The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
Contents
シンティア・エドゥル
シンティア・エドゥル
Cynthia Edul


パノラマ・スール
Panorama Sur

http://panorama-sur.com.ar/ パノラマ・スール
Presenter Interview
2015.8.14
A breakthrough in exchange between playwrights  Connecting contemporary theater in South America 
多劇作家の交流を突破口に 南米の同時代演劇を繋ぐ 
独立系小劇場を中心とした30代の演劇人を繋ぎ、国境を越えたプラットフォームとして2010年に発足したアルゼンチンのNPO法人「Panorama Sur」(直訳すると「南の展望」という意味)。その共同設立者であり、ディレクターである劇作家・演出家のシンティア・エドゥルが、日本の若手演出家たちと交流を図るため公益財団法人セゾン文化財団2015年度の「レジデンス・イン・森下スタジオ、ヴィジティング・フェロー」として招聘された。1979年生まれで、今後のラテンアメリカの舞台芸術環境の担い手として注目されるエドゥル氏に、Panorama Surの活動などについてインタビューした。
聞き手:比嘉セツ

役者から文学、そして劇作家へ

──劇作家、演出家としての出発点から聞かせてください。

 最初は役者として演劇に関わりました。13歳ごろから舞台俳優のワークショップに出ていて、4年から5年はプロの役者として舞台に立っていました。でも、役者になる前から文学に興味があったので、ブエノスアイレス大学の文学部に入学しました。アルゼンチンの文学部は、学部の中でも一番厳しく、一貫して修士まで終える形で7年間あります。ですから文学に専念すべく、プロの俳優活動は休止しましたが、夜は、リカルド・バルティスのスタジオに通って俳優のトレーニングは続けました。
 バルティスは「俳優が自らの物語をつくる」ことを奨励していました。役を「演じる」のではなく、舞台での即興を通じて自らセリフを生み出すこと。そこで私にとって2つの道だった、文学と演劇が結びつきました。この偶然から戯曲を学ぼうと思ったのです。そのための最高の場所が、アルゼンチンの代表的な劇作家が直接指導するブエノスアイレス市舞台芸術学院の戯曲コースでした。約100人の応募者の中から選ばれた12人が2年間、授業料無料で戯曲を学べるのです。週に2、3回、5〜6時間の授業があり、それ以外の時間は各人が自分の戯曲を書きます。このコースは劇作家の登竜門として認められていて、文学部を卒業して24歳で入りました。

──初めて書いた戯曲は何ですか。
 『マイアミ(Miami)』というタイトルで、2006年アルゼンチン国民文化賞の最優秀初作品賞を受賞しました。賞金として製作費が出たので、戯曲コースの講師の一人であり、卓越した演出家のポンペヨ・アウディベルト氏に相談にいったら、戯曲を気に入って自ら演出を引き受けてくださり、2008年に上演されました。

──2作目が『Familia Bonsai(盆栽家族)』ですか。
 そうですが、この作品は若手劇作家が若者を主人公に描くというあるカンパニーの企画で依頼されて書いたものです。アルゼンチンでは、青少年のためのものといえばディズニーぐらいだったので、演劇に興味を持ってもらうために青少年が等身大で観ることができる作品が必要でした。テレビに出ている俳優を観るためではなく、同世代の物語を観て感じる、考える作品。これまでそのような作品がなかったので、賛同しました。自分にとってもより自由に書ける機会になりました。出演したのは、13歳から18歳の実験演劇に興味があり、テレビで消費されずに舞台に立つという尊厳をもった若者たちです。同じカンパニーにはもう一作『La Excursión (遠足)』を書き下ろしました。

──初の演出作品は?
 2012年に上演した『A dónde van los corazones rotos(壊れた心はどこへ行く)』です。これは、リカルド・ロハス文化センターで毎年開催されている、オルタナティブな戯曲を書く劇作家が自作を初演出するプログラム「Opera Prima」で実現したものです。それまで戯曲は4作品発表していましたが、一度も演出をしたことがなかったので、最新作を演出することにしました。『Miami』の出演者と友人でありアルゼンチンでは有名な舞台俳優2人に参加してもらいました。


