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ソン・ギウン
Profile
ソン・ギウン(Sung Kiwoong)
1974年生まれ。劇作家、演出家、第12言語演劇スタジオ主宰。
延世大学国語国文科在学中の1999年に東京外語大学で交換留学生として日本語を学ぶ。帰国後、韓国芸術総合大学の演劇院演出科大学院で演劇を専門的に学ぶ。
2006年、自身の作・演出『三等兵』でデビュー。作家、演出家としての仕事以外に、日韓の演劇の現場で翻訳、通訳、演出助手、プロデューサーなどマルチな役割で活動。東京デスロックの多田淳之介と2013年『カルメギ』、2015年『颱風奇談』をコラボレーションで制作。翻訳書に『平田オリザ戯曲集』1巻〜3巻(ヒョンアム社)、共同翻訳書に『現代口語演劇のために』(演劇と人間)、『坂手洋二戯曲集:屋根裏』(演劇と人間)がある。
2011年に『カガクするココロ─森の奥編』(平田オリザ原作)で第4回大韓民国演劇大賞優秀作品賞、2012年に『多情という名の病』で第1回ソウル演劇大賞演出賞、2013年に『カルメギ』で第50回東亜演劇賞作品賞・演出賞・視聴覚デザイン賞、2014年に第4回斗山ヨンガン芸術賞、今日の若者芸術家賞(文化体育観光部長官賞)を受賞。
第12言語演劇スタジオ『三等兵』
(2006年/演友小劇場)
作・演出:ソン・ギウン
三等兵
第12言語演劇スタジオ『小説家クボ氏の1日』
(2010年/斗山アートセンターSpace111)
作・演出:ソン・ギウン
小説家クボ氏の1日
第12言語演劇スタジオ『バルカン動物園』
(2009年/斗山アートセンターSpace111)
作:平田オリザ
演出:ソン・ギウン
バルカン動物園
斗山アートセンター企画『가모메 カルメギ』
(2013年/斗山アートセンターSpace111)
作:平田オリザ
演出:ソン・ギウン
カルメギ
Presenter Interview
2016.1.29
Sung Kiwoong   A bridge between the contemporary theater worlds of Korea and Japan 
日韓現代演劇の架け橋 ソン・ギウン 
平田オリザとの協働による『新・冒険王』、多田淳之介との協働による『カルメギ』『颱風奇談』、日本の現代戯曲の翻訳や日本のカンパニーの韓国公演におけるさまざまなサポートなど──マルチな役割により、歴史認識の異なる日韓の演劇を繋いできた新世代の演劇人ソン・ギウン。劇団「第12言語演劇スタジオ」を率い、劇作家、演出家、翻訳家、コーディネーター、プロデューサーとして活躍する彼の歩みを振り返る。
聞き手:木村典子[舞台芸術コーディネーター]

──演劇との出会いからお聞かせください。
 中学生のとき、自分で情報を探して初めて観たのが、劇団サヌリムの『ゴドーを待ちながら』でした。演劇が女の子とのデートの口実が演劇だったんです。高校生でデートしたときも『エクウス』を観ましたが、とても印象的でした。延世大学入学後、先輩のキム・ジェヨプさんが演劇サークルで活動していたこともあり、僕も入会しました。ジェヨプさんは、劇団ドリームプレイを主宰し、昨年は『アリバイ年代記』で日本公演もしています。

──大学での専攻は?
 籍を置いたのは国語国文学科です。習作の小説が学内の文学賞を受賞したこともあります。演劇サークルでは俳優、劇作、演出を経験しました。学生時代、特に記憶に残っている作品は、80年代の軍事政権下で疲弊していく韓国社会の陰鬱さと心情を描いたファン・ジウの詩「鳥たちも世を去っていく」をベースに、学生運動が弱体化し、ソ連が崩壊した後の90年代を背景に加筆したものです。僕が主に脚色し、ジェヨプさんが演出しました。

