The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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マーティン・デネワル
マーティン・デネワル
Martine Dennewald


テアターフォルメン
Festival Theaterformen
https://www.theaterformen.de
トーマス・オーバーエンダー
1966年イエナ生まれ。演劇学で博士号取得後、2000年から2005年までマティアス・ハートマン芸術監督の下、ボッフム劇場のチーフ・ドラマトゥルクに就任。スイス・チューリヒ劇場のチーフ・ドラマトゥルク(2005〜06年)、ザルツブルク芸術祭演劇部門ディレクター(2006〜11年)を経て、2012年ベルリン芸術祭総裁就任。ベルリン芸術祭は、音楽、演劇、美術および文学の分野でフェスティバルや若手を対象としたプログラムから構成され、オーバーエンダーはこれらを統括する立場にある。2014年「文化の力・東京会議2014」の基調講演者として来日。
フリー/インディペンデント・シーン
州や市が運営・事業予算を提供し、俳優を始め舞台にかかわるすべての職のスタッフを専属の職員として雇用し、レパートリーシステムを採る公立劇場に対し、多くの場合、芸術監督、ドラマトゥルク、プロダクションマネジメント、技術、管理等必要最小限のスタッフで運営されているインディペンデントの劇場・スペースによるシーンを指す。そのうち招へい公演だけでなく新作を製作するものについてはプロダクション・ハウスとも呼ばれる。劇場に属さないアーティストの活動拠点として、州や市が運営予算をつけていることが多い。ドイツの主要な拠点として、HAU(ベルリン)、カンプナーゲル(ハンブルク)、ムーゾントゥルム(フランクフルト)、タンツハウスNRW(デュッセルドルフ)、FFT(デュッセルドルフ)、ヘレラウ欧州芸術センター(ドレスデン)、パクト・ツォルフェライン(エッセン)、などがあげられる。
モンブラン&ザルツブルク芸術祭「Young Directors Project」
Young Directors Project(YDP)は若い国際的な演出家たちにザルツブルク芸術祭で作品を上演する機会を与えるプロジェクト。2002年に当時の演劇部門ディレクターであったユルゲン・フリムが提唱し、筆記具ブランドのモンブラン社(Montblanc)がスポンサーとなり創設された。毎年主にヨーロッパ内から選ばれる4〜5作品が上演され、最も優れた演出家には1万ユーロとモンブラン社の筆記具が贈られる。2014年をもってモンブランがスポンサーから撤退し、本プロジェクトは打ち切りとなった。日本からは2008年にチェルフイッチュが『三月の5日間』で参加。
ムーゾントゥルム
フランクフルトにあるムーゾントゥルムはドイツ国内のフリーシーンの重要な拠点の1つであり、世界中のアーティストのための公演・制作・コミュニケーションの場である。主劇場のほかにも多くのスタジオやレジデンス施設を備え、海外アーティストによる滞在制作も頻繁に行われている。年に数度、劇場が主催するフェスティバルも行われ2015年10月には『インドネシアLAB』と題した国際フェスティバルが10日間にわたって開催された。13年にマティアス・ペースが芸術監督に就任してからは、高山明(日本)とディエドネ・ニアングナ(コンゴ共和国)がアソシエート・アーティストに迎えられ、継続的に作品を発表する予定である。
テアターフォルメン2015プログラム
