現代アジアを新たな文脈で発信 
バンコクを拠点にアジア各国のフェスティバルでキュレーターとして活躍するタン・フクエン。シンガポール人としての生い立ちをもち、シアター・ワークスの俳優を振り出しに、ロンドン、ニューヨーク、ベルリンで批評家として活動。組織から独立したインディペンデント・キュレーターとして、現代アジアのパフォーマーを新たな文脈で発信する試みとは?
聞き手:岩城京子[ジャーナリスト]

──現在あなたは、インディペンデントなキュレーター兼ドラマトゥルクとしてバンコクを拠点に活躍しています。ただ、そもそもの出発点は、1985年にシンガポールで創設されたシアターワークスで俳優として活動しはじめたことだと聞いています。舞台芸術とどのように関わり始めたかについて教えて頂けますか。
 まずは私の経歴についてお話ししましょう。私はシンガポール国立大学(NUS)への入学準備段階の17歳のときから、同年齢の若者たちと共に、シンガポール建国史上初となる国立演劇学部第一期生として期待をかけられていました。シンガポールの未来の演劇界を担う人材として、エリート教育を授けられ、大学では、演劇にまつわるあらゆる基礎教養を教え込まれました。ギリシャ悲劇に始まる西洋演劇史、インド・日本・中国などのアジア演劇史、明時代の芸術などについて考察する美学、インドネシア民族学、ドラマトゥルグ、批評、さらには文化政策と著作権法についても学びました。正直、詰め込みすぎです(笑)。
 同時に私は英文学部にも在籍していました。ですから、チョーサーからポスト・コロニアリズムに至る英文学も網羅したわけです。またその文学教育の延長で、ヨーロッパの主だった映画作品、アジアのインディーズ映画作品なども熱心に観賞していました。
 とはいえ日々このように頭を酷使していると、おのずと身体を使って実践的に学びたいという欲望が湧いてきます。そこで大学在籍時からオン・ケンセンが率いていたシアターワークスで俳優として学び始めたわけです。当時はちょうどケンセンがニューヨークから帰国したばかりで、彼は米国で学んだ様々なポストモダニズム的な審美性を、彼独自の文化横断的な思考実験に照らしあわせ、シンガポールで試してみようと考えていました。特にケンセンは、国家の記憶、遺産、土着の様式、地域文化について興味を持ちはじめていました。そこで私を含む幾人かの若者たちが集められ、1996年にフライング・サーカス・プロジェクトが始まりました。

──現在ではフライング・サーカス・プロジェクトは、「個人に依拠する、アジア内外の創造的表現を開拓するプロジェクト」としてプラットフォームごと他国に輸出され、アジア各都市で展開されています。07年にはベトナムのホーチミン・シティで、09年にはカンボジアのプノンペンで開催されました。でも設立当初は、シンガポールの若い才能のみに開かれたドメスティックな企画だったわけですね。
 当時、ケンセンは「ある特定の素質を持った俳優」とのみ仕事をすることを望んでいました。若くて、機動力があって、知性のある人間が集められ、あらゆる表現を貪欲に探究しました。たとえば2週間ごとに、ある特定の芸能分野の権威たちを招き、彼らのもと短期集中的にその表現について学びました。そうして様々な表現を吸収したのちに、それらを再開発する試みに着手しました。つまりフライング・サーカス・プロジェクトでは、単に若者が目上の人間から教わるだけではなく、学んだ知を自分たちなりに咀嚼して、主体的に扱えるツールに作り変えることが求められた。そうした「再創造」の実験のひとつとして、岸田理生さんとの共同作業もありました。