──ギウンさんは1999年から1年間、日本に留学されています。どういうきっかけで留学したのですか。留学中に日本の演劇との出合いはありましたか。
 国語国文学科には東京外語大学朝鮮語科との間に交換留学生プログラムがありました。それで、休学して兵役を終えた後、本当に偶然に留学することになりました。
 最初は日本語が全くできず、演劇の情報を得ることもできませんでした。少し慣れてから早稲田大学の学生劇団や北区つかこうへい劇団を観ました。初めて日本の現代劇に触れた印象は強烈でした。帰国前に青年団公演『ソウル市民1919』を観たのですが、平田オリザさんの作品はこれらとは全く異なるものでした。当時の韓国演劇はメッセージ性が強く、演技も感情の振れも大きく、オーバーだと感じていて、僕には違和感がありました。そんな中でこれまで観てきた演劇とは対照的なオリザさんと出会い、こういう演劇表現のあり方があるのだと知って新鮮でした。

──帰国後に韓国芸術総合学校「演劇院」に進み、演劇を専門的に学んでいらっしゃいます。
 大学卒業後、演劇院の演出科大学院に入学しました。2000年代に入り、韓国演劇の潮流が変わってきていた時期でした。それまでは大きな物語を背景にした作品が多かったのですが、パク・グニョンが書いた『青春礼賛』以降、個人とそれをとりまく日常を扱った作品が増えていきました。韓国社会を読み解く記号が「個人」「日常」へと急速に変化しはじめていたんです。
 加えて、日本の大衆文化が開放されはじめた時期と重なり、日本との演劇交流も盛んになっていきました。このような中で、オリザさんが提唱した現代口語演劇が韓国でも「静かな演劇」として注目されました。また、『更地』(作・太田省吾)、『海と日傘』(作・松田正隆)が韓国バージョンで上演され、高い評価を受けました。2003年には、僕自身もオリザさんの『東京ノート』を翻訳し、パク・クァンジョンさんが率いる劇団PARKで『ソウルノート』として上演しました。翌年には青年団との合同公演(平田オリザ、パク・クァンジョン共同演出)が実現し、ソウルと東京で公演が行われました。

──翻訳家としては『東京ノート』がデビューだったわけですが、演出家としてのデビューはいつですか。
 正式には大学院を修了した2006年に、オリザさんの『バルカン動物園』を翻訳・演出したのがデビューになります。同じ年に僕が書いた『三等兵』という作品も上演していて、これが劇作家としてのデビューです。この後、「第12言語演劇スタジオ」を旗揚げしました。でも、学生時代から小劇場が集まる大学路で日本演劇関連の通訳、翻訳、演出助手として活動していて、ソウル・フリンジフェスティバルなどにも参加していたので、デビューという実感はあまりなかったですね。

──「第12言語演劇スタジオ」について伺いたいのですが、どのような演劇を目指して旗揚げされたのですか。劇団名の由来も教えてください。
 調査の方法によって若干の差はありますが、世界の人口の中で韓国語を使用している人の割合は12番目なのだそうです。それで「第12言語演劇スタジオ」と命名しました。劇団は立ち上げたものの、先輩たちのように演出家を頂点としたトップダウン式の集団にはしたくありませんでした。当初はペーパーカンパニーのような感じで、劇団員も3〜4人しかいませんでした。
 劇団では、感情表現を大切にしながらも、それまでの韓国演劇とは異なる理性的で多義的な舞台をつくたいと思っています。実験的な試みができる集団でありたいですね。それと、昔のソウル言葉を舞台で再現するなど、韓国語という言葉に繊細にアプローチする小説リーディング公演のような試みも行っています。

──劇作家としては、日本統治時代の京城(現ソウル)を新たな視点で描く京城3部作を発表されています。なぜこの時代を選んだのですか。
 京城を背景にした作品は4作品あります。僕が好きな小説家パク・テウォンことクボ氏を中心に据えて書いた『小説家クボ氏と京城の人々』(07年)、『若き我らの青春』(08年)、『小説家クボ氏の1日』(10年)、それと『朝鮮刑事ホン・ユンシク』(07年)です。日本統治時代でありながらも、文明開化に沸き、近代へと移り変わる古いものと新しいものが混在するこの時代と京城という都市に興味がありました。
 舞台上では朝鮮語以外にも日本語、英語が使われ、それを字幕で観客に伝えるという、言語的興味もありました。この時代は被植民地の欝々とした気運の中にありながらも、日本を経由して流入してきた西洋のモダン文化が若き青年たちを浮足立たせていた妙な時代でもあります。これらの作品群の後、東京デスロックの多田淳之介さんと『カルメギ』(13年)、『颱風奇談』(15年)という作品をつくりました。ちなみに、京城を取り上げる以前は、太平洋戦争以前の1933年〜35年を私的でノンポリティカルな観点で描いていました。