マーティン・デネワルがディレクターを務めた初年度(2015年7月2日〜12日/ハノーファー)は、チリ、オランダ、ドイツ、ポルトガル、エストニア、フランス、イタリア、スイス、アメリカ、アルゼンチン、南アフリカの11カ国計15作品が上演された。参加したアーティストのうち4団体(リミニ・プロトコル(ドイツ)、ティアゴ・ロドリゲス&ムンド・ペルフェイト(ポルトガル)、グザヴィエ・ル・ロワ(フランス)、600ハイウェイメン(アメリカ))が、2つの作品を上演したのが特徴的。演劇作品以外には9つのコンサートが上演されたほか、毎週土曜日にはアーティストと観客が朝食を共にしながら語り合う場も設けられた。
テアターフォルメン2016はブラウンシュヴァイクで開催。会期は2016年6月9日から19日まで。プログラムは4月13日に発表される。 www.theaterformen.de
600ハイウェイメン『ザ・レコード』
600ハイウェイメンはニューヨークを拠点に活動するアビゲイル・ブロードとマイケル・シルバーストーンによる演劇ユニット。2009年以来これまでに6作品を発表し、その作品は世界各地の演劇祭で上演されている。『ザ・レコード』(2013年初演)はその土地に住む市民が出演する作品。15年ハノーファーでの上演では7歳から76歳まで44人の市民が出演した。
リミニ・プロトコル『シチュエイション・ルームズ』
リミニ・プロトコルはヘルガルド・ハウグ、シュテファン・ケーギ、ダニエル・ヴェッツェルの3名からなるドイツ/スイスの演劇ユニット。その作品はテーマと繋がる特別な経験を持った人々(「日常生活のエキスパート」)を中心に据え、現実そのものを舞台に上げる、もしくは街中を舞台化する手法を特徴とする。軍需産業をテーマとした本作の上演は、装置が建て込まれた大型コンテナの中で行われる。観客は一人ひとり渡されたiPadを片手に持ちそこに表示された通りに会場内を歩きながら、観客同士で作品の登場人物を交互に演じていく。2013年ルールトリエンナーレで初演、15年までドイツ国内ほかヨーロッパ内を巡回上演した。第17回文化庁メディア芸術祭アート部門優秀賞受賞作品。
Presenter Interview
2016.3.29
Looking to the world’s diversity, the new direction of Theaterformen 
多様な世界に目を向けるテアターフォルメンの新路線 
1990年に創設されたドイツの国際舞台芸術祭、テアターフォルメン(Festival Theaterformen)は、冷戦下の89年に当時の東ドイツとの国境に近いブラウンシュヴァイク市で世界の多様な舞台芸術を提示するために構想されたフェスティバルだ。95年の同市の主要会場の事故により、ハノーファーのハノマグ・サブマリン・ホールが代替会場となったのを契機に両都市で開催されるようになり、2007年以降は2都市で交互に開催されている。創設当時より、多様な同時代舞台作品を扱い、大掛かりな舞台作品から親密な空間で上演される室内劇、古典戯曲上演、ドキュメンタリーシアター、一人芝居、インスタレーション、オーディオ・ツアー、サイトスペシフィック作品にいたるまで、さまざまな形式の舞台作品を取り上げ、多くの作品の世界初演・欧州初演・ドイツ初演を手がけ、また国際共同製作にも参加している。2014年、1980年生まれでルクセンブルク出身のマーティン・デネワルがディレクターに就任。ロンドンのLIFT、ブタペストのコルタルシュ・ドラマフェスティバル、ザルツブルグ芸術祭演劇部門「Young Directors Project」のディレクター、ドイツのフリーシーンを牽引するフランクフルトの劇場ムーゾントゥルムのドラマトゥルクと、欧州各地でキャリアを積んだ次世代を担うディレクターの歩みとフェスティバル観とは?
聞き手:山口真樹子