──国際交流基金アジアセンターが制作を手掛けた『リア』(1999年)ですね。
 そうです。国際交流基金の方たちが初年度のフライング・サーカス・プロジェクトを視察しに来て、興味を持ってくださったんですね。それでケンセンの発案で、岸田さんの戯曲による『リア』が2年目に上演されることになりました。極めて多分野にわたるキャスティングに関しては、ケンセンと岸田さんとの密な対話により進められました。
 私はこのプロジェクトに、中核メンバーのひとりとして関わりました。他のメンバーには、後にシンガポール・アーツ・フェスティバルのジェネラル・マネージャーを務め、現在は香港西九龍文化地区(West Kowloon Cultural District)のアートディレクターを務めるロウ・キーホンなどがいました。ただ私は『リア』が終わった段階で、シンガポールを飛びだそうと決めていました。92年から99年まで、演劇のエリート教育を受け、様々な表現について集中的に学習したわけですが、その多くが机上の理論であることに気づいて懐疑的になっていました。鈴木忠志さんの作品をいちども見たことがない教師にスズキ・メソッドを学ぶのは、果たしてどうなんだ、と(笑)。そこで私は海外に飛び出して、頭ではなく身体を使って、理論ではなく実学を、ロンドンとニューヨークで学びはじめた。この時点ですでに私の興味は、頭だけでなく身体も用いて開発する表現に傾きはじめていました。

──なるほど、極端な詰めこみ型教育の反動で、身体性や実践性に興味が向かっていったのですね。ロンドンとニューヨークで、特に影響を受けた芸術表現があれば教えてください。
 ニューヨークでは、今まで活字上でしか知らなかった偉人たちの作品を目撃できたことは嬉しかった。ジャドソン・ダンス・シアターに関わった振付家たちから、メレディス・モンクなどの実験音楽家たちまで。
 そして、Viewpoints のメソッド(1970年代に振付家メアリー・オバーリーによって開発された動作とジェスチャーに関するテクニック。空間、物語、時間、感情、動作、形からダンス言語の分析を試みる)との出会いは衝撃だった。Viewpoints によって初めて私は、時間と空間、構成、運動感覚、などの抽象的要素を、ダイナミズムに満ちた、生きたものとして捉えられるようになりました。また作品を、流れ、可変性、フロー体験といった要素からアプローチできるようになりました。すべては「生命力」を舞台上に宿すためのプロセスだと理解するようになったんです。このフロー体験を舞台上に現前化させるという考えは、いまでも私の根幹にあります。

──その頃はすでにドラマトゥルクやキュレーターとして活動をはじめられていたのですか。
 いいえ、まだです。シンガポールを飛び出した直後の99年から04年頃までは、私は主に批評家として活動していました。グザヴィエ・ル・ロワの『Self-Unfinished』(1998年)と出会ったことにより、実践性と批評性を融合することは可能だと知ったのです。それで当時は、批評家としての視点からあらゆる情報を収集し、観客と対話するために有用な何らかの糸口を見つけようとしていました。その流れの延長線で自然と、ドラマトゥルクやキュレーターとしての仕事にも興味を持つようになっていきました。
 というのも、ロンドン、ニューヨーク、 ベルリンで多くの作品を見るにつけ、欧米で紹介されるアジア人作家が極めて限定的であることに気づかされた。山海塾、台湾のコンテンポラリーダンス・カンパニーの雲門舞踊団(クラウド・ゲイト舞踊団)、ときにダムタイプ。あきらかに偏った選択がなされていて、アジアの多くの芸術表現がごっそりと抜け落ちていた。その「欠落」はなぜ生まれるのか。またその欠落を埋めるために自分には何ができるのか。これら質問に応えることこそ、ベルリンの異邦人である自分の役目だと考えるようになっていきました。それで実践と理論を融合するドラマトゥルクとしての活動と、発表の場を生み出すキュレーションとしての活動を始めました。
 同時に、大学時代の教育やシアターワークスでの活動で文化遺産の重要性に関して自分なりに考えていました。消えゆく文化に対して何かしなければというシンパシーが、自分なりにあったわけです。最終的にはパリに拠点を持つユネスコ無形文化遺産の活動にも携わることになりました。
 こうした多岐にわたる活動分野のために、私はよく他人に誤解されます。私をある特定の「カテゴリー」に組み入れることができないため、まわりの人たちは私のミッションがなんであるかを容易に理解できないのです。もちろん、私がもし文化的な純粋主義者になるならば、文化遺産の保護のみに力を注ぐでしょう。あるいは革新にしか興味がないならば、歴史文化を無視するでしょう。でも私はそのどちらにもなりたくないのです。コンサベーション(保護)からイノベーション(革新)まで、極めて広範囲の芸術表現に関わりたい。かつて意味があったことは、現在でも意義があり、未来でも通用するはず、というのが私の信念です。そのために過去と未来の両極にある芸術表現に携わり続けていきたいのです。このように両極のあいだで引き裂かれる傾向は、まちがいなく私のシンガポール人としての生い立ちと関係しています。旧世界と新世界のあいだを行き来しながら培ってきたアイデンティティが、私を両極に向かわせるのです。