──韓国では1990年代後半から演劇の流れが変わりはじめ、2000年代になってから文化芸術に対する各種助成システムも充実し、また劇団制からプロデューサーや劇場を中心とした制作システムへと演劇制作の現場も多様化しました。ギウンさんはこうした演劇界の転換期に活動を始められたわけですが、実際の創造環境はいかがでしたか。
 公的助成金が多様化し、育成事業が充実し始めた時期だったので、『三等兵』は韓国文化芸術振興院新進芸術家支援プログラム、『小説家クボ氏と京城の人々』はソウル芸術の殿堂の「自由若い演劇V」という公募プログラムに選ばれて上演しました。民間にも育成事業が広がっていて、民間企業のメセナ活動の一環として運営されている斗山アートセンター(07年再オープン)では若手アーティストをインキュベーターとして活用することに事業を集中していました。その最初のメンバーのひとりとして『若き我らの青春』、『バルカン動物園』(09)、『小説家クボ氏の1日』を公演させてもらい、その後も『カルメギ』(13年)、『新・冒険王』(15年、平田オリザとの共同脚本・共同演出)をこの劇場で公演しています。
 新人アーティストに対する助成システムが充実し、上演の機会や経済基盤が与えられはじめた時期でした。公的助成金を受けるのが当たり前で、それに依存している世代という批判もありますが、僕はむしろ公的助成金と斗山アートセンターのような若いアーティストを支援する劇場のおかげで、観客をエンターテイメント演劇だけに走らせることなく、芸術的な試みとチャレンジが続けてこられたのだと思います。

──通訳や翻訳、日韓合同公演のスタッフなど、日韓の現代演劇の架け橋として幅広い仕事をされています。
 『ソウルノート』から始まり、僕自身の興味もあり、やはりオリザさんとの仕事が多いですね。これまでオリザさんの戯曲を翻訳して、『平田オリザ戯曲集』として3冊出版しています。1巻目には『東京ノート』『冒険王』『眠れない夜なんてない』、2巻目には『カガクするココロ』『北限の猿』『バルカン動物園』『この生は受け入れがたし』、3巻目には『ソウル市民』『ソウル市民1919』『ソウル市民─昭和望郷編』『ソウル市民1939・恋愛二重奏』が収録されています。このほか、『現代口語演劇のために』も共同翻訳で出版しています。
 日本の演劇を観ていて、舞台と日常の日本語が違うと感じていましたが、オリザさんの台詞は日常のものに近く、言葉のリアリティーを感じます。余談ですが、2010年に韓日演劇交流協議会が主催した「現代日本戯曲リーディング」で僕と同世代の岡田利規さんの『三月の5日間』を演出させてもらいました。それで2015年にチェルフィッチュによる『現在地』をこばまアゴラ劇場で実際に観たのですが、彼が台詞として使う日本の若者の口語には、破壊された言葉のリアリティーを感じましたね。
 翻訳以外では、『赤鬼』韓国バージョン(05年)で通訳と演出助手、『半神』(14年)で共同翻訳とレジデントディレクターとして野田秀樹さんとご一緒させていただきました。松田正隆さんの『HIROSHIMA-HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧Seoul version』(11年)には協力演出として参加しています。