──デネワルさんはルクセンブルクの出身で、ドイツのライプツィヒ音楽・演劇大学でドラマトゥルギーを専攻されました。なぜ演劇の仕事に就こう、ドラマトゥルクになろうと思うようになったのですか。あなたにとって劇場に通うことは子どもの頃から身近なことでしたか。
 私の家庭でもまたルクセンブルクでも、演劇は一般教養のひとつでした。音楽や文学も同様で、また演劇は文学と関連の深いものとして位置づけられています。母が演劇好きだったので、よく劇場に連れて行かれました。しかし、演劇を職業とすることについては、生活が安定しないのではと心配されることが多く、ドラマトゥルクもあまり馴染みのない職業ですので、両親に「ライプツィヒ音楽・演劇大学でドラマトゥルギーを勉強したい」と伝えたときにはとても驚かれました。

──ドラマトゥルクという職業については認識していたのですか。
 はい。10代のころから演劇に熱中し、役者演出家になりたいと考えていました。演技の授業も受けましたし、舞台にも立ちましたが、役者としての才能が足らないことを思い知りました(笑)。18歳では自分の演出家としての明確なイメージを持つこともできず、それでも演劇で自分にできることはないかと考え、演劇大学受験中にドラマトゥルクがいいのでは、と思いつきました。

──ライプツィヒ音楽・演劇大学はドラマトゥルギーを学ぶ上でとても評判のよい大学ですね。
 当時の私にはまさにぴったりの大学でした。演劇だけでなく、映画、音楽、演劇、ラジオ、テレビの各ドラマトゥルギーを広く学ぶことができるようになっていました。ある時点でその中からひとつを選び、その道の専門家になっていくわけです。
 在学中義務づけられている実習の1回目をドイツのボッフム劇場で受けました。現ベルリン芸術祭総裁のトーマス・オーバーエンダーがドラマトゥルクを務めた『狂人とその妻が、今夜パンコメディアにて…』(ボート・シュトラウス作、マティアス・ハルトマン演出)初演に、実習生として参加しました。このときのトーマスとのよき出会いが、私のその後のキャリアに大きな影響を与えます。2度目の実習はロンドンの小劇場ゲイト・シアターでした。外国の戯曲ばかりを英訳上演している劇場です。これも大変貴重な経験となりました。そして、ドイツで仕事をするのはもう無理だと感じました。

──なぜですか。
 ドイツの公立劇場(注:州立・市立劇場。俳優をはじめすべての舞台スタッフを雇用し、毎シーズン一定数の新作を創作・制作し、レパートリーとして繰り返し上演するシステムをとる)は実に巨大で複雑な組織であり、自分が当時経験した限りにおいてですが、圧倒的なヒエラルキーが存在しています。そして、信じられないほど多数の作品を制作しなければならないので、常にトップギアで走り続けなければならない。こうした組織は強い個性を持つインテンダント(芸術総監督)や演出家、役者に負うところが大きく、組織内での自分の地位や権限がものを言いがちです。俳優のアンサンブルを抱える劇場というと、いかにも家族的で親密な共同体といった印象を与えますが、一方で厳格な序列が存在します。こういう組織では自分は働けないと思いました。
 ゲイト・シアターは全く違っていて、高度に仕事本位、つまり本来の仕事に徹した組織のあり方になっていて、ヒエラルキーの存在に手間取ることもなかった。お金がないのでその余裕もなかったというのが正直なところですが、毎年アーツカウンシルに助成金を申請して、スタッフは全員必要最低限の給料で働いていました。これらは決してではありませんが、そういう状況だからこそ一致団結して劇場を運営し、誰が何に対してどういう権限をどこまで持っているかなど問題にもなりませんでした。ロンドンでの経験から、芸術創造における制度的観点に興味を持ち、ロンドンのシティ大学でジメントを学ぶことにしました。そこで文化政策の国際比較なども学びました。

──その後、LIFT(London International Festival of Theatre ロンドン国際演劇祭)でキャリアを積まれます。LIFTは1980年にロンドン国際学生演劇祭としてスタート。2009年からマーク・ボールが芸術監督になり、サイトスペシフィックなプロジェクトをスタートするなど、ロンドンでも最も活発なコンテンポラリー・アーツの国際フェスティバルとして知られています。
 ロンドンで勉強を続けるうちに、演劇の現場の仕事に戻りたい気持ちが沸いてきて。ちょうどその時、LIFTのワーク・プレイスメントの話が舞い込みました。