──あなたはシンガポールがマレーシア連邦から分離独立した1965年の7年後、1972年の生まれです。初代首相リー・クアンユー(李光燿 ※このインタビューは2015年2月16日に行われたが、その後、3月23日にリー・クアンユー氏は91歳で死去した)は、シンガポール独立後、30年以上にわたり首相を務め、多民族主義、平等主義を広めると同時に、ある種の優性思想とも取れる徹底した能力主義を促しました。こうした旧世界から新世界へ劇的に変化するシンガポールで育った経験は、混乱や混沌と切り離せないものだったのではないでしょうか。
 混乱期は、独立前にありました。50年代から60年代にかけてのシンガポールは、マレーシア連邦との関係、シンガポール人種暴動(1964年)などがありました。私の祖父母や両親たちは、日本による占領などの酷い歴史をくぐり抜けてきた。ですから昔の人たちは、過去の混乱について語りたがりませんでした。過去に蓋をして、未来に向かって邁進したいと考えていたんです。私はこのような経験をせずに成長できた、幸運な世代だったといえます。
 しかも私は古い世界の名残りも垣間見ることができた。私よりも年下の世代になると、衛生管理された公営住宅で育っているので、まったく旧世界の混乱に触れずにきています。でも私は12歳まで古い街並みのチャイナタウンで暮らしていたので、旧世界と新世界の双方の良さを享受しながら育つことができた。つまり私は80年代の資本主義政策のため、多くの古い世界の美徳が失われたことを知っています。同時に、新世界の価値観による素晴らしい教育制度により自分の世界が拓かれたことも知っています。このような二つの時代に挟まれて育った出自に影響されて、私はキュレーターとして、古い世界と新しい世界の双方に惹かれるのでしょう。

──つまりあなたは、シンガポール独立以後の美質も理解しながら、その反面、国家に強いられる「アイデンティティ」に居心地の悪さを感じたため、母国のどの組織にも属さず、インディペンデントなキュレーターとして国際的に活動をはじめたわけですね。
 ええ、その通りです。特に1991年にナショナル・アーツ・カウンシルが設立されてからは、シンガポールの芸術作品は国家ブランディングに貢献することが暗に求められました。自由であるはずの創作活動が、政治言説の一部に組み込まれたのです。私はこれが嫌でした。芸術とは個人の声から生まれるべきものです。個人の批評性から生まれるべきものです。ですが、MDA(Media Development Authority)によって、未だに芸術表現は絶えざる検閲を受けています。「権威」や「社会」に対して批評性を投じることが芸術の役目だとしたら、シンガポールの芸術はほぼ麻痺していると思います。

