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イヴォーナ・クロイツマノーヴァ
イヴォーナ・クロイツマノーヴァ
Yvona Kreuzmannovà


タネツ・プラハ
Tanec Praha

http://www.tanecpraha.cz タネツ・プラハ
Presenter Interview
2015.10.20
Tanec Praha   Leading the Czech contemporary dance scene 
チェコのコンテンポラリーを牽引するタネツ・プラハ 
プラハで最も有名なダンス&フィジカルシアターのポネツ・シアター(Ponec Theatre)を運営し、毎年6〜7月には国際フェスティバルを開催。また、国内の若手振付家の発掘を目的としたチェコ・ダンス・プラットフォーム(Czech Dance Platform)を開催するなど、チェコのコンテンポラリーを牽引するタネツ・プラハ(Tanec Praha)のディレクター、イヴォーナ・クロイツマノーヴァにインタビュー。
聞き手:岩城京子[ジャーナリスト]

──1989年11月のビロード革命で共産党体制が崩壊し、チェコは民主化への道を歩み始めます。同年夏にプラハ・サマー・カルチャー・フェスティバルの主催者であるCity Agency PKS(プラハ市文化センター)が、そのプログラムに初めてダンスを組み込むことを決定したばかりでした。この年が、チェコのコンテンポラリーダンスの節目になったように思います。
 そのとおりです。革命以前、チェコのコンテンポラリーダンスはすべて地下活動として行われていたため、プロの芸術表現とはみなされていませんでした。私自身が在籍していたカンパニーも、週6日もマーサ・グラハム・テクニックのレッスンを行っていたにもかかわらず、プロの集団とは認識されていませんでした。その他、イサドラ・ダンカンやホセ・リモーンのテクニックを訓練するカンパニーもありましたが、やはりアマチュアの集まりだと思われていました。当時のチェコで芸術としてみなされていたダンスは、ロシアの伝統を受け継ぐバレエか、あるいは伝統的な民族舞踊のみ。“個”を表現の出発点にしたコンテンポラリーダンスは、作る側にも見る側にも、自由な思考を押し広げるスペースを与えてしまうため危険な表現だとみなされていたのです。けれど89年を境に、この保守性が変わっていきました。
 チェコにコンテンポラリーダンスを真っ先に紹介したのは振付家のイリ・キリアンです。プラハ生まれの彼は、プラハ市文化センターを説得し、自身が主宰するネザーランド・ダンス・シアターのジュニア・カンパニー(NDT2)を、89年のプラハ・サマー・カルチャー・フェスティバルに送り込みました。そのキリアンの公演に心を打たれた私は、これこそチェコの新世代のダンスだと思いました。そして翌90年から、ミュージック・アカデミー・オブ・パフォーミング・アーツでダンス史とドラマツルギーを学ぶかたわら、同フェスティバルの広報担当として仕事を始めたのです。ただ当時、母国のメディアにコンテンポラリーダンスを売り込むのは至難の業でした。「それってディスコ・ダンスとどう違うの?」と聞かれて困ったこともあります(笑)。コンテンポラリーダンスに対しての知識が皆無に等しかったんです。