──「東京デスロック」の多田淳之助さんとの出会いは?
 韓国を含むアジアの演出家が集まり、1カ月滞在して韓国俳優と作品を創るという「アジア演劇演出家ワークショップ」(韓国演劇演出家協会主催)というプログラムがありました。2008年はシェイクスピアがテーマで、オリザさんと今は故人になられたパク・クァンジョンさんの推薦で、多田さんが『ロミオとジュリエット』で参加することになりました。そのサポートを依頼され、俳優オーディションの会場で彼と初めて会いました。稽古の時は、僕の嗜好とも違うし、韓国にはないスタイルなので、多田さんの狙いがよくわかりませんでした。でも本番は、ドラマと身体が並走しているライブ感がとても面白かった。劇中の時間経過にともない、主人公2人の生きることへの疲労と俳優の肉体的な疲労が重なる構造は、僕にとって“ライブ性”という新たな発見になりました。
 『ロミオとジュリエット』の時は、何か一緒にやることになるとは全く考えていなかったのですが、参加した韓国人俳優たちが多田さんとまたやりたいととても積極的だったので、翌年にNew Wave公演芸術祭「場」で、第12言語演劇スタジオと東京デスロック共同制作として『ロミオとジュリエット』を再演しました。この再演も若い観客に好評で、2010年『Love』、2011年『再/生』と共同制作が続き、2012年には多田さんの戯曲を翻訳・翻案して『3人いる!』を発表しました。この間の多田さんとの仕事では、僕の役割は公演を成立させるための、ある意味でコーディネーターあるいはプロデューサーでした。この共同制作を通じて、舞台上での「日常の再現」から、現場性やブレヒトの叙事的演劇、いわゆるライブ性へと関心がさらに広がりました。

──多田さんとの初期の仕事でギウンさんが日韓の現場で果たした役割が、とても興味深いです。一般的にはアーティストの間を取り持つ第三者が介在しますが、日本語と韓国語のバイリンガルで、両国の演劇事情に通じているギウンさんだからアーティスト同士で進められたのだと思います。多田さんと本格的に協働した『カルメギ』でもアーティストでありながら、プロデューサー的な役割も担って両国での公演の場をつくっていたように思います。
 チェーホフの『かもめ』を、いつか1930年代の日本統治下の朝鮮を背景に脚色したいという企画を長い間あたためていました。チェーホフ作品は旧社会から新社会へと変化する時代の中でのドラマです。朝鮮と日本が近代へと向かう過渡期の芸術、それをとりまく人々の姿を『かもめ』で描けると思いました。当初、多田さんは「歴史の話はしない」というスタンスでした。しかし、2010年くらいから僕の書いたものを多田さんの演出でという話がなんとなく出ていた中で、日韓関係の変化や東日本大震災を経験して社会や政治を強く意識するようになり、『カルメギ』で歴史に向き合おうということになりました。
 『カルメギ』は2013年から2014年と長期のプロジェクトでしたが、僕もセウォル号沈没事故などで国家という枠組みを改めて考えるなど、より社会や政治に向き合うしかない状況でした。それぞれのタイミングで、社会を意識して演劇を創ろうという時期を迎えていたのでしょうね。
 『カルメギ』はセゾン文化財団の国際プロジェクト支援を受け、3年間お世話になりました。2013年にリサーチのため2カ月間森下スタジオに滞在しながら戯曲を書き始めました。滞在期間中には、日韓演劇交流センターが主催する「韓国現代演劇リーディング」が世田谷パブリックシアターで行われ、『朝鮮刑事ホン・ユンシク』のリーディングも行われました。そのアフタートークで「いつか歴史と勝負して、日本人も韓国人も両方気まずくなるような芝居をつくってお見せしたい」などと大見得をきりましたが、かっこよく未来の夢を無責任に言っただけで大きな歴史に立ち向かう準備はできていませんでしたね。
 韓国では、僕らは学生運動や民主化闘争が終わってからあらわれた、脱政治的で個人主義的な世代と言われています。僕の演劇世界も、当初は微視的で日常的なことにこだわるものばかりでした。そんな僕が歴史とか政治とかを背負う作品をつくるとは思いもよりませんでした。それは多田さんも同じではないかと思います。この作品は、そういう僕と多田さんのひとつの到達点となった作品です。それまでは多田淳之介演出作品をプロデューサー的に韓国で公演してきただけでしたが、作家と演出家という新しい関係がここから始まりました。