──シアターワークスのアソシエート・ディレクターでもあったチョン・ツィーチエン(张子健)が執筆した「Charged」(2010年)は、多民族国家を「調和的に」受け入れているように見えるシンガポールの民族間の隠れた紛争を浮彫りにする作品でした。そのため、「粗野な言語と熟慮を要する内容」であるとして、MDAから「R18」指定を受けました。いまシンガポールでもっとも抑圧されている声は、民族差別にまつわる声なのでしょうか。
 最大のタブーは、「パターナリズム(家父長制)」です。家父長、つまり、リー・クアンユーを批評する言葉です。独立後の50年にわたってクアンユーのリーダーシップを疑問視するような声が上がる度に、そうした人々はシンガポールから追放されていきました。「父の死」を多くの人は怖れ、怖れから彼の死を排除して生きてきました。父の死後、子どもたちはどうなるのか。争い合うのか、泣き続けるのか、お互いを支配する方法論を探しはじめるのか。典型的な昼メロのようなゴタゴタが待ち受けていると、私は考えています。

──あなたのキュレーターとしての出世作は、ジェローム・ベルとピチェ・クランチェンによる『ピチェ・クランチェンと私』(2005年)です。この作品は、あなたの名前で委託され、あなたが当時関わっていたバンコク・フリンジ・フェスティバルで初演されました。まず欧州からなぜバンコクに移り住むことにしたのか。そしてなぜ、キュレーターとして二人を組み合わせることにしたのかについて教えてください。
 先ほども申し上げたように、ある特定のアジア人作家しか欧米では紹介されていない。それはなぜか。他の表現はまだ未熟なのか、単に発掘されていないのか、あるいは意図的に抑圧されているのか。その理由を知るために私はアジアに戻ることにしました。最初はもちろんシンガポールに帰りました。でもそこで私は自分のドラマトゥルクとしての役目を見つけることができなかった。それで6カ月後にバンコクに移住することにしました。
 バンコクはシンガポールにそれなりに近いですし、ヨーロッパの方にも2時間近い(笑)。さらにインドシナ半島のあらゆる国へのアクセスが良い。それでバンコクこそ自分が住むべき自然な場所だと思ったわけです。それと、私はバンコクでフルタイムの仕事も請け負うことになっていて、東南アジア教育大臣機構(SEAMO:Southeast Asian Ministers of Education Organization)の研究開発部門で考古学と美術にまつわるリサーチ職に就きました。UNESCOで行っていた無形文化財に関する研究を進めることにしたのです。この仕事もそれなりに楽しかったのですが、机にかじりついている仕事に専念するのは自分の性に合わなかったため、同時にバンコク・フリンジ・フェスティバルにも関わることにしました。
 その頃、シンガポールにジェローム・ベルが来るという噂を聞きました。私はベルリンですでに彼とは知り合いだったので、ぜひバンコクに立ち寄って、何かやってくれないかと話を持ちかけました。何をやるかに関しては彼に全権委任しました。ただ私は当時ヨーロッパで流行っていた「ノン・ダンス」あるいは「コンセプチュアル・ダンス」が、アジアであまり紹介されていないことを残念に思っていたので、そうした作品をアジアの観客と分かち合いたいという思いはありました。それで、ピチェとのジェロームが「ただ舞台上で、素直に、話す」という作品が出来上がったのです。予算の都合上、極めて簡素な作品になりましたが、結果的に良い作品になったと思います。

──でもなぜ、ジェローム・ベルとピチェ・クランチェンの二人でなければならなかったのでしょう。ひとりは極めてコンセプチュアルな振付家で、もうひとりは身体を扱う伝統に深く根ざした振付家であったからでしょうか。この組み合わせにはどのような芸術的必然性があったのでしょうか。
 ジェロームは単にコンテンポラリーなだけではなく、きちんとした古典バレエの教養もある。アンジェ国立振付センターで、優秀なダンサーとして訓練を受けました。つまりジェロームは古典の重みを熟知しているからこそ、その反動として古典の世界から批評的に決別していったのです。古典こそすべてという本質主義に対する懐疑が、彼の出発点にはあるのです。ピチェも古典仮面舞踊劇コーンの担い手として、やはり古典舞踊の教育を受けてきました。しかし彼も何らかの形で、古典をただ単に保護するという行為に疑問を抱くようになっていた。ですからジェロームとピチェは、一見、対極にいる人間のように見えるのですが、実は根ではつながっている。そしてこの「本質主義に対する懐疑心」を共有していたからこそ、この作品はうまく成立したのだと思います。