──ワーク・プレイスメントとは何ですか。
 ボランティアのような、通常より少しましな実習のようなものでしょうか。フェスティバルに関与する可能性がたくさんあり、使った経費は払い戻してもらえます。私が採用されたのが、LIFT創設者であるルーシー・ニールとローズ・フェントンが芸術監督を務めた最後の年でした。学生時代にこのフェスティバルを立ち上げ、その後20年間LIFTを運営し、長年経験を積んだ素晴らしい二人でした。ローズとルーシーには大いにインスピレーションをもらいました。ちょうど私がいた頃のゲート・シアターのエリカ・ファイマンのようです。若い時にこのような国際フェスティバルを立ち上げた勇気を尊敬しますし、手塩にかけたLIFTから離れ他の仕事をすると決断し、それぞれの道に進んでいった点においても、私にとってお手本のような存在です。

──すばらしい経験だったのですね。そしてその後がハンガリーのブタペストで開催されているコルタルシュ・ドラマフェスティバルです。なぜハンガリーだったのですか。
 ルクセンブルクに休暇で戻っていたところに、ゲイト・シアターの実習時代に知り合ったペニー・ブラックから連絡がきました。大変優秀な翻訳者・ドラマトゥルクです。ハンガリーのコルタルシュ・ドラマフェスティバルのディレクターがボランティアをさがしている、と知らせてくれたのです。このフェスティバルは消え入りそうなほどの低予算と極めて少人数のスタッフで運営されていて、毎年外国から実習生を一人受け入れ、宿と3度の食事と引き換えにしっかり働いてもらっています。これまで長期間東欧に滞在したことがなかったので、ぜひにと引き受けました。
 6カ月間働き、結果として非常に豊かな経験となりました。政治システムが異なると演劇のあり方、芸術が社会においていかに影響を及ぼすかを観察することができました。まだ右派のフィデス党を率いるオルバーン・ヴィクトルが首相になる前でしたが、一部の分野の文化予算はすでに厳しい状況にありました。しかし、ブダペストの演劇界はとても充実していましたし、現在でもそうです。演劇専属の俳優のアンサンブルをもたない劇場を中心とするフリーもしくはインディペンデントのカンパニーの活動も盛んで、一方公立劇場もブダペストだけでなく地方にも優れた劇場がありました。とても面白かったのですが、予算とインフラがあまりに不足していて苦労も多かった。
 今やハンガリーでの文化や芸術をめぐる状況は、当時よりさらに厳しくなっていると思います。

──次にキャリアを積んだのが、かつてクリストフ・マルターラーが芸術監督を務めたこともあるスイスのチューリヒ劇場です。
 初めて実習したボッフム劇場のマティアス・ハルトマンがチューリヒ劇場に移籍し、トーマス・オーバーエンダーも後を追いました。彼らと連絡をとり、私は同劇場のドラマトゥルギー部のアシスタントとして採用されました。その後、トーマスがザルツブルク芸術祭演劇部門のディレクターに就任することになり、彼の補佐役とヤング・ディレクターズ・プロジェクトのキュレーター1名を必要としていました。私はその2つの仕事を一人でやらせてもらえるならと交渉し、2005年にザルツブルグ芸術祭演劇部門に移りました。

──当時まだ26歳だったそうですね。
 そうです。26歳でザルツブルク芸術祭という巨大な装置の中に入ってしまったのです。でも、ヤング・ディレクターズ・プロジェクトを手がけることができたのはとてもいい経験になりました。このプロジェクトは、現・ベルリン州立歌劇場の芸術監督のユルゲン・フリムが演劇部門ディレクターの時代に、スポンサーのモンブランとともに立ち上げた優れたプログラムです(2014年終了)。
 私がキュレーションを引き受けてからは、新たに2つの試みを行いました。まず演劇の新しいジャンルを取り込んで範囲を広げました。ブリュッセルのピーピングトムなどのタンツテアターや、オランダのオブジェクト・シアター、ホテル・モダンを取り入れました。