創作の原点と同時代性

──エドゥルさんが戯曲や小説を創作する上で原点となっているものは何ですか。

 私は1979年生まれで、まだアルゼンチンは軍事政権下にありました。父はアパレルの工場を経営していて、業界では一代で財をなした実業家として有名でした。裕福な家庭で育ったので、外国に行くことも多く、80年代の新しい音楽や文化を思い切り吸収し、任天堂のゲーム機まで持っていました。それが、ある日突然、崩壊しました。競馬馬を持っていた父がギャンブルにのめり込み、工場を失ったのです。父が亡くなってはじめて大きな負債があることも分かりました。私が19歳、兄たちは20代前半でした。
 90年代、アルゼンチンでは新自由主義が実践され、石油をはじめ、通信、鉄道からインフラまですべてを民営化し、経済的には消費が美徳とされ、政治的には浮き足だった時代でした。私たちも、マイアミの高級ホテルに泊まりながら、実は、父はギャンブルで資産を失っているという「何かがおかしい」状況でした。
 その経験を踏まえて書いたのがデビュー作『Miami』です。マイアミの豪華なホテルに泊まり、何の心配もなく買い物をして消費する家族の裏で、父親がホテルのカジノで全財産を失い、一夜でどん底に落ちる話です。もちろん、個人的な経験もありますが、これは、当時のアルゼンチンの状況のメタファーにもなっています。物質主義で消費しながら、実は、国自体が傾き、2001年には財政破綻したのですから。今のギリシャと良く似ていますが、アルゼンチンのほうがひどかったと思います。貧困率50%で銀行も閉鎖され、人々は鍋をたたいてデモを行いました。同じ時期に、私は父を亡くし、負債を返すために洋服を売ろうとしたのですが誰も買ってくれなかった。現金がないから消費もできないんです。
 そこから抜け出し、父の負債を何とか返せるようになるまで10年かかりました。その経験から、初めての小説『Sucesión(相続)』(2012年刊行)が生まれました。どちらも、家族の小さな物語から国の状況を描いています。新自由主義の優等生アルゼンチンは第一世界に仲間入りしたと言われ、外資が集まり、栄華に酔っていたのに、突然、外資が引きあげ、お金が、すべてが消えた。そうしたトラウマ的な国の政治状況を家族の会話で綴る、いわゆるメトミニー(換喩)と言われる手法です。個人的な会話が、実は普遍的な状況を語っているのが『Miami』と『Suceción』で、それが私の創作の原点です。