──私の知る限りの現代のアジアのコンテンポラリー・ダンスは、必ずしも、アジアの伝統舞踊の基礎言語を知ったうえで成り立っているわけではなく、どちらかといえば西洋舞踊の基礎教養のうえに成立しているものが多いように思います。あなたはこのような融合主義から決別して、現代アジアの身体に則ったダンスを発掘したいと考えているのでしょうか。それとも、どんな主義にもオープンでいる考えなのでしょうか。
 私は何に対してもオープンです。あとひとつ注意しておいて頂きたいのは、おそらくあなたが今言った融合主義に関して、多くのダンス批評家は即座に反撃してくると思いますよ。西側のダンスの多くはアジアからなんらかの影響を受けています。ですから西と東の融合という言葉は、容易に使用してはいけません。また言うまでもなく、アジアの植民地諸国の文化は、その歴史的事情により西からの影響を無視して育つことはできませんでした。このような系譜学を熱心に研究されている方々は大勢います。非常に大きな問題だと言えます。
 私の目指すべきは、もはや土着主義に回帰することはできないと自覚した上で前に進むこと。なぜなら私たちは、古さ/新しさ、過去/現在、東/西、といった二項対立がすべて混在した世界に生きているからです。そして、そのなかで何らかの「系譜」を手繰るとするなら、それは芸術家個人の選択ひとつにかかっていると言えます。無数に重なる文化的地層から、何を選び、何を省くのか。その選択行為を、本能と理論の双方から賢く行える芸術家こそが、私の考える優秀な作家です。複数の文化、アイデンティティ、歴史から自分の歩むべき道を選べる人間こそ強靱な作家だといえます。
 別の言い方をするなら、こうした優れたアーティストたちは、皆なんらかの「支柱」を持っています。これを失うと自分は生きていけないという、自分の根幹を支える柱の存在を自覚しているのです。この柱があるからこそ、彼らは舞台上から強い主張を行えます。もし現代アジアを生きるうえで、このような支えが何もなかったら、多文化主義の地層に埋もれ、目的もなくさまよって終わってしまうでしょう。

──インドネシア・ダンス・フェスティバル、バンコク・フリンジ・フェスティバル、コロンボ・ダンス・プラットフォーム、また先日のTPAMなど、アジア各国の様々な組織でキュレーターとして活動してきた結果、アジアから発信する強靱な文化は「個人に依拠する」という結論に至ったわけですね。
 なんらかの組織に属していたら、その組織が政治的に位置する文脈に絡めとられ、個人として表現することができなくなってしまいます。たとえばいまアジア諸国には、ゲーテ・インスティテュートや、アンスティチュ・フランセにより助成されている舞台芸術組織が多くあります。彼らには、自分たち西側諸国の文化をアジアに流布するというミッションがあるのです。日本の国際交流基金も、こうした組織の一つだと言えるでしょうね。私は、こうした組織のミッションから常に自由でいたいと思っています。ただ私は別に、これらの組織を敵視しているわけではありません。実際それらの組織と、より良い作品を作るため協力する必要もありますから。