──それほど未開拓の地で、あなたは91年にコンテンポラリーダンスの発展に特化した Tanec Praha Civic Association(タネツ・プラハ市民協会)を内務省の認可を得て設立します。そして91年からプラハ市文化センターに替わってフェスティバルの運営をはじめ、名称もTANEC PRAHA(タネツ・プラハ:タネツはチェコ語でダンスの意味)に変更します。
 今も昔も変わらず、私にはひとつのミッションがあります。それはプロフェッショナルな芸術表現としてより多くの人々にコンテンポラリーダンスを認識してもらい、自国におけるコンテンポラリーダンスの地位をあらゆる意味で確立することです。そのために、私は数人の仲間たちと91年にタネツ・プラハを立ち上げました。仲間には、アート関係者だけでなく、広報やマーケティングの専門家なども含まれました。
 もちろんタネツ・プラハ・フェスティバルの予算を確保するために政治家を説得するのは容易ではありませんでした。最初は、歴史ある「プラハの春 音楽祭」の一環としてダンス・フェスティバルを開催してはどうかと打診されました。もちろん断りました。絶対にタネツ・プラハという独立したフェスティバルを立ち上げたかったからです。私のあまりのしぶとさに文化省の政治家は呆れていました。
 幸運なことに、共産党政権崩壊直後の政府関係者には文化に理解のある人たちもいて、次第に「コンテンポラリーダンスをプラハに紹介する」という私のビジョンに共感してくれるようになりました。それで文化省から100万コルナ(約500万円)、プラハ市から同じく100万コルナの助成金を確保して、初年度のフェスティバルを開催することができました。1年目は動員がさほど伸びなくて赤字になりましたが、文化省は私たちを見限らなかった。初年度の赤字分を負担したうえで、翌年もタネツ・プラハの活動が継続できるよう支援してくれました。ありがたいことです。本当に右も左もわからない状態でスタートしたタネツ・プラハですが、「プラハの春 音楽祭」が音楽シーンに欠かせないのと同じように、今では文化省の人たちに自国のダンスの発展に不可欠な存在だと認められています。

──タネツ・プラハを立ち上げた1991年から92年にかけて、あなたはフランスとアメリカに留学されていますが、なぜですか。
 理由はただひとつ、学業を終了させるためです。私が在籍していたミュージック・アカデミー・オブ・パフォーミング・アーツには、当時、十分にコンテンポラリーダンスを学べる環境が整っていなかったので、知見を広げる必要がありました。パリでは100本あまりのダンス公演を観劇しましたし、チェコでは出会うことのできなかった欧州のダンス関係者たちとパートナーシップを築くことができました。ただ、パリで見た公演の内、本気でチェコに招聘したいと思ったのは正直に言うと5〜6本です。それ以外は、古臭かったり、質が低かったり、あるいはまだコンテンポラリーダンスという表現に慣れていないチェコの観客には受け入れられないものに思えました。
 パリの後、2カ月間の奨学金を得てボストン、ワシントン、ニューヨーク、オハイオ州コロンボを訪問しました。多くの芸術活動が国や市の助成によって支えられているフランスとは異なるアメリカの芸術支援システムを目の当たりにできて面白かったですね。それで92年に帰国し、当時ジェイコブズ・ピロー・フェスティバルの芸術監督を務めていたサム・ミラーにタネツ・プラハのコンサルタントを務めてもらうことにしました。私は組織運営の経験が少なかったので、彼の協力を得て、チェコのコンテンポラリーダンス・シーンをどう成長させていくかの長期目標を定めていったのです。まずは観客を育成し、多くの人に興味を持ってもらい、そこから徐々にチェコのダンス・シーンを拡大していくというビジョンを設けました。

──タネツ・プラハ市民協会を設立する以前に、あなたには芸術分野のマネージメントの経験はありましたか。
 とてもいい質問ですね、答えはノーです(笑)。理由は、少し時間を溯ってお話しする必要があります。私の両親は共産党支持者ではなかったので、私は学校の成績が優秀でも大学に進学することが許されませんでした。「共産主義者の子ども以外は、うちの大学にはいりません」というわけです。進学の選択肢を奪われた私は、とりあえず働くしかありませんでした。それで18歳から旅行代理店で働き始めました。すぐに大きな見本市や国際会議のために、様々な個人や組織の旅程をアレンジする仕事をしました。今から振りかえると、この経験はとてもためになりました。
 仕事が2年目に入ったとき、複数言語を話せて仕事の早い私を上司が評価してくれて、キャリアアップのために大学進学を薦めてくれました。もちろん私は、自分が大学に行けない理由を彼女に説明しました。でも彼女の熱心な推薦状のおかげで、1983年に観光経営学を学ぶためにプラハ経済大学に進学できました。2年生のときに同じダンスグループの仲間に「観光学なんてやってどうするの? 私といっしょに芸術を学べる大学に行きましょう」と誘われた。私だってできればそうしたかった。そこで今度は「既に大学に受け入れられている身分です」という肩書きを担保に、ミュージック・アカデミー・オブ・パフォーミング・アーツの入学試験を受けました。
 当初、振付コースを受験していましたが、舞踊学部の学部長に「振付コースはバレエの経験が3年以上必要だから、舞踊理論コースに進学した方がいい」と言われました。それでコースを変更し、私は念願の芸術大学でダンス史とドラマツルギーを学び始めました。前置きが長くなりましたが、こうした紆余曲折を経ているので、その社会経験がタネツ・プラハの組織運営に役立っていると思います。でもやりながら学んでいたので、最初のころは数え切れないほどの失敗をしました。