──ホテル・モダンはアウシュヴィッツ収容所をテーマにした『KAMP/収容所』を発表して話題になりました。舞台上に数千体の小さな人形がインスタレーションされたアウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所の模型を設置し、その中をメンバーが動き回りながら人形を操作するとともに小型カメラで撮影し、リアルタイムにスクリーンに投影する人形劇/ライブ・アニメーションです。2010年には日本にも来ています。
 そうです!素晴らしい作品でした。この他、オランダ出身の演劇人・美術家 ドリース・フェルホーフェンやコペンハーゲンのパフォーマンス集団SIGNAなども招きました。また、少しずつ欧州域外のアーティストや作品をキュレーションするようになりました。2008年には岡田利規さんの『三月の5日間』を招いています。当時、私には日本の現代演劇について全く知識がありませんでしたが、映像を見た最初の瞬間から、岡田さん独自のスタイルも含めて、共感できるものでした。社会の中に生じているプロセスや人と人が行き違う様子などに、岡田さんが明確な視線を投げかけていることがわかりましたし、それらをある美的な形式とともに舞台化していました。それですぐに招聘を決めました。これが私の日本の現代演劇とのはじめての出会いでした。

──ザルツブルク芸術祭には5年いたのですね。
 はい、ユルゲン・フリムが芸術総監督、トーマス・オーバーエンダーが演劇部門のディレクターだった期間です。非常に学ぶことの多い5年でしたが、3つの巨大な劇場、年間スタッフが200人以上、100年以上の歴史、スタッフの大半はザルツブルグ出身でこの町で一生働くという組織に息苦しさを感じるようになりました。
 ザルツブルク芸術祭はザルツブルクという街と非常に深い密接な関係にあり、ザルツブルク芸術祭法という法律まで制定されていて、存在意義、支援の必要性、理事会のメンバー等すべて法律に定められています。第一次世界大戦後に創設されたフェスティバルですので、芸術こそが私たちの平和を維持し、私たちを救うものであり、意義をもたらすのだ、という考え方に基づいています。

──そして、いよいよドイツで仕事をされることになります。公立劇場ではなく、フリーシーンを牽引するムーゾントゥルムのドラマトゥルクになった経緯を教えてください。
 トーマス・オーバーエンダーがベルリン芸術祭総裁に就任したのを機に、私もザルツブルグを離れました。ニニルス・エヴァベックがチューリヒのゲスナアリー劇場からフランクフルトへ移り、ムーゾントゥルムの芸術監督になることを知りました。彼に連絡をとり実際に会ったところ意気投合し、マルクス・ドロスとともにドラマトゥルクとして働くことになりました。
 マルクスは非常に優れたドラマトゥルクで、彼に会ってはじめて「上演はある種のメカニズム、つまり、政治的であると同時に芸術的な側面をもつ相互作用のシステムとして機能する」という考え方を知りました。それまでは、たとえば『ハムレット』で何を表現するかを考えることが作品のコンセプトであると理解していたのですが、それは単にメタファーでしかなく、ハムレットを現代の課題や問題の中に翻訳することに過ぎません。おそらくそれでは不十分でしょう。インディペンデントのシーンにおけるコンセプトとは、装置としての演劇、解決の手がかり、いかに観客との関係設定しテーマを追究するかということをマルクスやアーティストたちから学びました。
 ムーゾントゥルムでの仕事は本当に快適で充実していましたので離れることは考えていませんでしたが、ニルスが急逝してマルクスと一緒に半年間運営を手がけ後任が決まった頃、テアターフォルメンから打診がありました。いつかは国際フェスティバルでディレクターをやりたいと思っていたのですぐに応募しました。