──なぜゲーテ・インスティテュートが運営するスリランカのコロンボ・ダンス・プラットフォーム(2010年)に初年度のキュレーターとして携わられたのでしょうか。
 コロンボ・ダンス・プラットフォームに関しては、オファーが来たときは少し戸惑いました。なぜスリランカに行ったこともないシンガポール人に、ドイツ人は白羽の矢を立てたのか。ドイツ人にできなくて、私にできることが何かあるのか。そのような思考のすえ、もしかすると私なら、スリランカのアーティストたちが外部に向けて発話するための「媒介」として機能することができるのでは、と考えました。
 私の役目はスリランカ舞踊界の俯瞰図を作ること、つまりマッピングをすることです。単純な考えですが、初年度のダンス・プラットフォームでは、何か特定のジャンルに特化する前に、まずこのようなマッピングをすることは必然のように思えました。そのためにできるかぎり多くのスリランカのアーティストたち、それこそ有名なカンパニーから無名の個人まで、ダンスだけでなく、あらゆる身体表現に携わるアーティストたちに会いました。そして公の場で発表するレベルにあると判断したアーティストたちを選出していきました。ちなみにプラットフォームは2年目にはケンセンがキュレーションを行い、もっとテーマに特化した議論が展開されました。3年目のアナ・ワグナー(現ムーゾントゥルム芸術家センターダンスキュレーター)は、また異なるアプローチを採用しました。

──いまのお話しから推察するに、あなたがキュレーターとして選出する基準軸は、表現があるレベルに達しているかどうか、という審美性にあるわけですね。
 違います。私の基準は、その作品を「文脈化できるか」ということにあります。私はキュレーターとして雇われた際、まず自分自身に様々な質問を投げかけることから始めます。この国の喫緊のアジェンダは何か? その作品を「発表する」ことにどのような意味があるか? 主催者たちは何を求めているのか? その国の舞台芸術界ではどのようなパワーゲームが行われてきたのか? これらすべてを徹底的に調べ、その上で人材を選出していきます。ですから、コロンボ・ダンス・プラットフォームについて語るなら、私はアーティスティックな意味ではまだ未熟な人材も、その作家にとって発表の場が有用であると考えた際には選出しました。そのことで彼らが次の段階へとステップアップし、プラットフォームが国内のシーンの活性化を後押しできればと考えたのです。
 私は常にキュレーターとして「関係性」に着目しています。あるものと別のあるものとの間に、どのような関係性の線を引くことができるのか。そうして念入りに文脈化したうえで、様々な信頼できるアーティストたちを選び、共に仕事をしてきたわけです。もちろん実際の作品群からどのような読解を導き出すかは観客の自由です。ただアジアの文化を紹介する際には、誤解を招くことが極めて多いため、なるべく誤読がないよう慎重に文脈化することが求められます。それが私のようなアジアのキュレーターの役目なのです。

──2015年2月に開催されたTPAMでは、エコ・スプリヤント (インドネシア)、ムラティ・スルヨダルモ(インドネシア / ドイツ)、アイサ・ホクソン(フィリピン)という3人のパフォーマンス・アーティストたちを紹介しました。彼らを選んだ理由を教えてください。
 3人の作り手はみな「身体のパワー」について基本的な信念があります。いわゆるインド文化で言われるところの「ラサ(Rasa)」、ときに身体の感情と呼ばれるものによって、どのように観客との対話を生み出すことができるかという問いに極めて自覚的です。特にアイサとムラティに関しては、自分たちの身体でしか発話できない言語を培う、というミッションを強烈に持っています。
 アイサの場合は、フィリピンのナイトクラブで若い男性が女性客に見せる「マッチョダンス」を自分の身体を介して解体することにより、男らしさ、女らしさ、といったジェンダーに関する問いを観客に投げかけます。ムラティの場合は、様々な西洋の身体言語を熱心に学習してきた結果、自分の身体的アイデンティティが「借りもの」になってしまったことを端的に示しました。

──あなた自身、いまこうして旅をしながら多層的な現実を生きているように、ですね。
 今後、現代アジア人のアイデンティティは、垂直に蓄積されていくのではなく、水平に敷衍されていくでしょう。そして常に可変されていくでしょう。ですから私の生き方が現代を表現している……、というか、私という人間そのものが「現代的な主題」だといえます。これが今のところの結論です(笑)。そして私自身も、つねにワーク・イン・プログレスだと付け加えておきます。
 
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