アルゼンチン演劇の変遷

──80年代から90年代の時代背景の中で、アルゼンチンの演劇はどう変わってきたのでしょう。

 軍事政権時代は、文化的なものはすべて検閲され、何も生まれなかったといっても過言ではありません。その時、演劇人はどうしていたのかというと、公共の場所での集会は禁じられていたので、アパートの一室や地下室に集まっていました。劇作家や俳優たちが集まり、当局の目につかないように秘かに上演していました。
 でも、1981年、軍事政権が終わる前に、「Teatro Abierto(オープン・シアター)」と呼ばれる大きなムーブメントがありました。ブエノスアイレスのあらゆる劇作家と俳優が協力し、ピカデーロ劇場をはじめとして、軍事政権に反対する政治的な作品の上演を始めたのです。もちろん、逮捕者は出るし、政府は劇場に火をつけましたが、それでも演劇人たちは屈しませんでした。1983年の民政移管後、抑圧されたエネルギーが爆発し、多くのムーブメントが起こりました。
 まさに地下室を意味する「El Sótano」という劇場やエイゼンシュテイン・カフェなどで様々な場所で最先端の前衛パフォーマンスやヴィジュアル・アートが繰り広げられました。リカルド・バルティスをはじめとする演出家、劇作家、俳優たちはスタジオを作り、新たな俳優の育成もはじめました。隠されていた光が一気に輝き始めた。文化的、政治的ムーブメントが様々に起こったのが民政移管後の80年代でした。
 90年代には、その動きが確かなものとなり、いわゆる「オフ(off)」と呼ばれるスタジオを基盤にした独立系小劇場がたくさん生まれました。そこは、反政府や政治的抵抗の重要な空間で、若者たちが集まりました。ちょうど私が演劇を学び始めた頃で、あらゆるスタジオを巡りました。10代の女の子が様々なアンダーグラウンド空間を経験できる時代だったのです。兄がバルティスのスタジオに通っていた縁でそこの公開稽古に出て、私の人生は変わりました。もう後戻りはできない、と思いました。
 ベロネーセの劇団「El Periférico de Objetos」による桁外れの『ハムレット・マシーン』(ハイナー・ミュラー)を観たのは15歳の時でした。あらゆるシーンに驚き、ワクワクし、これだけ表現があるのだ、ということを体感した時代でした。

──そういう経験をした人々が今の観客層を形成しているのでしょうか。以前、アルゼンチンの演劇状況についてアルベルト・リガルッピ氏にインタビューした時、1日3回公演、午前0時から上演する会でも満席、156もの小劇場があるというブエノスアイレスの劇場事情を聞いて驚きました。
 それはブエノスアイレス特有の状況です。週に1、2度の上演で、4年間、同じ俳優でロングランしている作品もあります。それを支えている観客は、90 年代に、演劇だけではなく多様な文化の息吹を劇場で体感した人たちです。加えて、観客形成に関していえば、80年代の「オープン・シアター」運動も一役かっています。つまり、舞台芸術を単なる娯楽としてではなく、考えるきっかけとする観客が育ったのです。
 ちなみにこのオープン・シアターは、私たち30代の演劇人の原点でもあります。当時、中心となっていた劇作家、演出家たちが、文字通り私たちの先生なのです。彼らがスタジオを作って俳優や作家を育てながら、発表の場である劇場を運営してくれたからこそ、演劇人が育ったのです。先駆けを作った先生たちは、今でもみんな大学で教えたり、ヨーロッパ公演をしたり、別のことで予算を確保しながら劇場を運営しているのが現状です。
 また、アルゼンチン、特にブエノスアイレスでは、美術館などの入場料が安く、誰もが文化的なことに参加できますし、公的教育がしっかりしていることも観客が育つ要因のひとつになっていると思います。移民で形成されているアルゼンチンにとって、建国の時代から、公教育は移民を社会に統合するために重要な政策のひとつでした。親が貧しくとも、公立学校があることで、その子どもたちが文化的に成熟した中流層になることができるからです。


Panorama Surについて

──設立の経緯を聞かせてください。

 2つのきっかけがありました。ひとつは、常日頃思っていたこと、つまり、ブエノスアイレスの文化的な潜在力です。これほど劇場の数が多くて活気があるのは、ラテンアメリカではここだけです。でも、文化政策というものがなく、政府はいつも違う方向をみています。海外のロックグループは大金をかけて招聘するのに、国内で創作する真のアーティストには援助がほとんどありません。舞台芸術の街としてのブエノスアイレスが秘める力に、なぜ、誰も気づかないのだろう?という疑問がありました。
 もうひとつは、アーティストが集まる場所がない、ということです。60年代は、ブエノスアイレスのカフェにボルヘスを初めとする作家や芸術家たちが、いつも集っていました。そこで互いに議論を交わし、批評しあうという理想的な場がありましたが、今ではそれぞれのアーティストが孤立しています。今のようにバラバラのままでは、弱体化すると思いました。人と人が繋がることでダイナミズムが生まれるのに、作家やアーティストたちが交流しなければ新たな展開はありません。なにより自分自身が、人と会って一緒に考えたり議論したりする場が欲しかった。批評的な反応が欲しかったのです。だから、「なければ自分でつくっちゃえ。自分にとって理想的な場をつくろう」と思いました。