──テアターフォルメンはドイツ語圏演劇界においてどのような位置づけのフェスティバルですか。英語ではシアター・フォー・メンと読めますが(笑)、名前の由来も教えてください。
 ドイツの演劇関係者が必ずチェックするフェスティバルのひとつです。規模はあまり大きくなくて、10日間で15作品程度をプログラムしています。1989年にブラウンシュヴァイクでフェスティバルを創設する構想が生まれました。ベルリンの壁がまだ存在していた時代で、国境近くの西ドイツ側の町で国際フェスティバルを開催し、世界にはこんなに豊かな舞台作品があることを東側に伝えることが目的でした。フェスティバルがスタートした1990年には壁はもう崩壊していましたけど(笑)。
 テアターフォルメンとは、演劇形式の複数形を意味し多様な世界に眼を向けてほしいという意味をこめて名付けられました。当初はブラウンシュヴァイク市立劇場を主要会場に開催されていましたが、1995年の4月に劇場舞台の防火壁が落下したため、代替策としてハノーファーのホールで開催されました。それ以来、しばらく隔年で両方の劇場で実施され、その後毎年2都市で交互に開催されるようになりました。

──前任者アニヤ・ディルクスからディレクターを引き継いだ2015年のフェスティバルではリミニ・プロトコル(ドイツ)、ディアゴ・ロドリゲス&ムンド・ベルフェイト(ポルトガル)、グザヴィエ・ロワ(フランス)など11カ国計15作品が上演され、6,000人を動員する成功を収めたそうですね。芸術監督として掲げた新たな方針はありますか。
 すでにアニヤの時代にフェスティバルとして大成功し多数の熱狂的な観客もついていましたので、方針を大幅に変えることは考えませんでした。ただ、キュレーターとしての仕事のありようを自問自答することはしました。フェスティバルがイベント性を強め、積み木遊びのように、赤い四角、青い丸、黄色い三角があるから緑がほしい!といったような作品集めにならないよう、また、世界をマーケットとして位置づけて買い物をするように作品を選ぶ風潮にも疑問を抱いていました。
 ただ、何らかのルールが必要だと思いました。フェスティバル・ディレクターは自信に溢れ、迷うことなくプログラムを決めていくと思われがちですが、そうではありません。私たちは常に圧力にさらされています。地方政府、メディア、競合団体、観客などたくさんのステークホルダーがいますので。その中で、圧力から解放されるから、問題がひとつ解決できるから、この作品を追加しようという決断をしがちです。自分が直面している問題の解決に作品を利用したり。
 それで私は1人のアーティストにつき必ず作品を2本招聘するという規則を自らに課しました。これにより、より踏み込んでアーティストを選ばなければならなくなります。英語では「集めた卵をすべて同じカゴに入れるな」、ドイツ語では「1頭の馬にすべて賭けるな」と言いますが、あえて多くのものを少ない馬に賭けるよう自分に難題を課し、よりリスクの多い方をとろうとしました。4つのカンパニーがそれぞれ2作品を上演したことは、新しい試みになったと思います。最初から意識していたわけではありませんが、作品を見比べられますし、アーティストをよりよく理解する上での文脈をつくることができ、観客のためにもよかったと思います。

──フェスティバルのプログラミングにはリサーチが重要だと言われていました。
 私にとってリサーチは仕事の基盤を意味します。リサーチには手間も時間もお金もかかるし、エネルギーも必要です。明らかに非効率的ですが、フェスティバルには、自分が発見したアーティストのほんの一握りしか招聘できませんし、プログラミングには不可欠です。リサーチを通してアーティストの才能を知るだけでなく、作品の背景や演劇を手がける理由とその必然性を知ることが重要だと思います。
 長い時間を共に過ごし理解につとめた人を結局招へいしないこともありますし、世界はこんなに広いのですからどこでも満足いくリサーチができるとは限りません。それでもこの課題には取り組むべきですし、それでこそ地平が拓けていくのだと考えています。アーティストの背景を知る私たちの努力は彼らの活動を非常に重要に考えていることを意味し、広く社会にとっても重要です。