──タネツ・プラハ・フェスティバルには「International Festival of Contemporary Dance and Movement Theatre(国際コンテンポラリーダンス&ムーヴメント・シアター・フェスティバル)という副題が付いています。なぜあえて「ムーヴメント・シアター」という言葉を付け加えたのでしょうか。
 信じられないでしょうが、プラハ市内には100を超える劇場があります。そのほとんどの劇場では、演劇の古典演目が繰り返し上演されています。ムーヴメント・シアターという単語をフェスティバル名に加えることで、私はこうした保守的な演劇界に新たな視野を与えたいと思いました。つまり、戯曲がなくても、台詞がなくても、「シアター」は成立するという当たり前の意見を伝えたかった。こうした意見は、1995年にロイド・ニューソン率いるDV8がタネツ・プラハ・フェスティバルに初登場して『エンター・アキレス』を上演した後から急速に広まっていきました。DV8の公演を目の当たりにして、プラハの観客はダンスもシアターの一部であるという事実をハッキリと認識したのです。あのときは興奮しました。DV8を見るために、有名な劇場俳優から映画監督までチケットを求めてきたんですから! 間違いなくロイド・ニューソンは、プラハのコンテンポラリーダンス界に影響を与えた振付家のひとりです。彼の作品を介して、プラハの観客はダンスが単なるムーヴメントの訓練じゃないということを知りました。

──28年に及ぶタネツ・プラハ・フェスティバルの歴史から、他に転機となった公演をいくつか挙げていただけますか。
 フェスティバル設立当初は、素晴らしいレパートリーを誇るジュネーブ・バレエ団を幾度となく招聘し、彼らの舞台を介して一流振付家の作品を紹介していました。中でもオハッド・ナハリンの作品はいつもプラハの観客に熱烈に受け入れられました。オハッドが率いるバットシェバ・ダンス・カンパニーの若手によるバットシェバ・アンサンブルを99年と2004年にプラハに招聘していますが、どちらも大成功を収めています。今年になってようやくメイン・カンパニーの『LAST WORK』をここで上演できて、本当に嬉しく思います。他に転機となった公演としては、共に1993年に上演されたマギー・マランによる『May B』とビル T.ジョーンズ&アーニー・ゼーン・カンパニーによる『D-Man in the Water』でしょうね。サミュエル・ベケットの作品に着想したマランの公演は観客の半分は寝ていましたが(笑)、残り半分は熱心に舞台を見ていました。ビル T.の公演も、ダンサーが全員全裸という当時のプラハの観客にとっては挑戦的な内容であったにも関わらず、きちんと作品の芸術性が受け入れられたように思います。この頃から、私は観客が育ってきている手応えを実感するようになりました。

──タネツ・プラハ・フェスティバルではアンジェラン・プレルジョカージュからセビアン・グローバー、ジョセフ・ナジからミハイル・バリシニコフに至るまで、幅広いアーティストを招聘しています。プログラミング方針を教えてください。
 第1に作品のクオリティが高いことです。個人的な好き嫌いはあるにせよ、ダンスのクオリティには絶対的な尺度があります。その証拠にダンスの専門家が10人集まり議論をしたら、間違いなくその10人はクオリティの高さに関して同意するはずです。第2に作品の意図をプラハの観客が受け入れられるかどうかです。ダンスは観客にとって諸刃の刃で、一瞬にして虜にすることもできれば、一瞬にして興味を失わせることもできる。そのためフェスティバルの最初の数年間は、実験的な作品を招聘することを控えました。第3はなるべく身体的強度の高い作品を招聘すること。私自身、ダンスを学んでいたこともあり、どれだけコンテンポラリーダンスの身体言語を習得するのが長くて苦労の多い道のりかを知っています。だからこそ素晴らしい身体表現を獲得したダンサーを目にするのは、私にとってこの上ない喜びなんです。でも近年は、身体性がそこまで強くない、コンセプチュアルな作品もプログラムするようにしています。ここ10年は、既に述べた指針に加えて「多様性」という観点も重視しているからです。