──そのアイデアからどのように具体化していったのですか。
 いろいろ考える中で、ふと、アレハンドロ・タンタニアンに相談してみようと思い立ちました。その日、友人から「友達と芝居に行くけど来ない?」という誘いがあり、行ってみると偶然タンタニアンがいたのです。芝居の後、私は彼に「あなたが興味をもつようなプロジェクトがあるんだけど」と持ちかけました。それから相談がはじまり、活動の骨子を組み立てていきました。
 全体の設計に、かなり時間がかかりましたが、まず、ラテンアメリカの劇作家同士が互いに作品を批評し、議論できる場、コミュニケーションの場をつくることが重要だと分かりました。それでラテンアメリカの劇作家のレジデンスをブエノスアイレスで行うことにしました。ヨーロッパ諸国ではごく当たり前のことかもしれませんが、スペイン語圏でレジデンスという取り組みは行われたことがありませんでした。
 Panorama Surを設立した2000年代は、ラテンアメリカに変化が訪れた時代でした。まず、ブラジルで、労働者党のルラ大統領が誕生し、そこから伝染するかのようにウルグアイのムヒカ大統領、ベネズエラのチャベス大統領、ボリビアのモラレス大統領、チリのバチェレ大統領、アルゼンチンのキルチネル大統領と、これまでとは全く違う視点をもった政治的指導者が次々に現れました。
 こうした時代だから、新たな可能性を秘めたラテンアメリカを包含するような、その地域性を大切にした活動ができるのではないかと思いました。

──会場や資金の確保は、どうしたのですか。
 最初に企画を持っていったのは、ブエノスアイレスにあるラテンアメリカ・アート美術館でした。彼らは最初のスポンサーになってくれただけでなく、場所も提供してくれました。ドイツのシーメンス財団も彼らの上限である3年間の活動支援をしてくれましたし、イベロアメリカの舞台芸術支援組織(Iberescena)やアンスティチュ・フランセ、ゲーテ・インスティテュートなどがスポンサーに名乗りを上げてくれました。会場は、ラテンアメリカ・アート美術館をはじめ、各小劇場や国立サン・マルティン劇場など様々な協力を得ています。

──Panorama Surの開催概要を教えてください。
 毎年7月、3週間にわたってブエノスアイレスの各所で実施しています。中心となるのが「劇作家のための集中講座」で、毎年20人のレジデントが、Clinica de Obra(戯曲クリニック)とDesmontaje(作品分析)の2つの部門に参加しながら、戯曲を完成させます。集中講座は非公開でレジデントだけで行われますが、その他に一般の人々も参加できる無料公開講座、ワークショップや海外作品の上演があります。

──「戯曲クリニック」と「作品分析」では具体的に何をするのですか。
 「戯曲クリニック」では、タンタニアンが中心となり、まず戯曲の理論について講義を行います。次に実践としてレジデントが戯曲を書き、全員でフィードバックを行います。レジデントが20人もいるので、1日7作品ずつ読んでフィードバックを受け、書き直すことを繰り返しながら、3週間で1本仕上げます。劇作家同士が創作過程を分かち合うとてもユニークな場です。
「作品分析」では、まず、レジデントが上演する予定の戯曲を読み、分析を行います。その後、実際に上演を観て、その舞台の劇作家、演出家、俳優たちを囲んで、4時間に渡る長いインタビュー(質疑応答)を行います。戯曲と実際の舞台との相互関係を解析していくワークショップです。つまり、ドラマツルギーと実際に舞台で発せられる台詞の関係を探っていくのです。

──分析される作品は、アルゼンチンのものですか。
そうです。そうすることによって、アルゼンチンの演出家や俳優たちは国外のアーティストと交流できるし、違う文化からのフィードバックを受けることができますから。