──フェスティバルのポリシーとして「参加性」を掲げていらっしゃいます。
 「参加性」は、現在の私たちの社会において明らかなテーマになっていますし、それは芸術の世界でも同じです。ある種のトレンドと言ってもいい。芸術監督に就任した最初のプログラミングでこそ、このフェスティバルが私の所有物ではないことを明確に打ち出すことが肝要だと考えました。もちろん私がプログラムを決めているのですが、フェスティバルはすべての人々のためのものと言い切ることは難しいですし、多くの人々と協働して立ち上げるものなので、彼らがこのフェスティバルの一員になることができればと思いました。そのためには、観客が芸術作品の一部となるような、アーティストがその一部を観客にゆだねるような作品を上演できればよいと考えました。

──具体的にはどのような作品を上演したのですか。
 ニューヨークを拠点に活動する600ハイウェイメンの『ザ・レコード』がそうです。素人の演劇と誤解されることが多いですが、そうではありません。この作品で初めて出会った44人の市民が舞台に出演し、公演中観客を目の前にしている間は1度限りの共同体が生まれます。二度と繰り返すことのない、偶然が形成するその共同体を舞台の上に移す作品です。また、ドイツの演劇ユニットであるリミニ・プロトコルの『シチュエイション・ルームズ』では、観客一人ひとりに国際武器売買の世界の一員という役が与えられ、誰もそこから逃れることができない。つまり、受動的な観客=傍観者ではいられないのだというメタファーでもあります。

──2016年のテアターフォルメンのプログラムについて教えてください。アジアを特集するそうですね。
 まだ詳細は発表できませんが、ソウル、東京、シンガポール、クアラルンプール、バンコクなどアジアの大都市から招聘する予定です。フェスティバルのプログラムの中で埋もれてしまわないよう、ある程度の広がりをもってアジアの作品を紹介したいと考えています。なぜアジアの作品を手がけるのかと聞かれることがありますが、ひとつには欧州域外との協働に目を向けた助成プログラムが増えていることがあります。もちろん理由それだけではありません。これらの都市にはそれぞれに実に豊かな芸術的アプローチがあり、それらは探求すべきにもかかわらず欧州ではほとんど知られていません。あくまで希望的な観測ですが、私たちの問題は自分たちだけでは解決できない、全員が関わる解決策でなければ有効ではないことが認識され始めてきたからではないでしょうか。難民の流入が続く現在は特にそう感じます。さらに、インターネットが発達し情報がより入手しやすくなったということもあります。

──最後に、あなたはこれまで欧州のいろいろな国際フェスティバルに関わってこられましたが、今、社会においてフェスティバルが果たす役割についてどのように考えていらっしゃいますか。
 何度も旅にでていると、つまり頻繁に外部者になると、この複雑な世界を生きやすい場所にするために単純化する戦略が用いられていることに気がつくようになります。宗教やイデオロギーもそのひとつです。それに対して、フェスティバルは世界を単純化することなく、あくまでもその複雑さを可視化していく役割を担うものだと考えています。差異や複雑さを拡大し可視化する東アジアの大都市のアーティストの作品はそのよい例です。
 2015年のオープニングの挨拶で、フランス・ルネサンス期のフランソワ・ラブレー『ガルガンチュワとパンタグリュエル』から次の物語を引用しました。
 「氷の海の果てにある国では寒さがあまりに厳しく、人々が話す言葉も凍ってしまい、空中に漂っている。春になると言葉が溶け始め、ようやく聞くことができる」
 春になった途端に、それまで凍っていたすべての言葉がいっぺんに、同時に聞こえる。愛の言葉と別離の言葉が同時に、心配と慰めが同時に、期待と失望が同時に聞けるようになる。とてもうるさいでしょう。それを徐々に聞き分けられるようになれば、見渡せるようになれば、ひとつひとつの言葉やその関連性が見いだせるようになれば‥‥。長い間凍っていたものが溶けだした混沌状態の中で、だんだんと様子が認識できるようになる、これをフェスティバルで実現できると素晴らしいと思います。私の夢ですね。わかりやすく整理したり、スリム化したり、単純化するのはダメです。あくまでも複雑さをみせていくことが必要だと思っています。
 
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