──1995年には、タネツ・プラハ・フェスティバルとは別に、国内のダンスに特化したチェコ・ダンス・プラットフォーム(Czech Dance Platform)を設立されます。
 両者はまったく役割が異なります。前者は海外作品を国内に紹介するためのフェスティバル、後者は国内作品を海外のプレゼンターに紹介するためのプラットフォームです。後者のモデルは、フランスのランコントル・コレグラフィック・アンテルナショナル・ドゥ・セーヌ・サン・ドニ(旧バニョレ国際振付賞)です。50人から100人のプレゼンターを自国に招き、集中的に作品を見てもらう。これは国内の若い才能を多くの人に知ってもらうのにとても良い方法だと思いました。それで95年に同じようなチェコ・ダンス・プラットフォームを立ち上げました。
 初年度のプラットフォームは「Entrée to Dance」というタイトルで人口10万人未満のフラデツ・クラーロヴェーという町で開催しました。この町に欧州中のあらゆるプロフェッショナルを招き、まだセミアマ・レベルにあったチェコのコンテンポラリーダンスを見てもらいました。そのあと数年間は都市を持ち回り、2000年からはプラハで開くことにしました。NGOタネツ・プラハが運営するポネツ・シアター(Ponec Theatre)のオープニングを控えていて、そこが「ダンスの専門劇場である」という認知度を高めたかったのでプラットフォームの一部を開催することにしました。
 また、新世紀に入る頃から海外で活躍していたヤン・コデッツなどチェコ出身の振付家が戻ってくるようになり、ダンス・シーンが充実していきました。2010年には、初めて50人を越えるプレゼンターがプラットフォームへの参加申し込みをしてくれたのですが、あいにくアイスランドで火山が爆発し、多くのプレゼンターがキャンセルになってしまいました。プラットフォーム20周年の昨年には、59人のプレゼンターが参加してくれました。今年は80人、そして来年には100人を越えるプレゼンターが参加する予定です。20年経ってようやくチェコのダンス・シーンが国際水準になった証だと思います。

──インタナショナル・シアター・スタジオ「Farm in the Cave」 やダンス・カンパニー「DOT504」など、近年はチェコのカンパニーが少しずつ海外に進出するようになりました。しかも多くのカンパニーが、演劇やダンスの枠組に収まらない横断的な表現を追求しています。他にも、革新的なパフォーミング・アートを追求している革命後世代のカンパニーがあれば教えてください。
 Farm in the Caveは、タネツ・プラハの設立当初から共に仕事をしているカンパニーのひとつです。今でもチェコを代表するインディペンデント・カンパニーとして国際的に活躍しています。他にはVerTe Dance、NANOHACH Company、420PEOPLE、Spitfire Company などが挙げられます。彼ら革命後第一世代は、初めて自由な表現を許された世代だったのでそれぞれが誰の表現も模倣せず、自覚的に独自のビジョンを築き上げ、極めてオリジナリティの強い表現をしています。若い世代のアーティストが、彼ら第一世代の表現にどのように応答し、今後どのような表現を生み出していくのか楽しみです。