──レジデント20人は、誰が、どのように選考しているのですか。
情報が伝わるまで時間がかかるので開催前年の10月頃に募集を開始し、開催年の2月頃に集中的に呼びかけて4月30日に締め切ります。応募資格は、戯曲がこれまでに上演されたか、または出版された実績があること。学生ではなく、劇作家としてのキャリアを歩み始めたか、キャリアの途上にいる人々で、厳密な年齢制限はありませんが、だいたい40歳ぐらいまでが対象です。一番大切なことは、すばらしい戯曲を生み出し、活動的でやる気のある劇作家であるということで、その人が参加することによって活発な議論が期待できるのなら年齢に関しては柔軟に対応しています。
 選考は私とタンタニアンが行い、提出されたすべての戯曲を読みます。毎年100通前後の応募があるので読むだけでも大変ですが、履歴や活動内容も参照して、より躍動的なグループになるような人選を心がけています。もちろん一番大切なのは作品の質ですが、グループがうまく機能したときのエネルギーは計り知れません。

──20人全員を招待するのですか。
 いえ、私たちは「劇作家のための集中講座」の招待状を出し、参加者が自分の国の演劇協会や公的機関などに旅費や滞在費の助成金を申請してもらっています。Panorama Surの活動が浸透してきたので、今では助成金や奨学金を得やすくなっています。ブエノスアイレス市もPanorama Surに隔年で奨学金を出していますが、それが毎年になるよう働きかけています。
 ウルグアイでは、毎年開催されている戯曲コンクールの勝者にウルグアイ文化省からPanorama Sur参加のための奨学金が提供されています。また、ゲーテ・インスティテュートもラテンアメリカ全域を対象にした戯曲コンクールを行い、毎年4〜6人に奨学金を出しています。今年は、ボリビア、キューバ、メキシコなどの劇作家たちが、奨学金を得ました。その他、スペインやイベロアメリカの公的機関が賛同し、大半の劇作家たちが奨学金で参加しています。

──ワークショップは、誰がどこで行うのですか。
 上演する海外作品の演出家や俳優たちにブエノスアイレスの芸術大学でワークショップを行ってもらい、アルゼンチンのアーティストたちとの交流を図っています。ポルトガルのジョアン・フィアデイロやドイツのゲラルト・ジークムントをはじめ、ワークショップのためだけにアーティストを招聘することもあります。単に芝居を観るだけではなく、インタラクティブな繋がりやネットワークをつくることを目的にしています。

──今年で6回目ですが、Panorama Surによってラテンアメリカの演劇界に何か変化はありましたか。
 ええ、面白いことが次々に起こっています。たとえば、2012年に奨学金を獲得した中にボリビア人の劇作家・演出家で、文化活動も行っているエドゥアルド・カラが、ボリビアの首都、ラパスでもPanorama Surのようなことをやりたいと言ってきました。ボリビア全土の劇作家がラパスで交流できればということで、ボリビアで新たにはじまった演劇フェスティバル「Paso Alternativo」(「オータナティブな道」の意味)と提携し、昨年、はじめてタンタニアンと私が現地に行き、Panorama Surを行いました。2015年も開催し、毎年、続けようということになりました。来年はウルグアイやチリとも協力する予定で、少しずつ動きが広がっています。

──劇作家や俳優の交流はどうでしょう。
 一番顕著な動きは、2013年のレジデンスで同期だった劇作家たちが、Organización de Teatro Independiente(独立劇場組織の意味。通称OTI)をつくり、チリ、アルゼンチン、スペインで一連のイベントを行ったことです。組織内の作家たちが協力して作品をつくり、上演しますが、出身国はチリ、ボリビア、キューバ、ペルー、ベネズエラ、アルゼンチンなど様々です。メキシコの演出家とアルゼンチンの劇作家がタッグを組んで、メキシコで作品を上演したり、スペインのマドリードとバレンシアで、Panorama Surと似た活動が始まったりしています。また、数多くのアルゼンチンの劇作家たちが、ワークショップをするためにスペインに招かれていますし、Panorama Surのレジデンスで書かれた戯曲の大半が、上演されています。