──2015年にはギウンさんの戯曲を多田さんが演出する日韓共同制作第2弾『颱風奇談』を発表しています。これはシェイクスピアの『テンペスト』を1920年代の南シナ海のある島に置き換えた作品です。両作品とも現場で制作する中で歴史認識の違いを感じることがあったのではないかと思います。歴史観の異なる演劇人との共同制作の意義をどのように考えていますか。
 日本と韓国の歴史に対する感覚や、そもそも持っている知識は両国民で大きく違います。『カルメギ』の時に「こんなに違うのか」と改めて実感させられるほど反応の違いがありました。韓国初演では第50回東亜演劇賞「作品賞」「演出賞」「視聴覚デザイン賞」を受賞したくらいですから、創造的な面では評価を受けたといえるでしょう。反面、歴史観に対する批判は少なくありませんでした。例えば、ラストシーンで1938年から2013年までの年号をカウントアップする演出に、日本の戦争責任と歴史への反省を避けるため、日本と韓国の不幸な歴史を簡単に人類の普遍的な歴史へと集約したという批判を受けました。
 韓国と日本の歴史問題は普遍化させると同時に、特殊化させる必要があると思います。日本公演で多田さんは、日本の観客が韓国の歴史をよく知らないことを考慮して、ラストシーンの演出を変えました。両国の歴史上の事件を具体的に字幕で出すことにしたんです。僕は作家として意見を言うことはあっても、演出は基本的に任せていましたが、これを受けて、ふたりでどの出来事を出すのか、両国で異なる表現で言われている出来事をどのように表示するのか、慎重に話し合いながら韓国語と日本語の両方の言葉で入力していきました。過去100年余りの近現代史を指先で触れているような感じでした。多田さんは韓国の観客と出会いながら、こうした反応や認識を繊細にキャッチし、作品を通して出てくる誤解や疑問を微調整して日本公演につなげ、作品の完成度を高めてくれました。僕が演出したら絶対に不可能だった舞台を目撃することができました。
 『カルメギ』という作品で日韓の問題が解けたとは思っていません。ただ、歴史へのアプローチとしては効果的でしたし、観客に問題意識を喚起させるのに有効でした。これまで「韓国=哀れ」「日本=悪」という一方的な視点で描かれることが多かった両国間の歴史ですが、当事者でありながら第3の視点を持って「近代」という複雑で大きな歴史に、韓国は韓国社会の文脈の中で、日本は日本社会の文脈の中で、向き合えたと思っています。
 韓国と日本の問題や歴史認識の違いを、演劇が解決できるとは思いません。でも、扱うことはできます。日本は加害国として歴史に対する評価と認識、そして反省が必要ですし、韓国は感情的になるだけでなく歴史を整理する必要があります。僕らの世代がこれらを引き受けていかなければなりません。どうせ背負う歴史なら、そう簡単ではないけれど、真っ向から向き合いたいと思います。お互いの国の作品を紹介する交流も大切ですが、僕たちは協働で日韓の文脈づくりを目指しているのですから。
 昨年、日韓基本条約から50年、日本では「終戦」、そして韓国では「解放」から70年を迎えました。だからということではありませんが、2作目の『颱風奇談』を日本と韓国で公演しました。日韓関係が悪化する中での公演でした。南シナ海のある島を背景に『テンペスト』を脚色し、韓国と日本という二国間ではなく、アジアというものを視野に入れたのですが、『カルメギ』以上に多くの批判にさらされました。公演が終わった後、冗談みたいに「もうやらない」と言いましたが、ここに生きる当事者として、今後も続けていくのが僕の仕事だと思っています。

──今後の計画は?
 大山文化財団がカリフォルニア大学バークレー校との提携で実施している作家レジデンスに劇作家として初めて選ばれ、2月にはアメリカに向かいます。6カ月ほど滞在しながら、韓国文学と演劇、そして僕の作品に関する特別講義をしたり、バークレー校の東アジア研究所や韓国学研究所の人たちとの交流を予定しています。ここで少し休みながら、これまで演劇で扱ってきた歴史問題や、自身の新しい演劇のスタイルについて、40代になった今ゆっくりと向き合おうと思います。もうひとつ、韓国と日本の現代史においてアメリカはとても大きな影響を与えた存在です。アメリカでこのことも考えたいですね。

──日本と韓国の現代史、そこに必ず潜むアメリカとの問題が、次回作になるかもしれませんね。どうもありがとうございました。
 
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