──2001年にはプラハ3区にあるポネツ劇場(Ponec Theate)をチェコで唯一のコンテンポラリーダンス専門劇場として正式オープンします。今ではここの運営がタネツ・プラハ市民協会の主要事業のひとつになっています。どのような経緯でポネツ劇場がコンテンポラリーダンス専用劇場になったのですか。
 自分たちの活動拠点になるような劇場をずっと探していました。ポネツ劇場の前にも3〜4カ所当たっていたのですが、実現することができませんでした。そんな折、古い映画館だった建物を再利用する組織を公募するという話を耳にしました。それで見に行ったのですが、何年も使用されていなかったのでひどい廃虚になっていました。ただ映画館として利用されていたホールの間口は、コンテンポラリーダンスを上演するのにぴったりだった。左右の壁から壁まで12メートルあり、高さが6メートル。小中規模のダンスを上演するには最適な空間でした。そこで私はプラハ3区の役人たちに是非とも使わせて欲しいと、妊娠中だったにも関わらず熱心に説得しました。
 出産から2週間後、私は審議会に呼ばれて、「アイデアは素晴らしいと思うけど、再建費はどのように捻出するつもりなのか」と訊かれました。建物を提供する条件のひとつが「資金確保して3年以内にオープンする」というものだったからです。それで当てがあったわけではないのですが、「私たちはファンドレイジングには長けているし、多分、文化省が支援してくれるので大丈夫です」と安請け合いしました。本当に世間知らずだったとしか言いようがない(笑)。でもどうしたものか審議会は私の言葉を信じてくれて、公募に勝ったんです。ロック・ミュージックのライブ会場よりもよくわからないコンテンポラリーダンスなどのために建物を譲るなんて何事だって、他の競争相手はカンカンでした。本当に幸運だったと思います。
 その後、2人目の子どもを育てながらファンドレイジングに駆け回りました。2000年に初めて1,000万コルナ(約5,000万円)の資金を国から援助してもらえることが決まり、それから徐々に資金が集まっていきました。劇場の再建費は総額2,000万コルナ(約1億円)で抑えました。2001年6月に開催したタネツ・プラハ・フェスティバルの大部分は、この新しい劇場で上演しました。そのときはまだ劇場にきちんとした屋根さえなかったんですけど(笑)。いまではポネツ劇場で毎年200を越えるイベントが開催されています。

──2000年代中頃には子どものためのプログラムもスタートします。
 そうです。まず、5歳から8歳ぐらいの子どもにダンスの楽しさを教えるチルドレン・スタジオをオープンしました。ムーヴメント、リズム、ビジュアル・アートなどを織り交ぜて、子どもにダンスの楽しさを体験してもらっています。また、ポツネ劇場では子どもに向けたオリジナル・ダンス作品も制作しています。質の高い子どものためのダンス作品を制作・上演することは、将来の観客を育てるために大切です。通常は大人向けの作品ばかりではないのですが、子ども向けの作品に関しては自分たちで資金を集めて制作をしています。数年前に文化省のアドバイザーを務めていた頃、教育省を説得して、小中学校にダンス教育を選択科目として導入してもらうことにも成功しました。以来、タネツ・プラハでは学校にダンス・アーティストを派遣し、生徒たちにダンスを教える事業も行っています。

──ポネツ劇場がプラハで初めて建設されたインディペンデント・シアターだったのでしょうか。
 いいえ、違います。まずインディペンデントなアーティストのために1994年にARCHA劇場がオープンしました。その翌年、コンテンポラリーダンスの教育に特化したダンカン・センターが開館します。その後、「ムーヴメント開発と革新的ドラマトゥルギーのための劇場」であるAlfred ye dvore劇場がオープンし、次いで私たちのポネツ劇場が誕生しました。今では他にもコンテンポラリーダンスを含む実験的な舞台芸術を上演するStudio Altaや、マルチ・ファンクションなスペースとして活用されるLa Fabrica Theatreなども存在します。プラハのインディペンデント・シアターの数は、2000年代前後に一気に増えました。問題があるとすれば、これらの劇場がプラハに一極集中していることです。