──その他に反響はありますか。
 とても誠実な観客がいるので、今年は、どんなことをするのか、みんな楽しみにしてくれています。その上、協力したいというアーティストたちも増えて来ました。Panorama Surは、アーティスト主導で、私たちは同志であって政治家でも役人でもないところが特色です。美学を追求する前衛作品が多いことが定着してきましたが、時には「ちょっと行き過ぎ」と言われることもあります。でも、リスクをとらなければ先はありませんから。

──今後の展望は?
 今年は、例年と違い、ブエノスアイレス演劇フェスティバル20周年の一環としてPanorama Surを開催します。フェスティバルには50作品前後、招待されるので、私たちは海外作品の上演をしないで、これまでにしたいと思ってできなかったことに予算と会場を使いました。
 それが歴代のPanorama Surのレジデンスとして参加した中から12人を選び、ひとつの作品を作り上げるという企画です。12人でどのように一つの作品をつくるのか。様々な話し合いの中で、私たちは古文書の重ね書きの技術を提案しました。昔、パピルスに記された物語は、よく見るとその下に別の物語が書かれていたのです。つまり、ひとつの物語の上に、別の物語があるのです。
 3幕を喜劇、4幕を悲劇と規定して、全9幕で構成される戯曲という枠組みをつくり、1幕目をブラジルの劇作家が書き、それをタンタニアンと私で検証して、2幕目をウルグアイの劇作家にバトンタッチし、それに呼応してメキシコの劇作家が3幕目を書くといった具合に、作品と対話しながら9人の劇作家で9幕の芝居をつくり、3人が演出するという構想です。
 これはラテンアメリカの超実験的な作品になります。すでに戯曲は完成していて、とても良い出来です。アルゼンチンの俳優陣で、今年の10月にブエノスアイレスのサン・マルティン劇場で上演します。ですから、今年のPanorama Surは7月ではなく10月に開催します。とてもリスクが高いですが、挑戦のしがいがある愛すべき企画です。

──今回、初来日ということですが、今後、日本とのコラボレーションに関してはどのような展望を持っていますか。
 2017年のPanorama Surでは、日本フォーラムを行いたいと思っています。日本の劇作家たちにPanorama Surに参加してもらい、交流を図りたいのです。将来的に、日本とアルゼンチンの劇作家、演出家の共同制作ができるのが理想です。アルゼンチンの作品を日本人が演出したり、その逆を行ったり。でも、まずは、様々な機関、コロン劇場やラテンアメリカ・アート美術館などの招聘で、幅広い日本のアーティストがブエノスアイレスに集まれるよう準備したいと思っています。

──具体的な準備が進んでいるのですか。
 はい。今回、数多くの日本の劇作家やアーティストと会い、インタビューを行います。時間に限りがあるので、中々、実際の上演を見ることができないのですが、上演ビデオは山ほど観ています。これから越後妻有や小豆島、京都にも行きます。搬入プロジェクトをやっているファナティックなアーティストの危口統之や、ベルリンで作品をみた坂口恭平、「五反田団」の前田司郎、「ままごと」の柴 幸男、「チェルフィッチュ」の岡田利規ほか、できるだけ数多くの劇作家、演出家に会う予定です。

──今年の超実験的演劇と同様、2017年もまた初の試みになりそうですね。
 これまで、日本の情報が少なく、私が知っている作品も、ベルリンやチューリッヒなど、海外の演劇祭に出品されたものが大半です。ブエノスアイレスでも舞踏などの公演はありますが、日本の現代演劇や実験演劇は上演されたことがありません。ですから、できるだけ幅広い作品を上演して、日本の演劇的美学がどんなものかをブエノスアイレスの観客にも知って欲しいと思っています。
 
TOP