──現在ではタネツ・プラハ・フェスティバルは、プラハだけでなくチェコ中に散らばる劇場を会場にして開催されています。それはプラハ一極集中の状況を改善するための、あなたなりのストラテジーなのでしょうか。
 そうです。プラハにはどんな田舎町にもオペラ劇場が存在します。そこで信じられないほど時代遅れなオペラ、演劇、バレエが上演されています。なかでもバレエのクオリティは問題です。そこで私は、フェスティバルを始めたときから、地方の先進的な劇場とパートナーシップを組み、コンテポラリーダンスが少なくとも年1回は観られる環境をつくるべく努力してきました。最初はブルノに始まり、プルゼニ、オストラヴァと徐々に広げていきました。
 また2000年以後は、国内のダンスを紹介するチェコ・ダンス・プラットフォームをプラハに移した代わりに、タネツ・プラハ・フェスティバルに参加する国内作家の作品は地方劇場で上演することにしました。そしてその参加アーティストに、必ず、海外の劇場やアーティストと国際共同制作してもらうようにしました。チェコのダンスシーンに少なからず海外のダンスの影響が入るようにしたかったんです。ただし、国内作家の世界初演作を1作だけ、タネツ・プラハ・フェスティバルの一環としてプラハで上演します。今年はテレーザ・オンドローヴァ&ピーター・サヴェルの新作を発表しましたが、彼らの作品はスウェーデンのノーアランズ・オペラ・ウメア、フランスのCNCルベー・バレエ・ドゥ・ノルド、スロベニアのプレゼニ・シアター・リュブリヤナとの国際共同制作です(プラハでの世界初演後、これらの劇場をツアー)。

──2015年の欧州文化都市プルゼニについて伺います。あなたは2009年から11年までこのプロジェクトの総芸術監督を務め、チェコに欧州文化都市を招くために尽力されました。とはいえこのような巨大プロジェクトになると、いろいろと政治が関与し、すべてがビジョン通りに進むわけではありません。あなた個人がこのプロジェクトで為し遂げたかったこと、そして最終的にそれがどう変わったかについて教えてください。
 私が芸術監督を務めていたときのモットーは“プルゼニ・オープンアップ”。一過性の祭りで終わるのではなく、長期的にプルゼニの町があらゆるジャンルのアーティストに開かれ、サステイナブルな芸術都市に変わっていけるようなビジョンを描いていました。そのため地元の使われなくなった倉庫や工場を再利用して、レジデンシー・スペースなどを開くというプランをもっていました。ただ残念なことに、地元の政治家には別のプランがあり、私の掲げたビジョンが全面的に実現することはありませんでした。芸術に疎い政治家にありがちだと思いますが、彼らは地元に新しい劇場が欲しいと言い始め、あまりにも私が描いていたビジョンと懸け離れていったため芸術監督職を降りました。
 その後、より小規模なかたちでプロジェクトに携わることになりました。それでダンス部門だけでもビジョンを実現しようと思い、使われなくなった巨大倉庫を改装し、DEPO2015というスペースを立ち上げ、そこでサシャ・ヴァルツの公演を行いました。またオープン・エアー・レジデンシー・プログラムに鈴木ユキオさんを招き、チェコ中のあらゆるパブリック・スペースを有効活用してレジデンシーを行い、チェコのアーティストといっしょに小さな作品を制作するプロジェクトも実施しました。3週間ユキオさんのテクニックを実地に学び、一緒にダンスをつくり上げるというプログラムは、参加者にとって素晴らしい経験になったと思います。

──最後に、現在進めている新しいプロジェクトがあれば教えてください。
 まずはCreative Europeが支援する「Be SpectACTive!」というオーディエンス・デベロップメントのための国際共同プロジェクトを欧州の複数の大学、劇場、フェスティバルなどと手を組んで行う予定です。これは観客にもフェスティバルのプログラミング、ドラマトゥルギー講座、ワークショップなどに参加してもらうことにより、どのように観客育成が達成されるかを研究するためのプロジェクトです。複数の大学によって、どれほどの効果があるかを実際に検証してもらえるのも非常に有効だと思っています。また大規模ダンスフェスティバル「Aerowaves Spring Forward」をプルゼニで立ち上げるプロジェクトにも着手しています。これは来年以降、新しい施設で実現できればと考えています。そのために、チェコの政治家に説明に出向いています。コンテンポラリーダンスに始まり、チェコの同時代芸術の発展と育成に貢献するという私のミッションはいつまでも続きます。本当に終わりがない戦いです。
 
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